春はもう近くまで来ているはずなのに、これっぽっちも気配は感じられないような、寒い日々が続いている。
リコスと暮らすようになってからそろそろ1ヶ月になる。ゼロはエドガーの勧めに従って、リコスを獣医に診てもらった。非常に健康であるというお墨付きをもらい、必要な予防接種を受けた帰り道。
「よしよし、よく我慢したな。えらいぞ」
ゼロは、初めての注射に驚き、まだ呆然としているリコスを慰めながらセントラル地区の市場を歩いていた。
外はとても寒かったので、リコスはゼロの上着の中にすっぽり収まって、顔だけ出していた。
「あらまあ、可愛らしいこと」
すれ違った年配の婦人が微笑む。
不思議なもので、仔犬を連れているだけで人に声をかけられる機会が増える。最初は戸惑ったゼロも、やがて慣れ、ぎこちないながらも笑顔を返せるようになった。
リコスも元々人懐っこい性格だったのか、いろいろな人に撫でられたり、おやつをもらったりするうちに、元気になったようだ。興味深そうに市場の様子を眺めながら、時々確かめるようにゼロを見上げたりしている。上着の中で、しっぽがパタパタと振られているのが感じられた。
「仔犬だ!」
突然、子供の高い声がした。10歳になるかならないかの少年が、ゼロの前に回り込むようにして、立ち塞がる。寒さと興奮で、頬が赤い。
「撫でてもいい?」
少年が目を輝かせながらゼロを見上げる。
「ああ、構わない」
ゼロは、自分は子供に怖がられると思い込んでいたので相当驚いた。だけど少年が撫でやすいように、リコスを抱き直してやった。
少年はちゃんとリコスに匂いをかがせてから、そっと首のあたりを撫でてやった。リコスが気持ちよさそうに目を細め、少年は嬉しそうに顔を綻ばせた。
「僕ね、ずっと犬が欲しいってお父さんとお母さんに言ってるんだ」
「そうか」
「でもお母さんが、世話が大変だから、僕がもうちょっと大きくなってからっていうんだ」
「そうだな。仔犬の世話は大変だ」
ゼロはこの1ヶ月の自分の生活を振り返り、苦笑をもらした。この1ヶ月、リコスに振り回され続けたと言ってもいいような日々だった。
「でもさ、僕……」
さらに何か言い募ろうとした少年の言葉を遮るように、ゼロの左後方でガラスの割れる音がして、悲鳴が上がった。
「強盗だ!誰か捕まえてくれ」
振り返ると、通りを駆け抜けていく背中が目に入る。店から飛び出してきた酒屋の店主が追いかけようとしてよろけた。
ゼロはすぐに向かおうとしたが、手の中のリコスに気づく。少年とリコスを見比べると、しゃがんで少年と目を合わせた。
「ちょっとこいつを見ていてくれるか?危ないから、ここを動くな」
ゼロは少年が頷くのを確認した後、すぐに悲鳴のした方へ駆け出した。
人混みの中に、逃げ出した男の背中を見つける。
「すまない、通してくれ!」
人々が道の脇によけ、逃げる男との間に空間ができた。距離はだいぶ縮まったが、まだ手は届かない。ゼロはとっさに店先にある大きな缶詰を掴んだ。
「後で金は払う」
ゼロが力一杯投げた缶詰は見事に逃げる男の肩甲骨のあたりに命中し、男がよたよたとよろけた。ゼロはその隙に距離をつめ、男に飛びついた。男は必死で暴れたが、その程度の抵抗は、日頃の厳しい鍛錬に比べたらなんでもない。
ゼロは手際良く男を抑えつけた。機転の効く花屋の店員が持ってきたロープで、男を縛る。巡回していた赤の軍の兵士を見つけ、男を引き渡した後で、盗まれた金を酒屋に返し、缶詰代を支払うと、急いでリコスと少年の元に戻った。
息を切らしながら、あたりを見回し、ゼロは立ち尽くした。
戻ってくるまで、5分も経っていなかったはずだ。
それなのに、リコスも、リコスを抱いた少年も、姿を消していた。
「どういうことだ……?」
ゼロはすぐに、近くに店を出していた店員や立ち話をしていた人々に話を聞いたが、仔犬を抱いた子供に注意を払っていた人はいなかった。6人目に、やっと少年を見かけたという男の話を聞くことができた。彼によれば、少年は仔犬を抱いたまま、細い路地を走って行ったそうだ。
一体、どうして。
何か事故や事件に巻き込まれたわけでないのはよかったが、少年が自分の意思でいなくなったとすると、その理由がゼロにはわからない。
今日初めて会った名前も家も知らない少年だ。
「隊長!何かあったんですか?」
考え込んでいたゼロは、聞き慣れた声にはっと顔をあげた。
巡回中だったらしい小隊長のマリクが、馬から降りて駆け寄ってきた。
マリクは優秀な部下だ。新兵時代から注目されていて、エドガーの隊に配属される予定だったのだが、本人のたっての希望で、ゼロの隊に配属されたという変わり者でもある。去年の春にエースの小隊長に就任した。
どんなに距離をとろうとしても、あっさり懐に飛び込んでくる人懐こいマリクに、ゼロは戸惑うことが多かった。
今も彼は、心配そうな顔で駆け寄ってきた。
ゼロはマリクに相談しようかと思ったが、こんな私的なことに部下を巻き込むわけにはいかないと思い直した。
「……なんでもないんだ。どうか仕事に戻ってくれ」
ゼロはそういうと、マリクに背を向け、再び聞き込みを始めた。
マリクは心配そうな表情のまま、しばらくゼロの背中を見つめていた。
二時間近く経っただろうか。
ゼロはセントラル地区を歩き回り、少年とリコスを探し続けていた。目撃情報はとっくに途絶え、なんの手がかりもない。ただ虱潰しに探すしかなかった。
冬の日は短い。
すでにオレンジに染まりかけた空を見上げ、ゼロは途方にくれた思いでため息をついた。自分の両手を見る。
この手の中にいた温かいふわふわした体。リコスはいつも丸い目でじっとゼロを見上げ、しっぽを振っていた。エドガーに、犬がしっぽを振るのは嬉しい時だと聞いて、不思議に思ったものだった。
ゼロには、なぜリコスがしっぽを振っているのかわからなかった。
不意に、ぽん、と肩が叩かれた。
振り向くと、エドガーが微笑んでいる。
「リコスを連れた少年が見つかりましたよ」
ゼロはぽかんとした顔でエドガーを見た。
「またそんな間の抜けた顔をして。赤のエースの名が泣きますよ」
「エドガー、どうして……」
「自分の部下達がセントラル中を走り回っているのに少しも気がつかなかったんですか?……やれやれ、困った上官だな」
エドガーはわざとらしく肩をすくめ、ため息をつくと、歩き始めた。
ゼロも慌ててエドガーを追う。
「待て、部下って……もしかしてマリクか?」
でもマリクには何も告げていない。
エドガーは足を止めず、視線だけをこちらによこした。
「全員ですよ。エースの全隊員がこの午後、セントラル中を走り回っていました」
どういうことかわからない。
ゼロは混乱しながらエドガーを追った。
「あ、隊長、エドガー様。こちらです」
ゼロ達に気づいたマリクが小声で呼んだ。もう一人の小隊長、ジョエルもいる。
「ターゲットはあそこに」
(ターゲット……?)
疑問に思いながら、マリクがそっと示す方向を見ると、通りを挟んで向こう側に、リコスを抱いた少年がいた。元気そうなリコスと少年を目にして、ゼロはひとまずほっと息をついた。
そしてふとあたりを見回して、唖然とした。
ざっと見回しただけで、20人近くの見知った顔がいる。少年のいる場所から少し離れた両脇の路地に潜む人影、斜向かいの店の客、本屋で立ち読みしている客。みんな私服姿のゼロの部下だった。
少年は、ゼロの部下に完全に包囲されていた。
本人は気づいていないようで、古い建物の階段に腰掛け、ホットチョコレートを飲んでいる。
少年の飲んでいるホットチョコレートは、ジョエルが買い与えたものらしい。ジョエルもまた優秀な兵士だが、彼と対面した人々が揃って大きなテディベアを思い浮かべるような容姿をしていた。そのせいか、とても子供に好かれるのだ。ジョエルは自分の容姿を最大限に活用した。並んでホットチョコレートを飲みながら少年から事情を聞き出したのだった。
「彼はリコスとどうしても離れたくなくなってしまったらしいんです」
ジョエルの話を聞いて、ゼロは、少年が犬を欲しがっていたことを思い出した。
「最初は撫でるだけでよかったのが、自分で抱っこしてるうちに離れ難くなっちゃったんでしょうね。後少しだけ、後少しだけ、と言い聞かせながら歩き回っていたようです」
ジョエルは通りの向こうの少年を眺め、ぬいぐるみのような小さくつぶらな目を細めた。
少年は、膝の上のリコスに何か話しかけ、笑いかけている。
ゼロは少年からリコスを取り上げるのが、ひどく残酷な気がした。
少年は犬の撫で方を知っている、両親に愛されて育った子供だ。
動物に全く馴れていない、仕事で忙しい自分といるよりも、彼といた方が、リコスは幸せになれるかもしれない。
だけどそう考えた途端、急に腹のあたりが寒く感じた。昼間そこに収まって、ゼロを見上げていたリコスの姿が鮮やかに蘇る。ゼロを見上げ、しっぽを千切れんばかりに振るリコス、隙あらばゼロの顔を舐めようとするリコス。ゼロが初めて知った、自分以外の命の温もり。
リコスがいなくなることを考えると、剥き出しの心が擦られるように痛む。
だけどゼロは、この気持ちの名前を知らない。
「ゼロ、お前の考えていることはリコスに対するひどい裏切りですよ」
エドガーのやけに鋭い声がした。振り返ると、彼は真顔だ。いつもの軽薄な微笑はなかった。
「裏切り……」
エドガーの言葉に驚くゼロの耳に、リコスのはしゃいだ鳴き声が聞こえた。
通りの向こうを見ると、リコスが少年の膝から飛び降り、こちらに走ってくる。
少年が慌ててリコスを追いかけ、通りに飛び出した。
「危ない!」
ゼロは、走ってくる馬車を確認する前に、地面を蹴っていた。
何かを考える余裕もなかった。
リコスと少年を掴むようにして抱え、通りの向こうへ飛び込む。頭はなんとかぶつけずに済んだが、肩をひどくぶつけた。
投げ出されたゼロの足元のわずかに先を、車輪が通り過ぎていった。
馬車が通り過ぎてすぐ、エドガー、マリク、ジョエルが通りの向こうから血相を変えて駆けつけてきた。
少年はゼロにしがみついたまま、真っ青になって震えている。
「怪我はないか?」
少年は声も出せない様子で頷いた。
駆けつけた部下達がゼロと少年を助けおこした。
ゼロは少年を部下達に任せ、リコスを叱る。
「馬鹿、飛び出したら危ないだろう」
だけどリコスは何が起こったのか理解していないようだった。ひたすら甘えた声で鳴きながら、しっぽを振るだけだ。全身で喜んでいるのがわかる。
「こら、顔を舐めるな……そんなにしっぽを振ると、ちぎれてしまうぞ」
ゼロも怒った顔を保つことはできなかった。
リコスが、ゼロとの再会をとても喜んでいるのが伝わってくる。
そしてゼロも、またリコスに会えたことが心から嬉しかった。
「困ったやつだな」
じっとゼロとリコスの様子を見つめていた少年が、泣き出した。
「ごめんなさい……」
ゼロはリコスを抱いたまま立ち上がり、少年の前で、目線を合わせるためにもう一度膝をついた。
「仔犬のためでも、絶対に道に飛び出したりするな。お前の親が悲しむ」
少年は泣きじゃくりながら頷いた。
ゼロは少年の頭をそっと撫でた。
「せっかくできた友達を取り上げて、すまない。でもこいつは俺の大切な家族なんだ」
少年はまた、頷いた。
「ごめんなさい」
少年は、最後にもう一度だけリコスを撫でさせてもらうと、ジョエルに送られ、家に帰って行った。
少年の泣き顔を思うとゼロの胸も痛んだ。
だけど上着の中に収まって、ゼロを無心に見上げているリコスを見ると、エドガーの言葉が、理解できた気がした。
「もうどこにもやらない。……安心しろ」
首のあたりを撫でてやると、リコスが気持ちよさそうに目を細めた。
ふと顔を上げると、部下達が笑顔でゼロとリコスを見守っていた。
「すまない、世話をかけた。……ありがとう」
ゼロは、部下達に対してはまだ上手く笑顔がつくれなかった。だけど不器用で誠実な礼を部下たちはしっかり受け止め、リコスと同じぐらい嬉しそうな笑顔を見せ、散り散りに帰って行った。
夕暮れの街を並んで歩きながら、エドガーがのんびりした口調で今日の午後のことを説明してくれた。
ゼロの様子を心配したマリクが、ゼロが聞き込みをした店員から話を聞き出し、事情を把握したこと。人探しなら人手がいるだろう、と兵舎に助っ人を呼びに行ったら、事情を知った隊員が、全員手伝いを志願したこと。そして彼らは今日の午後、手分けしてセントラル中を捜査してくれたのだ。ゼロと、リコスのために。
途方にくれたような表情になったゼロを見て、エドガーは目を細めた。
「いい部下が揃っていますね。……お前が彼らと距離を置こうとしている理由もわかりますが、もっと他の方法もあると思いますよ」
「他の方法……?」
「お前はもう無力な子供ではないでしょう」
そうだ、自分はもう何も持たない子供ではない。赤のエースだ。
ゼロが何も知らず、何も持たなかった頃。寄宿学校に放り込まれ、途方にくれていた彼に剣を教えてくれた師匠は、やっぱり今でもたまに師匠らしいことを口にする。腹立たしいことも、それはそれは数え切れない程たくさんあるが、エドガーはやはり大切なことを教えてくれる。
今日だって、マリクの話を聞いて心配して来てくれたのかもしれない。
ゼロが神妙な気持ちになっていると、エドガーがくすりと笑った。
「リコスにしても、部下たちにしても、お前はそろそろ自分に対する好意を正しく受けとることを覚えた方が良い。さもないと、好きな女の子ができた時に苦労しますよ」
「えっ……」
「おや、顔が赤いですよ、ゼロ。心あたりでも?」
いつの間にかエドガーは普段どおりの人を喰ったような微笑を浮かべている。
「あるわけないだろ!人が真面目に聞いているのに、お前はまたそうやって……」
「いやいや、人生何が起こるかわかりませんよ。明日にでも素敵な出会いが訪れるかもしれません」
ゼロの怒った声を、エドガーは易々と受け流す。子供のように不機嫌に黙り込むゼロと、朗らかに笑うエドガーを、冬の夕日が鮮やかに照らしていた。
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