夢魔と魔術師


 ここは、どこだろう。

 とても静かな場所だ。豊かな下草と雑木が生い茂っている。一見森の中のように見えるのに、ほとんど生き物の気配がしない。風ひとつ吹かず、動くものがない。この木々も、実際に生きているのか怪しいものだ。

 誰よりも長い時間を生き、幾つもの名を持つ悪魔。あの恐ろしい悪魔のいわば逆鱗に触れてしまい、飛ばされたのだ。今生きているだけでも奇跡だった。

 だけど、その奇跡もどれほど意味があったのか。

 どうやら自分は思っていたよりも弱っているらしく、立っているのも辛い。木にもたれかかったまま、ずるずるとその場に座り込んだ。

 ここ連夜の絶食が祟っているだろうか。

 あの子の夢にいる時は平気だったのにな。

 ふと屈託のない笑顔を思い出して、自然と口元がゆるんだ。

 あの子が笑ってくれるだけで、世界が輝いて見えた。他に何もいらなかった。

 でも、もう会えない。

 抱えた膝の上に頭をのせ、目を閉じる。

 これ以上動く気にもならない。

 長時間糧を得ていないことよりも、あの子にもう逢えないことの方が、身体にも心にもずっと堪えている。

 もしかしたら、自分はこのままここで朽ちてゆくのかもしれない。

 どのぐらいそうしていただろう。

 さくり、さくり。

 音のなかった世界に、下草を踏み締める音が聞こえてきた。

 さくり、さくり。

 ゆっくりと、軽やかに。

 足音は近づいてくる。

 だけど、膝の上に伏せた頭を上げる気力はもうわかなかった。

 たとえそれが天敵であろうが危険な魔物であろうが、⎯⎯もう、どうでもいい。

「あれ?バルバトス……じゃないね?」

 投げやりな気分のまま、私はゆっくりと顔を上げた。

 あの恐ろしい悪魔の名を口にしたにも関わらず、やけに軽やかな声だったので、つい声の主を確かめたくなったのだ。

「察するに、君が件の夢魔か。バルバトスを怒らせてこんなところまで飛ばされてしまったのかな」

 にこやかに言う青年は、不思議な気配の持ち主だった。悪魔に似ているけれど、人間の匂いも少し混じっている。

「あなたは……?」

「バルバトスの古い友人だよ。だからって君の敵になるつもりはないから安心していい」

 やはり悪魔なのか?では、このかすかな人間臭さはなんだろう。

 本来は警戒するべきなのだろうが、やけに人好きのする笑顔に戸惑う。

「それにしても、見事な擬態だね。どこからどう見てもバルバトスだ」

 一眼見て私が本物のバルバトスではないことを見破ったくせに、青年はそう笑った。

「夢魔はターゲットの好みに合わせて容姿を調整できるって話は聞いたことあったけど、ここまでそっくりに擬態できるなんて知らなかったよ」

 彼は感心したように何度も頷く。

 夢魔という種族は元々人間を惹きつけるにふさわしい容姿で発生する。だからあとはターゲットの好みに合わせてわずかな調整をして見せるだけだ。少しだけ背を高くしたり、逆に小柄にしたり、あるいは部分的に肉付きをよくしたり。もともとプライドの高い彼らは、生来の容姿に誇りを持っているので、あまり自分の容姿を変えるのを好まない。

 だけどそれほど容姿に恵まれなかった私は、糧を得るためにターゲットの想い人に容姿を近づけざるを得なかった。繰り返し夢を渡り歩くうちに、擬態の技術は向上していった。

「よかったらあなたのお好きな方に姿を変えましょうか?」

 普段なら、こんなこと決してしない。半ばやけになっているのかもしれない。夢の中でもないのに、私はこの青年をちょっと揶揄ってやりたくなった。

 彼の心を観る。

 夢魔はこうしてターゲットの好みを知る。何も心を読む必要はない。ただ心の表層にとりとめなく浮かび続ける映像を眺めるのだ。MCの時も、こうして彼があの恐ろしい悪魔に思いを寄せていることを知った。彼の心の表層は鮮やかで、色とりどりに華やいできれいだった。暖かく晴れやかな色の洪水は眺めているだけで楽しい気持ちになった。

 だけど、今目の前にいる青年の心の表層には何も見えない。ただ静かな漆黒の闇が横たわっているだけだった。眺めているうちに自分まで飲み込まれてしまいそうになる。すぐに退くべきだ、危険だと分かっていながら私はさらにその奥を見極めようとしてしまった。

「うわっ!」

 バチン、と火花が散るような大きな音がして、閃光とともに私の意識は弾き飛ばされた。

 何が起こったのか、衝撃でぐらぐらと眩暈がする。

「大丈夫かい? あまり危ないことはしない方がいいよ」

 まだ衝撃から立ち直れない中、変わらず軽やかな声が語りかけてくる。 

「俺の心を覗く必要はないよ。でも、そうだな、せっかくなら、俺に擬態してみてよ」

「あなたに?」

 私は目の前の飄々とした青年を観察する。

 自分を誰よりも愛し、自分のことだけしか心に映らない者は、悪魔にも人間にも少なからずいる。だけど彼はそういった類の者には見えなかった。

 私は言われるままに目の前の青年の姿を映し取った。

 人好きのする笑みを浮かべた整った造形の顔、髪の色、艶、肌の色、瞳の色、指の形、爪の形。

 どこにそんな魔力が残っていたのか、それほど苦も無く、私は青年の姿になることができた。

「すごいね、どこからどうみても俺だ」

 青年は満足げに笑う。

「ねえ君、よかったら俺の家でお茶でもどうだい?このすぐ近くだから」

 青年は振り返りながら、彼が歩いてきた方を指差した。

「この道をまっすぐ行った先だ。一本道だし、迷うことはないと思う。ひと足さきに行っててくれないかな」

「あなたは?」

「植物の採集に出て来たんだ。すぐそこで必要なだけ採ったらすぐに追いつくから」

 私は彼の家を目指して歩き始めた。

 まっすぐ伸びる道を数歩歩いて、ふと足を止める。

 振り返ると、すぐそこにいるはずの青年の姿はどこにも見当たらない。

 考えるよりも先に、ざわり、と全身に鳥肌が立つ。 

 どうして。

 どうして私は彼のいう通りに彼の姿になったのだろう?

 どうして言われた通りにこの道を歩いているのだろう?

 そもそも。こんな道、さっきまであっただろうか⎯⎯?

   脆弱な野生動物のように、直感が危機を訴える。

 すぐに、ここから逃げなくては。

 だけど逃げるための一歩を踏み出すより先に、地面が突き上げるように振動し、内臓が浮くような衝撃を受けた。

 みいいいいいつうううううけええええええたああああああぞおおおおおおおおおおお。

 わんわんと低く響く地鳴りのような声。

 周辺の地面が盛り上がり、みるみる間に四方を囲む壁のように立ち上がった。

 そおおおおおおおおおおろおおおおおおおおおもおおおおおおおおおんんんんんん。

 地面の作り出した壁に大きな赤い目が現れた。憎悪と怨嗟に塗れたその目が私を睨みつける。

 私はとうに腰を抜かし、その場に座り込んでいて、大きく口を開けたものの悲鳴も出なかった。

 壁の上端が鋭く尖り、鎌の鋒のようにまっすぐ私の元へと向かってくる。

 逃げられない、もう指一本動かせない。

 どうして。

 どうして、こんなことに。

 私はただ⎯⎯。

 黒く鋭い刃が私に届く寸前に、光が四方から走った。銀色の光が鎖のように目の前の魔物に巻き付く。壁のように見えたものは霧散し、魔物は巨大な蛇の姿を顕にした。

 光の鎖が痛いらしく、巨大な蛇は繰り返し耳障りな咆哮をあげながらひどく暴れた。だけどそれを押さえつけている鎖はびくともしない。

「つーかまーえたっ」

 子供のような軽やかな声がして、先ほどの青年が突然姿を現した。

 彼は片手で持てる大きさの、白い水筒のような容器をどこからか取り出すと、口をあけ、魔物の方へと向ける。

 キイイいいさああああまああああ、ひいいきょーーーーーおーーー。

 魔物は耳障りな喚き声をあげながら、するするとその水筒へと吸い込まれていった。

 すっかり魔物がその容器に納まると、青年はしっかりと蓋をする。

 あたりは再びしんと静まり返った。

「い、今のは……」

「うん、パイソンだね。ずっと付け狙われていて迷惑していたんだ。こいつは地中を移動するからなかなか捕まえられなくて、どうしたものかと思っていたんだけれど」

「まさか、私を囮にしたのですか?!」

 青年は全く悪びれた様子を見せず、清々しい笑顔で答えた。

「君が協力していれたおかげでやっと捕まえられたよ。どうもありがとう」

 なぜこんな胡乱な青年に関わったりしたのか。自分が情けなくて涙が出てきた。

 青年はふと笑みを消すと、座り込んだままの私のそばまでやってきて、正面に膝をついた。

 澄んだ瞳が間近から私を見つめた。

「泣くほど怖かったのかい?」

 彼の指が頬をそっと拭う。

 そして彼は指先についた私の涙をどこからか取り出した小瓶の中に落とした。

「……何をしているんですか?」

「ん?夢魔の涙なんて結構レアだから、何かに使えるかと思って」

 私の涙はすぐに止まった。

 彼はまた人好きのする微笑みを浮かべた。

「とにかく、今日は助かったよ。お礼に食事をご馳走しよう。ゆっくり家で休んでいくと良い」

「結構です、放っておいてください」

 例えどんなに人が好さそうに見えても、自分を囮にするような男の家にのこのこついていくような間抜けがいるものか。

「えっ、この森で野宿でもするつもりかい? 今はまだ静かだけどもう少しするとオグルたちが活動的になるよ」

「この森、オグルがいるんですか?!」

 夢魔が一人生き残るのは絶望的だ。やはりあの恐ろしい悪魔は私を生かしておく気などなかったのだ。

 一体、どうしてこんなことに。

 私は。

 私は、ただ⎯⎯。

 またじわりと目の奥が熱くなった。

 だけど青年がまたいそいそと例の小瓶を取り出したので、慌てて自分の腕で涙を拭った。

 青年は立ち上がると、私に手を差し伸べた。

「ひとまず俺の家にきて、その後のことを考えるのはどうかな?」

 月を背に、美しい青年は微笑む。

 決して良い決断ではないとわかっていても、私はその手を取るしかなかった。

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