役立たずの失敗作。
ゼロがその言葉とともにあの場所を追われたのは、14の夏だった。
何も持たないまま、ただ外に放り出された。
呆然と見上げたのは、雲ひとつない青空だった。
初めてみる空は青く眩しく、どこまでも広く、途方もなく寂しかった。
ゼロは俯くと、空を見ないようにして、森の中を歩き始めた。
そして、彼らに出会った。
額にいきなり水をかけられた気がして、ゼロは目を開けた。
明るいブラウンの大きな瞳が、ゼロを覗き込んでいる。
まだ小さな子供だった。
「おじいちゃーん、お兄ちゃん起きたよ」
子供は大きな声で叫びながら、部屋を出ていく。
ゼロが起き上がろうとすると、額に乗せられていたびしょびしょに湿ったタオルが滑り落ちた。ベッドを濡らさないように、とっさに手で掴む。タオルは掴んだだけで水が滴り落ちるほどだったので、慌てて掴んだ手を床の上に差し出すようにした。前髪や額からもたらたらと水が滴ってくるので、額を袖で拭う。
ゼロがいたのは、小さな部屋の中だった。部屋は質素だったが清潔で、家主の几帳面さがうかがえた。ゼロが今まで寝ていたベッドも、質素だがきちんと整えられている。
状況が分からなくて戸惑っていると、子供が老人を連れて部屋に戻ってきた。
「おお、気がついたか」
老人は深みのある声でそう言うと、ゼロの手に握られたびしょ濡れのタオルに目をむけた。
「アンリ、お前がタオルを換えたのか?」
「うん」
小さな少女が、満面の笑みを浮かべ、誇らしげに答えた。
老人は苦笑しながらゼロの手からタオルを受け取った。
「すまんな、悪く思わんでくれ。あんたのために何かしてやりたかったんじゃろ」
老人は、森の中でうずくまっていたゼロをたまたま見つけ、熱があったので家に運んだのだ、とこともなげに説明した。
「すまない、迷惑を……」
「病人が遠慮するもんじゃない。元気になった時に、誰かにその分優しくしてやりなさい。……あんたそれより、腹は減ってないかね。スープぐらいは飲めそうか?」
ゼロが考えるより先に、腹が鳴った。
とっさに腹を抑えたが、腹は空腹を訴え続ける。
老人は喉の奥で笑った。
「よしよし、回復した証拠じゃ……わしはロイ、この子は孫のアンリじゃ……あんた、名前は?」
「……ゼロ」
ゼロが名乗ると、一瞬ロイは目を見開いたように見えた。だけどすぐにその表情は深い皴に隠れてしまい、穏やかな微笑に戻った。
「そうか、ゼロ、……キッチンまで来れそうか?」
起き上がれるぐらい元気になっていたゼロは、キッチンまでいくことにした。
テーブルにつくのも、誰かと食事をとるのも、ゼロにとっては初めての経験だった。スープを前に困っているゼロを見て、ロイは驚きもせず、匙の使い方を教えてくれた。ゼロはぎこちないながらも、なんとか二人と同じように食事をとった。
アンリはゼロの隣を陣取り、ずっとゼロを見ている。
目が合うと、嬉しそうに笑った。
「お兄ちゃん、もう元気になった?一緒に遊べる?」
「アンリ、明日の朝お日様が昇るまでは我慢しなさい。お兄ちゃんをもう少し休ませてあげよう」
「はあい」
アンリは不本意そうに口を尖らせた。
ロイはゼロに苦笑してみせた。
「ゼロ、あんた明日は覚悟しておいた方がいい。この子は元気の化け物だからな」
食事を終え、ゼロはロイに進められるまま、再びベッドに横になった。
床以外で眠るのは、初めてだった。
床より高い場所で寝るのが、柔らかなマットレスがあるのが、こんなに心地よいものだとは知らなかった。
ぼんやりと天井を眺める。
何もかもが今までいた場所とは違って、混乱する。
今までよりずっと快適な場所にいるのに、ひどく胸が痛んだ。
じわりと天井の端が滲み始めた時、ドアがノックされ、ロイが湯気のたったカップを持って入ってきた。
アンリもちょこちょこと後からついてくる。
「薬湯じゃ、念のため飲んどきなさい。ちょっと苦いがな」
「すごーく苦いの」
二人の言う通り、薬湯はひどく苦かった。思わずゼロは顔をしかめたが、ふとアンリを見ると、薬湯を飲んでいない彼女も同じように眉を寄せ、顔をしかめているので、つい笑ってしまった。
「本当だ、苦いな」
「私もこの間飲んだの」
「そうか」
「チーズ食べ過ぎて、お腹痛くしちゃったの」
「大変だったな」
「おじいちゃんの作ったチーズ、すごく美味しいの」
アンリは薬の苦さはもう忘れてチーズの味を思い出したのか、うっとりした笑顔になった。
「ほれアンリ、お兄ちゃんをもう休ませてあげなさい」
アンリはすでにゼロが寝ているベッドによじ登っていて、まだおしゃべりがしたそうな様子だ。
「アンリ、早く寝ると明日が早くやってくるぞ」
「ほんと?お兄ちゃん早く寝て」
「え?ああ、わかった」
ゼロはアンリに促されるままに大人しくベッドに横になった。
アンリはゼロの胸に乗り上げて、彼の額に唇を押し付け、にっこりと笑った。
「これで明日は元気になるよ。おやすみ、お兄ちゃん」
ロイが深みのある声で笑った。
「いいおまじないをしてもらったな、ゼロ。ゆっくりおやすみ」
目を丸くしているゼロを残して、アンリはベッドから滑り降りると、ロイと一緒に部屋を出て行った。
明かりが消え、静かになった部屋で。
ゼロはただ、天井を見つめていた。
清潔で明るい部屋。洗い立てのシーツと整えられたベッド。誰かと一緒の温かい食事。誰かの笑い声。しがみついてきたアンリの体温。おやすみの挨拶。額へのキス。今日初めて知った何もかもが、切れ切れに心の中に蘇る。
ゼロは、理由がわからないまま、静かに涙を流した。
翌朝、元気になったゼロは朝からアンリに引っ張り回され、走り回ることになった。アンリはとにかく元気で、ゼロはロイの言葉が正しかったことを身をもって知った。
「このリトルモンスターの相手は年寄りには厳しくての。あんたが来てくれて助かった」
ロイがまんざら冗談でもないような口調で言った。
ゼロは子供と遊んだことはない。こんな小さな子供をどう扱っていいのかわからなかった。怪我をさせたり怖がらせたりしてしまうのではないかと、おっかなびっくりのゼロを見て、ロイもアンリも面白がった。
アンリは気にせずゼロに飛びついてくる。
ゼロはどうしても及び腰で相手をすることになったが、自分を慕ってくる小さな温もりは、ただ愛しかった。
二人は大きな黒い犬を飼っていて、昼からは犬も交えて鬼ごっこをさせられた。
アンリは疲れ知らずで走り回り、ロイはアンリの相手をゼロに任せて、のんびり昼寝をしていた。
それでも外で遊び疲れて家に帰ると、いつの間にか温かな食事が用意されていた。
ゼロはくたくたに疲れ果てて、その夜は夢も見ずに泥のように眠った。
異変に気付いたのは、次の朝だった。
目覚めると、目に入る景色が、違って見えた。
部屋に置かれた家具や小物などの輪郭がやけにはっきりして見える。
部屋に差し込む朝日は美しく、カーテンを開けると、雲一つない青空が広がっていた。
ゼロは、青空を美しいと思った。
ベッドから床に降り立つと、体が軽いことに気づく。なんだか走り出したいような、訳のわからない気持ちが溢れてくる。
ゼロは素早く着替えると、ふと鏡に写った自分の顔をみた。ボサボサの頭が気になって、水差しの水で手を濡らして少し整えてから、部屋を出る。
キッチンではロイが朝食を用意し始めていた。
「おはようゼロ。お、今日は男前だな」
「おはよう。何か俺に手伝えることはあるか?」
自然に口をついて出た言葉だった。
ロイが深いしわの向こうで、目を細める。
「薪を運ぶのを手伝ってもらえるかの。案内しよう」
ゼロはロイに連れられ、家を出た。
隣の鶏小屋からちょうど卵の入ったカゴを抱えたアンリが出てきた。
「お兄ちゃん!」
アンリはゼロを見つけると、止める間も無く、卵を抱えたまま駆け出した。
そして案の定つまずいた。
「危ない!」
ゼロは勢いよく地面を蹴ると、とっさにアンリを抱え、反対側の手で一瞬宙に浮いた卵をカゴごと受け止めた。
心臓がドキドキしている。
でも、卵もアンリも無事だった。
ほっと安堵の息をつくゼロに、ロイが目を丸くして拍手した。
「大したもんだ。あんたとんでもない運動神経してるな」
ゼロは少しくすぐったい気持ちでアンリを下ろしてやった。
アンリは余程びっくりしたのか、目をまん丸に見開いたままゼロを見上げていた。
目玉がこぼれ落ちそうだ。
「お前、そんなに目を開いたら目玉が落っこちてしまうぞ」
「えっ」
ゼロの言葉にハッとしたアンリは、慌てて両手を頬のあたりに持っていった。
とっさに目玉が落ちないように支えようとしたらしい。
その様子がおかしくて、ゼロとロイは声を立てて笑った。
アンリは自分が笑われているにもかかわらず、二人が笑っているのが嬉しいのか、満面の笑顔になった。
「あんたの運動神経のおかげで、今朝も卵が食える、ありがとうゼロ」
「ありがとうお兄ちゃん」
アンリがロイの真似をして、お礼を言う。
「どういたしまして」
初めてのことばかりだった。
冗談を言うのも、声を立てて大笑いするのも、お礼を言われるのも。
そしてそれは、どれもとても気持ちが良かった。
「よしアンリ、今度は慎重にそれをキッチンまで持っていけ。わしとゼロは薪を取ってくるからな」
「わかった」
アンリは今度はそろそろと慎重に家の方へ向かった。
ロイはその後も、薪を運ぶゼロが力持ちだと褒めてくれ、礼を言った。
それはほんの些細なことだった。
初めて自分の身体能力を褒められ、お礼を言われただけだ。
だけど、「役立たずの失敗作」という言葉を、ゼロ自身が否定するための確かな助けになった。
その日の、雲ひとつない青空は明るく澄んで、とてもきれいだった。
「お兄ちゃん、何見てるの」
ぼんやり空を見ていたゼロに、アンリが尋ねた。
アンリは当たり前のように、ゼロの右手を小さな手でぎゅっと握る。
「空がきれいだなと思って」
「お兄ちゃんの目とおんなじ色」
「そうか?」
「うん。この色大好き」
アンリが弾けるような笑顔で言った。
森の中の小さな家で営まれる、どこかひっそりとした穏やかな生活を、ゼロは愛した。
だけど二人との別れは、意外なほど早く、あっけなく訪れた。
「よーし、よく我慢して飲んだな、えらいぞ」
アンリはあのひどく苦い薬湯を飲み、顔をしかめていた。
昨日チーズを食べすぎて、再び腹痛を起こしてしまったのだった。
「一眠りしたら楽になるからな」
ロイがアンリの頭を撫でながら額にキスする。
「お兄ちゃんもおまじないして」
「えっ、俺も?」
ゼロはぎこちなくアンリの額に唇を触れさせた。
鳶色の髪を撫でてやる。
「よく眠って、早く元気になってくれ」
アンリは満足げに微笑んだ。
薬湯に眠くなる成分が含まれているのか、やがてアンリは穏やかな寝息を立て始めた。
彼女を起こさないように二人はそっと部屋をでた。
ロイが重いため息をつく。
「わしはダメじゃのう。あれがいつもより食べとることには気付いたんじゃが、あんまり旨そうに食うから、つい、止め損なってしもうた。かわいそうなことをしてしまった」
しょんぼりと肩を落とす老人は、自分よりずっと長く生きている人なのになんだか可愛いくて、気の毒で、ゼロはそっとロイの背中に手を添えた。
「俺も止められなかった」
ゼロの言葉に、ロイは微笑む。
「わしらはダメじゃのう」
「そうだな」
二人は、アンリを起こさないように、声をひそめて笑い合った。
「どれ、お茶でも入れようか」
ロイがケトルをセットした時、玄関のドアがノックされた。
「珍しいな、うちに客など」
ロイがのんびりした様子でドアを開けると、そこには立派な身なりの長身の男が立っていた。
「やあ、君がゼロかな」
男は、ゼロを見ると言った。
穏やかな微笑を浮かべていたが、彼は森の中のこの静かな生活に現れた、明らかな異分子だった。
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