後日談  ランスロットくんとシリウスさん


「ありがとうな、助かった。ここは生徒の掃除区域に入ってないからな」

「じゃあ、俺はこれで」

 ゼロくんがシリウスさんに竹箒を渡した。

 二人のすぐ横に、枯れ葉のこんもりした山ができている。

 どうやら二人でこの辺りの掃除をしていたようだ。シリウスさんの言う通り、外回りの掃除当番の生徒は、この辺りまで掃除に来ない。

「なんだ、食っていかないのか?」

「エドガーに呼ばれてる」

「そうか、忙しくなったもんだな」

 ゼロくんはぺこりと頭を下げると、踵を返した。

「おい」

 駆け出そうとしたゼロくんを、シリウスさんが呼び止めた。

 ゼロくんは足を止めて、振り返る。

「俺はいつも助かってるが、あんまり無理はしなくていいんだぞ」

 ゼロくんは、何も言わず会釈すると、校舎の方へ駆けて行った。

 シリウスさんは少しの間ゼロくんを見送っていたが、やがてポケットから長いガスライターを出すと、枯れ葉の山に火をつけた。

 一筋の煙が立ち上っていたが、すぐに炎がパチパチと音を立て始めた。

 校舎の方へ走って行ったゼロくんと入れ違いみたいに、ランスロットくんがやってきた。

「彼は今もお前を手伝っているのか?」

「ああ、よく手伝ってくれている」

 この二人の仲がいいなんて、全然知らなかったので、ちょっとびっくりする。

 シリウスさんはやけに生徒に人気のある用務員さんで、なんだか謎の多い人物だ。普段は中庭の薔薇園や、花壇の手入れをしていることが多い。生徒たちが、シリウスさんは、最高級の緑の指を持っている、と話しているのを聞いたことがある。

 生徒会長のランスロットくんは、一言で言うと、特別な生徒。教員たちからも一目置かれていて、成績優秀なだけではなく、不思議な風格があった。教師たちの中にも、彼に対峙する時はなぜか緊張する、と言う人が多い。緊張のあまり、つい彼に敬語で対応してしまう者もいた。育ちの良さからくる、一分の隙もない優雅な立ち居振る舞いのせいかもしれない。

 本学の生徒には地元の名士など裕福な家庭の子供が多いが、その中でも彼は格が違うらしい。以前、世が世なら彼はお殿様だからね、と英語のダリム先生が言っていた。

「彼がそんなことをする必要はない」

 落ち葉の焚き火をじっと眺めながら、ランスロットくんが言う。

「ああ、そうだ。でも、もしそれで彼の気持ちが少しでも楽になるなら、手伝ってもらうのもいいと思っている。実際俺は助かってるしな」

 長い棒で火を調整しながら、シリウスさんが答える。

「彼が引け目を感じる必要はない」

「ああ、そうだ」

 ランスロットくんは世間にまだ納得のいかない子供のように難しい顔をしていて、シリウスさんは、子供の我がままをいなす大人のように、微笑んで彼の言葉をただ肯定する。

 ああ、やっぱり。

 やっぱりそういうことだったのか。

 二人の話を聞いて、以前エドガーくんの言っていた言葉が、腑に落ちた。

 ゼロくんは、短距離の記録保持者で、我が校には推薦で入学してきた。入学前の春休みから熱心に練習に参加していたが、去年の夏の初めに交通事故に遭って、それ以来、選手として走ることはできなくなってしまったという。

 夏、松葉杖をついていた姿は痛々しかった。でも、彼は嘆くこともなく、怒ることもなく、淡々と日々を送っていた。少なくとも、私の目にはそう映った。

 諦めというよりは、全てを受け入れる、潔さのようなものを感じた。

 若干16歳の彼が、一体どうやってそんな潔さを身につけたのだろう。

 むしろ陸上部顧問の嘆きが酷いもので、その身勝手さは、後ろから蹴り飛ばしてやりたくなるほどだった。

 幸い、本学は走れなくなった彼を追い出すようなことはしなかった。

 でも彼は、選手として走れなくなったことを申し訳なく思っていたのだ。

 だから、何か本学のためにできることを彼なりに考えた結果が、職員の手伝いだったのだろう。

 とてもささやかな、それでも何もせずにいられなかった、彼の返礼。

 そんな必要、ないのに。

 いつの間にか視界が滲んでいた。

 彼はもっと怒ってよかった。嘆いてもよかった。自分に降りかかった理不尽を恨んでよかったのだ。

 私に泣く権利はない。傷ついたのも、辛いのもゼロくんだ。前を向いて進もうとしている彼に同情なんて、そもそも失礼だ。

 だけど。

「先生」

「ひゃい!」

 あ、しまった。返事をしてしまった。

 仕方なく倉庫の影から出る。

「……ごめんなさい、立ち聞きするつもりは」

 我ながら説得力のない弁明をもごもごと口にする。

「そこは寒いでしょう。どうぞ、火のそばへ」

 ランスロットくんは私を咎めることもなく、穏やかな微笑みを浮かべてわたしを誘った。

 さすが王者の風格。思わず彼に敬語を使ってしまう教員が多いのもうなずけるというものだ。

 気まずい気持ちのまま火のそばに近づいた私に、ランスロットくんが白いハンカチをそっと差し出してくれる。

「ありがとう……」

 私は素直に受け取って、目に当てた。

 清潔なハンカチはいい匂いがして、こんなところにも育ちの良さを伺わせる。

 シリウスさんは、私の情けない泣き顔は見ないふりをしてくれた。

 どちらの心遣いも、温かかった。

 しばらく、3人とも黙ったままだった。

 ぼんやりと火を眺めていると、だんだん気持ちが落ち着いていくのがわかった。

 それを見計らったように、シリウスさんが口を開く。

「あいつに、事故の話を聞いたことはあるか?」

 私も、ランスロットくんも無言で首を横に振った。

 横断歩道に左折した車が飛び込んできたのだという話は聞いていたが、ゼロくんから直接聞いた話ではない。

「俺はあいつと一回だけ事故の話をしたことがある。きっかけはなんだったか忘れたけどな……あいつ、猫を助けたらしい」

「猫」

「後ろ足を怪我して引きずってる猫が、横断歩道にいて、あいつはその猫をとっさに抱き上げてから車を避けようとした。一番悪いのは、前方不注意で横断歩道に突っ込んできた車だ。だけど猫を助けようとしなければ、車を避けられたかもしれない」

 シリウスさんが棒で枯れ葉をかき混ぜると、炎がまた少し大きくなった。

「俺はその時、……何故だろうな、猫を助けたことを後悔してるのかと聞いた。今思えば、残酷なことを尋ねたもんだ。……その時は返事は返ってこなかった。だけど3日ぐらい後に、あいつはやっぱり同じことしたと思うって言いにきた」

「同じこと?」

「もう一度あの日に戻ってやり直せるとしても、やっぱり猫を助けたいって。やけにすっきりした顔してた」

 その時のゼロくんが、思い浮かぶような気がした。真剣に考えたのだろう。事故のことを省みるのは、辛いことだったろうに。

「……彼は潔い男だ」

 ランスロットくんがじっと炎を眺めながら、ポツリと言った。

「彼が愚かだとは思わないのか?」

 シリウスさんが観察するような目で、ランスロットくんの顔を見つめる。

 ランスロットくんは、自分の心を凝視するように炎を見つめながら、ゆっくりと答えた。

「……父は、愚かな行動だと言うはずだ。俺も、そう思うように育てられた。俺には、彼のように行動することはできないだろう。……それでも、俺は彼が愚かだとは思わない」

 とても静かに、滲みいるような声だった。

「お前がいい子に育ってくれて嬉しいよ」

 シリウスさんの目が柔らかく細められた。

「年上ぶるな、気分が悪い」

 ランスロットくんが不愉快そうに眉を寄せる。いつも泰然としている彼にしては珍しく、年相応の男の子のような表情だった。

 そういえば、この二人は、一体どんな関係なのだろう。

「家同士、縁があってね。俺たちは幼馴染みみたいなもんなんだ。それこそ、こいつがおむつをしていた頃から知っている」

 私の心の中の疑問が聞こえたように、シリウスさんが教えてくれた。

「その説明はやめてくれ」

「事実だろう。赤ん坊のお前は、天使みたいに可愛かった」

 益々不機嫌そうになるランスロットくんの様子を面白がるように、シリウスさんは追い討ちをかける。 

 考えてみれば、シリウスさんも飄々としてなんだか不思議な人だ。この人も、ただものではない感じがする。

「よぅし、焼けたぞ。火傷しないようにな」

 シリウスさんは、焚き火の中から何やら取り出すと、新聞紙に包んで、私とランスロットくんに投げた。

 温かい包みの中を覗いてみると。

「……焼き芋!」

 さっきからやけに焚き火を気にしていたのは、このためだったのか。

 受け取った包みはほっとするような温かさで、中に半分に割った大きな焼き芋があった。ほくほくと香ばしい香りが漂う。

 あんまりにも良い匂いだったので、思わず大きく息を吸い込むと、どういうわけか、お腹が大きな音を立ててしまった。

 慌ててお腹を押さえたけど、もう遅い。

「ははっ、お嬢ちゃんの腹は素直だなあ。まだあるからたくさん食べな」

 シリウスさんが豪快に笑い飛ばしてくれた。

 ランスロットくんはちょっと顔を背けるようにして、肩を震わせている。

 こういう時は、笑い飛ばしてくれた方がむしろ救われるような気がするよ、ランスロットくん。

「……失礼しました」

 ここはもう開き直ってしまおう。澄まし顔で、もらったお芋を齧る。優しい、素朴な甘さに、つい頬が緩んでしまう。

 隣を見ると、ランスロットくんが真面目な顔で、お芋にふうふうと息を吹きかけていた。

 焼き芋とランスロットくん。とても不思議な組み合わせを見ているような気がする。

「どうかしましたか?」

「いや、焼き芋食べるんだな、と思って」

「……ふ、ヨナみたいなことをおっしゃる」

 いつもランスロットくんを憧憬のこもった眼差しで見つめるヨナくんを思い出して、私も笑ってしまった。

 穏やかな冬の午後。

 校舎に向かったゼロくんの後ろ姿を思い出す。

 必要のない引け目なんて感じず、ただ高校生活を楽しんで欲しい。

 だけどこれは彼の気持ちの問題なので、難しい。

「……エドガーが彼をとても気に入っています。そのうち、引け目なんて考えていられなくなるぐらい、彼は忙しくなるでしょう……彼にとって幸せなことかはわかりませんが」

 ランスロットくんは最後にちょっとだけ不穏な言葉を付け足した。

 だけど盗みみた彼の横顔はとても穏やかで、彼がエドガーくんを信頼していることがよくわかった。

 その横顔が、ゼロくんは大丈夫ですよ、と言っているみたいで、私は少しだけほっとした。

 生徒に慰めてもらうなんて、ちょっと教師として情けなくはあったけど。

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