歌声が聞こえる。
ディーンは薄く目を開いた。
辺りは薄暗く、頬に机の冷たい固さを感じた。
――ああ、また本を読みながら寝てしまったのか。
意識が覚醒するにつれて、少しずつ違和感を感じる。机の高さも、椅子の座り心地も、慣れ親しんだ自分のものとは違っているようだ。
重い頭をゆっくりとかかげると、肩に掛けられていたブランケットが滑り落ちそうになり、咄嗟に掴んだ。
辺りを確認するように、ゆっくりと頭を回らせる。
そこは、酒場だった。
あの不愉快な男がマスターを務める、おなじみのセントラルの酒場だ。
大勢詰めかけていた客たちはすでに皆帰ってしまい、全く別の場所のように静まり返っていた。店の明かりもすでに落とされている。
「……とんだ醜態だ」
思わず舌打ちしそうになり、ぐっと堪えた。
少しずつ、酔い潰れる前の記憶が戻ってくる。
それと共に、痛飲の理由を思い出し、胸の奥に重い塊を感じた。
だけど、どうにもならない現実を受け入れる心構えもできていた。こういう時、酒にもそれなりに力があるのだと思う。
静まりかえった店内に、外を吹き荒ぶ風の音だけが大きく聞こえる。唸るような風の音が、歌う女の声のように聞こえて、さっき歌だと思ったのはこれだったのかと気づいた。
外は寒々とした音をたてているが、店の中はまだ暖かかった。
ブランケットを手にぼんやりと立ち尽くしていたディーンは、この店の暖房はどこにあるのだろう、とカウンターの方を見やり、そしてやっと、カウンターの奥でひっそりと眠るダムに気づいた。
彼は壁際の椅子に腰掛けたまま、壁に頭を預けるようにして、眠っていた。
ディーンは足音を立てないように、静かにカウンターの中に回り込むと、ひそやかな寝息が聞こえてくるぐらい、彼に近づいた。
いつもなら間髪入れずに飛んでくる憎まれ口がないので、ディーンも応戦する必要はない。ただ、静かに彼の寝顔を眺める。
もしかしたら、こんな風にちゃんと彼の顔を見るのは、初めてかもしれない。
自分によく似ていると言われる男の寝顔。
静かに、一定のリズムを刻む寝息。
ディーンはふと、ひどく懐かしいものを眺めているような心持ちになった。
時折訪れる感覚だ。曖昧で、おぼろげな、だけどこの向こうにこそ、彼の失くした記憶があるような気がする。見えない記憶を探るように手を伸ばすけれど、その手は、結局どこにも届かない。ただ、虚しく空を掴むだけだった。
ディーンは静かにため息をつくと、再びダムの寝顔に目をやった。
改めて見ると、彼はずいぶん顔色が悪かった。
少し痩せた気もする。
この男は一体どんな生活をしているのか。
ちゃんと休息は取れているのか、食事はとっているのか、問い詰めたい気持ちがわいてきた。だけど、彼が目を覚ませば、また言い合いになってしまい、きっとまともな会話にはならないのだろう。
ディーンは、もう一度小さなため息をつくと、結局ダムの目覚めを待つことなく、店を後にした。
ドアの閉まる音と共に、ダリムは目を開いた。
怜悧な青い目は瞬きもせず、今し方ディーンが出て行ったドアを見つめていた。
やがてダリムは、髪をかきあげながら、大きなため息をついた。そして自分の肩に掛けられたブランケットを無造作に掴んで立ち上がると、店内の暖房を止めてから、「スタッフ専用」のサインの下げられたドアの向こうへ消えた。
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