春隣


 クレイドルの長い長い冬も終わりに近づき、そこここに春の気配が香り始めていた。街を行き交う人々の表情も、心なしか明るい。

 そんな中、ルカ、エドガー、ゼロの3人はセントラルのカフェで、困り顔を寄せ合っていた。

「ごめん、やっぱり黒の兵舎でも無理だった」

「謝らないでください、うちも事情は同じです」

「すまない。やっぱりちょっと無理な願いだったな」

「君が謝る必要はないよ」

 ルカは、目の前に座る生真面目な男の顔をそっと伺い、彼がそれほど気落ちした様子でないことに少し安心した。

『お菓子の作り方を教えて欲しい』と突然ゼロに頼まれたのは、先週のこと。毎月満月の夜に公会堂で開催される、赤黒両軍合同の定例会議を終え、帰ろうとした時だった。

 いつものルカなら、きっと引き受けなかった。

 お菓子作りを教えたことなんてない。ルカ自身、習ったこともない。

 それなのに、ゼロと一緒にいたエドガーと話しているうちに、なぜか引き受けることになっていたのだった。

「困りましたねえ。これでは『ルカのわくわく・お菓子教室』が開催できません」

「エド、変な名前付けないで」

 引き受けたはいいものの、今、3人はお菓子作りの場所に悩んでいた。

 両軍の和解からそろそろ一年。

 今日みたいに、誰に気兼ねすることもなく、両軍の幹部がセントラルで並んでお茶を飲むことはできるようになった。赤の軍の兵士が黒の領地に入ることも、黒の軍の兵士が赤の領地に入ることも、問題ない。

 だけど、兵舎は別だった。

 ルカたち幹部は互いに話す機会も多く、互いの理解も深まりつつある。一方で、一般の兵士たちや、住民の間には、まだわだかまりのようなものが残っていた。もともと500年の永きにわたって続いてきた対立だった。そう簡単に払拭してしまえるものではない。彼らの気持ちを考えると、今はまだ、他軍の幹部が兵舎のキッチンにまで入り込んでしまうことは望ましくない。

 だからお互いの兵舎のキッチンは利用できない。かと言って、この3人には、実家のキッチンを使うという選択肢もない。

 そういうわけで、揃って難しい顔をしていたのだった。

「おや、珍しい組み合わせだね」

 聞き覚えのある声に顔を上げると、寄宿学校時代の恩師の笑顔があった。

「ディーン先生!」

 3人が挨拶のため立ち上がろうするのを、ディーンが止めた。

「まだ君たちの縁は続いていたんだね。面白いな」

 さらりとディーンが言った言葉に、ルカはぎくりとした。

 ディーンは、ゼロとエドガーではなく、エドガーとルカの方を見ながら「君たち」と言ったのだ。

 エドガーとルカは、学年は同じだが、クラスも違い、同じ授業をとったこともない。休み時間や授業で顔を合わせることはほどんとなかった。二人が一緒に過ごしたのは、授業をサボって、屋上にいた時間のみ。

 つまり、屋上で二人がたまにサボっていたことを、この恩師はお見通しだったということになる。

 そっとエドガーの顔を伺うと、彼も珍しく動揺している。

 ディーンはそんな二人の様子を気にする風でもなく、涼しい笑顔のまま話題を変えた。

「ところで、3人揃ってずいぶん難しい顔をしていたようだけれど」

 ゼロが、事情を説明する。

「なるほど、もしかして、ホワイトデーにお返しをするのかな?」

 あっさり言い当てられたゼロは、顔を赤くして頷いた。

 ディーンは吟味するように考えた後で、自信ありげに微笑んだ。

「一つ、俺から提案があるんだけど」

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「いらっしゃいませ。店内でお召し上がりですか?お席にご案内します。こちらへどうぞ」

 ルカが案内した華やかな女性の二人連れは、きゃあきゃあとはしゃぎながら席に着くと、ルカを好奇心に満ちた目で見上げた。

「ねえ、新しくこのお店に入った方?」

「いえ、俺は今日だけの手伝いです」

「あら、残念」

 なにが残念なのかはわからないが、ルカはとりあえずメモを片手に、「ご注文をどうぞ」と微笑んで見せた。

 ディーンの提案は、あるパティスリーを手伝い、閉店後にそこの厨房を借りる、というものだった。店は入り口に大きなケーキのショーケースが並び、奥にイートイン用のテーブルが六つばかり並んでいる。メニューは紅茶とケーキだけで、食事はできないが、テーブルは朝からずっと塞がっていて、なかなか繁盛しているようだった。

 この店のオーナーでもあるパティシエは、やはりディーンの元教え子で、ルカたちより2学年ほど上らしい。ちょうどホワイトデーの前日の今日、手伝いを必要としているということだった。

 一緒にフロアを手伝っているエドガーは、楽しそうにカップルの客をもてなしている。

 何事にも器用な友人を横目で見つつ、ルカはこっそりため息をついた。

(なんでこんなことになっちゃったんだろう……)

 人見知りの自分には、接客は荷が重すぎる。

 店の入り口に目をやると、ゼロがショーケースのそばで、ケーキを買って帰る客の対応をしていた。

 ショーケースの横で、ゼロはまるで兵舎の守衛のように真面目な表情で、直立不動の姿勢を保っている。ゼロも接客は初めてで、緊張しているようだ。彼もルカと同じぐらい接客には向いていなさそうだが、幸い、客たちは皆ケーキ選びに夢中で、ゼロの無愛想をあまり気にしてはいないようだった。

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 せめて、裏方の手伝いならいいのに。

 そんなルカの切なる願いが届いたのか、午後からルカは厨房の方で、ケーキの盛り付けを手伝うことになった。

「すごい、完璧な盛り付けだ。十分即戦力になるよ」

 ルカの用意した一皿を見て、オーナーのルークは嬉しそうに笑った。ルークはひょろりと背が高くて、常に人の好さそうな笑顔を浮かべている青年だ。ちょっと下がった眉尻のせいか、普通にしていても、何かに遠慮しているような、気弱そうな感じがする。頼りない印象だが、ルカたちより2年ほど年上という若さで、セントラル地区の真ん中にちゃんと自分の店を持っているのだから、人は見かけによらない。

「じゃあ、ここは任せてもいいかな。僕はこっちのケーキ作りに専念させてもらうよ」

 フロアの接客業務から解放されるのが嬉しいルカは、二つ返事で引き受けた。

 ルークは今日閉店後に恋人の家に招かれているそうで、そのお土産のケーキを今から仕上げるらしい。

 作業に入ったルークは、人が変わったように真剣な表情になった。目に強い光が宿り、自信にあふれているようにさえ見える。彼の手際の良い、流れるような作業に、しばしルカは見入ってしまった。

(やっぱりプロはすごい……)

 ルカたちが剣の鍛錬を続けるのと同じように、彼もきっとひたむきに腕を磨き続けているのだろう。

(俺も帰ったら剣の稽古をしよう)

 ルカは気合を入れ、再び自分が任された仕事に戻った。

 イチゴを飾り切りにし、ミントと一緒にチーズケーキの横に添えたら、ラズベリーのソースで皿に花びらのような模様を描く。

 ルカは盛り付け作業に没頭した。無心に作業をこなしていると、午前中の慣れない接客でざわついていた心が、少し落ち着いていく気がした。

 注文が入っていた皿を用意し終えて顔を上げると、同じく仕事が一段落したらしいルークがどこかぼんやりとした様子でルカの仕事を眺めていた。

「ルークさん?」

「……ああ、ごめん。上手だなあと思って」

 ルークは再び気弱そうな微笑を浮かべると、流しの前へと移動した。

 彼が汚れた食器を洗い始めたので、ルカも慌てて隣で手伝う。

「えっと、君は黒の軍の兵士なんだよね?よくお菓子を作ったりするの?」

「まあ……趣味というか」

「……そっか。僕の家、実は父も祖父も黒の軍の兵士だったんだ」

 ルカは思わず手を止めて、ルークの顔を伺った。

「僕は長男だし、下は妹だけだったから、僕も家族も、僕も兵士になるもんだとずっと思ってた」

「そうだったんですか」

 ルカは手元の皿に視線を戻した。

 黒の軍は、赤の軍とは違って世襲制ではない。だけど兵士たちの中には、代々黒の軍の兵士だという者たちも多い。戦う父親の背中を見て育ち、やがて父親と同じ仕事を目指す気持ちも、わかる気はする。

 だけど彼はそうしなかった。

 考えてみれば、クレイドルでは、パティシエなどの職人を目指すなら、寄宿学校に通わず、さっさとプロのもとで修行を始めるのが一般的だ。

「……迷ったんですか?」

 ルカの遠慮がちな質問に、ルークはくしゃっと笑った。

「迷った、すごく。……本当は、今でも、これでよかったのかなって思う時がある」

 ルカが黒の軍への入隊を決めた時。

 あの時、ルカには、黒の軍に行く以外の選択肢はなかった。だけどそれでも、これでよかったのかなと迷う気持ちはわかる気がした。だから、尋ねてしまったのかもしれない。

「後悔しているんですか?」

 ルークはどこか心細そうな表情で、ルカを振り返って、口を開いた。 

 ちょうどその時。

 店の方が急に賑やかになった。乱暴にエントランスのドアが開けられる音がして、「泥棒」という叫び声がルカの耳に届いた。

 ルカは反射的にキッチンを飛び出した。

 店の中は荒らされた様子はなく、向かいの店から人が数人飛び出していくのが見えた。泥棒はこの店ではなく、向かいの店に入ったらしい。

 店を出ると、すぐ先に、勢いよく駆けていくゼロの背中を見つけた。

 ルカも追いかける。

 ゼロの前を走る、犯人らしき男が路地を右に曲がるのを見たルカは、右手の本屋に飛び込んだ。

「おおう、ルカちゃん、元気かーい?」

 顔見知りの店主への挨拶もそこそこに、レジの横を走り抜けた。がんばれよー、という店主の声を背中に聞きながら、裏口から飛び出す。積まれたブロックを足がかりに塀に登り、速度をほとんど落とさずに細い塀の上を慣れた足取りで走った。塀から立ち並ぶ倉庫の屋根に飛び移り、屋根のダクトを滑るように乗り越える。倉庫三つ分の屋根を斜めに突っ切り、再び現れた狭いブロック塀の上に立つと、細い路地を見下ろした。

 高い塀の上から、走ってくる男が見える。

(間に合った……!)

 建物の込み入った地域を屋根づたいに斜めに渡ることで、先回りしたのだ。

 ルカは男の手前3メートルあたりに飛び降りた。

「止まれ!」

 いきなり目の前に立ち塞がったルカに驚いた男はたたらを踏み、Uターンした。彼は追ってきたゼロをなんとか躱そうとしたが、結局ゼロの鋭いタックルに捕まってしまった。

 男を押さえつけながらも、ゼロは目を丸くしたままルカを見あげた。

「お前、一体どこから現れたんだ?」

 ゼロの驚いた顔に、ルカはなんだかいたずらが成功したような痛快な気分だった。

 男は、パティスリーのはす向かいの時計店から、いくつかの時計を盗んでいた。二人は時計を店に返し、巡回の兵士に男を引き渡すことにした。

 以前はセントラルで騒動があるたびに、どちらの軍の手柄になるか競ったものだが、今はもうそんな必要はない。区画ごとに両軍が交代で巡回する制度に落ち着いている。今日のこの地区は黒の軍が担当していた。

「お父さん!」

 黒の軍の巡回の兵士と話すゼロと男の元に、5、6歳の男の子が駆け寄ってきた。

「お父さんを放して!」

 男の子はゼロの足を拳で叩きながら、泣き出した。

「お父さん」と呼ばれた男は何も言わず、子供から目を逸らしていた。

 ルカの位置からは、ゼロの顔は見えなかった。

 ゼロは黙って、男の子の拳を受け止めていた。

 老夫婦が駆けつけてきて、男の子を抱きしめるようにしてゼロから引き離した。

 申し訳なさそうに、体を縮めるようにして謝る老夫婦に、ゼロは2、3言話した後で、男を兵士に引き渡した。

 振り返ったゼロは、いつも通りの淡々とした表情で、ルカに伝えた。

「あの老夫婦が、父親が帰ってくるまで子供の面倒を見るそうだ」

「そう、よかった」

 ゼロが傷ついているのではないかと心配していたルカは、少し意外な気持ちで答えた。

 そして、気づいた。

 軍の仕事はクレイドルを守ることだ。だけどいつでも笑顔が返ってくる仕事ではない。やるせないこともたくさんある。

 ルカは黒の兵として過ごすうちに、そういったことと少しずつ折り合いをつけて行った。

 ゼロも同じように兵士としての経験を積んできたのだ。

 学生時代とは違う。

 ルカが、もうあの頃の感傷的な少年ではないように、ゼロもまた、もう無垢で傷つきやすい子供ではなかった。

「何か事情がありそうだったね。兵士によく話を聞くように伝えておくよ」

「頼んだ」

 並んで店に戻った二人は、埃や砂で汚れた制服を着替えなくてはならなかった。

「申し訳ありません。こうなると、我々は猟犬と同じで、本能に逆らえないんです」

 一人だけ涼しい顔で接客を続けていたエドガーが、苦笑混じりにルークに詫びる。

 それを聞いたルークは気弱そうな笑顔で、お疲れ様、とねぎらってくれた。

 その後は、店にレイとフェンリルがやって来たり、セスが妹とやって来たり、レイに釣られて女の子たちが押し寄せてきたりで、店は大賑わいだった。驚いたことにシリウスとランスロットが連れ立ってやってきたりもした。

 結果として、ケーキは早々に売り切れてしまい、店は二時間も早く切り上げることになった。

「早仕舞いなんて、久しぶりだ」

 ルークはそう笑ったけれど、それほど嬉しそうでもない。

 困ったような顔で、どこかそわそわと落ち着かない。

 ルカたち3人は、そっと顔を見合わせた。

「恋人のお家に向かわれるのでしょう?」

「うん、そうなんだ」

「ケーキはもう完成してましたよね」

「うん……」

 エドガーとルカに答えながらも、ルークの笑顔がなんだかしおしおと元気なく萎れていく。

「行きたくないのか?」

 ゼロの単刀直入な問いに、ついにルークの笑顔は消えてしまった。がっくりと俯いて、椅子に座り込むと、頭を抱えるように、組んだ両手を額に押し付けた。そして深い深いため息をついたのだった。

 3人は再び顔を見合わせた。

「もしかして、恋人と喧嘩でもしちゃいました?」

 エドガーが軽い口調で尋ねた。

 ここはエドガーに任せるのが一番だろう、とルカは経験から知っているし、ゼロもきっとわかっている。そっと視線をかわして頷き合ったゼロと共に、黙って様子を見ていることにした。

「いや、そういうわけじゃ……」

「なるほど、じゃ彼女のご両親が原因でしょうか」

 ルークは言葉では答えなかったけれど、代わりに、彼の下がり気味の眉尻がさらに下がった。分かりやすい。

 エドガーの誘導に従ってルークがぽつりぽつりと語ったのは、恋人の家が、ルークの家と同じように、代々軍人であること。彼女の父親は職人を軍人よりも格下に見ていること。

 たとえ黒の領民であっても、年配の人たちにはありえそうな価値観だ。深紅の血統を継ぐクイーンの家に育ったルカには、ルークが彼女の家でどんな思いをしたのか、容易に想像ができる。

「ふむ、彼女のお父さんは、手放しであなたたちの結婚に賛成しているわけではない、と」

 エドガーが確認すると、ルークは肯定するように視線を下げた。

「あなたにそれほど沢山の選択肢があるとは思えませんけど。難しく考えすぎなのではありませんか?」

 エドガーは優雅に微笑んでそう言うと、くるりとゼロとルカに向き直った。

「ゼロ、ルカ。もし彼女の家族に軍人などと一緒にはさせない、と反対されたらどうします?」

 それは、もちろん。

「俺には、剣しかないから」

 ゼロとルカは、ほぼ同時に、同じ言葉で即答した。

 思わず顔を見合わせ、微かな笑みをかわす。

 だけど、ゼロがその後に続けた言葉は、ルカの思っていたものとは違った。

「軍を辞めることはできない。だから、説得して、わかってもらうしかない」

 ゼロは、迷わずそう答えた。

 ルカは、実は「彼女」を諦めるつもりだったけれど、黙っておくことにした。ルカがあっさり諦めると考えたのは、多分、恋人というのがどういうものか、今ひとつピンとこないからだ。だけど、現在大切な恋人のいるゼロは、違った。

 ゼロはルークをまっすぐ見て続けた。

「俺は今日子供に3回泣かれた」

 ゼロは至って真剣な表情だが、エドガーは顔を背けて、肩を震わせている。

 ルカもつられて、つい笑いそうになった。誤魔化すように咳払いする。

 ショーケースの脇で直立不動のゼロにびっくりして、泣き出してしまった幼い子供が二人ばかりいたのだ。残りの一人は、今日捕まえた男の子供のことだ。

「だけど、そのうち2人の子供はお前のケーキを見てまた笑顔になった。この店にきた客は、みんなお前のケーキを食べて笑顔になった。俺にとって、誰かを笑顔にするのはとても難しいことだ。だから、お前の仕事はとても立派だと思う」

 ゼロはそう言った後で、穏やかな笑みを浮かべて付け足した。

「俺も自分の仕事を誇りに思っているけど……、笑顔だけが返ってくる仕事ではない」

 ルカは今日ゼロの前で泣いた3人目の男の子のことを思い出す。

「ありがとう」

 ルークが顔をあげて、力なく微笑んだ。眉は下がったままで、なんだか泣いているような笑顔だ。

「あるいはあなたが軍人になれば解決するかもしれませんね。ご希望なら、俺の隊で鍛えて差し上げましょう。ちょっと訓練が辛いかもしれませんけど」

 エドガーが軽やかに言う。

 ルークは、驚いた顔でエドガーを見上げた。

 エドガーはにこやかに続けた。

「でも、そうするとこの店を続けることはできませんね」

 ルークの表情がぴしりと締まった。膝の上に置かれた両手が、拳を握りしめる。そして、ルカの方をまっすぐ見て、宣誓するように言った。

「後悔は、していないんだ。もう一回人生をやり直すとしても、やっぱりパティシエになる」

 ルカは少ししてから、これが昼間の質問の答だと気づいた。

 ぱん!

 厨房に大きく響く音を立てて、ルークは両手で自分の頬を叩いた。

 そして頬を真っ赤にしたまま勢いよく立ち上がると、唖然とするルカたち3人に向かって言った。

「行ってくる」

 ケーキを作っている時と同じぐらい自信と決意がみなぎった表情で。

 着替えたルークは、彼の持ち得る最強の武器であるケーキを持ち、3人に見送られながら出かけて行った。ありがとう、と何度も言い残して。

「やれやれ。誰だって自分の選択を背負って生きていくしかないのにねえ」

 エドガーはのびをしながら、妙に実感のこもった声で呟くと、気分を変えるように、パンと手を打った。

「さて、じゃあ始めますか。ルカのドキドキ・お菓子教室」

「エド、変な名前付けないで」

 しかも以前よりちょっと不安な教室名になっていないか?

 隣にいたゼロが真剣な表情で、急に何やら呪文のようなものをぶつぶつ唱え始めた。よく聞いてみると、前もって教えておいたカップケーキのレシピだ。

「バター100gと粉砂糖60gを……」

 ゼロの表情は今日店に立っていた時と同じぐらい緊張していて、触らなくても肩のあたりにガチガチに力が入っているのがわかった。

「ゼロ?そんなに気負わなくても大丈夫だよ」

 ルカはなんとかリラックスさせようとするけれど、ゼロは緊張したままだ。

 エドガーはそんなゼロの様子を面白そうに眺めながら、なぜが鼻歌でも歌い出しそうなぐらい上機嫌だ。

「ゼロ?もう少し肩の力抜いた方がうまくいくよ?……おーい、聞いてる?」

 ゼロの返事は、返ってこなかった。

     ⭐️          ⭐️          ⭐️

「……できた……!」

 バターの焼ける香りが甘く立ち込めるなか、3人の前には、オーブンから取り出したばかりの、ふっくらと膨らんだカップケーキが並んでいる。

 このお菓子教室は、ルカが想定していたよりも手こずった。

 ゼロは、素直で熱心な良い生徒だった。ルカの知る料理が苦手な人物たちとは違って、できればキッチンに近寄って欲しくないというようなタイプではない。だけど、生来の生真面目さのせいか、力加減が苦手なようだ。1回目は熱心に生地を混ぜ過ぎてしまって、カップケーキはほとんど膨らまなかった。うっかり机の上に落とした時に、ごとん、というお菓子とは思えない音がして、ルカを驚かせた。2回目はその反省を踏まえて、かき混ぜすぎないように、と慎重になるあまり、所々に粉っぽさの残る、焦げ臭いものになってしまった。

 そして今目の前にあるのが、3度目の正直の大成功である。

「よかったよかった」

 ルカは心から安堵した。何しろルカも人にお菓子作りを教えるのは初めてだ。自分の知る限り一番簡単なカップケーキのレシピにしたというのに、失敗が続いて、だんだん不安になってきていたところだった。

「面倒をかけて、すまない」

 ゼロが申し訳なさそうに謝る。

「謝ることはないよ。それにこれで、いつでもカップケーキは焼けるようになっただろ?」

「ああ、そうだな。もう大丈夫だ」

 ゼロはすっかり緊張も解けたようで、自信ありげに微笑んだ。

「じゃあ、冷ましてる間に洗い物と飾り付けの準備をしようか」

 ルカもなんだか嬉しくなって、微笑む。

 うん、真面目に、成功するまで頑張ったゼロは良い生徒だった。

 そして3人の中で一番満足そうな笑顔のエドガーが、率先して洗い物を始めた。

 エドガーは、ゼロのやることをただ眺めているだけで、一切手出しはしなかった。そして彼が失敗するたびに、やけに嬉しそうな笑顔を見せた。

 ずいぶん意地悪だと思ったが、そうではなかったみたいだ。

 エドガーは、ゼロが一つ失敗するたびに、成功に一歩近づくことを知っていて、喜んでいたのだ。

 学生時代もこんな風に、ゼロが何か一つできるようになるたび、エドガーは喜んでいた。

 ――俺はね、銀のスプーンをくわえられるだけくわえて生まれてきたんです。

 屋上で退屈そうに呟いたエドガーを思い出す。

 なんでも苦労せずあっさりこなしてしまう、器用な友人。

 今日のゼロみたいに、試行錯誤を繰り返してやっと成功にたどり着くような経験は、きっと縁がなかったのだろう。それは羨ましくもあるけれど、もしかしたら、少し寂しいことなのかもしれない。

 だからゼロが努力して、努力して乗り越えていくのが、エドガーは嬉しいのかもしれない。

 ルカは、隣の、上機嫌で洗い物をするエドガーの横顔をそっと窺った。

 この二人の組み合わせが、ゼロだけのためではなく、エドガーのためでもあったとしたら。ゼロの世話役をエドガーに任せたディーン先生は、やっぱり侮れない。

 洗い物を終え、一通りキッチンを片付けると、ちょうどケーキも程々に冷めていた。

 机の上に、ルークが使っていいよ、と置いていってくれたフルーツの砂糖漬けやドライフルーツ、今日の飾り付けに使った残りの果物などが並ぶ。

 エドガーはクリームに色をつける粉に興味津々で、次々と小分けしたクリームにカラフルな色をつけていた。

 エドガーが並べた青や赤やオレンジの原色の中から、ゼロは淡いピンクのクリームを選んだ。ピーチのフレーバーがほのかに香る。

「俺はこれだけでいい」

「せっかくこんなに沢山の色を作ったのに」

「わかった。この二つはディーン先生にお礼に渡す分だから、お前の好きに飾り付けていい」

 ゼロは妥協案として、ディーン先生用のカップケーキを犠牲にすると決めたらしい。

「ではこの二つは俺が引き受けましょう」 

 エドガーも満足げに頷いて、紫のクリームを手にとった。

 ゼロは2、3回クリームを絞り出す練習をしてから、ケーキに向かった。

 彼は極端に不器用なわけでもないようで、クリームを丁寧に絞り出し、上手くケーキを飾っていく。

 口元に、柔らかな笑みを浮かべながら。

「飾り付け、楽しい?」

「えっ?」

 ルカが尋ねると、ゼロはきょとんとした顔で聞き返した。

「今、なんだか楽しそうに笑ってたから」

 店でもあんな笑顔を見せたらよかったのに、と思うぐらい優しい笑顔だった。

「えっ、俺、笑っていたのか」

 なぜかゼロは口元をおさえ、頬を赤くした。

「……喜んでくれるかなって想像してたら、無意識に笑ってたみたいだ」

 ルカもつられて照れてしまった。

 好きな人の笑顔を想像するだけで、人はあんな優しい笑顔になるものなのか。

「お前のケーキを食べる彼女が嬉しそうだったから、このケーキでも、あんな風に喜んでくれるかなと思って」

「それはもちろん、きっと、すごく喜んでくれるよ」

 ルカは思わず力を込めて、真剣に答えた。

 こんなに彼女のことを思って作られたケーキなんだから。

 ゼロは微笑み、また飾り付けを始める。

 ルカはそんなゼロの様子を眺めながら、考えた。

 誰かを笑顔にしたいとお菓子を作ったことなんて、今まで、多分、なかった。

 作ったものを美味しいと喜んでもらえるのは、もちろん嬉しい。だけど料理もお菓子作りも、どちらかといえば自分のためのものだった。無心に作業をこなし、思い通りのものが完成した時には、心の中が少し片付いたような気持ちになるから。

 でも誰かの笑顔のためにお菓子を作るというのも、とても素敵なことに違いない。

「なんだか、彩りが寂しいですね。お手伝いしましょうか」

 ディーン先生用のカップケーキを思う存分デコレーションし終えたエドガーが、ポケットからカラフルなジェリービーンズを取り出し、ゼロのカップケーキに飾り始めた。

 確かに見た目はポップで可愛いけれど、ゼロが顔をしかめる。

「おい、やめろ」

「エド……、それはお手伝いじゃなくて、邪魔っていうんじゃないかな」

「この方が楽しいと思うんだけどなあ。そういえば、ルカはホワイトデーのお返しは作らなくていいんですか?」

「俺は別に……、兵舎のみんなにお土産にするぐらいで」

 一緒に作ったカップケーキを持って帰るだけのつもりだ。

 バレンタインのチョコレートも、黒の軍宛に送られたものばかりで、ルカ個人宛のものは、一つもなかった……、いや、違う、一つだけあった。

 しまった、忘れたままでいたかったのに。

 ルカは無意識にぎゅうっと眉を寄せた。

 バレンタインの朝、ルカ宛に届けられた、赤の領地のショコラトリの最高級トリュフチョコレートの詰め合わせ。

 食べないつもりだったけれど、鍛錬のあとでお腹が空いて、ついつまんでしまった。腹立たしいことにそれはもう美味しかった。

 ルカが突然不機嫌な顔になったので、ゼロがぎょっとしたように尋ねる。

「どうかしたのか?」

「……気にしないで」

 こればかりは自分でもどうしようもないから見逃して欲しい。

「まあまあ、お前はさっさと自分の分を済ませなさい」

 察しの良いエドガーが、ゼロを促した。

 ルカは眉間に深い深いシワを寄せたまま、持って帰るつもりだったカップケーキを一つ取り出し、白いクリームを上に絞る。そして上に苺を一つ。

 素朴な、特別でも高級でもないカップケーキ。

 あの人には似合わない。

 だけど彼が大感激して満面の笑みで食べることも予想できてしまうことがさらに腹立たしい。

 ルカは長い長いため息をつくと、苺のカップケーキを手早くラッピングした。

「お引き受けしましょう。ちゃんと渡しておきますよ」

 ルカは心底不本意そうな表情で、察しの良い友人の差し出す手に、無言でカップケーキを載せる。

 そこでやっとゼロもこのカップケーキの行先に気づいたらしく、「ヨナが喜ぶな」と笑った。

 その笑顔があんまりにも邪気のないものだったので、ずっと不機嫌な顔だったルカも、つい、力が抜けて笑ってしまった。

 空には春の星座が昇っている。

(すっかり遅くなったな……)

 ルカは、月のない夜道を兵舎へと急いだ。

 ふわふわと形にならない思いが、浮かんでは消える。

 今日起こったいろいろな出来事が、心をざわつかせている。

 ルカは、開きかけた箱の蓋を再びぴっちり閉じるように、考えるのをやめることにした。

(よし、兵舎に戻ったら、休む前にちゃんと鍛錬をしよう)

 ルカの心の真ん中にあるのは、やっぱり今より強くなりたいという願いだけだ。

 今は、それだけでいい。

 頬に受ける風は真冬のように冷たい。

 それでも、冷たい風の中に、微かに混じる甘やかな花の香りに気づくと、ルカは少しだけ微笑んだ。

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