豊かな緑の隙間から、麗かな日差しがこぼれる森の奥。春らしい明るさの中、森の空気はいつもどおり少し冷たく、しんと透きとおっている。
クレイドルの大魔法使いハールの家は、そんな場所にひっそりと在る。
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シリウスはその朝、早起きして黒の兵舎を隅々までピカピカに磨き上げた。しかし兵舎を端から端まで掃除し終えても、彼が求める心の平穏は得られなかった。仕方なく、彼は旧友ハールの家を訪れ、大量の本を整理していた。
ふと手を止め、部屋を見回す。
以前訪れたときは、もう少し片付けがいがありそうな家だったが、今は小綺麗に整えられ、小さな花も飾られている。一緒に住むようになった女性の影響かもしれない。旧友の幸せな生活が見える気がして、シリウスは少し微笑んだ。あまり必要のなさそうなハタキをかけ、棚を雑巾で拭いた後、再び本を並べていく。
――レイに悪気があったわけではない。それはよくわかっている。
掃除をしながら、今朝から何度も繰り返した言葉が頭をよぎった。
だけど彼に悪気がなかったからこそ、シリウスの傷は深かった。
昨夜遅く、黒の兵舎で起こった出来事に、彼の心は深く傷ついていたのだ。
「シリウス、少し休憩しないか」
いつの間にかドアのそばに立っていたハールが、遠慮がちに声をかけて来た。
「アリスがケーキを焼いてくれたんだ。紅茶を淹れよう」
彼の控えめな微笑みは、学生時代から変わらない。
シリウスは、何も聞かないハールの優しさに感謝した。
「そうだな。そうしよう」
木の節をそのまま活かした暖かみのあるダイニングテーブルに、アプリコットのパウンドケーキと焼いたばかりのクッキーが並び、ニルギリの甘い香りが漂っている。
シリウスは紅茶を一口のみ、ほっと小さく息をついた。
「お疲れ様です、シリウスさん」
アリスがケーキを切り分けながら、ねぎらってくれる。
「すまないな、お嬢ちゃん。上がり込んだ上に勝手なことしちまって」
「こっちはお掃除をしてもらえてとっても助かってます。ハールさんはどちらかと言うと几帳面な方なのに、本だけはすぐ散らかしてしまうんですよ」
「う……すまない」
申し訳なさそうなハールを見て、アリスは愛しそうに微笑んだ。
「普段はそれほど気にならないけど、一度小さくなってしまったことがあって……」
アリスはオリヴァーの作った魔法薬を間違って飲んでしまい、小さくなってしまったときのことをシリウスに話した。
「それは災難だったな」
本が多すぎて、小さな体で歩いて移動するのが大変だったと聞いて、シリウスは笑った。
「スウの背中に乗って飛んだのは、今思えば楽しい経験でしたけど」
アリスの体験談に皆が和やかに笑っていたとき、ドアがノックされた。
3人は顔を見合わせた。
「客が来る予定だったのか?」
「いや。そもそも、うちにはお前ぐらいしか訪ねてこない……」
もしアリスの能力や大魔法使いの能力を求めて誰かが訪れたとしたら、それは何らかの緊急事態を意味するのではないか?
アリスも、シリウスと同じことを危惧したのか、不安そうにハールを見上げた。
ハールはアリスを安心させるようにそっと彼女の肩に手を置いてから、ドアに向かった。
ドア越しに一言二言やりとりがあった後、ドアが大きく開かれた。
ハールに招き入れられた人物を見て、アリスもシリウスも目を丸くする。
「シリウス、お前も来ていたのか」
ハールの後ろで、私服姿のランスロットが、同じように驚いていた。
「ランスロット、体の方は大丈夫なのか?」
「問題ない。見ればわかるだろう」
お前の場合は見ただけでわからないから心配なんだ。
シリウスは、そう言いたいのをぐっと飲み込んだ。せっかく久しぶりに3人揃ったのだから、何も言い合いをする必要はない。
それに、確かに以前会った時より、ランスロットの顔色も良くなっている。
ランスロットは、ハールに本を届けにきたのだと言った。
「よくこの本が見つかったな」
「たまたま父の書斎で見つけた」
二人の、まだ少しぎこちないやりとりを聞きながら、シリウスはこっそり苦笑する。
「どんな本なんだ?」
「魔力のコントロールについて幾つかの研究をまとめた本だ。古い本で、もう本屋では見つけられなかったんだ。……その、ありがとう、ランスロット」
「いや」
ランスロットは言葉少なに答えたが、微かな笑みを浮かべた。
シリウスは、二人の何でもないやりとりに不意に胸をつかれた。
(ああ、やっと終わったんだな)
ハールを、もう一度日の光の元に。ランスロットに、もう一度笑顔を。3人で、一緒に笑い合えるような日を、それだけを願っていた日々。
出口の見えないトンネルの中を歩き続けるような日々。
それが、終わったのだ。
突然訪れた感情の高ぶりをごまかすように、シリウスはティーカップをゆっくりと口元に運んだ。
まさかこんな風に、後から突然実感するとは思わなかった。
「シリウス、お前は今日はどうしたのだ」
ランスロットの問いかけに、まだ波打つような感情を押し隠して、笑顔で答える。
「俺はただ、お嬢ちゃんの顔を見にきただけだ」
「ふふ。シリウスさんは、うちの本を片付けにいらしたんですよ」
アリスが、ランスロットのために新しく紅茶を淹れながら付け足した。
ランスロットがわずかに眉をひそめた。
「何があった」
シリウスの、「心懸かりなことがあると掃除を始める」という習慣を知らないアリスは、きょとんとした表情で首を傾げる。
だけどこの2人はよく知っている。学生時代、時折寄宿舎のハールやランスロットの部屋を片付けに行ったことも何度かある。
見ると、ランスロットだけではなくハールも気遣わしげな表情でこちらを見ていた。何も尋ねなくても、気にならない訳ではない。
「いや、大したことじゃないんだ」
シリウスは慌てて否定した。心配をかけたことは申し訳ないが、年の近い二人にはあまり話したくない気もする。シリウスがどうやってごまかそうかと考えていると、玄関のドアが勢いよく開いて、陽気な声がした。
「たっだいまあ」
ロキは、シリウスとランスロットがいるのを見て、目を丸くする。
「わお、フルハウス!こんにちは、赤のキング、黒のクイーン。珍しいね、二人揃って」
「久しいな、チェシャ猫」
ロキは屈託のない笑顔で、挨拶をしたランスロットの隣に座った。
「お腹すいちゃった。ねえアリス、俺の分もケーキある?」
「もちろん。すぐ準備するから待っててね。飲み物はホットミルクでいい?」
「うん」
シリウスは話が逸れて、こっそり安心していたが、ランスロットとハールはまだシリウスの方を見ている。
勘のいいロキは、3人の顔を見回して、困ったように眉を下げた。
「ごめんなさい、俺、何か大切な話の邪魔をした?」
「いや、そんなことはないぞ、ロキ」
「あの、ごめんなさい、私席を外した方が良かったですか?」
ロキだけではなくアリスまでそんなことを言い出したので、さらに申し訳なくなり、シリウスは腹を括って、昨夜兵舎で起きたことを打ち明けることにした。仕方ない。ここはいっそ開き直って、笑い話にしてしまおう。
「待ってくれ、本当に、そんな大した話じゃないんだ」
それでもシリウス自身は相当深く傷ついたわけだけど。
昨夜、シリウスは遅くまで執務室で仕事をしていた。仕事を終えたのは、皆がすっかり寝静まった夜中だった。部屋に戻る途中で、廊下をフラフラ歩いてくるレイに出くわした。
レイはパジャマの上にガウンを羽織っていた。ほとんど目も開けていられないぐらい眠そうな彼は、シリウスを見て、こともあろうに。
「あ、お父さん」と言ったのだ。
「お父さん」
「そう、お父さんと呼ばれた」
みんなに改めて聞き直されて、シリウスは眉間にシワを寄せたまま頷いた。
「あはははは!ひどいね、レイ、寝ぼけてたんだ」
真っ先に遠慮なく笑い飛ばしてくれたのはロキだった。
アリスも申し訳なさそうに笑いを堪えている。
「お嬢ちゃん、遠慮なく笑ってくれていいぞ。まあ、若い二人にはこの衝撃はわかってもらえねーだろうな」
ハールは何やら納得のいかない顔で考え込んでいる。
「そうか、お前はそれで傷ついていたのか」
「そりゃ傷ついちゃうよね、黒のクイーン!レイのお父さんなんてもう50近いだろうしさ。想像してみなよ、ハール」
ロキは笑いながら、やっとちょうど良い温度に冷めたらしいホットミルクに口をつけた。
ハールは右手を口元に当てたまま、ロキを見て考え込む。そして考えながら話すように、ゆっくり口を開いた。
「……どうだろう。俺はロキにお父さんと呼ばれたら、……むしろ、嬉しいような気がする」
ごふっ、という妙な音と共に、ロキが派手に咳き込んだ。
「落ちついて飲め、チェシャ猫」
彼の隣に座っていたランスロットが、見かねて背中をそっとさすってやる。
「ちょ、ちょっと、ハール!一体何言い出すのさ。俺は成人しているし、ハールとそこまで年も離れてないからね?」
ロキは真っ赤な顔をあげて、まだ咳き込みながら、ハールの方を見る。
「いや、年齢は問題ではないだろう。お前との付き合いも長いし、そこまで心を開いてくれたのかと嬉しく……」
「ハールのばかっ!何考えてんの。おっ、おっ、お父さんなんて呼ぶわけないだろっ」
ロキは真っ赤な顔のまま怒ったように言い捨てると、席を立ち、そのまま勢いよく二階に駆け上がって行った。
「こら、ロキ、行儀の悪い」
ハールはロキを叱った後で、みんなにすまない、と謝った。
「全く、あいつはいつまでたっても」
「ハールさんたら、ロキは、照れてるんですよ。耳まで真っ赤っかでした」
アリスがくすくすと笑う。
ハールさんがお父さんならわたしがお母さんですね、と言われて、今度はハールが顔を赤くした。
3人の中で一番奥手だったハールが一番最初に運命の伴侶を見つけるとは、不思議なものだと思う。
シリウスが、頬を赤めながら微笑み合う二人を好ましく思っていると、向かいの席に座っているランスロットも、柔らかい表情で二人を見つめていた。
アリスは夕食の用意をするから、と新しい紅茶を淹れてからキッチンの方へ行った。
ランスロットは熱い紅茶を一口飲み、真面目な顔で切り出した。
「俺は、父と呼ばれたことはないが、キングというのは軍の父のような立場ではないかと思っている」
「でかい話になったな」
ハールもまた真顔で言った。
シリウスも興味を覚え、頬杖をついたままランスロットの話に耳を傾ける。
「彼らを守りながら、鍛え抜き、育て上げる。いつ自分がいなくなっても大丈夫なように」
「最後の方はキングとしては不穏だが、なるほど、それがお前の父親像なのか」
「そうだ。……父は常に赤のキングだったし、俺はずっと父を遠く感じていた。だけど、赤のキングを継ぐことで見えるようになったこともたくさんある。それに……」
ランスロットは、そこで躊躇うように言葉を切った。
ハールとシリウスは、黙って続きを待つ。
「それに、ずっと考えていた。なぜ、父が突然魔法の塔との関係を断とうとしたのか。曽祖父の代から、魔法の塔との癒着は続いていた。父は自らがキングになってからは彼らと少し距離を置いていたようだが、やはり先代と同じように、塔の不正と非道な研究を見逃してきた。それなのに、なぜ、突然アモンとの対立を選んだのか」
ランスロットは、カップの中に答が書かれているかのように、じっと手元のカップを見つめている。
「答えは、見つかったのか?」
「ああ。おそらく父は、俺がキングを継いだ後のことを心配したのだ」
――俺は、母の愛を知らない。父の愛さえも。
シリウスは、一度だけランスロットがそう言ったのを聞いたことがある。
あれは、会って間もない頃。3人とも、まだ必死で背伸びをしている幼い少年だった。
だけど今、ランスロットは、彼の父親が命を賭けてまで未来の彼を守ろうとしたのだと気づいたと言う。
長い年月を経て、ランスロットの父親の愛がやっと彼に届いたのか。
「……そうか」
先代の赤のキングの大きさと、そこにたどり着くまでのランスロットの心の道のりを思い、シリウスは静かに感動していた。
ハールがそっと微笑む。
「お前と同じで、わかりにくい人だったのかもしれないな」
「俺はそんなにわかりにくいか?」
心外そうなランスロットに、今度はハールが驚く。
「自覚がなかったのか?」
互いに驚いた顔を見合わせる二人を見て、シリウスはつい笑ってしまった。
ランスロットはどこか不本意そうな表情のまま言った。
「赤の軍には、俺よりも家族に縁が薄かった者もいる。俺はキングとして、彼らの未来を守りたいと思っている」
ハールは、ただ微笑んで目を伏せた。
シリウスは、学生時代を思い出していた。
あの頃も、よくこうしてとりとめもない話をした。
3人とも決して多弁な方ではないのに、話が尽きることはなかった。ランスロットもハールも真面目に話しているのに、なぜか話題は思いもしないところにコロコロと転がっていき、思いがけない場所に着地することがあった。
「お前らと話してると、自分がずいぶん小さい人間な気がしてきたな」
「お前が小さい人間だとは思わないが、俺は誰かに父と慕われることは悪いことではないと思う」
ランスロットが至極真面目に答えた。
実際は、シリウスは父と慕われることに傷ついていたのではなく、寝ぼけたレイに外見を父親と間違えられたことに傷ついていたのだが。
それでも、ランスロットなりの思いやりは嬉しかった。
シリウスは、何だか可笑しくなって笑い出した。
「そうか。なんか気にするのが馬鹿らしくなってきたな」
「お前の気が晴れたのならよかった」
ランスロットとハールの少し安心した声が重なる。
シリウスは、また笑った。笑いすぎて、涙が出るほどだった。
帰る間際、ハールがもう一度ランスロットに本の話をした。
「ランスロット、この本には、魔力を持つ子供に関する話もいくつか載っている。お前の父親は、お前のためにこの本を読んだのかもしれない」
「そうか」
ランスロットは否定も肯定もしなかったが、頷いた表情は、穏やかだった。
シリウスもまた、そんな二人を見ながら、ふと、今この時間も実家の店で忙しく働いているだろう父を思った。
⭐️ ⭐️ ⭐️
冷たい夜風に、花の香りがのる。冷たく冴えた月が空高く昇り、昼間外を活発に歩き回っていた誰もが、再び暖かな家の中に閉じこもってしまう時刻。
赤の兵舎には、キングに突然「父と呼んでみろ」と言われ、混乱するエースと、その様子を楽しそうに眺めるジャックの姿があった。
黒の兵舎では、昨夜夜中に起きた悲劇について、キングの懺悔を聞いたエースと10が調子に乗って、クイーンを「お父さんお帰りなさい」と出迎えた。その後クイーンが自室から出てこなくなってしまい、ジャックにこんこんと叱られるエースと10の姿が見られた。
そして、森の奥にひっそりとたたずむ大魔法使いの家には。
夕食後、暖炉の前で猫のように丸まって眠ってしまった青年と、彼にそっと毛布をかけて見守る、若夫婦のような恋人同士の姿があった。
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