油断した。
まさかあの短い詠唱が終わる前に殴られるとは思わなかったし、俺よりずっと小柄な、しかも人間の女の子のパンチで魔法陣の外までふっ飛ばされることは予測してなかった。
俺は数百年ぶりに情けなく、地面に尻をつけていた。
どこか表情に乏しい、大きな黒い瞳が、冷たく見下ろしてくる。
彼女の持つ弓矢は、俺の眉間にピタリと照準が合っていた。
あの弓矢はまずい。
もう俺も本気を出すしかない。
だけどそうなると、彼女は無事では済まないだろう。
できればディアボロの不興は買いたくなかったんだが。
——仕方ない、仕掛けてきたのは、彼女の方だ。
「わたしと契約して」
「……えっ?」
思わず聞き返すと、彼女は表情をかえず、同じ言葉を繰り返した。
「わたしと契約して」
本当は最初の言葉もちゃんと聞き取れていた。だけどそれがあまりにも突拍子がなかったので、つい聞き返してしまったんだ。
「MC……その、できれば君の願いは叶えてあげたいけど、俺は人間だから、契約はできないと思うよ」
「…………」
数秒の沈黙の後、勝負を申し込んできたのと同じぐらい唐突に、彼女の闘気が消え去り、矢尻は下げられた。
思わずそっと安堵の息を吐く。
日頃表情に乏しい彼女が、珍しく困ったように眉を寄せた。
「……ごめん……、間違えた」
彼女はペコリと頭を下げると、座り込んだ俺に背を向け、すたすたと歩き去った。
俺はただ、呆然と彼女を見送った。
⭐️⭐️⭐️
「やーだソロモン、どうしたのそれ。きれいな顔が台無しじゃない」
アスモは俺の腫れた頬を見て、言葉とは裏腹に楽しそうな笑顔を見せる。
「あの子はどうしてあんなに戦闘能力が高いんだろうね」
俺のため息まじりの言葉を聞いて、アスモとサタンは顔を見合わせた。
「それ、もしかしてMCがやったの?」
「それは……、なんというか、申し訳ない」
言葉は同情的だが、二人ともいい笑顔だ。きっと寮に帰ったら、「よくやった」とか言って彼女を褒めそやすに違いない。
これだから悪魔という奴は。
「君たちそんなに呑気に笑っていていいのかい?彼女はずいぶん物騒な得物を持っていたけれど」
「物騒なエモノ?」
俺の知っているものとずいぶん見た目が変わっていたが、間違いない。
彼女の持っていた、あれは。
「天界の弓矢だ」
俺の言葉に、二人は唖然とした。
「どうしてそんなものを!」
「彼女はとにかく強い悪魔と契約すると言っていた。万が一ディアボロにでも同じことを仕掛けたら大変なことになるんじゃないかな」
「まさかそんな」
サタンは笑って否定しようとしたが、否定しきれないものを感じたのか、笑顔が消え、見る見る顔色が悪くなってくる。
「ディアボロは笑って躱しそうだけど」
アスモが肩をすくめた。
「ディアボロだけならね。でもあの執事が黙っていないと思うよ」
俺の言葉が終わる前に、サタンはD.D.D.を取り出しコールした。相手は多分MCだろう。
「おい、お前、今どこにいる。……何ぃ?いいな、そこを動くな。い・い・か・ら・う・ご・く・な!!」
サタンはコートを掴むと、血相を変え教室を飛び出していく。
「ちょっと待ってよサタン、僕もいくよ!じゃあね、ソロモン。早くその顔治しなよね」
アスモが慌ただしくサタンを追いかけて行った。
とんだ災難ではあったが、人間の女の子が天界の弓矢を携え、悪魔たちを翻弄している姿は少し小気味よくもある。
殴られた頬にそっと触れ、痛みに顔をしかめた。
人に殴られるなんて、どれぐらいぶりだろう。
俺はどういうわけか、治癒魔術を使う気になれなかった。
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