葬儀の日〜あとがきにかえて〜


 祖父は本の好きな穏やかな人で、僕は彼の「お話」を聞くのが大好きだった。特にお気に入りは、軍にいた頃に出会った悪魔の話だ。祖父の上官と契約していたというその悪魔は、本と猫が大好きで、祖父とは本を通して親しくなったという。

 祖父の愛猫のルーシーと並んで、よく彼の話をせがんだ。

 祖父自身、この悪魔の話をする時はいつも楽しそうだった。

 まるでそこに昔の出来事が写し出されているように、優しい目で何もない空間を見つめながら、ゆっくりと、記憶を愛おしむように話した。

 怪我をした猫を保護した話、二人で協力してたちの悪い上官を懲らしめた話、交わした本の感想。中でも、崖から落ちそうになった祖父を悪魔が助けてくれた話は、幼心にも印象深かった。軍服を着た、その背に漆黒の大きな翼を広げた美しい青年が、僕の方へ必死で手を伸ばす——そんな姿が、繰り返し夢に出てきたほどだ。

 丁寧に語られる祖父の思い出は、僕の中にも鮮やかにその悪魔の姿を描き出していたのだった。

 春らしい、細やかで柔らかい雨が降る日だった。

 祖父の葬儀は、しめやかに、かつ盛大に行われた。

 僕が生まれた時には、祖父はすでに退役していたのでよく知らなかったが、思ったよりも高い地位にあったのかもしれない。軍の制服を来た参列者の数に圧倒された。彼らの口から語られる祖父は、優秀な軍人だった。僕の知っている本好きの穏やかな祖父の姿がそこには見えなくて、まるで別人の話を聞いているようだった。所在なく、参列者の方へ視線を彷徨わせながら、僕は僕の知っている祖父を思い出していた。同時に、何度も聞かせてもらった悪魔の話も、心の中に鮮やかに蘇っていた。

 だから、彼に気づいたのだ。

 金の柔らかそうな髪と碧い瞳を持つ美貌の青年。他の青年たちと同じ軍の制服に身を包み、ひっそりと参列者のなかに佇んでいた彼は、祖父の話を聞いて、僕が心に描いていた悪魔とそっくりだった。

 ただの偶然ではないかと思いながら、心のどこかでは確信していた。だから、彼が献花を終え人混みから少し離れた時に、思い切って声をかけたのだ。「あなたが、サタンですか?」と。

 彼は、一瞬目を見開いてとても驚いた顔になったけど、すぐに納得したように、少し皮肉な笑みを浮かべた。

「そうか、あいつの子か、孫か……」

「孫です」

「俺のことは何と?」

「……えっと……、命を助けてくれた悪魔で、友人だと」

 祖父が友人という言葉を使ったかどうか定かではないが、聞かされた話と祖父の表情をまとめると、こうなった。

「そうか。君は、あいつによく似ているな」

 彼は、不思議な虹彩を持つ目を細めた。その懐かしそうな、優しい表情は、祖父が彼の話を聞かせてくれた時のものとよく似ていた。

 だから僕は、彼を祖父の書斎へと誘った。

 もし祖父がこの場にいたら、次々と業績を褒めそやされて、きっと居心地が悪そうに書斎に逃げ込んでしまうような、そんな気がしていた。あの書斎の方が、祖父を悼むのにふさわしいと思ったのだ。

「どうぞ」

 書斎のドアを開けると、ほう、という彼の小さな感嘆が聞こえた。

 窓とドア以外の壁が全て本棚になっている父の書斎。

 窓際に小さな机があり、その上にルーシーが丸まっていた。

「猫……!」

 サタンはドアを押さえている僕を追い越し、大股でルーシーに近づくと、即座にひょいと抱き上げた。

 突然知らない人間に捕まったルーシーは、抗議するように、前足をピンと伸ばしてサタンの頬に押し付ける。だけど彼は全く気にならないようで、満面の笑みでルーシーに強引な頬擦りをした。

「本だけでなく猫まで揃っているなんて、最高の書斎だな。この猫の名前は何ていうんだ?」

「ルーシー」

「なに?」

 途端に彼の笑顔が消えた。

 その時の彼の表情をどう説明すればいいのか、よくわからない。彼は眉を寄せ、困ったような、怒ったような複雑な表情で、自分の腕の中のルーシーを見た。

「こんなに可愛いのにどうしてそんな不吉な名前をつけるんだ」

「不吉?」

 今度は僕が眉を寄せた。

 もしかして、ルーシーという名は悪魔たちの間では不吉なんだろうか。

「俺は早急に名前を変えてあげることを勧める」

「……よくわかんないけど、考えてみるよ」

 彼はそうしろ、というように深く頷くと、ルーシーを抱いたまま部屋の中の本棚を見回した。

 背表紙を眺めているだけで、口元に微かな笑みが浮かんでいた。本当に本が好きなことがわかる横顔だった。

「どうぞ、ゆっくりしていってください。僕、お茶を入れてきます」

 彼は並ぶ本の背表紙を見つめたまま、お構いなく、と答えた。

 僕は何だか舞い上がっていたのだと思う。

 祖父の話の中にだけ存在した、猫と本が大好きな美しい悪魔。彼が、僕の客として、今、この家にいる。それが何だか誇らしくて、嬉しかった。

 ただ、祖父に報告できないことが、とても残念だった。

 紅茶を用意して書斎に戻ると、サタンは制服をきっちりと着込んだまま、書斎の隅の椅子に腰かけ、本を読んでいた。彼の膝の上には、逃げ出すのを諦めたのか、それとも彼の膝が存外気に入ったのか、ルーシーが大人しく座っている。

 オイルランプのほのかな明かりが作る陰影が、彼の美貌を浮き立たせていた。

 悪魔が美しいのは、やはり人間を誘惑するためなのだろうか。

 静謐な、まるで一枚の絵のようなその姿を、僕は身動きもできず眺めていた。

「おい、どうかしたのか?」

 本から顔をあげたサタンが、惚けたようになった僕を、不思議そうに見た。

 自分がサタンに見惚れていたことに気づいた僕は、頭に血が昇ってしまって、動揺のあまり、本当に余計なことを——決して言うべきではなかったことを口にした。

「その……、憤怒を司る悪魔には見えないな、と思って」

 途端に、彼を包む空気が変わった。

 ルーシーが毛を逆立て、彼の膝から飛び降た。

「……見たいのか?」

 ——俺の中の憤怒を。世界を滅ぼすほどの怒りを。

 ずしり、と空気が重さを増し、僕は立っていられなくなった。後ろから肩を押さえ込まれたように、がくりと膝をつき、その場に座り込んでしまう。

 彼の不思議な色合いの虹彩を持つ瞳が、冷たく僕を見下ろしていた。

 彼の周辺で、見えない火花が散るような音がする。金の髪が、風もないのにふわりと舞い上がった。

「ご、ごめんなさい」

 僕は必死で声を絞り出したけれど、声になっていたかどうか。

 この時、僕は本当に死を覚悟していた。この恐ろしい時間が、どれぐらい続いたのか、わからない。実際には、ほんの一瞬のことだったのかもしれない。

 いつの間にか、彼を包む空気は、元どおりに静まっていた。

 だけど彼が僕を見下ろす目は、冷たいままだ。

 僕はとても後悔した。彼を、傷つけてしまったことに。

「ごめんなさい」

 ふと、彼の目が、僕ではない、どこか遠くを見るようなものに変わった。

「……本当に、よく似ている」

 サタンは呟くと、僕のそばへ来て、手を差し伸べた。

「『好奇心猫を殺す』っていうのは人間界の言葉だろう。君は、危うくあいつが守った国を滅ぼすところだった」

 ハッタリではないことはよくわかっていた。

 さっき垣間見た彼の憤怒の片鱗、あれはそれだけの大きさを持つものだった。

「ごめんなさい」

 僕はもう一度謝ってから、サタンの手をとった。そして立ち上がろうとしたのに、足に全く力が入らなかった。情けないことに、僕は腰を抜かしてしまっていたのだ。

 彼は一つため息をつくと、僕の腕の下に体を入れた。ひょいと僕を立たせて、そのままソファまで運んでくれた。

 そして立てなくなった僕の代わりに、手慣れた様子で紅茶を淹れ始める。

「脅かしすぎたな、……悪かった」

 そう言いながら差し出された紅茶は、とても上手に淹れられていた。薔薇に似た香気とカップの温もりに、ほっとする。

「美味しいです」

 一口飲んでからそう伝えると、サタンの顔に、気さくな笑みが戻った。

「君にとって、あいつはどんなお祖父さんだったんだ」

 僕は祖父のことを思い出しながら、ゆっくりと話し始めた。思いつくままに話したので、とても取り留めのないものになったけれど、それでもサタンが時折挟む静かな相槌に励まされるように、話し続けた。いつの間にか戻ってきたルーシーが、サタンの膝の上に飛び乗ると、丸くなった。サタンが嬉しそうにルーシーを撫でる。

 外は、ひそやかな雨の音。

 二人と一匹で、僕たちは静かに祖父を悼んだ。

 祖父の葬儀の日以来、彼には会っていない。

 僕が彼と過ごした時間は、祖父の葬儀の日の、ほんの数時間だけだ。

 だけどあの美しい悪魔が軍服に身を包み、静かに本を読む姿は、今も心に鮮やかに焼き付いている。

 幼かった僕は、彼に祖父の話をすることで、もう祖父には会えないという事実に折り合いをつけることができたのだと思う。あの悪魔と過ごした数時間は、確かに僕の心を慰めてくれていた。

 あの時の書斎は、今は僕の書斎になっている。本や家具は多少入れ替えたが、彼が座って本を読んでいたあの一画は手付かずのままだ。彼が座っていた椅子の上では、今は2代目ルーシーが丸くなって眠っている。

 祖父のサタンへの気持ちがどういう類のものだったのか、僕に知る術はない。だけど、彼が祖父のとても大切な友人であったことは確かだ。                                                                                                                                                                                                  

 祖父は、サタンとの話を全て僕に伝えることで、自分がいなくなった後もサタンへの友情を残そうとしたのかもしれない。彼なりに考えた、どうあっても生きる時間スケールが異なる人間が、気が遠くなるほどの時間を生きる悪魔に寄り添うための一つの方法だったのではないだろうか。

 僕もそろそろ祖父から受け継いだ彼への友情の行末を考えるべき年齢になった。

 生憎僕は未だ独身だ。今後運命の出会いが訪れる可能性を捨てたわけではないが、期待しすぎない程度の客観性もちゃんと持っている。

 そこで僕なりに考えて、この本を書くことにした。この本は、祖父の伝記の体裁をとっているが、本当は祖父と、彼の記録だ。僕の知る限りの、祖父と彼の物語を全て詰め込んだ。祖父の(そして僕の)彼への友情が込められている。僕のような三文作家の本が、果たしていつか彼の目に触れることがあるのか、甚だ疑問が残るが、ただ、その僥倖を頼んで、筆を置くことにする。

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