バルバトスに美味しい紅茶の淹れ方を習うために魔王城に通うようになってから、しばらく経つ。
この紅茶教室のきっかけは、殿下の一言だった。
殿下が人間界の話を聞きたがっているからと、ルシファーに連れられ魔王城を訪れた時のこと。
当時は、バルバトスと言葉を交わしたこともほとんどなく、殿下のそばに静かに控えている彼を何度か見かけたことがあるだけだった。
その日、彼が紅茶を淹れるところを初めて目の前で見たわたしは、その美しい所作にすっかり心を奪われてしまった。
無駄が一切ない動きは、まるで舞踊のようだった。隙がなく、優雅。
「ずいぶん熱心に見ているね。そんなに紅茶に興味があるなら、バルバトスに習ってみてはどうだい」
ただ単に、美しい執事の手の動きに見惚れていたわたしを、紅茶に興味があるのだと勘違いした殿下がそう勧めてくれた。
こういうのも一目惚れというのだろうか。
その時には、この美しい手の持ち主ともっと親しくなりたいという下心がすでに心の中に大きく育っていた。それをきれいに覆い隠して(ちゃんと隠しきれていたように心から願う)、祈るような気持ちで、是非教えて欲しいとお願いした。
最初は彼も殿下の唐突な提案に困っていた様子だったが、「仕事のない時なら」と、困り顔のまま微笑み、引き受けてくれたのだった。
多忙な彼の紅茶教室はそうたびたび開かれるわけではなかったけれど、それでも、彼と二人で過ごす時間が嬉しかったし、彼の語る茶葉の話もとても興味深くて、面白かった。
彼の指導は丁寧で分かり易かったので、すぐに基本的な所作も覚えることができ、最近は淹れた紅茶をあのルシファーに褒めてもらえるようになった。
今日は、何度目かの紅茶教室の日。
バルバトスが、いつものようにお手本を見せてくれた。
無駄のない動きで、紅茶を準備する白い手袋を見つめる。
殿下の秘書のような役割を務めるだけではなく、実際に魔王城の執事頭として掃除や調理の一切を取り仕切っていると聞いている。それなのに、彼の手袋は、いつも真っ白な状態で保たれていて、汚れているのを見たことはない。
白いティーポットのまろやかな曲線に、きっちりと揃えて添えられた指先がなんだか妙に艶かしくて、この手は、女性の身体に触れるときもこんな風に優しく、優雅に動くのかと、つい不埒な想像が膨らんでしまう。
「試してご覧になられますか?」
「ひゃいっ?」
まるでわたしの邪な妄想を見透かしたかのように、突然深みのある声で問いかけられて、声が裏返ってしまった。
「おや、驚かせてしまったようですね、申し訳ありません」
彼は顔を背けるようにして口元に手を添え、わずかに肩を揺らした。
「もう基本的なことは覚えられたので、見ているばかりでは退屈かと思ったのですが」
わたしの驚き方がよほど可笑しかったのか、彼の声はまだ笑いを含んでいる。
意外とよく笑う人なのだと知ったのも、魔王城で、紅茶の淹れ方を習うようになってからだ。
こういう時の笑顔は、いつもの感情を読ませない微笑とは少し違う。少しは彼に近づけたのだろうか、と勘違いするほどに柔らかくて、だからつい、伝えたくなってしまう。
「わたし、バルバトスさんが好きです」
「ありがとうございます。よく存じておりますよ」
驚いた表情さえ見せず、いつもの一分の隙もない微笑で、彼はそう答えた。
よくご存知だろうとは思う。わたしはこの紅茶教室のたびに同じように想いを告げているのだから。
そしてそのたびに、同じような答えが返ってくる。
何もかもを受け入れてくれているように優しいのに、何一つ応えてはくれない微笑み。
子供のように、ねだり続ければ手に入ると思っているわけではないけれど。
溢れ出てしまった気持ちは、留まる場所を失って、純度の高い水のようにさらさらとどこかへ流れていってしまう。
それが、少し切ない。
そっとため息をつき、俯いたわたしの目に、昨夜アスモが選んでくれた淡いレモンイエローのワンピースが映った。膝の上に揃えた指先に、彼がきれいに彩ってくれた、短いままの爪。
——MCの肌にも、紅茶にも似合う色だから、これでバッチリ。
そう微笑ってくれた、優しい兄貴分。
いつもはただ受け流されてしまったことを拗ねた気分になるだけなのに、昨夜の華やいだ気持ちを思い出すと、今日はなんだか顔があげられなくなってしまった。
静かな部屋の中に、バルバトスが食器を扱う音だけが聞こえる。
「先日茶葉の買い付けに行った時に、面白いものを見かけたんです」
長い沈黙の後で唐突にそう言われて、顔をあげる。いつの間にかテーブルの上には、この古城にはあまり似合わない、耐熱ガラスの透明なティーポットが用意されていた。
バルバトスが小さなトングで、不思議な形をした茶色い塊をポットに入れた。
これも、茶葉なのだろうか。
「どうぞ、お湯を注いでください」
促されるままに、傍で沸騰しているお湯を注ぐ。
茶葉の塊はジャンピングの代わりに、ゆるゆると開き始めた。セピア色の茶葉の中から、黄色と白の小さな花がいくつも現れる。
「かわいい……」
さっきまでの悲しい気持ちを忘れて、夢中で見守ってしまった。
ティーポットの中に、小さな花束。
思わず隣のバルバトスを見上げると、優しい微笑と目があう。
「あなたにもお見せしたくて、少しだけ買い求めてきました」
彼はそういうと、ティーポットに目を戻し、笑顔が戻ってよかった、と呟いた。
「ずるい」
思わず口をついてでた言葉は、きれいな微笑で受け流された。
切ない気持ちも確かに胸に残っているのに、わたしのいない場所でわたしのことを思い出してくれたことがただ嬉しくて、胸が高鳴る。
「今日のお召し物と同じ色ですね。よく、お似合いです」
本当に、ずるい。
行き場を失った恋心を抱えたまま、離れることもできない。
こうして今日も、わたしはこの美しい執事の手のひらの上で、くるくると踊り続けるのだ。
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