赤のエースで妄想してみた その1 愛さずにいられない —第十七話—
アンリが公会堂につく前から続いていた会議は終了した。両軍の幹部は頭を突き合わせ、深刻な表情で何かを話し合っている。アンリは兵舎まで送ってくれるというエドガーを待つために、そっと廊下に出て、ソファに座り込んだ。初めて聞いたことが多くて、頭が混乱していた。
(シリウスさんはああ言ったけれど……)
赤の軍の兵士たち、ターナー牧場の皆、酒屋のおじさん、薬屋さん、レイリーさん、スタンリーさん……わずか三週間の間に出会ったたくさんのクレイドルの人たちが心に浮かんだ。
たとえクレイドルが危険な国になっても、アンリはロンドンに帰るつもりはなかった。
自分には何も出来ないけれど、怪我人の手当てぐらいはできる。
アンリはぎゅっと膝の上の拳を握りしめた。
「アンリ」
名を呼ばれて顔を上げると、ランスロットとシリウスがいた。シリウスが、くたびれただろう、とグラスに注いだ水をくれた。
「お前に何も説明していなかったから、驚いただろう」
「いえ……でも、それで私にずっと警護をつけてくださっていたんですね。ありがとうございました」
科学の国からの追手は黒の軍に捕獲されたにもかかわらず、ずっとアンリには警護が付いていて、科学の国からきたことは絶対に言うな、と口止めされていた。そのおかげで、アンリは安全にこのクレイドルで暮らすことが出来ていた。
科学の国から来た人間が狙われていることも知らずに、安心していられた。
ランスロットがふと目元を和らげた。
「ゼロが、自分たちの隊で警護をつけるから、しばらくの間だけでも黙っておくことはできないか、と言い出した。やっと安心して眠れるようになったのだから、それを守ってやりたいと。あれが何かを主張するのは珍しかったので、許可した」
ゼロが。
クレイドルに来てからのこの穏やかな日々は、ゼロがくれたものだった。
アンリは目の奥が熱くなって、涙がこぼれないように慌てて目に力を入れた。
「もうしばらくはお前に告げずにいるつもりだったが、例の声明で、そうもいかなくなった」
「ありがとうございます、ランスロット様」
萎れた植物が水をもらい、再び元気になるように。
ロンドンで萎れていたアンリは、クレイドルで安心して眠り、食べ、穏やかな生活を営むうちに、元気を取り戻していた。
「私はもう大丈夫です。私もみんなと一緒に、現実に立ち向かえます。私に何かできることがあれば、なんでも言ってください」
アンリは顔を上げると明るく言った。
アンリの頭に、ランスロットの手が載せられた。
「お前はそう言うと思っていた。……お前は今、十分勤めを果たしている。今まで通り、クレイドルの人間として、赤の軍の看護師でいれば良い」
「……はい」
ランスロットとシリウスがブランに呼ばれ、去っていく。
「お前の危惧は正しかったな」
シリウスが笑いを含んだ声で言うのが聞こえた。
アンリがソファに座り直し、水を一口飲むと、隣にどっかりと人が座った。
「よお、お疲れさん」
レイが膝に頬杖を付いて、こちらを見ていた。
「お前は、クレイドルが危険になっても残るつもりなんだな」
「……なんでわかったの」
「顔見りゃわかる……なあ、お前は、ロンドンでの事件が全部解決して、ロンドンで平和に暮らせるようになったとしても、クレイドルに残るのか?」
「うん。そうしたいと思ってる」
「ロンドンでの暮らしは、お前にとって辛いものだったのか」
「えっ?」
「お前の『お祖父さま』が亡くなってから」
アンリは躊躇った。
「話したくないなら、いい」
レイの微かな微笑みに釣られるように、アンリは口を開いた。
「……大した話じゃないの。従兄弟が」
アンリが話し始めると、レイは続きを促すようにアンリの顔を見つめた。
「二つ年上の従兄弟が、夜、私の部屋に来たがるようになって……」
「従兄弟って、男か」
レイが眉をわずかに顰めた。アンリは頷く。
「部屋に鍵はあったけど、怖くて、毎晩ベッドと机でバリケードをつくってた。でも、最初の一年だけだったの。ベンジャミン……その従兄弟が、寄宿学校に編入してからは、週末に帰ってきたときだけ気をつけていればよかったから」
「叔父さんや叔母さんは助けてくれなかったのか」
「叔母さんは赤ちゃんが生まれたばかりでそれどころじゃなかったし、叔父さんは赤ちゃんが生まれてからだんだん家にいることがなくなって」
あの家は混沌として、陰鬱だった。赤ちゃんが生まれて大変な時にアンリを引き取ってくれた叔母には感謝している。だけどアンリはあれ以上あの家に寄り添うことはできず、看護学校入学と同時に、逃げるように家をでた。むしろ、家を出るために看護学校に入ったというべきか。
「看護学校に入ってからは、寮生活だから、そんな心配もなくなったの」
アンリはレイに笑って見せた。
「お前はずっと、一人で戦ってたんだな……子供だって笑って、悪かった」
レイがまっすぐにアンリを見て謝った。
「アンリ」
深刻な顔をしたブランとエドガーが廊下の角から現れた。
もう帰れるのか、と立ち上がったアンリは、急にブランに抱きしめられた。
守護する者のハグだ。祖父がいなくなった今、アンリをこんな風に抱きしめてくれるのは、ブランだけだった。
「ごめん、立ち聞きするつもりはなかったんだけど」
「ブラン……?」
「やっとロンドンで再会できた時に、君に元気がないのは気づいていた。だけど、君はロイを悼んでいるのだろうと思い込んでいたんだ」
ブランはそっと腕を緩めると、後悔の籠った目でアンリの顔を覗き込んだ。
「君が辛い目にあってる時に助けられなくて、ごめん。何年も、辛かったね」
アンリはまた目の奥が熱くなった。慌てて眉間に力を込め、ブランに笑顔を見せた。
「ブランは助けてくれたでしょう。ロンドンまで迎えにきて、クレイドルに連れてきてくれた。ブランが助けてくれなかったら、きっと私逃げきれなかった」
ブランはまだ辛そうな顔をしていたが、微笑んでくれた。
「お前がもしクレイドルで、一人で戦うようなことになったら――俺を呼べ」
レイが言った。
「俺が一緒に戦ってやる。お前が一人で戦うことはもうない」
「黒のキング、アンリには我々赤の軍がついています。あなたの出番はないと思いますよ」
エドガーの柔らかな声がして、レイはそちらに厳しい目を向けた。
「だといいがな。赤のジャック、俺はまだ、全てに納得しているわけじゃない」
「それについては、俺にも何も言えません」
エドガーは、困ったように肩をすくめた。
「またな」
レイはエドガーを無視してアンリの肩を叩くと、踵を返した。
「アンリ、帰りましょうか。兵舎まで送ります」
「うん……またね、ブラン」
アンリは最後のレイとエドガーの最後の会話が気になったが、大人しくエドガーについて行った。
「エドガーはこの後、また仕事に戻るの?」
「そうですね。一旦兵舎に戻ってから、またゼロたちと合流します」
アンリとエドガーは向き合って馬車に揺られていた。
「まだ、ずっと忙しいの?」
「もうしばらくかかると思います。例の声明が出た以上、こちらも急がなくてはなりませんが」
「……そう」
アンリは無意識に小さなため息をついていた。
「寂しいですか?ゼロがいなくて」
「リコスが、寂しがってる」
アンリは俯いて答えた。
エドガーが小さく笑う気配がする。
「おや、寂しがっているのはリコスだけですか」
「……私も、寂しい」
正直に言葉にすると、途端に寂しさが募ってしまった。胸がぎゅうっと締め付けられるような心地がした。
4日もゼロの顔を見ないのは、クレイドルに来て初めてだった。ゼロが、ずっとアンリが不安にならないように細やかに気を配ってくれていたことが今になってわかる。
今はそれどころじゃないんだって頭ではわかっているのに。
「後で、素直に白状したご褒美をあげましょう。楽しみにしていてください」
「うん……」
俯いていたアンリは何かを企むようなエドガーの表情を見ていなかったので、また不可思議な色のグミか何かをくれるのかな、とぼんやり考えていた。
「そうだ、アンリ。あの白いばらの送り主がわかりましたよ」
「えっ!」
アンリは驚いて顔をあげた。
「知りたいですか?」
エドガーは楽しそうな顔で、頬杖をついてこっちを見ていた。
アンリは困ったように眉を下げた。
「ううん……いい」
アンリは落ち着かない気分でスカートを握りしめた。
エドガーが、クスリと笑う。
「どうやらあなたにも、呪いがかかっていたようですね」
「呪い?」
「俺の知る限り、大半の女性は、このようなシチュエーションでは、喜んで送り主を知りたがる。自分に寄せられる思慕に応えるかどうかは別にして。……さっきの従兄弟の話を聞くまで、気がつきませんでした。あなたは男性から好意を寄せられることが怖いんでしょう」
全てを見抜く赤のジャックの目がまっすぐアンリを見つめる。
それはエドガーからアンリに対する、今までで一番意地悪な問いかけだった。
アンリの、スカートを握りしめる手に力が篭る。
「あなたを責めているわけではありませんよ」
エドガーの声が優しくなった。
「大方あなたの従兄弟はあなたへの恋情を免罪符にずいぶん強引なことをしようとしたのでしょう。14、5歳の女の子がそんな目にあったら、男をいやになっても無理はない」
「私、別に男の人を嫌っているわけじゃないよ」
エドガーは微笑んだ。
「そう、わかっていますよ。あなたのお祖父さまがあなたを大切に育ててくださったおかげですね、きっと。ブランや、我々からの好意を、あなたは恐れていない。それはあなたのお祖父さまが貴方を大切にしたのと同じ類のものだから……」
黙ったままのアンリに、少し間を置いてから、エドガーは続けた。
「男から寄せられる恋心全てが、そんな理不尽な要求を伴ったものでないことを、あなたはもう知っているはずなんですけどね」
「え?」
聞き返したアンリに、エドガーは笑みを深めた。
「きっといずれわかりますよ。その呪いも、その時には解けるはずです」
エドガーはそれ以上話さなかった。
アンリは、窓の外に目をやった。体がだるい。公会堂では、ずっと緊張していた上に、一度にいろんな話を聞いたので、とても疲れていた。本当はエドガーの言葉についても、今日初めて聞いたことについても、もっと考えたいのに、頭がうまく働かなかった。
夕方、アンリは護衛の兵士と一緒にリコスの散歩を済ませた後、ゼロの部屋にいた。リコスに食事をあげ、そのまま帰ろうとしたのだが、リコスが甘えた声を出すので、帰るに帰れなくなってしまったのだった。くうくうと鼻を鳴らす、聞いている方も寂しくなるような、切ない声。仕方なく、リコスと並んで、ドアの近くに座り込む。
「そうだね、ゼロがいないと寂しいねえ」
リコスが甘えた声で答える。アンリはそっとリコスの首の辺りを撫でた。
「でもね、ゼロの仕事は、クレイドルを守るための大事な仕事なんだよ」
再び、リコスの甘えた声。
「うん、ちょっと心配だね。ちゃんと休めてるのかな」
外泊し、帰ってこないこともあった。帰ってきても、夜遅くに戻ってきて、また翌朝、他の兵士たちがまだ起きてないぐらい早くから出かけていく。きっとずいぶん疲れも溜まっているはずだ。
「早く解決するといいね」
馬車の中でエドガーに寂しい、と正直に白状してから、アンリの寂しさはどんどん募っていた。思わず小さくため息をつく。
リコスがアンリを慰めるように、アンリの頬に鼻を擦り付けてきた。
「くすぐったいよ、リコス……そうだね、早くまたゼロと一緒に散歩に行きたいね」
リコスが大きく吠えたかと思うと、甘えた声を出しながらアンリの膝を乗り越えるようにしてドアの方へ向かった。
「どうしたの、リコス!ダメだよ、外に出ちゃ」
アンリが慌てて振り向くと、ドアのところでゼロが笑っていた。
「お前はリコスと話せるのか?」
リコスは尻尾をちぎれんばかりに振って、ゼロに飛びついている。ゼロは人差し指を唇に当て、リコスに吠えないよう言い聞かせながら、背中を撫でてやっていた。
「ゼロ!お帰りなさい」
アンリも危うくリコスと同じようにゼロに飛びつきそうな気持ちだったが、立ち上がって正面に立ったところで思いとどまった。
「ただいま。……お前にお帰りと言ってもらえるのは、いいものだな」
4日ぶりに見る、ゼロの優しい微笑みに、アンリも笑顔になる。
「声明のことは聞いたな?……しばらくは兵舎の外にはでるな」
「うん」
「心配いらない。お前を危ない目に合わせたりしない。絶対に」
「うん」
アンリはゼロの声を聞いているだけで、朝から続いていた不安が解けていくのを感じていた。
「悪いな、リコスの世話を任せっきりで」
「ううん。ゼロは、大丈夫?疲れてるんじゃない?」
「うん……少し疲れてたけど、お前とリコスの会話を聞いているうちに元気になった」
思い出したように、ゼロがもう一度小さく笑った。
「き、聞いてたの……」
あれがリコスとの会話ではなく、アンリの独り言だというのはゼロにもわかっているはずだ。
「悪かったな、立ち聞きして。早く一緒に散歩に行けるように頑張るから、待っててくれ」
真っ赤になって俯くアンリの頭に、いつものようにぽんと手が載せられる。
「顔を見せてくれ。ずいぶん長くお前の顔を見ていない気がする」
「四日だよ」
アンリは頭の上の手に自分の手を添えるようにして、ゼロを見上げた。
「そんなものか。もっとずっと長く感じる」
それは、アンリも同じだった。
「渡したいものがあって、お前の部屋に寄ったんだ」
ゼロが、自分の背中に回した手を再び前に出すと、手品のように筒状に丸められた白い紙が出てきた。
「お前に花を贈ったことはなかったなと思って。花屋はもう閉まっていたが、スタンリーさんがこの間のお礼だと言って、庭の花を分けてくれた」
白い紙に包まれていたのは、一輪の白いばらだった。
これが一輪の白いばらなのは、スタンリー夫人の、お茶目ないたずら心かもしれない。
ゼロは、一輪の白いばらの意味を、知らないのかもしれない。
いろいろ考えてみたけど、それでもアンリの胸は高なった。
「ありがとう」
スタンリー夫人のいつかの質問が、もう一度アンリの心に蘇る。
――例えばゼロが、貴方に白いばら一輪を贈ったら?
「……嬉しい」
はにかんだ微笑みと共に、アンリの口から、素直な気持ちがこぼれた。
ゼロの手がアンリの方へ伸ばされ、いつものように頭を撫でられるのかと思っていたアンリは、次の瞬間にはゼロに抱きすくめられていた。
温かい腕がアンリを包み込んでいる。
驚いているアンリに、ゼロの切なげな声が、耳元で告げた。
「……アンリ、こういう時は、俺を突き飛ばして逃げろ」
「嫌」
考えるより先に、答が口をついてこぼれた。アンリの声は、わずかに震えていた。
ブランや祖父の抱擁にはない熱と力強さ。
アンリはおずおずと、ゼロの背中に手を回した。
ゼロの腕にわずかに力が込められる。
「アンリ」
アンリの髪に頬を押し付けるようにして、ゼロのわずかにかすれた声がアンリの名を呼ぶ。
耳元にかかる息が熱かった。
アンリは思わず目を閉じた。胸が痛くて、声が出せなかった。
ゆっくりゼロの体が離れる時、とても名残惜しくて、アンリは自分がもっと抱きしめていて欲しいと願っていたことに気づいた。
「俺は、お前に話さなければいけないことがある」
ゼロはアンリをまっすぐ見つめた。澄んだ青い目が、アンリを写している。ゼロの瞳に映るアンリは、アンリ自身が見たことのない表情をしていた。
「全部、片付いたら……、聞いて楽しい話じゃないが」
ゼロがどこか痛むような表情で、微笑んだ。
「うん……わかった」
アンリは白いばらを胸元で握りしめ、ゼロを見つめ返した。
ゼロが重体で兵舎に運び込まれたのは、翌日の夕方だった。
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