ここはクレイドル学園


「先生、落としたよ」

 振り返ると、よく見知った男子生徒が、一人。

 彼が差し出しているこげ茶の革のパスケースは、私が免許証入れとして愛用しているものだ。さっきキーケースを取り出す時に、一緒に落としてしまったらしい。

「やだ、本当!ありがとう、助かった」

 免許証を眺めていた彼は、何か言いたそうに口を開いたが、思い直したようにその口を閉じた。

 そして結局、何も言わず、私の手に免許証を押し付けるように渡す。

「それじゃあ」

「うん、本当にどうもありがとうね」

 会釈はしてくれたものの、彼は背を向け、そそくさと校舎の方へ走っていった。

(同じ方向なんだから、一緒に歩いて行ってもいいのに)

 彼は私が担当する美術を選択している一年生で、今年度、およそ週に一回のペースで顔を合わせていた。大人しく真面目な子で、どちらかというと不器用だ。それでも他の生徒より時間がかかっても、誠実に作品を仕上げようとする姿勢には好感が持てた。

 だけどもう少し打ち解けてくれてもいいのにな、とも思う。

 課題のために居残りしたときに、たわいのない雑談をふったりしてみたけど、彼は本当に無口で、言葉少なに返事はしてくれたものの、残念ながら会話が弾むようなことはなかった。

(別に嫌われているわけじゃないと思うんだけど……)

 すでに小さくなった彼の背中を見送る。あれぐらいの年齢の時、私はどんなことを考えていただろう。

 生徒が何を考えてるのか分からない、っていうのは、私が歳を取ったってことなのかなあ。

      ⭐️         ⭐️        ⭐️

 1日の大半は、美術室の隣にある準備室で過ごす。ここは、定年退職した前任の先生が非常勤として週1で訪ねてくるぐらいで、ほぼ私専用のお城。決して同僚に不満があるわけではないが、職員室にずっといるのは気づまりなので、準備室があるのはありがたい。

 今日は私が担当する授業は午前中だけだったので、午後はずっと来週の授業で使う資料作りに費やした。伸びをするのと同じタイミングで、六時間目終了のチャイムが鳴った。

 18時からの会議まではまだ時間がある。

「コーヒーでも淹れるかな」

 コーヒーミルと豆を用意したところで、ノックの音が聞こえた。

 今日は部活もないはずなのに、お客さんは珍しい。

「はあい、どうぞ」

 さらに珍しいことに、ドアを開けて入ってきたのは、今朝免許証を拾ってくれた一年生だった。

「ゼロくん、どうしたの」

「あの、これ……」

 彼はためらいながら、筒状に丸めた白い紙を差し出した。

「なあに?」

「お誕生日、おめでとうございます」

 本当に、驚いた。

 誰にも言ってなかったから。

 家族からは朝電話があったし、友達からもメールはあったけど、職場では誰にも話したことはない。

 だけど思いがけないお祝いは、とても嬉しかった。

 受け取った白い紙には、オレンジの大輪の薔薇が包まれていた。

「きれい……」

 思わず素直な感想がこぼれた。

 ゼロくんが、はにかんで笑う。嬉しそうな顔。

「誕生日だって、よく知ってたね」

「免許証」

 ボソリと呟くような返事に、しばらく間を置いてから意味がわかる。

「……あ!そうか」

 今朝免許証を拾った時に、生年月日が見えたのか。

「どうもありがとう……そうだ、よかったらコーヒー飲んでいく?」

「いいの?」

「うん。ちょうど豆を挽くところだったから。どうぞ」

 彼は、控えめな微笑みを浮かべ、お邪魔します、と小さな声で答えた。

 打ち解けてくれないなんていうのは、私の勘違いだった。

 こういう子なんだ。居残りの時だって、話が盛り上がるわけではなかったけれど、私のたわいない問いかけに、ぽつぽつと、誠実に答えてくれていた。

「先生!」

 ドアを閉めようとすると、聴き慣れた元気のいい声が追いかけてきた。

「あれっ、ヨナくん」

 美術部の2年生のヨナくんは、とても綺麗な男の子で、学年問わず人気がある。見かけが綺麗なだけじゃなく、生徒会の副会長を務める優秀な生徒だ。いつも取り巻きに囲まれているけれど、今日は珍しく一人だった。

「先生、生徒会室に来て!今すぐ」

「え、今すぐ?」

 何か教師の手が必要なことがあったのかと思ったけれど、ヨナくんはなんだかすごく楽しそうに、満面に笑みを浮かべている。心配はいらないようだ。

「そう、今すぐ!」

「ちょっと待ってね、今コーヒーを淹れるところだったの。そうだ、ヨナくんも飲んでいく?」

「えーっ?」

 ヨナくんは不満そうに口を尖らせると、ぐいぐいと手を引っ張る。

「コーヒーはいいから、早く生徒会室に来てよ、先生」

「先生、俺はいいよ。……また、今度で」

 ゼロくんが、遠慮がちに帰ろうとする。

 なんだか対照的な二人だ。

 ヨナくんは、訝しげな表情でゼロくんを見た。

「なんで美術部でもない君がこんな所にいるのさ」

 私はヨナくんのこういう言い方にはすっかり慣れてしまったし、本人には全く悪気はないとわかっている。だけど、一年生が二年生にこんな言われ方をされるのは気の毒すぎる。

「お花を届けてくれたのよ」

「花?」

 ヨナくんは私の手の中にある薔薇を一瞥して、きれいに整った眉をひそめた。

「これ、中庭の薔薇園の薔薇じゃないの。君あの薔薇を勝手に切ったの?それは立派な窃盗だよ」

 ヨナくんの強い言葉に、どきりとした。

 でも彼を止めようとする前に、ゼロくんの静かな声が答えた。

「俺は盗んだりしていない」

 もちろん、ゼロくんがそんなことをするはずはないと思う。

 同時に疑問が浮かんだ。今朝私の誕生日を知ったばかりなのに、どうやってこの薔薇を用意してくれたのだろう。

「じゃあ、どうして薔薇園の薔薇がここにあるのさ」

 ヨナくんの口調が鋭さを増した。これはまずい。

「ヨナくん、落ち着いて」

 二人の間に入ろうとするけれど、こうなったヨナくんを止めるのは難しそうだ。

 教師のくせにうまく取り成すこともできない自分が、情けなくなってくる。

 困り果てていると、突然、ノックもなくドアが開いた。

「ちょっとお邪魔するぞ」

「ひゃっ」

 いきなり入ってきた長身の影に驚いて、思わず情けない悲鳴をあげてしまった。

「悪いな、お嬢ちゃん」

 入ってきたのは、用務員のシリウスさんだった。

「……じゃなかった、先生」

 私が軽く睨むと、慌てて呼び直す。これも、毎度のことになってしまった。

 初めて会ったのは、私がこの高校に着任してすぐ、校内を見学している時。どうもその時の私が迷子になった他校生に見えたようで、それ以来、シリウスさんは私をつい「お嬢ちゃん」と呼んでしまうらしい。

 別に先生と呼べ、なんて偉そうなことを言うつもりはないが、「お嬢ちゃん」はないだろう。

 でも、シリウスさんの乱入にびっくりしたおかげで、ヨナくんの追求も止まった。目を丸くしてシリウスさんを見上げている。

「ちょっと話が聞こえちまったから、放っておくわけにもいかなくってな。坊主、その薔薇は、俺がこいつにあげたんだ。仕事を手伝ってもらったお礼に」

「仕事?」

「肥料と土を運ぶのを手伝ってもらった。結構量が多かったから、助かったんだ。それに、確かに同じ種類の薔薇だけど、これは薔薇園じゃなく、別の場所で俺が勝手に育てている薔薇だ」

 シリウスさんは、ぽかんとしている私に視線をよこして笑った。

「手伝ってくれたお礼に何か欲しいものあるか、って聞いたら、花が欲しいって意外な返事が返ってきてな。どうすんのかと思ったら、お嬢ちゃんへのプレゼントだったんだな。……あんたは、生徒に好かれてるな」

 あ、また「お嬢ちゃん」って言った。

 そう思ったけれど、その後に続いた言葉がとても嬉しいものだったので、今回は聞き流すことにした。

 ゼロくんはちょっと頬を染め、困ったような顔をしている。

「お前も口下手が過ぎるな。そんなんじゃ苦労するぞ」

 シリウスさんは、ゼロくんの肩をぽん、と叩いた。

「ま、そういうことだから。坊主もこいつを責めないでやってくれ」

「さっきも思ったけど、俺を坊主呼ばわりしないでくれる?俺には、ヨナっていう立派な名前が……」

「わかったわかった、ヨナ坊、下級生には優しくしてやれよ」

「ちょっとその呼び方……!」

 シリウスさんは、ヨナくんの抗議の声を物ともせず、からりと笑いながら、クシャクシャと大きな手でヨナくんの頭を撫でる。

「もう、やめてよ、髪が乱れるじゃないか」

 シリウスさんは可笑しそうに喉の奥で笑いながら、私にひらひらと手を振った。

「じゃあな、お嬢ちゃん」

「あ、ありがとうございました」

 うっかりまた、「お嬢ちゃん」を聞き流してしまった。

 シリウスさんはもう一度私に笑いかけてから、準備室を出て行った。 

 ヨナくんは乱れた髪を直しながら、膨れっ面で見送っていたけれど、はっとしたようにゼロくんに向き直った。

 そして勢いよく90度に上体を折ると、深く頭を下げた。

「ごめん!知らなかったとはいえ、失礼なことを言った」

 突然上級生に頭を下げられて、ゼロくんの方が慌てた。

「気にしてないから、頭を下げたりしないでくれ」

 顔をあげたヨナくんが、ほっとしたような柔らかい微笑を浮かべた。

 この素直さも、彼の魅力だと思う。彼に友人が多いのもよくわかる気がした。

 あっさりとヨナくんを許すゼロくんもいい子だ。この対照的な二人は、案外いい友達になれるかもしれない。

「ねえ、そんなことより早く生徒会室に来てよ。……お詫びに、君も招待するから」

「えっ」

 戸惑うゼロくんの背中を押すように、そっと叩く。

「よし、一緒に行ってみよう!」

 大急ぎで薔薇を水に挿し、準備室の鍵をかける。

 何が待っているのかわからないけど、私たちは3人揃って生徒会室に向かった。

        ⭐️         ⭐️        ⭐️

「先生、お誕生日おめでとう!」

 生徒会室のドアを開けた途端に、クラッカーの音が晴れやかに鳴り響いた。 

 生徒会長のランスロットくん、書記のエドガーくん、文化部長のカイルくんが、拍手で迎えてくれる。

 いつも使っている机を並べ替えてアレンジしたのであろう長いテーブルには、真っ白のクロスがかけられていて、その上には花が飾られ、本格的なティーセットと焼き菓子、ケーキが所狭しと並んでいた。

 びっくりしすぎて言葉が出てこない私の手を、ヨナくんが引っ張った。

「先生、早く座って」

 私たちの一歩後ろにいたゼロくんに気付いて、エドガーくんがおや、という顔をした。

「先生と一緒にいたから誘ったんだ。エドガー、君、彼に頼みたいことがあるって言ってたから、ちょうどいいでしょ」

 ヨナくんの言葉に、エドガーくんは微笑んだ。

「ええ、素晴らしい采配です、ヨナさん」

 采配?

「先生、どうぞこちらへ」

 聞き返す間もなく案内された席は、普通のパイプ椅子だけど、ちゃんと座り心地がいいようにクッションが用意されていた。

「お飲み物はジンジャーエールでいいですか?」

 どうして私の好きな飲み物を知っているの?

「お酒が大変お好きな先生には申し訳ありませんが、みんな未成年なもので、どうかご容赦ください」

 なんで私が酒飲みだって知ってるの?

 疑問が顔に出ていたのか、グラスにジンジャーエールをついでいたエドガーくんが、人差し指を口元に持っていくと、やけに上手にウィンクしてみせた。

「俺はなんでも知ってるんです。さ、どうぞ」

「……ありがとう」

 差し出されたグラスを素直に受け取ったものの、もしかしたら彼は要注意人物かもしれない、と心の隅に、そっとメモしておく。

 だけど、きれいにセッティングされたテーブルも、お茶やお花やケーキも、嬉しい。私のために用意してくれたみんなの気持ちが、とても嬉しい。

「みんな、どうもありがとう」

 素直にお礼を言うと、明るい笑顔が返ってきた。

 なんだか、学生に戻ったみたいでわくわくしてくる。

 向かいの席に腰を落ち着けたエドガーくんが、私の隣に座るゼロくんに微笑みかけた。

「実はあなたに頼みたいことがあるんです。俺はここの書記の他に、運動部長と剣道部主将を兼ねているのですが、ちょっと業務が嵩んできてしまって。運動部長の仕事をお手伝いいただけるととてもありがたいのですが」

「えっ、俺が?」

「もちろん、上級生との交渉などは俺がサポートします」

 エドガーくんはそこでふと笑顔を消し、真面目な顔で言った。

「あなたが陸上部を辞めることになったのはとても残念なことです」

 隣で聞いていた私も、つい神妙な顔になってしまう。

「だけど今、あなたにはその分の時間がある。どうかご協力いただけませんか。用務員の仕事を手伝うのと同じぐらい、本学への貢献になりますよ」

 エドガーくんが何かちょっと気になることを言ったけど、話に割り込むわけにもいかず、追求することはできない。 

 私は、私の知っているゼロくんの姿――課題に根気よく取り組むゼロくんや、ヨナくんとトラブルになっても感情的にならなかったゼロくん、あっさりヨナくんを許してあげたゼロくんのおおらかさを思う。

 結構向いてるんじゃないかな、生徒会の仕事。

 口下手なところは心配だけど、そこはきっと他のみんなが助けてくれる。何しろ今期の生徒会は精鋭揃いなのだ。

「ゼロくんに向いてるかもしれないね」

 つい声に出して言うと、ゼロくんはびっくりしたようにこっちを見た。

「……そうかな」

 私が保証するように頷くと、ゼロくんははにかみながら、少しだけ笑った。

「先生がそう言ってくれるなら、頑張ってみる」

「それはよかった、どうもありがとう!ナイスアシストです、先生」

 よくわからないけれど、エドガーくんがにっこり笑って親指を立てて見せた。

「先生、見て!」

 呼ばれて振り返ると、ヨナくんが大きなホールケーキに蝋燭を立てて持ってきてくれた。

「わあ……!……すごい……ケーキ、だね?」

 なんだか疑問形になってしまったのは、ケーキが食べ物らしからぬ派手な色合いだったから。ケーキに刺さっている蝋燭と同じぐらい鮮やかな7色のクリームで、丁寧にデコレーションされている。とてもきれいではあるんだけど。

「あー、大丈夫。味は普通のケーキだから。エドガーに頼むといつもそうなるんだ」

 カイルくんの言葉に、ちょっと安心する。

「先生、蝋燭消して」

「うん」

「お願い事忘れずにね!」

「うん、わかった」

 もう一度、みんなの笑顔を見回す。

 私はとても幸せな気持ちになって、どうか彼らの未来がずっと明るいものであるように、と願いながら、蝋燭を吹き消した。 

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