その日は、ほとんど眠って過ごした。
そんなに眠れるのが不思議なぐらいだったけれど、高熱にずいぶん体力を奪われていたのだと思う。
昼過ぎに一度目を覚まして、レヴィが作ってくれたスープを飲んだ。花ルリちゃんの映画に出てきたものを再現したというスープはとても美味しくて、ベルフェが珍しくおかわりしたぐらいだった。
ぼくなんか、が口癖のくせに、レヴィは割となんでもできる。でも大概のことは推しへの愛ゆえに身についたものなので、オタクの情熱はすごい、と改めて感心した。
ソロモンからの返信を確認して安心したわたしは、それからまた眠った。
夕方になって、ルシファーがいつもより早めの帰宅をした頃には、たっぷり休養と栄養をとって、普段通りの元気をほぼ取り戻していた。
ルシファーが部屋に来たとき、昨夜は一睡もしていないというレヴィもゲーム機を手にしたまま熟睡していた。長兄は、容赦無くレヴィとベルフェを叩き起こし、自分たちの部屋に戻るように言いつけた。しかも今日休んだ分の課題付き。二人が散々文句を垂れながらも素直に出ていき、部屋が静かになるとすぐルシファーは言った。
「デイアボロが見舞いに来ている。この部屋に通していいか?」
「へ」
あまりにも唐突で、一瞬意味を掴み損ねた。
「呼んでくる」
ルシファーはポカンとしたわたしの返事を待たずに、部屋を出ていく。
「ええっ?」
そうだ、こういう場合のルシファーの質問は、質問ではない。わたしが許可してもしなくても、結果は同じになる。
少しだけ、ルシファーがいつもより余裕がなくて、急いでいるような——何か焦っているような印象も受けたけれど、彼の表情はいつも通りだったので、わからない。
わたしは慌ててボサボサになった髪を手櫛で整える。寝癖が治らず途方に暮れているところに、ルシファーが殿下を連れて戻ってきた。
「入るぞ」
「どうぞ!」
はねた髪は結局どうにもならなくて、仕方なく手近に置いていたパーカーを着て、フードをかぶった。
ルシファーに続いて入ってきた殿下は、ちょっと体を縮こまらせるようにして、ルシファーの後ろから顔を覗かせた。殿下の方が大きいので、物理的に少しも隠れてはいないんだけど。なんだかその様子が可愛くて、笑わずにいるのにちょっと苦労した。
困ったな、どういうわけかやっぱり殿下が可愛く見える。
ルシファーは、何かあったら呼ぶように、と言い残して、わたしと殿下だけを置いて出て行った。
「具合はどうだい?」
殿下は机の前にあった椅子をベッドの近くに持ってきて、腰掛けた。
「今日はちゃんとバルバトスお手製のプリンを持ってきたよ。食べられそうかい?……ああ、その笑顔なら大丈夫そうだね」
「バルバトスのプリン」と聞いてつい全開の笑顔になってしまったわたしを見て、殿下が小さく笑った。袋からプリンとスプーンを取り出すと、ひと匙掬って、さあどうぞ、とわたしの口元へと差し出してくれる。
わたしは口元のプリンと殿下の笑顔を何回か見比べて、ちょっと迷ったけれど、結局プリンを食べた。だってなにしろバルバトスのプリンだし。
「……このプリン!」
一口食べて、記憶にある味に、ぎくりとした。
「大丈夫、ルナティックプリンと味は同じだけど、人間が食べても安全だよ」
慌てるわたしを見て、殿下が楽しそうに笑った。
「バルバトスが工夫して、人間に安全な材料でできるだけ似たプリンを作ってくれたんだ」
殿下の好物のルナティックプリンは、人間が食べると、悪魔を魅了してしまうという成分が含まれている。以前何も知らずに食べてしまって、効果が切れるまで、RAD中を逃げ回る羽目になってしまった。
あの時も、殿下に助けてもらった。殿下に守られながらRAD中を走り回ったのは、大変だったけれど、今思い出してみれば楽しい思い出になっている。
「……その節はお世話になりました」
食べ終えたプリンの容器を片付けてくれている殿下に、わたしは改めて頭を下げた。
「あれは、元はといえば私の不注意だ。人間が食べてはいけないものだと知らなかった……それに、今回のことも」
声の感じが変わった気がして、顔をあげると、殿下の顔にいつもの笑みはなかった。
「情けないことに、魔界スベリヒユの花粉が人間の体に毒だなんて、知らなかったんだ。申し訳なかった。あの時、私が気づいていれば君をこんな目に合わせることはなかった」
迷宮で見かけたオレンジの蕾は魔界スベリヒユというらしい。迷宮にいる間に蕾が開花して、その花粉を吸ってしまい、わたしは倒れたのだ。
「そんな、殿下が謝ることじゃ……」
「いや、君は私が招聘した留学生だ。君の安全に関しては、私に責任がある。迷宮にあるスベリヒユは全て焼き払ったよ」
今日一日、兄弟たちや、ソロモン、シメオン、ルークたちが手分けして、RADやわたしの通学路を調べ、数カ所で見つかったスベリヒユも全て焼却したと、殿下は教えてくれた。
「本来なら、あれは東の山脈だけのもので、このあたりには生息していなはずなんだ。もう少し調査しないと、どうしてRADの中に根付くようなことになったのかわからない。だけど、こんな風にたやすく種が運ばれてしまうのなら、魔界にあるスベリヒユは全て焼却してしまおうと考えている」
殿下の言葉を聞いた途端に、ひやり、と体温が下がったような気がした。
「……でも、スベリヒユが有毒なのは、人間に対してだけなんじゃ」
「もう君を今回のような危険な目に合わせるわけにはいかない」
殿下は至って冷静な表情で、魔界に来た留学生一人のために一つの種を滅ぼしてしまうと言う。これが、魔界では当たり前の考え方なのだろうか。
でも、それは。
「やめて」
「どうして。君の安全のためだ」
「でも、それは三界融和じゃない」
殿下は少し眉を寄せ、意味を探るような顔をした。
人に意見する経験なんてあまりない。緊張で震えてしまう手で急いでD.D.Dを取り出し、今日のソロモンとのチャットを開いてみせた。
スベリヒユの花粉を警戒しなくてはならない季節はごく限られていること、花粉の毒を作用させない予防薬が作れること、訓練を積めば、魔術での防御も可能であること。スベリヒユの毒だけではなく、魔界で人間が安全に生きていくための手段を、これからソロモンに教わっていく約束をした。
それを、何度もつまずきながら殿下に説明する。
わたしの拙い説明を、殿下は辛抱強く聞いてくれた。
「人間界では、郷に行っては郷に従えっていうの。これは、人間界で違う国に住む時だけじゃなくて、人間や天使が魔界に暮らす時にも当てはまると思う」
殿下は少し眉をあげ目を見開いた。
「三界融和っていうのは、どちらかのためにどちらかが犠牲になるような話じゃなくて、一緒に生きていくってことでしょう?ここは魔界だから、人間が、人間であるわたしが、ちゃんとスベリヒユとも一緒に生きていける方法を考えないと」
なんの心配もせず、自分はただ巻き込まれてしまったのだからと、周りの優しさに甘えていた。ただの弱い人間だから、守られていればいいと思っていた。だけどいつまでもそんないい加減な気持ちでいるわけにはいかない。
魔界も、魔界にいるみんなも好きだから。
「……君が正しい」
殿下はそう呟くと、がっくりと脱力するように俯いて、両手で顔を覆った。
長い長いため息。
「恥ずかしいな。冷静に考えているつもりが、やっぱり頭に血が上っていたみたいだ」
顔を覆っていた手が少しだけ下げられて、金の瞳が覗いた。
「ルシファー以外の君の兄弟は賛成してくれた。ルシファーとバルバトスも反対はしなかった。でも、一度君と話してみるようにと言った。きっとあの二人には、私が冷静ではないとわかっていたんだろうな」
殿下は眉を下げ、自嘲するように微笑んだ。
「さっき君が言った、郷に入っては郷に従えっていう人間界の言葉を、昔、ルシファーに言ったことがある」
なんだか懐かしそうに、優しく目を細めた殿下は、きっとわたしが生まれるずっと前の、二人の大切な思い出を目の前に描いている。
だけどまた、彼はため息をついて俯いてしまった。
「それなのに、私自身が理解できていなかったとは」
こんなふうに凹んでいる姿を、初めてみる。
部屋の明かりに透ける、明るい赤銅色の髪が、なんだが頼りなげに揺れた。
わたしは、殿下のつむじを見るなんて初めてじゃないかな、とか思いながら、無意識に手を伸ばしていた。
さらさらした髪に指を入れる。
殿下が、はっとしたように顔を上げた。
すぐに我に返って引っ込めようとした手は、素早い殿下の右手に捕まってしまった。
彼は、わたしの手を捕まえたまま、不思議そうにわたしを見つめた。
それはとても無垢な、初めてみる殿下の表情だった。
目が、そらせない。
張り詰めてしまった空気を解くように、殿下がふっと柔らかく微笑った。
「慰めようとしてくれたのかい?頭を撫でられるなんて、初めてだ」
「……ごめんなさい」
どうしよう、次期魔王の頭を撫でてしまった。
「構わないよ、君なら」
殿下はそう言うと、笑みを消し、真面目な顔になった。
「私にも何か手伝えることはあるだろうか。君が、魔界で生きていくために」
殿下は、いつだってわたしを助けてくれているのに。十分に手伝ってもらえていますと伝えようとしたけど、別の願いが心に湧き上がってきた。
「……魔界のことをもっと教えてください」
わたしは、もっと魔界のことを知らなくちゃいけない。
そして、殿下のことを、もっと知りたいと思っている。
「わかった、約束しよう」
そう短く答えると、殿下は捕まえたままだったわたしの手をごく自然に口元に運んだ。金の瞳が伏せられ、意外とまつ毛が長いことに気を取られていると、彼の唇が、指先にそっと触れた。顔を上げた殿下は、いつもの気さくな笑顔で言った。
「お見舞いのつもりだったのに、長居をしてしまった。ごめんね」
殿下は椅子を元に戻し、ゆっくりお休み、という挨拶とともに部屋を出て行った。
ぽかんとしたまま動けなくなったわたしを残して。
ドアが閉まってから、やっと信号が脳まで届いたように、急激に顔が熱くなる。
動作があまりにも自然で綺麗だったから、ただ見守ってしまった。殿下ががわたしの指先に、恭しくキスを……。
頭の中で反芻すると、再び顔に血が上る。
赤くなった顔はなかなか元に戻らなくて、様子を見にきた兄弟たちに、熱が上がったのではないかとずいぶん心配をかけてしまった。
その夜、少し遅い時間。
ルシファーがホットミルクを手に部屋にやってきた。
「ディアボロにしては珍しく冷静さを欠いていた。君が倒れたことにひどく責任を感じていたらしい」
「殿下のせいじゃないのに」
「そうだな。でも、そういうものだ」
ルシファーはやけに優しい微笑を浮かべた。
「……魔王の怒りに触れた種族が滅ぶことなど、魔界では当たり前のことだった。俺も、君の安全のためにはスベリヒユを消滅させてしまえばいいとも思っている。だがディアボロの強引な判断は、三界融和の反対派につけいる隙を与えてしまう。君が、彼を説得してくれて助かった」
この魔界で、自分が役に立ったと言ってもらうのは初めてで、そしてそれはとても気持ちが良かった。
ミルクを飲み終えたわたしは、ふと殿下との会話を思い出した。
「ねえ、ルシファー」
「なんだ」
「殿下に、『郷に入れば郷に従え』って言われたことがあるの?」
あまり動揺を顔に出さない彼にしては珍しく、ちょっと驚いた顔を見せた後で、ルシファーは懐かしげに目を細めた。
「ああ、そんなことがあったな」
それは、殿下と同じ。遠く、大切な思い出を見つめる表情。
話の続きを期待しているわたしに気づくと、ルシファーは咳払いをして、「この件については、これ以上話すつもりはないぞ」と普段の澄まし顔に戻った。
「えー?」
不満そうな顔をして見せても、取り合ってはくれない。
「代わりにデビルシープを数えてやろう。もう寝なさい」
「子供じゃないんだから」
「ついこの間生まれたばかりだろう」
いつもは悪魔と人間の時間感覚は違うから、とかいうくせに。
わたしの不満げな表情をあっさり受け流し、ルシファーは羊を数え始める。
「羊が一匹……吊るされている」
「んっふふっ……」
そうか、今日もマモンは吊るされたのか。
「懲りない羊だね」
「ああ、全く困った羊だ」
ルシファーは、悩ましげにまゆをよせ、首を振った。でも口元は笑っている。
「二匹目の羊は、新作ゲームに夢中……」
深く、穏やかで優しい長兄の声にまんまと乗せられて、わたしもいつの間にか羊の姿で草原にいた。
首のベルをころころ鳴らしながら、暖かい草原を気持ちよく駆ける。
三匹目の羊が、読みかけの本を放り投げ、猫を追いかけ始めた。川面にうつる自分の顔にうっとり見惚れる四匹目、そこらじゅうの草を食べ続ける五匹目、すやすやと寝息を立ててる六匹目。
勝手気ままに跳ね回る羊たちから少し離れた小高い丘の上に、ちょっとだけ毛色の違う大きな羊がいた。
大きな羊は駆け回るみんなの様子を見守るように、ゆったりと微笑んで眺めている。わたしはその羊のところに行こうとしたけれど、どういうわけか走っても走っても辿り着けなかった。ただ、やるせなくその羊を見つめるしかなかった。
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