赤のエースで妄想してみた その1 愛さずにいられない —第十四話—
ハート地区のメインストリートに着いた二人は、馬を預けると、すぐに薬局に向かった。薬局から出てきたアンリは、カイルに渡されたメモを見ながら、頭を悩ませていた。
「どうかしたのか」
「うん……薬局のおじさんが、カイルのリストのうち、最後の一個はうちでは取り扱ってないっていうの。他は全部揃ったんだけど」
なぜか店員は苦笑していた。
「向かいの店に行ってみたらどうだって」
「向かい?」
アンリとゼロは揃って通りの反対側に目を向けた。
向かい側に並んでいるのは、ブティック、花屋、そしていつだったかいちご水をくれた酒屋だった。
「……アンリ、ちょっとそのメモを見せてくれ」
ゼロが何かに気づいたように手を出したので、アンリは素直にリストの書かれたメモを渡した。ゼロはメモに目を通すと、笑い混じりのため息をついた。
「……やっぱり。アンリ、一番下は、カイルの好きなウィスキーだ。クレイドルではよく飲まれているものだ」
「ええっ?」
「しょうがない奴だな。どうする?別に買っていかなくてもいいと思うぞ」
ゼロは呆れ顔のアンリに笑いながら尋ねた。
アンリもおかしくなって笑い出した。
「今日は特別に買って帰ってあげることにする」
馬から降りた時には、二人の間にはまだ少しぎこちない空気があったが、カイルのちょっとしたいたずらのおかげで、いつもどおり笑い合えるようになった。
カイルのウィスキーを無事酒屋で購入した二人は、もう少しまちを歩くことにした。
「何かみたいものはあるか?案内する」
「うん、えっとね……」
アンリが本屋に行ってみたい、と答えようとしたとき、通りの向こう側で、老婦人が何かにつまづいたように転ぶのが見えた。
「あっ……」
アンリはゼロに何か言うより早く老婦人の方へ駆け出した。
「大丈夫ですか……」
立ち上がれず足をさすっていた老婦人は、カイルの往診で会ったことのある、スタンリー夫人だった。真っ白な髪を綺麗にまとめた、小柄で品のある老婦人は、アンリを見ると、笑いかけた。
「あら、カイル先生と一緒に来てくださった看護師さんじゃないの。アンリさんだったわね。考え事をしていたら、そこの段差に足を取られてしまって……お恥ずかしいわ」
そちらをみると、埋め込まれているはずの石がわずかに浮いていた。
「こんにちは、スタンリーさん。立てそうですか?」
「ええ、ありがとう」
スタンリー夫人はアンリの肩をかりて立ち上がろうとしたが、左足をたてた途端に、小さなうめき声をあげて、よろけた。
「危ない!」
後から駆けつけてきたゼロが、すかさず支えてくれたので、二人とも倒れることはなかった。
「嫌だわ。どうもすみません」
「家はこの近くか?」
「ええ、すぐそこの路地を入ったところですよ」
「少し我慢してくれ」
ゼロはアンリに荷物を持たせると、ミセス・スタンリーの膝の裏に手を入れ、抱き上げた。ミセス・スタンリーは小さな悲鳴をあげると、赤く染めた頬を、両手で抑えた。少女のような可愛らしい仕草に、アンリは思わず微笑んだ。
「このまま家まで運ぼう。アンリ、案内できるか?」
「うん」
スタンリー夫人をソファに横にならせると、アンリはすぐに左足を確認した。彼女の左足は、赤く熱を持ち、やや腫れていた。氷とタオルでとにかく冷やす。
「痛みますか?」
「大丈夫。動かさなければ痛みはないわ」
「今日は、メアリは?」
先日カイルと往診に来た時にはいたはずの、住み込みのメイドのメアリが見当たらなかった。
「今日は遠方に使いに出ていて、夕方まで帰ってこないの」
「じゃあ、夕方まではずっとお一人ですか?」
できればカイルを呼びに帰りたいけど、彼女を一人で残しておくのも心配だ。
「甥っ子がいるにはいるんだけど、フラフラしていていつ帰ってくるんだかわからないのよ。ごめんなさいね、せっかくのお客さんなのにこれじゃお茶も淹れられないわ」
「あ、私がやりますよ」
「俺がやる。お前は彼女のそばについていろ」
ゼロがキッチンの方へ行った。
「あら。大丈夫かしら」
「ゼロの淹れたお茶はすごく美味しいんですよ」
意外そうな顔でゼロを見送ったスタンリー夫人に、アンリは微笑んだ。
「まあ、紅茶が上手に淹れられる男性って素敵ね。素敵な恋人がいていいわね、アンリ」
「えっ、違います、ゼロは……」
言っている側から、かあっと頭に血がのぼる感じがした。
「せっかくのデートを邪魔してしまってごめんなさいね」
アンリは慌ててぶんぶんと音がするほど首を横に振る。
「今日は、私がカイルにお使いを頼まれて、一緒にきてくれただけなんです」
一生懸命説明すればするほど、頬が熱くなってしまう。
スタンリー夫人はコロコロと笑い出した。
「アンリったら、そんな真っ赤になっちゃ、説得力がぜーんぜんないわよー」
「スタンリーさん……」
うろたえるアンリに、スタンリー夫人は優しく微笑んだ。
「お二人はきっとこれからなのね。おばあちゃんは楽しみに見守っているわね」
(これから……?)
これから、何かが起きるの?
「アンリ、お前顔が真っ赤だぞ。暑いのか?」
紅茶のトレーを持ってきたゼロの声がして、アンリの思考は中断した。
ゼロの声を聞いた途端に、どん、とアンリの心臓が爆発したように大きな音を立てる。
「あら、そうね。ちょっと暑いのかしら。窓を開けていただける?」
スタンリー夫人はすました声でゼロに頼んだ。
アンリが真っ赤な顔のままそっとスタンリー夫人を見上げると、彼女はキュートなウィンクをよこした。
窓を開けたゼロはしばらく見とれるように窓の外を見ていた。
「見事な庭だな」
「あら、ありがとう。私の数少ない趣味の一つなの」
スタンリー夫人は優雅に微笑んだ。
「スタンリーさんがご自分で手入れされているの?」
「ええ、そうよ。亡くなった夫が庭いじりの好きな人でね。見よう見まねで」
そう言って紅茶に口をつけたスタンリー夫人は、目を見開いた。
「あら、本当にあなたお茶を淹れるのがお上手なのね」
ゼロが照れくさそうに微笑んだ。
アンリは自分が褒められたように嬉しかった。
でも、あんまりのんびりもしていられない。
「ゼロ、お願いがあるの。私はここで待っているから、カイルに来るように伝えて欲しいの」
「怪我がひどいのか」
「早めにカイルに診てもらった方がいいと思う。でもスタンリーさんを一人にはしておけないし……」
ゼロはしばらく考えたが、そうするほかないと納得したようだった。
「わかった。……アンリ、お前はカイルがくるまで絶対ここから出るな、いいな」
「うん。スタンリーさん、ゼロがカイルを呼んでくるまで、ここで待っていていいですか?」
「あら、退屈してるおばあちゃんのおしゃべりに付き合ってくれるなら、大歓迎よ」
「喜んで」
楽しそうに笑う二人を置いて、ゼロは赤の兵舎へ向かった。
「本当に綺麗なお庭ですね」
それほど広い庭ではないが、大きな木が3本、豊かに緑の葉を繁らせていた。手前につるバラのアーチがあり、アーチの手前の道は、色とりどりのバラにはさまれていた。バラの足元には、青い小さな花が咲いている。つるバラのアーチの向こうには、白バラの茂みと小さなガゼボが見えた。
「今ね、ちょうどばらの季節だから」
「スタンリーさん、今朝ね、白いばらが届いたの」
「あら!どなたから?」
「それが、わからないの。カードもなにもついてなかったから。白いばらが一輪だけ箱に入ってたの」
「まあ、ロマンチックねえ」
「ロマンチック……?」
アンリは納得がいかない、という顔をした。
「あら、アンリ、あのおとぎ話を知らないの?白バラの王子様の……」
「魔法にかけられた王子様を、女の子の一輪の白いばらが助ける話?」
それならブランに聞いたことがあった。うろ覚えだけれど。
「そうよ。一輪の白いばらには、『あなたしかいない』って意味があるのよ。熱烈な愛の告白ね。最近の若い人はあまり知らないのかしらねえ」
スタンリー夫人はうっとりと目を閉じた。
あのバラの送り主が同じように考えたのかはわからないけれど。
「困る……知らない人にそんなこと言われても」
アンリは知らない男が自分に好意を持っていると考えると、怖かった。
アンリをじっと見ていたスタンリー夫人は、少し考えるようにしてから、口を開いた。
「アンリ、女の子にもいろんな女の子がいるように、男の人にもいろんな男の人がいるのよ。迷惑な、下品な男もいれば、とっても優しい、素敵な男性もいるのよ。私の夫みたいな、ね」
茶目っ気のある笑顔を見せるスタンリー夫人に、アンリも笑顔になった。
「ねえ、アンリ、例えばゼロが、あなたに白いバラを一輪贈ったら、やっぱり困る?」
ゼロが、もし、私を―――。
考えた瞬間に、胸が、ぎゅうっと苦しくなってしまった。
アンリは、スカートを握りしめ、目を伏せた。
「……わからない」
「意地っ張りさん。さっきと同じぐらい、ほっぺが真っ赤よ」
スタンリー夫人が優しい顔でアンリの頰をそっとつついた。
わからない。だけど、怖くはない。
「スタンリーさん、私、紅茶を新しく淹れてくる」
「あら、そうお?どうもありがとう」
アンリが逃げるように立ち上がると、スタンリー夫人は、またコロコロと楽しそうに笑った。
アンリがキッチンでお湯を沸かす準備をしていると、玄関のドアが開く音がして、男性の話し声が聞こえた。ドカドカという無遠慮な足音とともに、キッチンのドアが勢いよく開けられた。
「誰だ、あんた……」
背の高い男の二人連れだった。先頭の男が、訝しげに口を開く。
「あの、スタンリーさんが怪我をなさって……」
アンリが説明を終える前に、男がハッとしたような表情になった。
「あんたは……!」
「なんだ、やっぱりフィルの知り合いかい?」
後ろにいた男が言った。
「いや。酒場で会った女だ。あの赤の軍の、薄気味悪い刺青野郎と一緒にいた」
「へぇ……」
後から入ってきた男が興味深そうにアンリを見た。
「あの子が女連れで酒場ねえ。お姫さまはゼロの知り合い?」
(お、お姫さま?)
オリヴァーの言葉を思い出したアンリの頭に警鐘が鳴り響く。
アンリは直ちに回れ右すると、居間の方に逃げ出した。
「あれ、ちょっと待ってよ、女の子に逃げられるなんて初めてなんだけど」
本気で驚いているような声が背後から聞こえ、風もないのに、スタンリー夫人のいる居間に続くドアがアンリの目の前でしまった。アンリはドアを開けようとするけど、なぜか開かない。
(嫌……!)
アンリが強くドアを押すと、何かが割れるような音がかすかにして、ドアが開いた。アンリはそのままスタンリー夫人の元に駆けていった。
「スタンリーさん!」
「どうしたの、アンリ」
居間に駆け込んできたアンリを見てスタンリー夫人は驚いた。怯えた様子のアンリの肩を抱いてやる。
アンリの後から背の高い男が二人入ってきた。
「フィル、アンリは私の大切なお客様ですよ。失礼は許しません」
「俺は何もしてないよ、叔母さん」
フィルは無実を証明するかのように両手を上げて見せた。
「ダチを連れて帰ってきただけだ」
「やあ、久しぶりだね、マギー」
アンリに『お姫さま』と呼びかけた男が、スタンリー夫人に微笑んだ。何人もの女性が、ついうっとりとのぼせてしまいそうな魅力的な微笑だった。
「あら、ダムじゃないの。ずいぶん久しぶりねえ」
ファーストネームで呼びかけられ、嬉しそうに答えるスタンリー夫人を、アンリはびっくりして見つめた。
「お姫さまを怖がらせちゃったみたいで。マギー、紹介してくれないかい?」
「いいけど、ダム、悪さはダメよ」
「信用してほしいな」
ダムは肩を竦め、首を傾げて見せる。
しょうがない、というようにスタンリー夫人は微笑んだ。
「アンリ、甥のフィルとそのお友達のダムよ。怖がらなくても大丈夫」
アンリが振り返ると、ダムはじっとアンリを見ていた。スタンリー夫人はそういうけれど、全て見通すかのような目に、アンリは恐怖を感じた。ダムはアンリを見つめたまま口を開いた。
「アンリ、っていうんだね。君は、どこから来たの?」
アンリがロンドンから来たことは絶対に知られてはいけないと、ランスロットから強く言われている。アンリが答えあぐねていると、二人の男の背後から声がした。
「そいつは俺の遠縁の親戚だ。大事な預かりもんだから、ちょっかい出すなよ」
「カイル!」
「久しぶりだな、ダム。急に店やめちまってどうしたんだと思ってたが、クレイドルにいたんだな」
「久しぶりだね、カイル。じゃあ、このお姫さまはクレイドルの人間かい?」
「ああ、そうだ」
「へえ、見たことない顔だな。こんな可愛いお姫さまにどうして今まで気がつかなかったのかな。……どこかに、隠れてたのかな」
「こいつは箱入りでな。お前の酒場になんか滅多に近づきやしねーよ」
カイルはダムとの会話を打ち切るように、部屋に入ってきた。
「スタンリーさん、遅くなってすまねー。足を診せてもらうぞ」
カイルは診察を始め、二度とダムたちの方を振り返らなかった。
ダムは諦めたように肩をすくめると、フィルを促して、二階へ行った。
二人がいなくなって、アンリは安心したようにホッと詰めていた息を吐いた。いつの間にか握りしめていた手が、冷たい汗でじっとりと湿っていた。
カイルによれば、スタンリー夫人は骨にひびが入っているかもしれないということだった。二人は夕方になって住み込みメイドのメアリが帰ってくるまで待って、馬車で赤の兵舎に帰ることにした。
「カイル、あのダムさんっていう人は、カイルの知り合い?」
「ああ。知り合いっつーか。前行ったセントラルの酒場あるだろ?あそこのマスターだったんだ。いつの間にかやめていなくなっちまったけど」
「ゼロとも、知り合い?」
「まあ、ゼロもあの酒場にはたまに行くからな」
それだけなんだろうか。アンリは、ダムがゼロのことを「あの子」と呼んだのが気になった。まるで子供の頃からの知り合いのようだ。
(なんだか、怖い人だった。得体の知れないような……)
アンリはクレイドルにいる間、できればもう彼に会わずに済むようにと願った。
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