赤のエースで妄想してみた その1 愛さずにいられない —第二十話—
執務室から帰ってきたゼロに誘われ、アンリは兵舎の裏の丘に来ていた。
ゼロはそこで、今夜遅くにセントラル地区にいるエドガーたちに合流し、参戦することをアンリに告げた。
「本当は、お前に言わずに、お前が寝ている間に出かけて、お前が目を覚ます前に帰ってくるつもりだった」
絶句するアンリに、ゼロは微笑んだ。
「だけど、皆が、……ランスロット様も、ヨナも、カイルも、お前にちゃんと告げていくようにって言うんだ。エドガーからのメモにさえ、書いてあった」
ゼロの手が、アンリの髪を優しく撫でる。
「多分、みんな知ってるから。お前が待っていてくれると、俺は強くなる」
今朝まで寝込んでいたのに、無茶だよ。
どうしても、ゼロが行かなきゃならないの。
引き止める言葉が次から次へと心に浮かぶのに、穏やかに微笑むゼロを見ていると、声に出せなかった。
止められない。
揺るぎないゼロの覚悟が、アンリにもわかる。
アンリは、ただ押し潰されそうな不安を抱えながら、ゼロを見上げるだけだった。きっととても情けない顔をしているだろう。
「このタトゥーの話は聞いただろう」
ゼロが、自分の首の右側を抑えた。
「あの苦痛を味わうのは8年ぶりだった。塔にいたときに何度も味わった苦痛だ。だけど、自分の意思を保っていられたのは初めてだった」
辛かったはずのことを、穏やかな表情で話すゼロを、アンリは不思議な思いで見守った。
「俺はあの時、苦痛の中で、ずっと、お前のことを考えていた。……ずっと、お前の元に帰ることだけを考えていたんだ」
ゼロの優しい目が、アンリを見つめる。
いつかの約束の通り、ゼロはアンリの元に帰ってきてくれた。
アンリの頬を、次から次へと溢れる涙が濡らす。
優しく髪を撫でてくれていた手が、アンリをそっと引き寄せた。
「泣かないでくれ、……大丈夫、勝算は十分にある。俺は必ず無事で、お前のところに戻ってくる」
ゼロの手が、優しくあやすように、アンリの背中を叩く。
アンリはスカートを握り締めたまま、ただゼロの腕の中で泣くしかできなかった。
泣いているアンリにはキャンディよりもゼロが必要だということを、ゼロはいつの間にか理解していた。
医務室に戻ってからも、アンリの不安は消えてはいなかった。自分の席に座り、気休めに本を開くが、もちろん何も頭には入ってこない。ゼロが重体で運び込まれた時のことを思い出し、時折涙ぐんでしまう。ひどく不安定な状態のアンリを、カイルは何も聞かず、そっとしておいてくれた。
「ひどい顔してるね」
「ヨナさん……」
いつの間にか医務室にヨナが来ていた。
アンリの机の前、よくエドガーが座るところに、ヨナは腰掛けた。
「ゼロに、行って欲しくないの」
「だって……今朝まで、寝込んでいたのに……」
「君の言うことはわかるけれど……もう時間がないからね」
ヨナは同情を込めた目でアンリをみた。
「時間?」
「やっぱり、あの口下手は君にちゃんと説明してないみたいだね。アモンを解放せよという声明が出たのは5日前。明後日で期限の一週間だ」
「あ……!」
アンリはゼロの看病ですっかり忘れていた。
「彼らが見つけた魔法学者がジャスパー・コールの一派であり、アモン解放の声明をだしたのも彼らだと言うことは、二日前にエドガーたちの調査で判明していたんだ。本来ならそこで黒の軍にも報告し、彼らを捕縛するべきだ。だけどエドガーたちはそうしなかった。そしてランスロット様もそれを許した」
アンリはヨナの言わんとすることがまだわからず、ただ黙って話を聞くしかなかった。
「エドガーはゼロを待っている。相手に気取られず二日間監視を続けるというひどく困難な仕事を増やしてでも、ゼロ自身の手で、決着を付けさせてやるために。俺は入隊してからのゼロしか知らないから、彼と魔法の塔の経緯はわからない。だけど、ランスロット様は今夜参戦すると決めたゼロに、『これ以上お前の人生を奴らに奪わせるな』とおっしゃった」
そうだ、ゼロはずっと魔法の塔に搾取され続けてきた。アンリの脳裏に、ハールやゼロ本人から聞いた話が次々と蘇った。
アンリに出兵を告げたゼロの、揺るぎない姿を思い出す。
「これはね、アンリ。俺はゼロのための戦いでもあると思う。魔法の塔に決別し、赤のエースとしてこれから生きていく、ゼロ自身のための大切な戦いだ。大切な戦いに向かうゼロを、君はそんな顔で送り出すつもりなの」
ヨナが叱咤するように言った後で、ふと困ったような表情になり、アンリに白いハンカチを差し出した。
「やっぱり俺にはこういう役目は向かない」
アンリの頬を、さっきまでとは違う涙が濡らしていた。
アンリはハンカチを受け取り、首を振った。
「そんなことない。ありがとう、ヨナさん」
微笑んで礼をいうアンリに、ヨナはふと表情を和らげた。
「ゼロが何を守るために戦うのか、考えてごらん」
「……?クレイドルじゃないの?」
「もちろん、赤の兵士はみんなクレイドルを守るために戦う。だけどそれだけじゃない。……それぞれに、守りたいものがあるんだ」
ヨナはそう言い残すと、医務室を出て行った。
二人のやりとりが聞こえていたはずのカイルは、何も言わなかった。
アンリは夕食後も部屋に戻らず、医務室にいた。薬草学の本を開いているが、内容は頭に入ってこない。
ゼロが意識を取り戻した時点で酒の話をしていたカイルは、まだ一滴も飲まず、静かに医学雑誌を読んでいた。アンリが遅くまで医務室にいても、何も言わずにいてくれた。
「カイル……」
「んー?」
「ヨナさんが言ってた、クレイドル以外にゼロが守るものって何かわかる?」
机に向かっていたカイルは、呆れたような表情でアンリを見た。
「お前、本当にまだわからないのか?」
「赤の軍での居場所とか、これから先の人生とか……いろいろ思いつくけど、どれもヨナさんが言おうとしたこととは違うような気がして」
「俺が教えるようなことじゃねー。……あいつがこの1ヶ月近く、守ってきたものを思い出してみろよ」
ゼロが、守ってきたもの。
アンリが静かに考え始めたのを見て、カイルはため息まじりに微笑み、また医学雑誌に目を戻した。
アンリがクレイドルに来てからも、ゼロはたくさんの人を助け、守ってきた。
不安定に彷徨っていたアンリの心は、ゆっくりと、ゼロと二人で過ごしてきた時間を辿り始める。
ゼロは、クレイドルに来た最初の夜に、アンリのことを助けてくれた。月明かりを背にしたゼロを、今もはっきりと思い出すことができる。そしてゼロは、その後も、アンリの安らかな眠りを、静かな生活を守ってくれていた。アンリにも気づかせることなく。
記憶の中のゼロは、なぜかよく困った顔をしていて、アンリは苦笑した。いつも、「困った奴だな」と言いながら、微笑んでいた。自分の中に生まれた恋心にも気づかず、ただ仔犬のようにゼロを慕っていたアンリの穏やかな日々を、ゼロはずっと守ってくれていた。
――もし次の満月までにクレイドルの問題が解決しなかったら、よく考えた方がいい。
シリウスはそう言った。
ゼロの今夜の戦いは、アンリのこれから先のクレイドルでの生活を守るためのものでもある。
どのような結果になっても、アンリはロンドンに戻る気はなかった。
彼女の帰る場所は、いつだってゼロとリコスのところだから。
アンリはゼロの姿勢のいい背中とゼロに戯れながら歩くリコスの様子を思い、ふと頬を緩めた。そして、ゼロが、似たようなことを言ったのを思い出した。
――俺は必ず、お前のところに帰ってくるから。
ゼロの部屋で、背中の手当てをした時。ゼロは、あの澄んだ青い目で、まっすぐにアンリを見つめ、誓うように言った。
――お前の元に戻ることだけを考えていた。
今日、兵舎の裏の丘で。だから魔法学者たちに支配されず戻ってこれたのだと、ゼロは言った。お前が待っていてくれると、俺は強くなる、と。
ゼロが守ってくれた穏やかな日々の中で、確かにアンリは自分の強さを取り戻したはずだ。
アンリがもしゼロの力になれるなら。
ただ守られているだけではいられない。
「そろそろ時間だな、見送りにいくか」
12時を少し回った頃、カイルが立ち上がった。
「お前はどうする」
カイルはアンリの方を見た。
「いくよ。もちろん」
「そっか」
カイルの垂れ目が細められた。
黒っぽい私服を着て、ストールを頭からかぶったゼロが、馬を引いていた。アンリ達に気づいて、ストールをずらし、顔を覗かせる。
「見送りに来てくれたのか」
「まーな。俺の仕事増やさんように気ぃ付けろよー」
「ああ」
ゼロはカイルに答えると、アンリの方を見た。
アンリは気合を入れて微笑んだ。
「いってらっしゃい。……待ってるから」
いつかの約束通り、ここで、ゼロを信じて、ゼロの帰りを待ってる。
それが、アンリの出した答えだった。
微笑んだゼロの手が、アンリの頬に触れる。
「ありがとう。いってきます」
「向こう向いててやるから、キスぐらいしてもいいぞ」
カイルのからかいに、アンリは真っ赤になったが、ゼロはただ笑って、
「それは帰ってからにする」
とさらりと答えた。
ますます頬を赤らめ、汗までかき始めたアンリを見てもう一度微笑むと、ゼロは馬にまたがった。兵舎を見上げ、略式の敬礼をした後で、静かに門を出て行く。ゼロの後ろ姿は、すぐに闇に紛れて見えなくなった。
アンリが兵舎を見上げると、執務室だけ明かりが灯っていて、ランスロットとヨナが窓際でやはりゼロを見送っていた。
「アンリ、俺たちは兵士としてのあいつをお前よりよく知ってんだ」
カイルが兵舎に入る時に、何気なく言った。
「だから誰も心配してねー。あいつはばか強え。現場にはエドガーもいる。あの二人が組めば、魔法学者なんざひとたまりもねー」
「うん」
カイルののんびりした語り口が、わずかに残っていた不安をきれいに払拭してくれた。
医務室で待機するカイルと一緒に、アンリも医務室でゼロの帰りを待つことにした。
カイルはソファで穏やかな寝息を立てている。起きているときは少しも態度に出さない彼も、寝顔をみると、ずいぶん疲れているように見えた。
アンリはここのところずっと看病のため昼夜逆転した生活をしていたせいもあって、眠れそうになかった。ぼんやりと、魔法石の明かりが点々と灯る窓の外を眺めていた。まだしばらく、夜は明けない。
突然、廊下の方で何かが光ったような気がして、アンリは振り向いた。ドアの隙間から見える廊下は、変わらず薄暗いままだ。だけどアンリは何か違和感を感じて、半開きのドアをそのまま見つめた。廊下に静かな靴音が響き、やがて、医務室の明かりが照らす闇の中に、男の足が現れた。
「やあ、お姫さま。ここにいたんだね」
アンリは驚きのあまり、声も出せなかった。
医務室に入ってきたのは、いつかスタンリー夫人の家で会ったダムという男だった。
アンリの頭に警鐘が鳴り響く。
アンリは逃げようと、とっさに立ち上がった。
「安心して、お姫さま。君たちに危害を加えるつもりはないよ。今日のところはね」
アンリは立ち上がったものの、後ろは壁だ。ダムがドアの前に立ち塞がっているので、どこにも逃げることはできない。カイルは眠ったままだった。
「どうして……あなたがここに……」
ダムはにっと笑った。
「少し君と話してみたかっただけなんだ。まあ、お掛けよ……一杯付き合わない?」
ダムはどこから出したのか、ビールの瓶を二本取り出し、一本をアンリに投げてよこした。
アンリは慌てて瓶を受け止めた。もちろん飲む気はなかったが、ダムは気にせず自分の瓶を開け、ビールをあおった。
アンリはそのまま、椅子に座り直した。
ダムはビールを飲むと、ふう、とため息をついた。
「人生にはいろいろ予想外のことが起きるもんだね、お姫さま。本当ならまとめてケリをつけるはずだったのに、面倒なことになってしまった」
アンリはダムが何のことを話しているのかわからず、緊張しながら、ただ黙って聞いていた。
「あの子があのタトゥーを克服するなんてね」
大きくアンリの心臓がなった。
ダムは、またゼロを「あの子」と呼んだ。そして、ランスロットでさえハールに聞くまで知らなかったタトゥーのことを知っている。
ダムはおそらく、魔法の塔の関係者だ。
カイルは酒場のマスターだと言っていたけれど。
アンリの頭の中に鳴り続けていた警鐘が、より一層大きく鳴り響く。
「君は一体、あの子にどんな魔法をかけたんだろうね。おかげで計画が台無しだ」
「私は、何も……」
「あの子は苦しみながら、君の名前を呼んだよ」
ダムの言葉に、アンリははっとした。
彼は、ゼロたちが魔法攻撃に晒されていたときに、その場にいたのだ。
二人の上級魔法学者が行方不明だと、公会堂でムースが言っていた。
今セントラルでゼロやエドガーが対峙しているのがジャスパー・コール。
では、もう一人は、今、どこに。
「……ダリム・トゥイードル」
アンリが公会堂で聞いたもう一人の魔法学者の名前を口にすると、ダムは一瞬だけ虚をつかれたような表情をしたが、すぐに微笑んだ。見るものに恐怖を与える、凄みのある微笑みだ。
「へえ……、なかなか面白いね、君」
ダリムは飲んでいたビールの瓶を手近な棚に置くと、立ち上がり、アンリの方へ歩いてきた。
アンリは反射的に立ち上がったが、どこにも逃げ場はない。
ダリムはアンリを追い詰めると、アンリの顎を人差し指ですくうようにして、顔を覗き込んだ。
「君はあの子を、――ゼロを愛しているの」
アンリは答えなかった。本人にさえまだ伝えてない思いを、ダリムに言う筋合いはない。
ダリムはアンリの答えを期待していたわけでもないようで、言葉を続ける。
「あの子が、君と同じ人間でなくても?」
「どういうこと?」
アンリはダリムの言う言葉の意味を捉え損ねて、訝しげに眉をひそめる。
「うお、ダム?何でお前がこんなところにいるんだ?」
突然カイルの声がして、ダリムとアンリは驚いて振り返った。
ソファで眠っていたはずのカイルが起き上がっている。
「ごめん、カイル。今大事な話をしてるんだ」
ダリムがカイルの方へ手をかざすと、カイルが口をぱくぱくとさせた。
(魔法……!)
カイルは声と動作を奪われたようだった。動きを奪われたまま、ダリムを険しい目で睨む。
「ちょっとの間邪魔しないでくれ。すぐに解いてあげるよ」
ダリムはカイルに言うと、アンリに向き直った。
「魔法の塔の人体実験の話は知っているだろう。俺たちは魔力を持つ人間を作り出す研究もしていた」
アンリはハールに聞いた恐ろしい話を思い出した。
「作られた人造人間は皆短命だったけど……あの子だけは生き残った。魔力は14の時に尽きてしまったけどね」
アンリは声が出せなかった。
「……五番目の試作品ゼロ。それがあの子の名前だ」
呆然とダリムを見上げる。
「それでも君は彼を愛するの」
彼女は立っていられなくなり、がくん、と椅子に座り込んだ
――お前に、話さなきゃいけないことがある。
そう言って、どこか痛むように微笑んだゼロ。
「……ゼロは、知っているの?」
アンリが尋ねると、ダリムは少し目を見開いた。
「知っているよ。自分がただの試作品であることも、いつ自分の命が尽きても不思議でないことも」
アンリの頬を、今日何度目かわからない涙が伝った。
「君は、あの子のために涙を流すんだね」
ダリムは再びアンリの顎をすくうようにして上を向かせると、微かに目元を和らげた。それは、今までアンリがみたダリムの、どの表情とも違った。
「私……、私にできるのは、ゼロを好きでいることだけだわ」
アンリが呟くようにダリムに告げたのと、医務室にに青く強い光が満ちたのは、ほぼ同時だった。
「ランスロット様!」
「おっと、結界がちょっと弱すぎたかな……やあ、ランスロット。久しぶりだね」
「ダリム、何のつもりだ」
医務室に突然現れたランスロットは、険しい顔でダリムを睨んだ。
「……逃げた上級魔法学者はジャスパーだけじゃないって忠告しにきてあげたのさ」
ダリムは肩をすくめ、戯けて見せた。
「……今の魔法の塔の最高責任者が、ダリム・トゥイードルは研究のための手段は選ばないが、決してクレイドルに害をなすような男ではないと言っている」
ランスロットが静かに言った。
ダリムは、一瞬だけ表情に表してしまった驚愕を隠すように俯き、ため息まじりの乾いた笑いをもらした。
「相変わらず、お人好しな後輩だ」
ダリムはアンリに向き直った。
「君の力が必要になる。近いうちに迎えにくるよ、お姫さま」
「えっ……」
ダリムは最後にもう一度アンリに微笑むと、カイルに手をかざして魔法を解いてやった。
「ランスロット、忠告はした。ジャスパーで終わりではない」
ダリムはその言葉とともに、青い光となって姿を消した。
ランスロットは物憂げなため息をついた。
「アンリ、大丈夫か。遅くなってすまなかった」
「いえ……大丈夫です」
「どうして泣いている」
アンリはランスロットを見上げた。
ランスロットは、ゼロのことを知っているのだろうか。
「ダリムからゼロの話を聞かされたんだ」
ためらうアンリの代わりに、カイルが答えた。
「……そうか」
「ランスロット様は、ご存知だったんですね」
「あれがエースに着任するときに、本人から聞いた」
ランスロットはそう言うと、ふっと微笑んだ。
「どうでもいいことだ、出自など」
アンリは目を丸くした。
世襲制を大切にする赤の軍のキングの言葉とは思えなかった。
だけどランスロットらしい、力強い言葉が続く。
「ゼロの出してきた成果が全てだ。そしてそれはあれが積み重ねてきた努力によるものだ」
世襲制を大切にする赤の軍であっても、ランスロットは兵士の背後にある家ではなく、ちゃんと兵士自身をみているのだろう。だからこそ、赤の軍の兵士たちを率いることができるのだ。そして、ゼロをエースに置くという英断ができたのだ。
「カイルも知ってたのね」
「まー、俺はここの医者だかんな」
人差し指で頭を掻きながら、カイルもこともなげに答えた。
「あいつは俺たちとかわんねー。並より頑丈かもしれんが、同じ人間だ」
「うん」
アンリは知らず、微笑んでいた。
いつかのハールの言葉が脳裏に蘇った。
――君の知っている、今のゼロだけで十分だと思う。
東の空が白み始めた頃。少しだけソファでうとうとと微睡んだアンリは、目を覚ますと、少し早い散歩に行くことにした。
ゼロの部屋に寄り、早起きのリコスを連れて、訓練場へ行った。アンリは一人でリコスの散歩をするときは、訓練所を何周かしたり、兵舎の敷地内を歩き回る。
ほとんど眠らなかった夜の後でも、朝の空気はやっぱり真新しい。
アンリは朝の少し冷たい空気を、胸いっぱいに吸い込んだ。見上げると、空が、薔薇色のきれいなグラデーションに染まり始めていた。
突然、リコスが大きく一吠えし、走り出した。リードがするりとアンリの手から抜ける。
「ほえちゃダメだよ、リコス!まだみんな寝てるんだから」
アンリは小さな声で叱りながら、リコスを追いかける。
リコスは尻尾を振りながら、一直線に兵舎の向こう側、門の方へ向かっている。一生懸命リコスを追いかけるアンリの耳に、門の方から、控えめなざわめきが聞こえ始めた。
兵士たちの帰還だ。
門の方へ回ると、ボリスとマリクの小隊、ゼロとエドガーの姿が見えた。みんな表情は明るい。
リコスはすでにゼロに飛びかかっていた。
ゼロは驚きながらも、人差し指を口にあて、静かにするように言い聞かせながら、リコスの背中を撫でてやっていた。
駆けてくるアンリに気づいたゼロが、微笑む。
アンリはリコスを追いかけていた勢いそのままに、ゼロに飛びついた。
「おかえり!」
ゼロはぐらつきもせず、アンリをしっかりと抱きとめた。
「ただいま。ずいぶん早起きだな」
背後で控えめな口笛や、冷やかしの歓声が聞こえた。
「いいなー、隊長」
「ずるいですよ、隊長」
アンリは慌ててゼロから離れようとしたが、ゼロはアンリの肩を抱いたまま、部下たちに笑いかけた。
「悪いな、大目にみてくれ」
アンリは真っ赤な顔のまま、目を丸くして笑い合うゼロと部下たちをみていた。いつの間にかゼロと彼らの間の壁がなくなっていた。まるでマリクにするように、ゼロは隊員たちに軽口を叩きながら、笑いかけていた。
少し離れたところでその様子をみていたマリクと、目が合う。
マリクは嬉しそうににっこりと笑った。
ゼロがアンリに視線を戻した。
「どうかしたか?」
「ううん。何でもない。みんな、怪我はないのね」
「ああ、大丈夫だ」
「誰かが怪我をする前に勝負がついちゃいましたからね」
すぐ近くにしゃがみ込んでいたエドガーが言った。
エドガーの傍には、彼に撫でられてメロメロになったリコスがうっとりと寝そべっている。
「お前の『勝算』があんな力技だとは思いませんでした」
コロコロと笑いながらエドガーが言った。敵が潜む部屋に突入してすぐに、ゼロは魔法学者たちに躍りかかり、彼らが魔法石を取り出す前に倒してしまったらしい。
「攻撃は最大の防御だと昔師匠に習ったからな」
ゼロはエドガーに笑われてまた拗ねたような表情を見せる。
「でも敵は十人以上いましたから。隊長にしかできないことです」
マリクが言った。マリクは、ボリスが、一気に十人以上の敵を倒したゼロをみて、呆然とした後で、「やっぱくそ強え」と心底悔しそうに呟いていた、と楽しそうに報告した。
「今日は休養日だ、ゆっくり休んでくれ」
ゼロが部下たちに声をかける。大きな任務が完了した翌日は、休養日となるそうだ。
「ゼロも今日はゆっくりできるの?」
「いや、俺は10時からちょっと用がある……」
ゼロはそう言うと、アンリをみて、ちょっと困った顔をした。
「すまない」
アンリはその時はまだ、ゼロがなぜ謝ったのかわからなかった。
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