赤のエースで妄想してみた その1 愛さずにいられない —最終話—
さらさらとした優しい風が、アンリの前髪を揺らしていく。アンリはゼロの隣でケアリの調査書類を読み終えた。
無意識に深いため息をもらす。
ブランから口頭で聞いていた説明とそれほど違いはない。ただ、匿名の篤志家によって放火された寮が修繕されたという報告が付け加えられており、それは救いだった。
アンリは、隣のゼロの肩に頭を預けるようにして、ぼんやりと目の前の景色を見ていた。目の前に美しい景色が広がっているのがとてもありがたかった。
アンリの肩を抱いていたゼロの手が、慰めるように髪を撫でてくれる。
ゼロが連れて来てくれたのは、涙の池と呼ばれる美しい池の畔だった。森の中にあり、人が訪れることは少ないという。ゼロも一人で考え事をしたい時などによく来るそうだ。
池の上空には、雲ひとつない青空が広がっていた。池を囲む森の中では、豊かな緑の濃い影の中、所々で自生する魔法石が淡い光を放っていた。池の水面は、時折風が吹くと、キラキラと光を反射して輝く。池の水はとても澄んでいて、深いところを泳いでいる魚の影も見えた。さらに深い底の方では、やはり魔法石が放つ不思議な光に照らされ、見たことのない水生植物が揺れていた。
アンリと出会う前のゼロも、この不思議な景色の美しさに心を慰められたのかもしれない。
そう思うと、目の前の美しい景色が、いっそう大切なものに思えた。
ロンドンで逃げ惑っていた時の恐怖はまだ消えないし、理不尽さへの憤りも、やりきれない気持ちもある。クレイドルに残ったことが、本当に正しい解決方法だったのかもわからない。
だけど、大好きなゼロの隣でこのきれいな景色を眺めている今、アンリは間違いなく幸せだった。
そっと隣のゼロを伺うと、彼は優しい顔でアンリを見つめていた。
「どうした?」
「ゼロがクレイドルにいてよかったなって」
アンリは微笑んだ。
怖かったことも、大変だったことも全部、ゼロに会うためだったと思えば、もう、いいや。
「……お前はいつも、俺の欲しい言葉をくれるんだな」
ゼロの優しい手が、アンリの頬にそっと触れる。
アンリの方に向き直り、少しためらった後、ゼロは再び口を開いた。
「アンリ、お前は魔法学者に俺のことを聞いたんだろう」
「うん」
アンリはゼロから目を逸らさずに答えた。
「俺は魔法でつくられた人造人間だ。この命も、いつまで持つかわからない」
辛い事実を告げるゼロの青い瞳は、悲しいほど穏やかで澄んでいた。
アンリはただゼロの瞳を見つめ、彼の言葉を待った。
「俺はいつか、お前を悲しませるかもしれない。それでも……俺はこの命が続く限り、ずっとお前のそばにいて、お前を守りたい。……どうかそれを、許して欲しい」
アンリは、自分がまだゼロの想いの深さをわかっていなかったことを知った。
ゼロはいつだってアンリの心を何よりも大切にしてくれる。
「ゼロ、私は、私の命が続く限り、ゼロのそばにいたい」
人はみんな、限りある命を生きるから。
ゼロの指がアンリの頬を濡らす涙を、そっと払う。
「アンリ、泣かないでくれ……」
戸惑うように瞳を揺らすゼロに、アンリは微笑みかけた。
「違うの、ゼロ。これは、嬉しいから。ゼロの気持ちが嬉しくて、涙が出るの」
アンリは頬に触れるゼロの手を両手で抱きしめた。
「ゼロが好き。……私ね、ゼロの家族になりたい」
ずっと心の中に育っていたわがままな願いが、自然にこぼれた。
「家族……」
ゼロは、アンリの言葉を口の中で繰り返す。
この気持ちを伝える言葉が見つからない。言葉は無力すぎる。
もどかしくなったアンリは、リコスみたいにゼロに飛びついた。
ゼロはアンリを抱き止めたまま、その勢いに押されるように仰向けに倒れた。
大きな男に力一杯殴られてもびくともしなかったゼロが、あっさりアンリに倒されてしまった。
アンリは気にせず、ゼロの首に腕を回し、強く抱きしめる。
「朝起きたらまず最初におはようって言うの。出かける時はいってらっしゃいって言って、帰って来たらおかえりって言うの。1日の最後には、おやすみって言って、……ゼロはね、これからずうっと、私の大切な友達で、大切な恋人で、大切な家族なの」
ゼロを抱きしめ、彼の肩に頭をのせて、アンリはうっとりとささやく。
「ゼロ……?」
ゼロがずっと黙ったままなので、不安になったアンリは頭をあげ、ゼロの顔を覗き込んだ。
「ゼロ!どうしたの?どこか痛いの?」
アンリは慌てて飛び起きた。ゼロはぼんやりした表情のままアンリを見あげて、微かに微笑んだ。
「どうしたんだ?そんな顔して」
「だって、ゼロ、泣いてる」
ゼロはどこかあどけない顔で空を見上げたまま、涙を流していた。
「え?」
ゼロは自分の頬に触れ、不思議そうな表情で、涙で濡れた自分の手を眺めた。
自分の両頬を拭いながら、ゼロも起き上がった。
「本当だ……涙ってこんなにたくさん出るんだな。知らなかった」
「泣くの、初めて?」
アンリはゼロを覗き込むようにして、囁くような声で尋ねた。
「自分が泣けるなんて知らなかった」
「悲しいの……?」
アンリは、ゼロの両頬にそっと手を添えた。ゼロの温かい涙が、アンリの手を濡らした。
「いや……胸は苦しいけれど……」
ゼロは戸惑うように視線を彷徨わせた後で、アンリを見つめる。
「俺は多分、……嬉しい……嬉しくて泣いているんだ」
泣くのは初めてだというゼロは、子供のような無防備な表情で、ただ流れるままに、涙を流し続けていた。
涙に濡れた青い目も、次から次へと溢れ続ける涙もとてもきれいで、アンリは心を奪われ、ただ見つめた。
ゼロは泣き濡れた目のまま、そっとアンリの手に自分の手を重ね、微笑む。
「ずっと欲しかったものがいっぺんに手に入ったんだ。……嬉しくて、どうしていいのかわからない」
「ずっと欲しかったもの?」
「朝一番におはようって言って、1日の終わりにはおやすみって言う家族……」
ゼロはアンリの頬を両手で包み込むようにして彼女を見つめると、嬉しそうに笑った。
「一番欲しかったのは、お前」
アンリはゼロにしがみつくように彼を抱きしめた。
(ゼロの欲しいもの、私が持っているなら、全部あげる)
ゼロは応えるようにアンリを強く抱きしめた。
「ずっと……お前が全てを知った後も、変わらずに俺のそばにいてくれればと願ってた」
「ずっと、一緒にいるよ」
「アンリ……」
ただ名前を呼ばれただけなのに、込められた想いが伝わって来る。アンリの目からも新しく涙があふれてきた。アンリはただ、ゼロを強く、強く抱きしめた。
アンリの髪にゼロの唇が押しつけられた。こめかみに、耳元に。アンリは誘われるように、ゼロにしがみついていた腕を緩め、顔をあげた。
大好きな青い瞳と少しだけ見つめあって、くすぐったい気持ちで額を合わせた。額に、まぶたに、頬に。たくさんの寄り道の後で、ゼロのキスはやっとアンリの唇に辿り着く。
一回めは触れてすぐに唇が離れていった。びっくりして目を開くと、すぐ近くで、ゼロの瞳が確かめるようにアンリを見ていた。アンリがもう一度目を閉じると、ゼロはすぐに2回目のキスをくれた。繰り返すうちに、少しずつキスは長くなる。
(好きな人と唇を合わせることが、こんなに気持ちいいなんて、知らなかった)
アンリはいつの間にか夢中になって、縋り付くようにゼロの首に腕を回していた。アンリを抱きしめる腕の力も強くなっていく。
二人抱き合ったまま地面に転がってしまっても、離れることができなかった。
キスを繰り返すたびに、どういうわけか、焦燥感が募っていく。
何回しても、全然足りない。
アンリが今まで出したことのない、甘えるような声が勝手にこぼれ出た。だけどどうすることもできなかった。
空気を求めて薄く開いた唇をこじ開けるようにして、舌が押し込まれてきた。
息が、熱い。
アンリの目に、さっきまでとは違う涙が滲んだ。
繰り返されるキスの間に、体のずっと奥の方で、何かがつくり替えられていくような気がした。
アンリを抱きしめていたはずのゼロの手のひらが、アンリの形を確かめるように脇腹を撫で上げた。
アンリの体がびくりと跳ねる。
ゼロは弾かれるようにアンリから顔を離した。
驚いた様に目を見開いているゼロと、目が合う。
アンリは、ついさっき自分の体を走った感覚にびっくりして、やっぱり目を見開いていた。
心臓は壊れそうなぐらい大きく、速く高鳴っていて、二人とも滑稽なほど息が上がっていた。風が、唇にひんやりと感じられた。
ゼロは、アンリの肩口に顔を伏せると、何かに耐えるように両の拳を強く握りしめた。
「こんな強引なこと、するつもりじゃなかった」
ゼロは、小さな声でそう言うと、ただじっと何かが通り過ぎるのを待つように息をつめて動かなかった。
肩口で項垂れているゼロの後頭部をぼんやり眺めていると、どうしようもなく愛しい気持ちが込み上げてきた。アンリはゼロの頭を抱きしめるようにして、そっと撫でた。
ゼロは一瞬、体を硬らせた。握られた拳にさらに力がこめられたが、ゼロは何も言わず、だたじっとアンリに頭を撫でられていた。しばらくじっとしていたゼロは、やがて長く息を吐き出した。背中が小刻みに震え始めたかと思うと、ゼロは声を立てて笑い出す。
「お前は、人の気も知らないで……」
ゼロは苦笑しながら、アンリの方を向くように転がった。
二人は地面に寝転がったまま、見つめ合った。
アンリはなぜゼロが笑っているのか分かっていない。
ゼロはアンリの困ったような不思議そうな顔を見ながら、ひとしきり笑った。やがてため息をつきながら手を伸ばし、指の背で慈しむようにアンリの頬を撫でる。
「本当に、困った奴だな……」
アンリには、結局ゼロがどうして笑ったのかはわからないままだった。だけど目の前でゼロは微笑んでいるし、頬を撫でる指は優しく心地良いい。彼女はただこの上なく幸せな気持ちに満たされ、微笑んだ。
二人が馬のところへ手をつなぎながら歩いて戻る時、細い獣道からハールが出てきた。
籠と釣竿を持ったハールは、二人の顔を見て一瞬目を丸くしたが、しっかり繋がれた手に目をやると、ほっとしたように目を細めた。ハールの口元に、微かな微笑が浮かぶ。
「ゼロ、男がそんな泣きはらした目で外を歩くもんじゃない」
穏やかな声とともにハールの右手がゆっくりと伸ばされ、ゼロの目にそっとかざされた。手はすぐに外されたが、ゼロの少し赤く腫れていた目元は、いつも通りの涼しげな様子に戻っていた。
ゼロは不思議そうにパチパチと瞬きを繰り返す。
ハールはアンリの目元にも同じように手をかざした。
いつかランスロットに額を直してもらったときのように、目元がひんやりと心地よくなる。すぐに重かったまぶたは元どおりになった。
二人がお礼を言うと、ハールは気をつけてお帰り、と言い残し、涙の池の方へ歩いて行った。
「ハールさん、晩ご飯を釣りにいくところだったのかな」
「ああ……」
ゼロらしからぬ、うわの空の返事が返ってきた。
そっと隣を伺うと、ゼロは何かを考え込んでいるようだ。だんだん歩くのが遅くなり、ついには立ち止まってしまった。急に手を自分の目の前に持っていき、上下に動かしたりしている。
「どうかしたの?」
アンリが尋ねると、はっとしたようにアンリを見た。
「ああ、すまない。……なんだか前に似たようなことがあったような気がして、気になって……」
「目を治してもらったの?」
「いや……そうではなかったと思う」
アンリは考え込んでいるゼロの前髪が跳ねているのに気がついた。多分さっきハールが目の腫れを治してくれた時に手が当たったのかもしれない。
「ゼロ、前髪跳ねてるよ」
アンリは笑いながら、ゼロの前に立ち、そっと手を伸ばしてなおした。
ゼロの柔らかい髪は、上から2、3回なでつけてやるだけで、おとなしく元の形におさまった。
アンリに前髪を直してもらったゼロは、一瞬口を「あ」の形にしたまま固まっていた。それから懐かしそうに微笑んだ。
「……頭を撫でられたんだ」
「子供の頃?」
「そう。初めて頭を撫でられたときちょうどあんな感じだったんだ」
ゼロは気が済んだようで、歩き始めた。
「それまで頭を撫でもらったことがなかったから、すごくびっくりしたんだ。お菓子は禁止されていたけど、その人がこっそりキャンディをくれた。……すっかり忘れていたな」
「どんな人かは覚えてないの?」
「ああ、それは思い出せない……でも、その人が近くにいてくれたのは、とても短い期間だった気がする。いつの間にか、いなくなっていた」
ゼロは自分の記憶を探るように考え込んだけど、やがて諦めてしまった。
「子供の頃、ゼロを可愛がってくれた人がいたのね」
「そうだな」
子供のゼロの頭を撫でて、キャンディで自分を励ましながら前に進むことを教えてくれた人。
もしかしたら、それがハールだったのかもしれない。
ゼロがハールを覚えていなくても、ハールが子供のゼロにあげた優しい記憶は、ゼロの中にちゃんと残っていた。今も、ゼロが差し出してくれるキャンディや、頭を撫でてくれる手の優しさの中に、それは時々現れる。
アンリは温かく小さな希望が見える気がした。
ゼロとハールの間に何があったかはわからない。
だけどいつか、優しいハールがもう辛い顔をしなくて良いような、新しい関係を2人が築き上げていけたらいい。そう願った。
二人が兵舎についた頃には、空もオレンジ色に染まりかけていた。夕日に照らされた立派な建造物は、どこか荘厳な雰囲気さえ漂わせていた。
馬を戻し、二人で兵舎の玄関に向かう。
アンリは、いつの間にかこの兵舎が自分の帰る場所としてしっくりと馴染んでいることに気づいた。
(お家に帰ってきたって感じがする)
夕暮れの心細さも、いつの間にか感じなくなっていた。
「アンリ」
「なあに?」
隣のゼロを見上げる。
好きな人に名前を呼ばれるだけで、幸せで嬉しくて、頬が緩んでしまう。
ゼロの髪の金色が夕日に透けてきれいだった。
ゼロは、ちょっとの間アンリを見て、ふと微笑んだ。ゆっくりと彼の顔が近づいてくる。
アンリは涙の池での嵐のようなキスを思い出してぎゅっと強く目を閉じた。
唇が触れる直前、ゼロが微かに笑った気がした。
ゼロの唇が触れたのは一瞬だけだったけれど、ほぼ同時ぐらいに、大きな歓声が聞こえてきた。
「えっ?」
アンリはびっくりして目を開ける。ゼロに抱き寄せられたまま兵舎の方を見ると、兵舎の窓から、たくさんの兵士たちがこちらを見て、口々に歓声を上げていた。ランスロットやヨナをはじめとするアンリの「お兄様たち」も執務室の窓からこちらを見ている。カイルとエドガーも医務室の近くの窓から顔を覗かせていた。
「やったぜ隊長―!」
一際大きい声はマリクだ。ジョエルと一緒に談話室の窓から帽子を振っている。アンリがよく見知ったゼロの部下たちが窓に顔を並べていた。ボリスはいつもの不機嫌そうな顔で、それでもマリクの隣で拍手していた。
規律正しい赤の軍らしからぬ騒動だった。誇り高き赤のクイーンに一喝されても無理もない有り様だったが、ヨナは今回のみ大目に見てくれるらしい。ランスロットの隣で、仕方なさそうな微笑を浮かべていた。
アンリは一気に顔が熱くなるのを感じた。
(は、恥ずかしい……!)
ゼロもきっと恥ずかしがっているだろうと思って、慌ててゼロを見たアンリは、目を丸くした。
ゼロは兵舎の歓声に応えるようにアンリを抱き寄せたまま片手を上げ、笑っていた。
ゼロはぽかんとした顔で見上げるアンリに気付いて、ちょっと困ったように微笑んだ。
「すまない。嫌だったか?」
「ううん、嫌じゃない」
アンリは目をまん丸にしたまま、夕日よりも真っ赤な顔で、慌てて首を振る。
ゼロは嬉しそうに笑った。
(すごくびっくりしたけど!すごく恥ずかしいけど……!)
ゼロの思いがけない行動に、アンリはとても驚いていた。だけど目の前のゼロがあんまり嬉しそうに笑うので、彼女も笑顔にならずにはいられなかった。
二人は鮮やかな夕焼けと赤の軍の祝福に包まれ、額を寄せ合って笑った。
<終>
第二部 ロンドン編 に続く……
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