赤のエースで妄想してみた その1 愛さずにいられない —第四話—
その日一番最初に医務室を訪れたお客さんは、ヨナだった。
アンリがクレイドルで目を覚ました日に執務室で会ったが、それ以来会う機会もなく、ほとんど話したことはない、赤のクイーン。
「やあ、お邪魔するよ」
「こんにちは、ヨナさん」
「どーかしたのかー?」
カイルが机に向かったまま、顔だけこちらに向けて問いかけた。
「アンリに用があってきたんだ。この書類にサインしてもらえる?」
「はい……呼び出していただければ、こちらから伺いましたのに」
「ついでだからね。いいでしょ、別に」
アンリは書類の束を受け取ると、机に向かった。
「何の書類ですか?」
「君の看護師としての給与に関する書類だよ」
「給与?」
アンリがびっくりして書類を確認すると、確かに「給与」の文字が見られた。
「そんな、いただけません、私」
「何?金額に不満でもあるの?ちゃんとセントラルの病院の看護師の給料を参考にして算出したものだよ」
ヨナが美しい眉をひそめる。
「そうじゃなくて。せめてものお礼のつもりでここを手伝っているんです。ただでさえお世話になっているのに、これ以上お給料なんていただけません」
「赤の軍は弱者から労働力を搾取するようなところじゃないよ。君の仕事に対する正当な報酬だ」
ヨナがムッとしたように言い返す。
「もらっとけ、アンリ。クレイドルの金はあって困るもんじゃねーだろ」
後ろからカイルの声がした。
「そんで初給料が出たら俺に美味い酒おごってくれよ」
カイルのタレ目が嬉しそうに細められた。カイルの呑気な口調を聞いていると、意固地になるのもおかしな気がしてきた。
「わかりました。あの……ありがとうございます」
アンリはヨナに素直にお礼を言って、ありがたく受け取ることにした。
「俺じゃなく、ランスロット様のご判断だよ」
ヨナは誇らしげに言うと、ふっと顔を曇らせた。ビスクドールのようなきれいな顔が憂いを含むと、見ているこちらの胸まで痛む。余計なことかもしれないと思いつつ、アンリはつい尋ねてしまった。
「どうかなさいましたか?」
「ランスロット様が今日も朝食を召し上がらなかったのを思い出した」
ヨナはそっとため息をついた。
書類のサインを終えたアンリは、カイルの方を見た。
「あいつは上背あるのに、あんまり食わないんだ」
カイルも同じようにため息をつくと、天井を睨みつけた。
「確かにここんとこ顔色が悪い。食も細くなってる。またどっかで無理してんのかもしれねー」
アンリがランスロットに会ったのは、クレイドルに来た夜と、目覚めた朝、書類などの手続きをした時だけだった。とても美しい男性だった。美しい顔にはほとんど表情がなかったので、ちょっと怖く、近寄りがたい感じさえした。
でも、優しい人だと思う。多分。
クレイドルの国民でもないアンリを、赤の軍で守る、と即座に決めたのは彼だ。それに、兵舎に向かう馬車の中で、見慣れない景色を不思議に思っていたアンリに、魔法石についてわかりやすく教えてくれた。
「ランスロット様はよくご無理なさるの?」
「去年は死にかけてた……寝ねーし食わねーし魔力はバンバン使うし」
「魔力を使うのは体に良くないの?」
「あー、そうか、お前科学の国の人間か。魔法石のことは知ってるか?」
「うん」
魔法石は、魔力の電池みたいなものだ。込められた魔力が尽きると、ただの石ころになってしまう。
「人間も一緒だ。魔力は生命力と同じだと思えばいい。無茶な使い方をすればごっそり体力を奪われる……運が良ければ魔力が尽きるだけで済むが、そうじゃなけりゃ」
カイルはそこで言葉を切った。
その先の言葉を考えて、アンリはぞっとした。
「今は、もうランスロット様は魔力は使わなくていいんでしょ?」
アンリは慌ててカイルに確認する。カイルの言っている『去年』は、赤の軍と黒の軍の対立が激しくなり、緊迫していた時期だ。本当の黒幕だった魔法の塔との大きな戦いを経て、今はもう、戦う必要はない。
「去年だって本当は使わせるべきじゃなかった。俺が、止められなかっただけだ」
悔しそうに言うと、ヨナが唇を噛んだ。
「あいつは、一人で背負いこみ過ぎるんだ」
カイルがため息交じりに言った。カイルも悔しそうだった。
両軍のキングは国のトップということだ。アンリには想像もつかない重責だろう。そしてこの二人はランスロットを思うように支えられず、歯がゆい思いをしているらしかった。
暗い表情の二人に、アンリには何も言うことはできない。
「あの、よかったらお茶を淹れましょうか?」
お腹を温めると、気持ちも少し明るくなる。祖父がよく言っていた。
「ここにはティーセットなんてないぞ」
「えっ、ないの?」
アンリとヨナの驚いた声が重なる。
「医務室をなんだと思ってんだ、お前ら」
「あ、レモンの蜂蜜漬けがあるから、ホットレモネードならできますよ」
アンリはいいことを思いついたように、胸元でパン、と手を打った。
「なんでそんなもんがあるんだ」
「昨日怪我の治療に来た兵士の中に何人か咳をしている人がいたでしょ。キッチンで作らせてもらったの」
「あー。のど風邪が流行るんだよな、この時期」
「君、ちゃんと看護師らしい仕事してるじゃないか」
ヨナがふっと笑う。
「ヨナ、これは別に看護師の仕事じゃねーぞ。まあ、悪かねーけど」
二人の言葉を背に、アンリはホットレモネードの用意をする。
「カイル、お湯沸かして」
アンリがカイルに頼むと、ヨナの鋭い声が飛んできた。
「君、仮にも上司を顎で使うなんて」
「ごめんなさい。でも私魔法石の使い方がわからないんです」
アンリは慌てて謝った。医務室のランプは魔法石で温める形式なので、アンリは使ったことがなかった。
「教えてあげるから、ちゃんと使えるようになりなよ」
「えっ、私にも使えるんですか?」
「小さな子供でも使えるんだ。当たり前だろう」
「でも、魔法石を無駄遣いしてはいけないでしょう?」
魔法の塔が精製、管理している魔法石はクレイドルのエネルギー源でもある。含まれる魔力が強力なほど高価になるそうだ。宝石並みのものもある。
「何言ってるの。君がこの先魔法石を使えるようになるために練習するんだろう。それを無駄遣いとは言わない」
ヨナはきっぱり言った。
「それに、クレイドルで生活するには必要なことだ」
「ありがとうございます。やってみます」
アンリはカイルが用意してくれたいくつかの魔法石と共に、ランプに向かった。
「そう。そこに魔法石を置いて、指はまだ離さないで。頭の中で、魔法石がお湯を沸かす様子をイメージして……」
アンリはヨナの指示に従いながら、慎重に魔法石を設置して、魔法石がうまく働くように念じた。魔法石からほわり、とほの青い、湯気のようなものが揺らぎながらかすかに立ち上ってくると、指を離した。だけど、指を離した途端に、湯気は消えてしまい、魔法石は輝きを失ってしまった。
「あれえ?」
がっくりと肩を落とすアンリに、ヨナは次の魔法石を差し出す。
2回目は、もう少し指を離すのを遅らせることにした。すると、突然ごお、と青い煙が大きく立ち上がる。
「うわ、指離して、早く!」
ヨナの声に、アンリは慌てて指を離した。
カイルが慌ててノートで辺りを扇ぎ、煙を散らした。
魔法石は、また輝きを失った。
「いい?俺が一度やってみせるから、よく見てて」
ヨナは新しい魔法石を自分で設置し、そっと撫でるようにして指を離す。
魔法石の周りに、淡い青い炎のような光が綺麗に灯ったまま揺れていた。
「わあ……」
ヨナは自分で灯した青い光を消すと、アンリに新しい魔法石を渡す。
「ほら、もう一度やってごらん」
カイルとヨナに見守られながら、もう一度魔法石を設置する。さっき見たヨナの灯した光をイメージしながら、ヨナの真似をして、そっと撫でるように指を外す。
「あっ!」
今度は、成功した。青い光は揺らぎながら、安定して灯っている。
アンリは思わず満面の笑みを浮かべ、二人を振り返った。
「できたじゃないか」
「ありがとうございます!」
(すごい、私今魔法を使ったんだ)
アンリはもう一度自分の灯した光に目を戻す。
「ほら、早くお湯沸かしなよ。ホットレモン淹れてくれるんでしょ」
ヨナが笑った。
夕方になって、アンリはリコスと一緒に兵舎の北側の出口でゼロを待っていた。訓練場に行く時など、兵士がよく利用する出入り口だ。ゼロが医務室まで、一緒にリコスの散歩に行かないかと誘いに来てくれたので、アンリは喜んでここまで一緒に来た。しかし、ゼロは他の兵士に呼び止められたかと思うと、何やら用ができたらしく、10分程ここで待っているように言い残して、どこかへ行ってしまった。
「ゼロ、遅いねえ」
アンリはリコスに話しかけながら、出口の脇に置かれたベンチに腰掛けて待っていた。魔法石で初めてお湯を沸かしたことや、お給料をもらえるようになったこと、夕方になって、ヨナの指示で医務室にティーセットが置かれるようになったこと。ゼロに報告したいことが、たくさんあった。
(ゼロも忙しいんだろうな。リコスの散歩ぐらい、私一人でも大丈夫なのに)
ゼロと一緒に散歩に行く方がもちろん楽しいけれど、忙しいゼロの手伝いができるなら、アンリはそれでもよかった。
だけど、アンリは兵舎のすぐ裏の丘にさえ、一人で行くことは禁じられていた。
(往診について行った時に見た街の様子はそれほど物騒には見えなかったけどなあ。一人歩きしている女性も子供もたくさんいたし。私の追っ手は黒の兵舎の中だし)
アンリがぼんやり自分の膝に頬杖をつきながら考えていると、するり、と何かが膝の上を撫でるような感触がした。慌てて膝の上を見ると、リコスのリードがない。
「えっ?」
顔を上げると、尻尾を振りながら一直線にかけていくリコスの後ろ姿が見えた。
「ええっ?待って、リコス!」
アンリは慌てて立ち上がると、リコスを追いかけた。リコスは何かを追いかけるように、迷いのない走りっぷりで倉庫らしき建物の方へ駆けていく。倉庫の角を曲がったところで、アンリはリコスを見失った。
「リコス?どこ行っちゃったの?」
アンリが倉庫の裏手の方に歩いていくと、細く開いたままの扉があった。近づいてみると、リコスが甘えている時の声が聞こえてきた。
(よかったあ、ちゃんといた)
アンリはホッとして開いたままの扉から倉庫の中に入って行った。
倉庫の中はほとんど日が差し込まないので、ひんやりしていた。アンリがリコスを探しながら、本が並んでいる棚の方へ行くと、リコスの甘える声と、男性の声が聞こえてきた。
「お前も大きくなったのだから、そろそろこのもふもふは卒業したらどうだ」
どこかで聞いた声だ。
アンリがそっと棚の裏を覗き込んで見ると、そこにはランスロットがいた。ランスロットの足元では、リコスが楽しそうにじゃれている。アンリはリコスを止めるべきかと思ったが、よく見ると、ランスロットは自分のマントを揺らし、リコスをあやしているように見えた。しかし相変わらず無表情なままで、迷惑がっているのか、楽しんでいるのかはわからない。
(とりあえず、挨拶してみよう)
「あの、こんにちは、ランスロット様」
ランスロットはハッとしたように顔を上げた。綺麗な眉が寄せられる。
「……カイルの使いか?」
「え?いいえ。今からゼロとリコスの散歩に行くところだったんです」
「そうか。なら良い」
ランスロットは警戒を解くように、また元の無表情に戻った。
「ランスロット様はリコスと仲がよかったんですね」
アンリはランスロットに楽しそうに甘えるリコスを見ながら言った。
「こいつは小さな頃からこのもふもふが好きらしい」
「ああ、確かに触り心地が良さそうですね」
アンリはランスロットのマントについている白いもふもふに目をやった。
「お前も触りたければ触っても良い」
「えっ?ありがとうございます」
アンリは思いがけない誘いに、せっかくだから、と素直に手を伸ばした。アンリがそっと撫でてみると、白いもふもふはとても柔らかく、滑らかだった。と、目の前のもふもふがゆらゆら揺れ始めた。
「……ランスロット様、私はあやしてもらわなくても大丈夫ですよ?」
アンリがランスロットを見上げて言うと、ランスロットの唇が綺麗な弧を描いた。
「そうか?リコスに様子が似ていたからつい、な」
(ランスロット様の笑顔、初めて見た……!)
アンリはランスロットの笑顔にうっかり見入ってしまった。
「ここでの生活に不便はないか」
ランスロットに問いかけられ、アンリは慌てて意識を戻した。
「いえ、皆さんによくしていただいています。クレイドルの国民でもない私をここにおいてくださって、本当にありがとうございます」
「アンリ、お前は考え違いをしている」
「え?」
「クレイドルを頼って、クレイドルに来た者もまた、わがクレイドルの民だ。我が軍がお前を守るのは、当然のことだ」
「ランスロット様……」
ランスロットはふと扉の方に目を向けた。
「飼い主が探しているのではないか?」
「あ、そうだ!ゼロがもう戻ってきてるはず」
アンリはもふもふから手を離し、リコスのリードをつかんだ。
「行こう、リコス。ランスロット様、もふもふを触らせてくださってありがとうございました」
「アンリ、そこの扉を閉めていけ。それから、私にここで会ったことを誰にも知らせないように」
「はい、わかりました!……失礼します」
アンリは言われた通り、ドアをそっとしめて兵舎に向かった。
(何か、大切なお仕事の最中だったのかな)
ランスロットは、カイルの言う通り確かに疲れているように見えた。目元にかすかにクマができていた。
アンリとリコスが兵舎の北の出口に戻ると、兵舎の裏からちょうどゼロが走ってきた。
「あんまり心配させないでくれ。どこへ行ってたんだ?」
「ごめんなさい、あの、リコスが急に向こうに走って行っちゃったから、追いかけてたの」
「ああ……、こいつ時々やらかすんだ。リードをしっかり握っておくように忠告しておくべきだった、すまない」
「ううん、心配かけてごめんなさい」
ゼロは汗をかいていて、息も少し上がっていた。きっと心配して探し回ってくれたのではないだろうか。アンリがもふもふに気を取られている間に。
アンリが深く反省していると、カイルがやってきた。
「よお、ランスの奴見なかったか?」
「いや。執務室にいらっしゃらないのか?」
「いねえ。また逃げやがった……!くそ、絶対とっ捕まえてやる」
アンリはドキドキしながらもなるべくカイルと目を合わさないように俯いていた。
(カイルがランスロット様を探している理由はわからないけれど、誰にも言うなっておっしゃっていたし……)
「なあリコス、ランス知らねえ?」
カイルは何を思ったか、しゃがみこんでリコスに尋ね出した。
リコスは分かっているのかいないのか、元気にひと吠えする。
「なんでリコスに聞くの?」
「いや、犬は鼻が利くっていうからさ。ランスの匂いのするもん持ってきたら、探してくんねーかな」
カイルが真面目な顔で考え始めた。
(それはまずい!)
「リコス、散歩だよ!早く行こう!」
アンリはゼロの腕とリコスのリードをぐいぐい引っ張った。
「じゃあね、カイル」
「お、おー。じゃー、気をつけてなー」
アンリの勢いに押されるように見送ってくれるカイルの様子に、アンリの良心がちょっと痛んだ。
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