愛さずにいられない —第五話—


赤のエースで妄想してみた その1 愛さずにいられない —第五話—


 その日の朝、アンリが医務室に行くと、カイルはまだいなかった。

「その辺で飲んで、ここでそのまま寝てることが多いのになあ」

 珍しく自分の部屋でちゃんと寝たのだろうか。

 アンリが日課になった医務室の掃除をしていると、カイルを抱えたゼロが医務室にやってきた。

「酔っ払ったまま眠り込んで談話室の入り口を塞いでいたので、連れてきた」

「えっと……ご苦労様?」

 なんと言っていいかわからず戸惑うアンリに、ゼロは表情を和らげた。

 そのまま医務室のソファの上にカイルを下ろす。

「患者が来たら仕事はするはずだ。放っておけばいいから」

 ゼロはそう言い残して、急いで自分の仕事に戻っていった。

 もう少しゼロと話せると思っていたアンリは、彼がいつもより心持ちそっけないように感じて、ゼロが出ていったドアを眺めて立ち尽くした。

(カイルにびっくりして、朝の挨拶もちゃんとできなかったな)

「気にすんな。久しぶりの師弟対決で頭がいっぱいなんだろう」

「師弟対決?」

 眠っていると思っていたカイルの声に、アンリは振り向いた。

「……うう、後で説明してやるから、水くれ」

「頭痛いの?点滴、する?」

 アンリはミント水を差し出しながら、カイルにそっと尋ねる。ミント水はアンリが気に入って医務室に常備するようになったものだが、カイルによれば二日酔いに良いらしい。

「ううう。点滴はいい。もうちょっと寝る」

「患者さんが来たらちゃんと起きてよ」

 ミント水を飲み干したカイルは、苦しそうに唸ると再びソファにごろりと横になった。

 アンリは少し呆れながら、自分用に用意してもらった席に座り、最近読みはじめた薬草学の本を開いた。医務室は、最初にカイルが言った通り、エドガーの訓練がない限りそれほど忙しくはなかったので、空き時間を利用して少しずつ読み進めている。様々な植物の活用法とスケッチが書かれている図鑑のような本だ。アンリの知っている薬草と同じものもあれば、初めて聞くもの、似ているけど微妙に違うものがあった。アンリが知らなかっただけなのか、クレイドルの植生が違うのかはわからないけれど、アンリはとりあえず「微妙に違うもの、初めて聞くもの」をカイルにもらったノートに書き出すことにしていた。

 子供の頃住んでいた祖父の家の庭には小さな薬草園があり、アンリは祖父に薬草の話を聞くのが好きだった。祖父の話では、祖母が植物に詳しかったそうだ。アンリが生まれた時には祖母はもういなかったので、祖母については祖父やブランから聞いた話しか知らない。寡黙な祖父は、時折祖母の話をしてくれたが、話始めると、思い出して悲しくなってしまうのか、すぐに口をつぐんでしまった。祖父が、とても祖母を愛していたらしいことは、子供心にもわかった。

「アンリ、そろそろ始まるみたいだぞ」

 薬草学の本を読んでいるはずが、いつしかぼんやりと子供の頃のことを思い出していたアンリは、カイルの声に我に帰った。

 いつの間にか起きたカイルが、窓から訓練場を眺めていた。

「何が?」

 アンリはカイルに手招きされて、窓際に並んだ。

 訓練場では、訓練していた兵士たちが座って見学している。その中心で、エドガーとゼロが剣を持って対峙していた。

「言ったろ?師弟対決」

 カイルがにやりと笑う。

「我が軍きっての天才同士の対決だ。一見の価値はあるぞ」

(師弟対決ってこのことだったんだ)

 ゼロが一気に間合いを詰め、エドガーに切りかかった。

 エドガーは、それを真正面から受け止めたかと思うと、するりと身をかわしてゼロの右側に回り込んだ。ゼロはぐらつきもせず、無駄のない動きで右に剣を払う。エドガーは鋭い切りつけを、軽やかなバックステップでかわした。エドガーはすかさず攻撃に転じる。鋭い突きを、ゼロは半身になってかわした。

 見ている兵士たちからどよめきが起こる。

 剣には全くの素人のアンリも、目が離せなかった。

 エドガーの動きは、舞のように優雅だ。

 ゼロは全身をバネのように使っていて、力強いのに柔らかい。

 何度か剣のぶつかる金属音が聞こえたが、剣の動きは速すぎてアンリには追えなかった。

「うちの軍で実質ゼロの稽古相手になれるのはエドガー、ヨナ、ランスの三人ぐらいだけど、ヨナやランスが相手をする機会はほとんどないからな。この師弟対決はゼロにとっちゃ貴重なんだろ」

 赤の兵舎にきて一週間と少し。アンリは、何度かゼロが一人で剣の練習をしているところを見かけた。エドガーによれば、赤の兵舎に来てから、ゼロは1日も剣の鍛錬を怠ったことはないらしい。深紅の血統でないゼロは、剣の実力で道を切り開いてきたという。ゼロにとって、剣の腕を磨くことは、戦いのために腕を磨くこと以上の意味があるのかもしれない。

 アンリは両手を胸の前で握りしめて、勝負を見守っていた。両手のひらは、いつの間にかしっとりと汗で湿っている。

「あっ!」

 エドガーの剣が弾かれ、空に舞い、そのまま、地面に突き刺さった。

 ゼロは切っ先をエドガーの首元につけたまま、動かない。エドガーが、降参を示すように両手を挙げた。

「やったあ、ゼロ、すごい」

 アンリは思わず拳を握りしめた両手を挙げた。

 エドガーがゼロに何か耳打ちしたかと思うと、何故か二人はこちらを見た。

 アンリは両手を挙げてはしゃいだ自分の姿が恥ずかしくて、そのまま横に動き、カーテンの陰に隠れた。

「何やってんの?お前」

「なんでもない」

 カイルはまだ窓の外を見ていたが、こちらに目を移すと、不敵に笑った。

「アンリ、今日の夜付き合えよ。飲みに行こうぜ」

「えっ?またキッチンで?」

「いや、セントラルの酒場までいく」

「でも、私が外出すると護衛の人に迷惑が……」

「安心しろ、ゼロも一緒だから。師弟対決勝利の祝杯あげてやろうぜ」

「こいつを会わせたい奴らがいるんだ。付き合えよ」

「いや、俺は遠慮しておくよ」

 一緒に飲みに付き合え、というカイルに、ゼロは最初良い返事をしなかった。

「お前、本当にいいのか、それで。赤の軍最弱の俺しかついていない状態でアンリが酒場に行っても」

「さ、最弱?」

「おう、俺は赤の軍最弱だぞ」

 思わず聞き返したアンリに、カイルは意味もなく胸を張る。

 ゼロはしばらく困ったような顔をして考え込んだが、やがて諦めたように笑った。

「わかった、同行する」

 結局ゼロが折れて、三人揃って兵舎を出ることとなった。

「アンリ、お前そのままで行くのか?」

「え?」

 なんのことかわからずカイルを振り向くと、カイルは自分の頭の後ろを指差して見せた。

「あ!」

 アンリは伸びかけた髪が邪魔で、医務室にいる間包帯の切れっ端で髪を結んでいた。それを解くのを忘れていたのだ。慌てて解く。

(は、恥ずかしい……お店に着く前でよかった)

「あ、あれ……?」

 最初に引っ張った部分が間違っていたらしく、うまく解けない。

「あー。俺がやってやる。手ェのけろ」

 もたもたしていると、カイルの手が伸びてきた。アンリはそのままカイルに任せることにして、自分の手を下ろした。

 カイルはたやすく包帯の切れっ端を解いて、アンリの髪をくしゃくしゃとほぐしてくれた。

「変なクセが付いてない?」

「あー。大丈夫。かわいーかわいー」

 カイルはこっちを見もせずいかにも適当に答える。

「もー、適当だなあ」

 三人は馬車に乗り込むと、セントラル地区に向かった。

「アンリ!」

 セントラル地区の店に入るとすぐ、ブランが迎えてくれた。

「ブラン!カイルの言ってた会わせたい人ってブランだったのね」

 兵舎からなかなか自由に出られないアンリは、ブランに会うのはクレイドルに来た夜以来だ。元気でやっていることだけは、手紙で知らせていた。

 ブランはアンリを見るなり、一瞬驚いたように目を丸くして、すぐに破顔した。彼はアンリの両頬を自分の手で包み込むようにして、覗き込む。

「また君のこの笑顔を見ることができて、嬉しいよ!驚いたな、赤の軍は一体どんな魔法を使ったんだい?」

 ブランがあまりにも嬉しそうで、アンリは自分がずいぶん心配をかけていたのだと気づいた。

「心配かけてごめんなさい、ブラン。ありがとう」

「君が謝るようなことは何もないよ。おいで、君に会わせたい人たちがいるんだ」

 ブランはアンリを自然にエスコートしながら、カイルとゼロにお礼を言った。

「カイル、ゼロ、アンリを連れてきてくれてありがとう」

 ブランが三人を案内したテーブルには、アンリと同い年ぐらいのとても綺麗な女の子と、見覚えのある派手な紳士が並んで座っていた。

 女の子が立ち上がって、華やかな笑顔で駆け寄ってきた。

「ゼロ、久しぶりだね!元気だった?」

「ああ。お前も元気そうで何よりだ」

 ゼロが彼女に優しく微笑みかけた。

 なぜかざわり、と心が波立った気がしたアンリは、思わず自分の胸のあたりをぎゅっと押さえた。

 女の子は自分の席に戻ると、親しげな様子ですぐ隣の椅子を叩いた。

「アンリ、ここに座って!」

「あ、ありがとう」

 女の子は近くで見ると、ますます綺麗だった。長い輝くようなブロンドに、矢車草の青い瞳。華やかな笑顔を向けられて、アンリは同じ女の子だというのに、なんだかドキドキしてしまった。

 アンリが勧められた席に座ると、ゼロもその隣に座った。

「アリスよ。よろしくね。同郷のよしみで、仲良くしてね」

「ああ、同郷……えっ、同郷?」

 アンリは思わず素っ頓狂な声を上げてしまう。

「しーっ!内緒なんでしょ?」

 アリスがしなやかな白い指を唇に当てながら、片目をつぶってみせる。

 アリスの言う通り、アンリが「科学の国」から来たことは、赤の兵舎の中でも、幹部しか知らない。決して他の人に漏らさないように、とランスロットからきつく言われていた。

「私がロンドンから来たことを知っている人はもうたくさんいるけれど、確かにまだ内緒にしておいたほうが安心かもしれない」

 アリスは思案するような表情で言った。

「あんたはロンドンで会った時より元気そうだな」

 アリスの向こう隣に座っていた派手な紳士が立ち上がり、アンリのそばにやってきた。

「こんばんは、オリヴァー。お久しぶり」

 派手な紳士、オリヴァーは長身の身を屈め、アンリに顔を近づけると、アンリにだけ聞こえる声で言った。

「こいつは俺のだから。あんたは心配しなくていい」

 『こいつ』の部分で、オリヴァーが視線だけでアリスを見たので、アリスがオリヴァーの恋人だ、と言う意味なのはわかった。直接的な表現に、頬が熱くなる。

「あの、心配って?」

 オリヴァーの言葉の意味を捉え損ねたアンリが聞き返すと、オリヴァーは一瞬きょとんとした後、眉を寄せ、困ったような顔をして笑った。

「なんだ、無自覚か。悪かった、気にしなくていい」

 オリヴァーはぽん、とアンリの頭に手を置くと自分の席に戻っていった。

「何話してたの?」

「秘密だ」

 さらりと受け流すオリヴァーに、アリスが拗ねたような顔をした。彼女はどんな表情をしても可愛い。

「なんでもいーから、まず乾杯しようぜー」

 お酒が待ちきれないカイルの一声で、みんなそれぞれの飲み物を注文することにした。

「アンリとオリヴァーは、いつ知り合ったの?」

 アリスが尋ねた。

「3ヶ月ぐらい前に、ロンドンで、ブランと三人でディナーを」

「ぽんこつ、お前が女ばっかりで飲みに行った日だ」

 オリヴァーの言葉にアリスは心当たりがあったらしく、納得していた。

「私とオリヴァーはブランの家に居候しているの。最初アンリも私たちと一緒に住むって聞いていて、すごく楽しみにしていたのよ」

「俺も楽しみにしていたんだよ、アンリ。今日少しでも君の元気がなければセントラルの僕らの家に連れて帰るつもりだったんだ。でもこんな素敵な笑顔を見せられては、それもできなくなってしまった。ロイと一緒に住んでいた頃の君みたいだね」

 ブランが笑う。そしてロイというのはアンリの祖父で、ブランの友人だとみんなに説明した。

「こいつ、ロンドンにいた時よりも明らかに顔色がいいぞ。信じがたいことに、赤の兵舎が合っているみたいだな」

「うん、赤の兵舎での暮らしは、とても楽しい」

 アンリが笑顔で答えると、ブランとアリスとオリヴァーが不思議なものを見るように、アンリを見つめた。三人の顔からは笑顔が消えている。

「えっと、赤の兵舎だよね?黒じゃなくて」

「うん」

「いじわるされてない?」

「偉そうな人もいるけど、護衛してくれるゼロの隊のみんなも、エドガーも優しいよ」

「アンリ、俺を忘れるな」

「もちろんカイルも!」

 アンリは慌てて付け足した。

「ゼロ、君がアンリを警護してくれているんだってね。アンリがこんなに元気になったのも、君のおかげだと思う。ありがとう」

「俺の任務だ」

 ブランの言葉に、ゼロは生真面目に返してから、ふとアンリの方を見た。

 ゼロは自分を見上げているアンリを見て、表情を和らげた。

「それに……こいつはリコスにそっくりだからな」

「え、そんなに似てる?」

 ゼロは笑うが、否定はしない。

 カイルが不思議がる三人に、リコスはゼロの愛犬であることを説明すると、三人とも揃って笑い出した。

「よかったじゃないか、駄犬。クレイドルでいい飼い主が見つかって。いっそクレイドルにずっといちゃどうだ」

「もう、オリヴァーってば!アンリは、看護師さんなんでしょ?」

「まだ、卵なの。ロンドンで学校には通っていたけれど、卒業はできてないの」

「兵舎の医務室でカイルを手伝っているんだろう?カイルがよく働くって褒めていたよ」

「ほんと?」

 カイルを見ると、照れ臭そうに明後日の方向を向いてしまった。

 ブランはカイルの様子を見て、苦笑する。

「アリスはロンドンではケーキ屋さんに勤めていたらしいけど、今はオリヴァーの助手をしているんだよ」

「アリスも帽子をつくるの?」

「帽子屋よりは発明家の仕事の手伝いの方が、多いかな」

「発明家?オリヴァーは帽子屋さんだと思ってた」

「兼業しているの。オリヴァーの発明はすごいのよ」

 アリスが熱を込めて言った。

 当たるとうさぎ跳びしてしまう銃、しゃっくりが止まらなくなる銃、白い布が二十四時間顔から離れなくなるムームー砲……、どれもいじわるな悪戯心に満ちた発明品だが、ゴミを捨てるたびに花火が上がるゴミ箱や、魔法を花に投影する魔法無効化装置など、優しいものもあった。

 アンリは感嘆の声をあげながら興味深くアリスの説明を聞いていたが、ランスロット様がムームー砲に被弾したくだりでは言葉を無くしてしまった。

「彼は魔法の塔との戦いの立役者だ」

 ゼロが言った。

「あんな悲惨な戦闘は初めてだった」

 ゼロの言葉に、オリヴァーがニヤリと不敵に笑った。

 黒の軍は、オリヴァーが製造した武器で魔法の塔を牛耳っていた上級魔法学者たちと戦ったらしい。花が舞い散る中、猫語しか話せなくなるもの、抱腹絶倒して動けなくなるもの、足がつってもうさぎ跳びをやめられなくなるもの、戦場は惨憺たるものだったと現場を見守っていたブランが説明した。

「赤の軍のみんなは、大丈夫だったの?」

 ゼロは言いにくそうに視線を斜め下に向けた。

「……ランスロット様が怪しい煙を吸って……しばらく猫語しか喋れなかった」

 アンリは思わず両手で口を押さえた。

「ほお、そいつはいいことを聞いた。ぜひこの目で見たかったな」

 オリヴァーの笑みが深くなった。

「オリヴァー、ランスロット様に恨みでもあるの?」

「こいつをさらわれたことがある」

 オリヴァーが隣に座るアリスを抱き寄せた。

「えっ」

 思いがけない言葉に、アンリは絶句した。

「真昼間、ブランの家から、俺の目の前で。あの屈辱は忘れない」

 オリヴァーは笑みを消した。

「ひどいことされたの?」

「ううん、私が赤の兵舎にいたのは短い時間だったし、すぐにオリヴァーが助けに来てくれたの。ムームー砲を持って」

 アリスが隣のオリヴァーを見上げ、頬を染める。

「どうして、ランスロット様がそんなこと……」

 オリヴァーはしばらく言葉を選ぶように考えた後、口を開いた。

「当時の魔法の塔のボスは、科学の国の人間に恨みを抱いていた。ランスロットは魔法の塔にこいつを連れてくるように言われていたんだろう」

「赤の軍と黒の軍は、協力して魔法の塔を倒したんじゃないの?」

「駄犬、お前が赤の軍を気に入ってるのはわかる。だが魔法の塔を倒す前、赤の軍と魔法の塔が癒着していたのは事実だ」

 アンリは思わずゼロを見た。

「ランスロット様のお考えまでは俺にはわからない。ランスロット様が魔法の塔に出入りしていたのは事実だ。でもそれについて俺たちは何も聞かされていない。戦闘になって、俺たちは黒の軍を助けるよう命令された」

 ゼロは少し辛そうだった。 

「どうした駄犬、赤の兵舎が怖くなったか?」

「怖くない。ただ、……もやもやするだけ」

 ゼロもいるから、怖くはない。

 オリヴァーやブランが嘘をついているとも思わない。

 だけど、何か不自然だった。目隠しをされてわざと間違った道に誘導されているようでスッキリしない。

「もう終わったことだ、気にするな」

 オリヴァーがグラスを煽った。

「うん……もう終わってるの?」 

「ああ、お前が心配するようなことは何もない」

 ゼロがアンリを安心させるように微笑みかけた。

 じゃあ、どうしてランスロット様はまだ眠れないのかな。

「ボスは幽閉されている。逃げ延びた上級魔法学者も何人かいるみたいだがな。そうだ、駄犬、念の為に忠告しといてやる。ローブを着た男には近づくな。それから、お前に『お姫さま』って呼びかける男にも」

「お、お姫さま?……駄犬よりずっとましだと思うけど」

 オリヴァーは再びニヤリと笑った。

「アリスもオリヴァーも、この先もずっとクレイドルにいるの?」

「ロンドンに帰らないのかってことか?」

 オリヴァーに問い返され、アンリは頷いた。ふとオリヴァーの表情が曇ったような気がして、アンリはいけないことを聞いたのかもしれない、と思った。

 だけどオリヴァーは不敵な微笑みを取り戻すと、

「いつかは帰るかもな」

 と答えた。アリスは何も言わず、穏やかに微笑んでいる。

「駄犬、お前ものんびりしていけばいい。なんならずっといればいい。少なくともロンドンにいるより、今のお前は安全だ。それに、明らかに今のお前の方が顔色がいい」

 事件が解決するまで、クレイドルに身を寄せるだけ。アンリにとって、クレイドルは今まで一時的に身を寄せたロンドンの教会やパン屋と同じだった。

 突然目の前に現れた新しい選択肢に、アンリはどう答えたらいいのかわからなかった。

「あっ、おい。ゼロ、それ辛いぞ」

 突然のカイルの声にアンリの思考は中断された。振り向くと、ゼロが口に手を当て、うつむいて震えていた。

「ゼロ、辛いもの苦手なの?」

 気づかず口に入れたものが、よほど辛かったらしい。ゼロは声も立てずこくこくと頷いた。目に涙が滲んでる。

「子どもかよ」

「オリヴァー、人参食べられない人が言うことじゃないわよ、それ」

 アンリはすかさず言い返したが、つい、笑い出してしまった。

「ふ、ふふ、ごめんね、笑っちゃって。お水もらってきてあげる」

 フロアに手の空いている店員が見当たらなかったので、アンリはカウンターまでいって、水を頼んだ。

(知らなかった。ゼロ、本当に辛いもの苦手なんだなあ)

 涙目になっていたゼロを思い出すと、自然と口元が緩んでしまう。

(普段あんなに強くてかっこいいのに……なんか……かわいそうで可愛かった)

「お嬢さん、楽しそうだね、こっちで一緒に飲まないかい?」 

 カウンターで水を待っていたアンリに、仕立ての良さそうな服を着た、背の高い男性の二人連れが突然声をかけてきた。

「ごめんなさい、私、友達と来ていて……」

「まあまあ、そんなこと言わずに」

 もう一人の男性が、アンリの手首をいきなり掴んだ。

 ぞわり、と鳥肌が立つ。

「離して」

 アンリは毅然と男たちを睨みつけた。

 手首を掴むなど、口調は紳士的なのに、無礼が過ぎる。

「へえ、あんたそんな顔もできるのか」

 男たちは気にせず、アンリの腕を強引に引っ張った。

手首を引かれ、バランスを崩しそうになったアンリの肩が、後ろから強く引かれた。

「彼女に触れるな」

 低い声がして、目の前に広い背中が現れた。ゼロが、素早く男たちとアンリの間に割って入ったのだった。男はゼロの気迫に押されて、アンリの手首を離した。

「なんだ、お前」

 片方の男が勢いに任せてゼロに殴りかかったが、ゼロはそれをかわさず、受けた。大柄な男が渾身の力を込めて殴りかかったように見えるのに、ゼロは顔を少し背けただけで、アンリの目の前の体はビクともしない。

「これで気が済んだだろう、退け……お前たちでは、俺の相手にはならない」

 低く静かな、それでいてよく通る声だった。

 殴りかかってきた男は圧倒的な力の差を感じ取っているはずだが、彼らの愚かさが、退くことを躊躇わせていた。

「お兄さんたち、相手をよく見た方がいいよ。……今回は相手が悪すぎるんじゃない?」

 突然、男たちの背後から、場に不釣り合いな、明るく軽やかな声がした。

「何を……」

 ゼロに殴りかかった男は、その明るい声の主を今度は睨みつけたが、もう一人の男はゼロをまじまじと見て、はっとした表情になった。

「おい、あの首のタトゥー……こいつ、赤のエースだ」

「なんでこんなところに……おい、行こうぜ」

 殴りかかった男は舌打ちをすると、もう一人と連れ立って、逃げるように店の出口に向かった。

「アンリ、大丈夫か」

 ゼロは彼らが出ていくのを確認した後で、アンリの方を向いた。

「うん、ありがとう。ゼロは、大丈夫?」

「なんともない。……初めてこのタトゥーが役に立ったな」

 ゼロはふ、と皮肉な微笑を浮かべ、自分の首の右側を抑えた。

「助かった、ありがとう」

 ゼロはさっきの明るい声の主の方に礼を言った。

「どういたしまして」

 声の主は、にっ、と笑いながらこちらを見た。男の子、と言ってもいいぐらい若く、綺麗な男性だった。珍しい、片目の赤いオッドアイが彼にどこか神秘的な魅力を加えている。彼の隣には、彼より10は年上に見える美しい女性が寄り添っていた。

「お姉さんの笑顔はとっても魅力的だけど、悪い虫を寄せ付けやすそうだ。今度から微笑みかけるのはそのお兄さんだけにしておいた方がいいよ」

 男の子はそう言いながら、傍の女性に甘えるように寄りかかる。婉然と笑いながら目線だけをこちらに寄越す姿には、彼の年齢に似つかわしくない艶があった。

「アンリ、戻ろう」

 ゼロはそれ以上彼には構わず、カウンターで水を受け取ると、逆の手でアンリの肩を抱いた。

「こんなところで一人になるな。ちゃんと俺のそばにいてくれ」

「ごめんなさい」

「……すまない、別に怒ったわけじゃない」

 ゼロはそれ以上、何も言わなかった。  

 席に戻ると、みんなが心配していた。

「アンリ、ゼロ、大丈夫かい?」

「駄犬。お前がヘラヘラ笑ってるから妙なのが寄ってくるんだ」

「アンリ、オリヴァーはね、アンリの笑顔は魅力的だから気をつけなさいって言いたいの」

 アンリはアリスのフォローに苦笑を返しながらも、ハンカチを広げ、さっき飲んだグラスに残っていた氷をハンカチの上に乗せた。

 アンリの意図にすぐ気づいたカイルも、水割りの氷をくれた。

 アンリは氷を包み込んだハンカチを、隣のゼロの頬にそっと当てた。

「ありがとう。なんともないから、気にするな」

 アンリの手の上から自分の手を当て、ゼロが表情を和らげた。

「お前の方が、痛そうな顔をしている。……この程度、見慣れているだろう?」

「ゼロ、そいつは患者の前では気合い入れて笑ってんだ。仲間の怪我が平気なわけじゃねー」

 カイルの言葉に、ブランが目を細めた。

「お前も、おとなしく殴られてやる必要なんてなかっただろー?十分かわせたはずだ」

「騒ぎを大きくして店に迷惑をかけたくなかった。それに、ああいう連中は2、3発殴らせてやれば満足しておとなしくなる」

 すると、それまで黙っていたブランが口を開いた。

「ゼロ、君の言っていることは正しいかもしれない、それでもね。自分が痛みを感じた時に、同じように痛そうな顔をしてくれる人がいる人間は、自分をもっともっと大切にしなくちゃいけない」

 ゼロはブランの言葉を聞いてから再びアンリの顔に視線を戻した。アンリの心配そうな顔をみて、ふわりと柔らかく微笑む。

「ああ、……胸に刻もう」

 ゼロは静かな声で答えた後、

「困ったやつだな」

とさらに小さく呟いた。

 アンリの指が冷たくなるから、とアンリの手を離させ、ゼロが自分で頰を冷やしていると、店主らしき男がテーブルにやってきた。

「お客様、先程は騒ぎにならないよう治めていただいてありがとうございました。彼らもうちの常連で、決して悪人ではないのですが、今日は悪ふざけが過ぎたようで……お詫びにぜひ皆様に一杯ずつご馳走させてください」

 店主からの思いがけない提案に、カイルとアリスが歓声をあげてはしゃぐ。

 それぞれが注文した酒が届くと、カイルが張り切って音頭をとった。

「ようし、うちのエースのほっぺたと引き換えの一杯だ。ありがたくいただこうぜー」

 オリヴァーとアリスが楽しそうに続いた。 

「ゼロのほっぺたに!」

「ゼロのほっぺたに!かんぱーい」

 もう一度ゼロ以外の五人で繰り返すと、ぽかんとしていたゼロも笑い出した。

「おかしな奴らだな」

 アンリも楽しくなって、ゼロと顔を見合わせて笑った。

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