愛さずにいられない  —第六話—


赤のエースで妄想してみた その1 愛さずにいられない —第六話—


 セントラル地区の酒場でみんなで飲んだ日から、アンリの心の中には小さな嵐が居座っているらしい。時折、心の中に突風が吹いて、カタカタと不安定な音を立てている。それは焦燥感を伴った、原因不明のぼんやりした不安。

 あの飲み会は楽しかった。

 ゼロが、ずっと隣にいた。

 アンリはまた落ち着かない気持ちで、ぎゅっと自分の両腕を抱きしめるようにした。ゼロのことを考えると、突風はやや強くなる。

 時々二人で顔を見合わせて笑ったことや、辛いものを食べて涙目になったゼロを思い出すと、ふと口元が緩む。でも、アリスと話していたゼロを思い出すと、またざわざわと小さな嵐が騒ぎ出した。

(綺麗な女の子だったなあ)

 明るくて、優しくて、面白くて。彼女と話すのはとても楽しかった。一緒にケーキを食べに行こうねって約束した。

 あの時、アンリは、ゼロが自分以外の女の子と話しているところを初めて見た。赤の兵舎が男所帯だというだけで、クレイドルには女の子ももちろんたくさんいるのだ。アリスは、オリヴァーの恋人だけど。もしかして、ゼロにも、そういう大切な女の子がいるんだろうか?

 そこまで考えたところで、嵐が抑えられないぐらい大きくなりそうになる。アンリは慌てて考えるのをやめた。

 二人で顔を見合わせて微笑み合うような優しい時間が、少しずつ積み重なっているのに、やっぱりまだゼロのことを何にも知らないと気づく。家族のことも、恋人のことも。

 アンリは、ふとキラキラしたブロンドに縁取られた、アリスの華やかな笑顔を思い出し、自分の地味なブラウンのクセ毛の髪と瞳を思い浮かべた。

 今まで、こんなこと気にしたことなかったけど。

(確かに犬っぽいかな)

「せめて、人間になりたい……」

 アンリは呟くと、小さなため息をついて、開いたまま全くはかどっていない薬草学の本に頭をそっと乗せた。

「なかなか興味深い独り言ですね」

「ひゃっ!」

 突然、笑いを含んだ柔らかな声が頭上でして、アンリは妙な悲鳴をあげて飛び上がった。さっきまでとは違う理由で、ばくばくと激しい鼓動を打つ胸を、強く押さえる。

「エドガー!気配を消しながら医務室に入ってくるのやめてよ。趣味が悪いと思う」

「嫌だなあ、そんなことしていませんよ。あなたが薬草学に夢中になりすぎて気がつかなかっただけでは?」

 エドガーは、机の上に開かれたままだった薬草学の本に目をやる。そしていつもの本心の読めない笑顔のまま、近くの椅子を引き寄せ、アンリの机の前に座った。

 薬草学の本が全くはかどっていなかったことを指摘されたようで、アンリは恥ずかしくなってうつむき、目をそらした。

 エドガーは、机に頬杖をつき、楽しげに言った。

「何か悩みがあるなら、お兄ちゃんが相談に乗りますよ」

 微笑むエドガーが頼もしく見えて、アンリもつられて微笑んだ。でも、心の中の形にならないモヤモヤをなんとかしようと口を開くと、どう説明したらいいのかわからなくなり、やっぱり何も言わずまた口を閉じるしかなかった。自分でさえ形のはっきりしない悩みを相談なんて、どうすればいいのだろう。

 アンリは無意識に、また小さなため息をついた。

「……ゼロにとって、リコスは初めてできた、唯一の家族なんです」

「えっ」

 エドガーが突然話し始めたので、アンリは顔をあげた。エドガーを見ると、思いの外優しい顔で微笑んでいた。アンリはエドガーがさらりと言った言葉の重さに少しおいてから気づいて、ただ絶句する。

「去年の暮れの雨の日に、警邏に出ていたゼロが拾ってきたんですよ。まだこんな小さな、生まれて間もない仔犬でした」

 エドガーは言いながら、両手を合わせて小さく丸めた。その手の中に小さかったリコスがいるかのように、優しい目で自分の手を見る。

「彼は動物好きの俺がなんとかしてくれるだろうとあてにしていたようですが、弟子を甘やかすのは良くないので、自分で育てるように言いました」

 エドガーはアンリにまた人好きのする笑顔を見せて、続けた。

「何しろ彼は動物に接する機会などほとんどなく生きてきたので、途方に暮れていました。でも、彼がなんとかしないと仔犬は生きていけませんから。仔犬は無心に彼を慕ってきますしね。しょっちゅう俺のところに仔犬の育て方について教えを乞いにきました。寄宿学校時代に戻ったみたいで、ちょっと楽しかったなあ」

 アンリは、不器用で生真面目なゼロが仔犬相手に四苦八苦している様子を容易に想像できた。それを面白がるエドガーの様子も。ゼロは不本意な顔をするかもしれないけれど、エドガーがこんな風にゼロの話をする時、彼が師匠としてゼロに深い愛情を持っていることを感じる。それは少し歪だけれど、やはり温かく、優しい気持ちだった。

「リコスはね、家族のいなかったゼロに、初めてできた、なんのためらいもなく愛情を注げる対象なんです。リコスに会ってから、彼は少し変わりました」

 そこまで話して、エドガーはクスクスと声を立てて笑い出した。

「リコスって名前は、ゼロが子供の頃読んだ本に出てくる立派なオオカミの名前からもらったらしいんですが、ゼロがあの調子で甘やかすから、すっかり甘えんぼうになってしまいました」

 すぐにゼロにじゃれついて甘えるリコスを思い出してアンリは口元を緩めた。

「ゼロが魔法の塔出身だという話はもう聞きましたか?」

 アンリが頷くのを確認して、エドガーは続けた。

「彼はちょっと特殊な環境で育ったようです。俺が出会った頃のゼロは全く無知で、無垢でした。彼は、自分の運命を呪う知恵さえなかった」

 一瞬だけ、遠くを見るようにしたエドガーの顔から微笑みが消えた。そして、アンリをまっすぐ見つめるとまたいつものように微笑んだ。

「ゼロにはね、根深い呪いがかかっているんです」

「呪い?」

「そう。リコスにも解けない呪い。俺はね、あなたがもしかしたらその呪いを解いてくれるんじゃないかと、期待しているんですよ」

「エドガーには、解けないの……?」

「俺には残念ながら、その資格はありません」

 口調は軽やかなままだが、俯くエドガーの表情は見えなかった。

「どんな呪いなの?」

「いずれわかりますよ」

 顔を上げたエドガーは、いつも通り微笑んでいた。

「王子様の呪いをとくのはお姫様の役割でしょう?」

 エドガーはアンリの頭にぽん、と手を載せ、おどけるように言うと、部屋を出て行った。

 エドガーの言う『呪い』が何のことなのか、アンリにはわからなかった。

 半年前拾った仔犬が唯一の家族の、ゼロ。リコスと会うまで彼が置かれていた孤独は、アンリにとっては想像を絶するものだ。

 今のゼロの穏やかな微笑を思うと、胸が軋んだ。

 もっとゼロのことを知りたい。

 ゼロが、どうかもう寂しくないように。

 アンリの中にそんな願いが生まれていた。

 エドガーと入れ違いで、カイルが医務室にかえってきた。カイルは朝からランスロットに呼び出されていたのだ。

「説教だった。ランスのやつ」

「お説教?何やったの」

「昨日談話室の入り口ふさいだやつ。ついでに、先週と先々週食堂の入り口ふさいだやつ」

「カイル、そんなことしょっちゅうやってるの?」

 ランスロット様もご苦労が多いことだ。

「まあ……たまに?」

 カイルも反省はしているのか、ちょっと目をそらす。

「カイルがそうやって困らせるから、ランスロット様寝不足なんじゃないの?」

 アンリは呆れ顔で言った。

「ん?お前、なんでランスが寝不足だって知ってるんだ?」

「一昨日、クマが……」

 アンリは言いかけて、慌てて口を手で押さえた。

(しまったあ)

 恐る恐るカイルを見ると、全てを見透かすように、カイルの目が細められていた。

(やっぱり、ここにいらっしゃった)

 アンリが一昨日リコスと一緒にランスロットに会った倉庫の中で、ランスロットは何か大きな本を開き、調べ物をしているようだった。

「どうした、また遊びに来たのか」

 アンリに気づくと、ランスロットはほんの少しだけ表情を和らげた。

 アンリは申し訳ない気持ちでいっぱいになる。

「ランスロット様、ごめんなさい。実は今日は私、カイルの使いなんです」

 ランスロットの美しい顔がみるみる曇った。

 見ているアンリもなんだか悲しくなってしまう。

「……アンリ、お前ライオンの子供を見たことはあるか?」

「えっ?いいえ」

 ランスロットの脈絡のない問いかけに、アンリはきょとんとして答えた。

「もし見逃してくれたら、ホワイトライオンの子供を撫でさせてやろう」

「えっ!」

 それは是非とも撫でてみたい。

 しかし近くで見ると、ランスロットの顔色はやはりあまり良くなかった。

 カイルのところに連れて行くべきだろう。看護師としての判断はそうなるのだが、アンリ自身としては、ランスロットが少し気の毒になってしまうのだった。

(苦手なものは誰にでもあるもの……)

「そうだ、ランスロット様、明日の朝ごはんを一緒に食べてください」

「朝食を?」

「そしたら、見逃して差し上げます」

 訝しげに眉をひそめていたランスロットが、楽しげに微笑んだ。

「俺に取引を持ちかけるとはいい度胸だ」

「最初にライオンで買収しようとしたのはランスロット様ですよ。あ、是非ライオンも撫でさせてください」

「よかろう」

 取引成立、とばかりに、ランスロットとアンリはにっこり微笑みあった。

 その時。

「おーい、待て待て待て!あっさり買収されてんじゃねーぞ、相棒!」

 振り返ると、興味深そうに微笑むエドガーと、少し困った顔をしたゼロと、怒ったカイルがいた。

「驚きました。アンリは優秀ですね。俺たちがどんなに探しても見つけられなかったランスロット様をあっさり見つけましたよ」

「ひどい、尾行したのね、エドガー。ゼロまで!」

 アンリは勢いよく両手を広げ、ランスロットを背に庇うように立った。

 ゼロが少し傷ついたような表情を見せた。

「カイルも!ランスロット様を連れてくるのが私の仕事だって言ったじゃない」

「まて、お前今まさに買収されようとしてたじゃないか」

「う、そうだけど、それは……」

 無理に医務室に連れて行くより、生活を整えていったほうがいいのではないかと思ったのだ。

「アンリ、怒らないでくれ、俺たちもランスロット様を心配してるんだ」

「それはわかるけど」

 でも三人のしたことが、アンリには許せなかった。アンリを騙してランスロットのところに案内させたのだ。犬を使うみたいに。これは日頃の仔犬扱いとはちょっと違うと思う。

「騒がしい、こんなところで言い争うな」

 ランスロットの物憂げな声がして、アンリの頭にぽん、と手が乗せられた。

「アンリ、お前が憤る気持ちもわかるが、許してやれ。ゼロ、エドガー、俺はこれからカイルと医務室に行くから、お前たちは自分の仕事に戻れ」

「はっ」

「ランスロット様……」

 ランスロットが憂鬱そうな表情で出口に向かったので、アンリもあとに続いた。

 ランスロットが長々と時間をかけた後、苦渋に満ちた表情で注射を終え、医務室をあとにしてから。

 カイルが気まずそうに、謝ってきた。

「あー、アンリ、悪かったな。お前を騙したわけじゃないんだ」

 カイルによれば、アンリがランスロットを探しに出て行くところを、偶然エドガーが見かけ、訳も知らないまま後をつけたらしい。

「あいつのあれは職業病みたいなもんだ、許してやってくれ」

 そしてたまたま医務室の近くにいたゼロが巻き込まれたのだった。

「うん……私も怒ってごめん。……ねえ、それよりカイル、ランスロット様はどうしてずっと寝不足なの?仕事が忙しいの?」

「いや、今は睡眠時間は取れているはずだ」

「そう……」

「確かに、なんか様子がおかしいんだよな。あの弱り方は、魔力を使っていた時に似ている」

「えっ」

「くそ。あいつまた何か一人で抱え込んでるんじゃねーのか……」

 魔力を使っているとしたら、一体何に?

 二人が考え込んでいると、医務室のドアが勢いよく開けられた。

「アンリ、お茶を淹れてくれる?ケーキを持ってきてあげたよ」

「ヨナ、医務室はそういうところじゃねーって言ってるだろ」

「せっかく魔法石使えるようになったんだから、復習した方だいいだろう。ほら、アンリ、やってごらん」

「はい」

 ちょっと緊張しながら、アンリは魔法石をランプに設置し、光が灯るところをイメージしながら、そっと指を離す。

(……うまくいった!)

 青い光が安定して灯った状態で、ゆらゆらと揺れている。

 アンリは満面の笑みでケトルをセットした。

「ちょっとアンリ、これは何?」

「えっ?」

(うまくいったと思ったのに……!)

 アンリは何か失敗したのかと慌てたが、ヨナが見ているのは魔法石ではなく、アンリの髪だった。より正確には、アンリの髪をまとめている包帯の切れっ端。

「仮にも赤の軍の看護師が、そんなみっともないことするんじゃない。もっと身なりに気を使うんだ。女の子だってのに、これじゃ台無しじゃないか」

「ごめんなさい……明日からちゃんとします」

 アンリはヨナの勢いに押され、素直に謝った。謝っては見たものの、髪留めの類は一切クレイドルに持ってきていない。代わりになりそうなものの心当たりもなかった。

 今は護衛付きでないと外出できないから、気ままに買い物に行く機会もない。

(うーん、明日からどうしよう)

「全く、ゼロもカイルも気が利かない」

 ヨナはブツブツ言いながらソファに腰を下ろした。しかし自分が用意してきた箱からイチゴのミルフィーユを取り出すと、すぐに表情は満足げな、華やいだものになる。

「わあ、美味しそう」

「もちろんおいしいよ。ここのミルフィーユは絶品なんだ」

 甘いものの苦手なカイルはこっそり顔をしかめると、そっと離れた椅子に移動した。

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