新聞部の部室は、同じ棟の、執務室とは逆の端にある。わざわざ執行部から一番離れた部屋を選ぶあたり、何をしようとしているのか怪しいものだといつも思う。
ルシファーは長い廊下を歩きながら、ふと自分の右手にあるワームに目をやった。
ほんのりと温かい、赤に近い桃色。ルシファーを見つめるMCの頬と同じ色。
議場でバルバトスが仄めかしたように、生成された時点で無色透明のワームは、人間の感情を食べてその色に染まる。このワームを染めているのは、恋情。MCがルシファーを戀い慕う思いだ。
尤も、彼女自身はまだその想いに気づいていない。
足を止め、暗い窓の外を見る。敷地内の木々の向こうに、ほのかに街のあかりが見えた。
数多の人間、悪魔、天使。いずれであってもルシファーに想いを寄せるものは、わかりやすく彼を欲した。決して手に入らないとわかっていても、皆彼の方へ手を伸ばす。敬愛、憧憬、羨望、その中に必ず混じる、物欲しそうな視線。
だけどMCはルシファーに何も求めない。
ただ、彼を慕う想いだけが、彼を見つめる視線を、彼の名を呼ぶ声を通して伝わってくる。
それが時折、ひどくもどかしかった。
新聞部の部室では、メフィストフェレスが一人で記事を推敲していた。ルシファーが机の前に立つと、やっと彼は原稿から顔を挙げた。
「君がここにくるなんて珍しい」
口元は笑っているが、眼鏡がデスクライトを反射して、表情はわからない。
彼は、ルシファーからワームを受け取って検分すると、すぐに認めた。
「ああ、間違いない。このセンチメントワームは私がつくったものだ」
「あまり妙なものに手を出すなとディアボロからの伝言だ。事故の報告が相次いでいることは知っているのだろう」
「どうしても好奇心に逆らえなくてね。好奇心は記者の身上だ」
メフィストフェレスに全く悪びれた様子はない。
「とにかくもうこれきりにしておけ。RADの中にこんなものを放されては困る」
「ふむ。君が来たということは、これはソロモンではなくMCの気持ちを食べたわけか。随分鮮やかな色に染まったものだ」
鮮やかな赤と桃色。恋情の色。
MCの、ルシファーへの。
あの、溺れてしまいそうな。息苦しいほどに甘い。
それが別の男の手の中にあるのが、ひどく不愉快だ。
ルシファーは自分の中に湧き上がった思いがけない感情に、微かに眉をひそめた。
メフィストフェレスはルシファーの表情の変化には気づかず、まるまるとしたワームを持ち上げ、デスクライトに透かしている。
「ふふふ、ずいぶん甘そうな色だ。さて、MCの恋心は一体どんな味がするんだろうね?……では、いただくとしよう」
メフィストフェレスはルシファーの目の前でワームを食べてしまうつもりらしく、大きく口を開けた。
「よせ」
ルシファーの抑止の言葉に、メフィストフェレスは意外そうに眉をあげ、視線だけこちらによこした。
「一度ぐらいで中毒にはなりはしない。ワームの生成にはそれなりにコストがかかることもわかったし、今回限りにするさ」
彼はそう言うと、再びワームを食べようとした。
ルシファーは咄嗟に手を伸ばし、メフィストフェレスが摘んでいたワームを奪い取った。
ルシファーの思いがけない行動に、彼は目を丸くする。
「おい、冗談だろう?返したまえ、ルシファー」
「……嫌だ」
メフィストフェレスは訳がわからない、と言うように眉を歪める。
ルシファー自身にも、訳などわからない。
——一体俺は、何をするつもりなんだ?
「どういうつもりだ、ルシファー」
「俺にもわからん」
自分で自分の行動が信じられない。
だけど、彼女の気持ちを誰か別の男が食べるということが、どうしても耐えられない。
「ふざけるな」
メフィストフェレスが立ち上がり、ルシファーの方へ手を伸ばした。
ルシファーは、取り返そうとするメフィストフェレスの手をかわし、ワームを掴んだ手を高くあげた。
ルシファーより背の低い彼の手は届かず、空振りする。
メフィストフェレスの表情が屈辱に歪む。
——しまった、ついマモンのカードを取り上げる時と同じ動きが出てしまった。
後悔したが、もう遅い。
「ルシファー、いい加減にしろ!貴様、喧嘩を売りにきたのか」
激怒したメフィストフェレスが、悪魔の姿に変わる。
ルシファーは冷静を装ってはいたが、自分の行動に混乱していた。
自分に非があるとわかっていた。それでも。
「これはお前には食べさせない」
恋は悪魔を狂わせる。
ルシファーはまるまるとしたセンチメントワームを無理やり自分の口の中に押し込み、——飲み込んだ。
ぐるうりと。
世界が、緩やかに回転し始める。
メフィストフェレスの喚き声が急速に遠ざかってゆく。
ルシファーは立っていられず、咄嗟に机に手をついて体を支えた。
極彩色の波に飲み込まれる。
もはや視界は全て彼女の恋に覆われている。
心を愛おしさが満たす。
脳内に響く鐘の音。
絶え間なく鳴り響く、祝福の、ああ違う、これは彼女が身につけているベルの音。いや、彼女の笑い声。
ルシファー。
甘やかな声が脳髄に響く。身体中の水分が呼応して震える。全ての神経が共鳴する。
どうして。
何故だ、MC。
何故君は俺を欲しがらない。
俺を飲みこみ、動けなくしてしまうほどの想いを育てながら、どうして。
俺は。
俺はこんなにも君を——。
「おい、ルシファー!」
メフィストフェレスの叫ぶような声にはっと現実に引き戻された。
人間の姿に戻った彼が、不安そうに覗き込んでいる。
いつの間にかルシファーは悪魔の姿になっていた。床には紙と黒い羽根が散らばっている。机についた腕でなんとか自分の体を支えていたが、今にも倒れ込みそうなほどの疲労感に襲われた。
驚いたことに、涙が頬を濡らしている。
メフィストフェレスは無言のまま手を貸そうとしたが、その手を払うようにして、近くのソファに体を沈めた。
上体をぐったりと背もたれに預け、目を覆うようにして、こめかみを抑える。
まだ、視界がぐらぐらしていた。
「大丈夫なのか……?」
すっかり毒気を抜かれた様子のメフィストフェレスが、水の入ったグラスを差し出した。
受け取り、一気に喉に流し込む。
「俺は何か口走ったか……?」
「いや。何も、……聞き取れなかった」
ルシファーはただ、恍惚とした表情で動かなくなり、やがて涙を流し始めたと彼はぼそぼそと説明した。
「君でさえ、あんなふうになるなんて……。私は金輪際センチメントワームには手を出さない」
メフィストフェレスは誓うように言った。
一体自分はどれほどの醜態を晒したのか。考えたくない。
「その方がいい」
ルシファーは手で顔を覆ったまま、それだけ言った。
新聞部から戻る長い廊下、議場の手前で、ディアボロが待っていた。彼は微笑み、無言で議場の隣の小部屋を指差した。
おそらく報告を求められているのだと思ったルシファーは、気が重くはあったが、彼にしたがってその部屋に入った。
意外なことに部屋の中にはソロモンがいて、黒板には整然と何かの術式が書き連ねられていた。
「実はセンチメントワームは、ずっと昔俺がつくりだしたものなんだ」
彼は静かにそう告白すると、センチメントワームの術式を丁寧に説明し始めた。
「まさかこんなに時間が経ってから自分が編み出した術式を魔界で目にするなんて、感慨深いなあ」
説明を終えた彼は、どこまでも呑気な様子で微笑む。
「ワームによって純化された人間の気持ちが、君たち悪魔にはずいぶん刺激的な物になるというのもなかなか興味深い」
「ソロモン、魔界としてはそう面白がってもいられないんだ」
ディアボロが困り顔で首を振る。
「わかっているよ、ディアボロ。さっき説明したように、ワームには人間界の緑玉髄が大量に必要なんだ。そこを押さえるのが一番効率的だ」
「なるほど、ありがとう。助かったよ。もともと人間界のものだったのだから、もっと早く君の話を聞いておくべきだったな」
「俺もセンチメントワームのことなんて、さっき議場で目にするまでずっと忘れていたけどね」
ソロモンはそう言うと、懐かしそうな目をした。
「なぜワームを使わなくなったんだ?」
ルシファーは、ふと浮かんだ質問を口にした。
「長く生きているといろんなことに慣れるからね。必要なくなったんだ」
ソロモンは静かに目を伏せた。
小さな部屋に、微かに感傷的な空気が漂う。
あらゆることに慣れていってしまうやるせなさ。長い時間を生きる悪魔も、同じ気持ちを知っている。
だが、次に顔をあげたときには、彼はあっさりその感傷を吹き飛ばすように、きらきらと好奇心に満ちた目を取り戻していた。
「それで、どうだった?ワームの味は」
みると、ディアボロもうずうずと好奇心を隠せないでいる。
「……なぜ俺がワームを食べたと?」
「そりゃだって、君がMCの恋心で育ったワームを誰かに譲るなんて考えられないからね」
二人が声を揃えた。
いつの間にこんなに気が合うようになったのだ、こいつらは。
しかし事実なので、ぐうの音も出ない。
彼らと言い合う気力も残っていなかったルシファーは、深いため息とともに「早急に取り締まったほうがいい」とだけ答えた。
「そんなにすごかったのか……!」
「まあ、今回はルシファーが自分に向けられた気持ちを食べたわけだからね。特殊なケースだと思うよ」
「そうか、一度ぐらい私も経験してみたいなあ。ワームは人間の気持ちしか食べないのが残念だ。どこかに私を慕ってくれる人間がいたらいいのになあ」
ディアボロがそわそわしながら目を輝かせている。
(ディアボロ、君だけはメフィストフェレスの好奇心をとやかく言えないと思うぞ)
ルシファーは、バルバトスに後で注意を促しておくことに決めた。
「大魔女マディに頼んでみればどうだ」
ルシファーがちょっとからかうつもりで言った一言の効果は思ったより大きく、ディアボロは直ちにぴしりと表情を引き締めた。
「センチメントワームは、金輪際魔界では禁止だ」
「ルシファー、お帰り!あの子、飼い主に無事返せた?」
議場に入ると、すぐにMCが駆け寄ってきた。
ルシファーは後ろめたさをきれいに押し隠し、MCに微笑んで見せる。
「ああ、安心しろ」
MCの笑顔が返ってきた。
彼女の笑顔を見たルシファーの中に、新聞部部室での強烈な体験が蘇った。
あれほどの気持ちを食べられて、本当に彼女は大丈夫なのだろうか?
「MC、君は本当になんともないのか」
「へ?」
MCはわけがわからない、ときょとんとした表情で見上げてくる。
「よく見せてくれ」
ルシファーは彼女の顔を両手で挟み、驚きで見開かれた大きな瞳を、間近から覗き込んだ。
頬を染め、ルシファーを見つめるその瞳には、少しも変わらず彼への思慕があふれている。息苦しいほどの想いが、ルシファーの心を甘く締め付ける。
そのまま、溺れてしまいそうだ。
「……よかった」
ルシファーはコツンとMCと額を合わせ、安堵の息をつくとともに目を閉じた。本当に、よかった。
「ちょっとちょっと、ルシファー」
アスモが腕を突く。
「MC、目まわしちゃってるよ」
「何?」
目を開くと、顔を真っ赤にしたMCの体がぐにゃりと傾いた。
「おい……?!」
倒れそうになった彼女の体を咄嗟に抱き止める。
「おやまあ、どうやらのぼせてしまったようですね」
バルバトスがMCの真っ赤な顔を手近なノートで仰ぎながら、もう少し手加減してさしあげなくては、と苦笑した。
「もしかして、彼女のあなたへの恋心がワームに食べられて変化したかと焦ったのですか?」
図星を突かれたルシファーは、咄嗟に取り繕うこともできない。
「ふふ、あのワームはよほど強烈だったのですね。……誰かを慕う気持ちは泉のように湧き続けるものです。無用な心配ですよ」
バルバトスは悪魔とは思えないほど慈愛に満ちた微笑とともに、そう告げた。
「MCの場合はは湧き出しすぎてそこらじゅうに溢れさせちゃってるけどねー」
アスモの陽気な声が茶化す。
なるほど、溢れたものを少々センチメントワームが食べたところで、彼女の想いにはなんの影響もないということだ。
そこでルシファーは気づく。
それでは、センチメントワームを通してが味わったあの強烈な体験は、彼女の恋心の、ほんの一部でしかないのか。
それはそれで恐ろしい。
いつか俺はこの恋心に飲み込まれてしまうのかもしれない。いや、違う。おそらくもう、とっくに——。
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