「おはようございます、MC。良い朝ですね」
笑顔のバルバトスが朗らかに、唄うように挨拶する。
彼は優しくわたしの頬を撫でてから、両手で恭しくその首を持ち上げた。
目を閉ざしたまま、挨拶を返すこともないわたしの首を、しばらく愛おしそうに見つめる。
そうしてテーブルの上に色とりどりの瓶を並べ、丁寧にわたしの肌の手入れを始めた。テクスチャーの異なる二つの化粧水、乳液、クリーム、化粧下地。
かすかな声で軽やかに歌を口ずさみながら、ゆっくりと、丁寧に、丁寧に。
彼の指は壊れやすい宝物に触れるように、優しく繊細に動く。
ああ、そうか。
静かに、染み入るように納得した。
以前、ソロモンに見せてもらった、人骨を生前の姿に戻す魔法。人間界の科学技術による復元に似ていたけれど、魔術だけあって、姿も感触も本物そっくりだった。だけど姿が戻るだけで、決して生き返るわけではない。
きっと彼はわたしの頭骨にあの魔術を用いたのだろう。
つまり。
わたしはもう、ここにはいないのだ。
彼は優しくわたしの首に語りかける。
「春ですから、今日はこの桜の色はいかがでしょう」
丁寧にベースを整えた後で、彼は淡いピンクのパウダーを指先に取って、わたしの目元と頬を撫でた。彼が触れた場所が、ほんのりと桜色に色づく。
「よくお似合いです」
満足げな微笑を浮かべ、わたしの首を持ち上げると、そっと唇を重ねた。
「ふふ。色を載せたら、しばらく触れることができませんから」
彼は幸せそうな表情のままリップブラシを手に取り、今度は唇に色を重ねていく。
メイクが完成すると、次は髪。彼はわたしの癖のある髪を器用に整え始めた。
「柔くて手触りの良い髪です。あなたはよくこの癖毛を気にしていらっしゃいましたが、私はあなたの髪に触れるのがとても好きなのですよ」
全て整え終えると、彼はもう一度私の首を恭しくかかげ、額を合わせ、ささやいた。
「愛していますよ」
胸が熱い。
苦しい。息ができない。声が出せない。
「MC!」
強く体を揺さぶられて、はっと目を開いた。
「大丈夫ですか?」
深い緑の瞳が、心配そうに覗き込んでいた。
混乱して、すぐに言葉が出てこない。
ゆっくりと視線を巡らせる。彼の肩越しに見慣れたガラスの壁や魔界ストレチアが見えて、ここが魔王城の温室だということを思い出す。
「あ……夢……」
ソファに座ったままうたた寝してしまったようだ。
目が覚めても、夢はまだ心の中にずっしりと重く居座っていた。
彼の指の背がそっと頬を滑る。その白い手袋が濡れていたので、やっと自分が涙を流していることに気づいた。
慌てて手の甲で拭おうとすると、白いハンカチが差し出された。
「そんなにこすってはいけません」
受け取ったハンカチを目に押し付けると、彼がいつも纏っている良い香りがした。胸いっぱいにその香りを吸い込むと、少しずつ落ち着いてくる。こわばっていた体の力が抜けて、ソファの背もたれに体を預けた。
彼は隣に腰掛け私の肩を抱くと、深く艶のある声でゆったりと問いかけた。
「悪い夢を見ましたか?」
わたしは答えられなくて、無言のまま彼に体を預けた。
彼はそれ以上追求しなかった。慰めるようにわたしの髪を撫でながら、テーブルの上に飾られた、オレンジ色の百合に似た花に目をやる。
「もしかしたら、あの眠り草が悪さをしたのかもしれませんね。本来なら優しい眠りをもたらすものですが、何しろ魔王城の庭で育ったものですから」
いつの間に指示したのか、リトルDがやってきて無言で花瓶ごと花を片付けてしまった。
代わりに別のリトルDが蒸しタオルを持ってきて、わたしの顔に押し付ける。温かさにホッとして、つい笑ってしまった。夢で泣くなんて、子供みたい。
バルバトスも安心したように微笑んだ。
「そろそろお茶の時間ですね」
「お化粧直さないと」
「私がしても?」
どこか嬉しそうな表情の彼が、指を鳴らすと、ぱっとメイクパレットが現れた。
二人で朝を迎えた時は、彼がわたしの身だしなみを整えてくれるのがいつの間にか当たり前になった。最初は恥ずかしかったけど、どういうわけか彼はいつもとても楽しそうで、その上自分でやるよりずっときれいにしてもらえるので、開き直って任せてしまうようになった。
目を閉じ、彼の指やブラシが優しく肌を滑るのを感じる。
彼の手はいつも優しくて、心地よい。
ふと、小さく彼が笑う気配がして、目を開ける。
「ふふ。頬が、温かいと思って」
そう微笑んだ彼は、わたしが何か言う前に、柔らかいキスでそっとわたしの唇を塞いだ。
「……色を載せたら、しばらく触れることができませんから」
冷たく澄んだ湖のように。静かで透明な、何もかもを見通してしまうような瞳が、私を見つめる。
また新しく涙があふれる。
これではせっかく直してもらったメイクをまた台無しにしてしまう。
彼は何も言わず、また隣に座り、わたしの頭をそっと抱き寄せた。
静かな声で語りかける。
「所詮、夢ですよ。辛いなら、夢の記憶を無くしてしまうこともできます」
私は首を横に振る。
「ごめんなさい」
「謝るようなことは何一つありませんよ」
彼の声はどこまでも優しく穏やかで、慰めるように髪に唇が押し付けられた。
この悪魔に、世界はどんなふうに見えているのだろう。
もしかしたら、彼はわたしがみた夢を知っているのかもしれない。
わたしが謝った理由も。
わたしが置き去りにした世界で、わたしを愛し続けてくれる彼の姿は、どこまでもきれいで優しくて。それはとても⎯⎯。
とても、幸せな夢だった。