王子様とわたし  —第一話—


赤のキングで妄想してみた その1 王子様とわたし   —第一話—


 シンシアは冷たい水で勢いよく顔を洗った。

「ふう……」

 傍においたタオルを手探りで手繰り寄せ、顔をふく。

「わあ、ふかふかだ」

 思わず声に出してしまうぐらい、用意されていたタオルは白くふかふかだった。

 バスルームから出て、ぐるりと部屋を見回してみる。彼女に与えられた部屋には、厚い絨毯が敷かれ、くるみの木でしつらえた重厚な印象の家具が備えられていた。

(ベッドも夢のようにふかふかだった……)

 おかげで、見知らぬ土地の見知らぬ部屋にもかかわらず、ぐっすり熟睡し、爽やかに目覚めることができた。

 ロンドンの小さなフラットに7人家族で住んでいたシンシアには、ちょっと罪悪感のようなものさえ感じてしまうような、広い、贅沢な部屋だ。

 この部屋にはバスルームへ続くドアの他に、あと二つドアがあった。

 今右側に見えるのが、廊下に続くドア。

 そして真正面に見えるドアは、あの美しい王子様の私室に続いているという。

(もう起きてらっしゃるのかな)

 昨夜、彼に連れられこの赤の兵舎についてから、シンシアは驚き通しだった。大きく重厚な建物に驚き、ランスロットにかしずく兵士達と使用人達に驚いた。

 このクレイドルは赤の軍と黒の軍が中心となって治める軍事国家であり、ランスロットは赤の軍の最高司令官である、赤のキングだということだった。

(王子様じゃなくて、王様だった……)

 とんでもなく身分の高い方についてきてしまったようだ、と一瞬身構えたシンシアだったが、もういっそ王様に拾われたアライグマか何かのつもりで過ごさせてもらおう、と思い直した。

 ――昨夜も、「俺が拾った」とか言われたような気がするもの。

 少しの間ドアを見つめていたシンシアは、気持ちを切り替えるように息を吐くと、ソファの上にかけていた着替えを取り上げ、着替えようとした。

 小さな金属音が聞こえた気がして、振り返る。

 閉じていたはずのランスロットの部屋へ続くドアが、わずかに開いていた。

 ドアの向こうに人影はない。建て付けの悪いドアがひとりでに開くように、ゆっくりとドアが開いていく。シンシアはただ驚いて見つめていたが、目線を下げて、思わず悲鳴をあげた。

 みたことのないような白い獣が、ドアから部屋に入り込んできていた。

 猫と同じようなしなやかな動きで、ドアの隙間から体を滑り込ませるように入り込んできたが、シンシアの知っているどの猫よりもずっと大きく、耳は丸い。鋭く美しい金色の目でじっとこちらを睨む様子は、子供の頃絵本で見たヒョウやチーターなどの恐ろしい肉食動物に似ていた。

 白い獣は低く唸りながら、太い脚で踏み締めるように、一歩一歩シンシアに近づいてきた。

 シンシアは服を手に持ったままカタカタと震えだした。逃げなくては、と思うのに足がすくんで逃げられない。

「おい、どうした」

 隣の部屋からさっきの悲鳴を聞きつけたらしいランスロットの声がした。

「ランスロット様、いらしてはいけません、危険です」

 シンシアは震えながらも懸命に叫んだ。白い獣はシンシアのすぐそばで、彼女の匂いを嗅ぎ始めている。

「入るぞ」

 ドアが大きく開き、ランスロットが入ってきた。

「ランスロット様、危険ですからお逃げください。食べられてしまいます」

 シンシアは泣きながらランスロットに告げた。

 今、白い獣は唸りながらシンシアに片足をかけ、乗りかかるようにしていた。

「……それはお前に危害を加えはしない」

「でも、でもさっきからずっと唸ってて……」

「甘えて喉を鳴らしているのだ」

 シンシアはそこでやっとランスロットの顔をみた。彼は困ったような笑みを浮かべていた。彼女は気が抜けたようにペタンとその場に座り込んだ。

 白い獣はシンシアの肩口に額を擦りつけてきた。喉の奥の方から、さっきの唸り声のようなものは続いているが、喉を鳴らしていると言われてみれば、そう聞こえなくもない。姿は大きいが、仕草は甘える猫と同じだった。

「これは縁があって引き取ったホワイトライオンの子供で、名をシャインという」

 ランスロットは微かな笑みを浮かべたまま、座り込んだシンシアのそばに膝をついた。茫然とした顔で見上げる彼女の頬に手を添え、彼女を見つめる。

「そんなに恐ろしかったのか」

 ランスロットの表情は柔らかいのに、シンシアは獣に睨まれた時と同じように動けなくなってしまった。

 魔法にかかったように、ランスロットの深く青い目から目が逸らせない。

 ランスロットの親指がそっと頬を滑るように動き、シンシアの涙を払った。

「おかしな娘だ」

 ランスロットはもう一度喉の奥で小さく笑った。

「余程飢えでもしない限り、シャインがお前を食らうことはない。安心するが良い」

 食べられる、と騒いだのが余程滑稽だったのだろう。シンシアはだんだん恥ずかしくなってきた。

「ごめんなさい、騒いでしまって……」

「かまわぬ。しかしこんなに他人に近づくのは珍しい。……何かこれが好むようなものを持っているのか?」

「えっ?」

 シャインは寝転び、座り込んだシンシアの膝に置いた彼女の服に頬を擦り付けている。

「あ、もしかして……」

 シンシアは手に持っていた自分の服のポケットを探って、掌に乗るぐらいの小さなサシェを取り出した。

「……これが欲しかったの?」

 シャインに問いかけながら差し出すと、シャインが大きく口を開いた。喉の奥から太い猫の鳴き声のようなものが聞こえて、シンシアはびくりと身をすくませた。

 シャインはシンシアの手からサシェを奪うと、喉を鳴らしながら幸せそうに頬を擦り付けた。

「シャイン、行儀が悪いぞ」

 シャインはぴくりと耳を動かすと、なんだか申し訳なさそうにランスロットを見上げた。でも抱え込んだサシェは離さない。 

 あんなに恐ろしかった白い獣は、今やもう大きな猫にしか見えなかった。

 真面目な顔で叱るランスロットも、甘えたようなシャインの様子も可愛らしくて笑ってしまう。

「ランスロット様、これ、中にレモングラスを詰めたサシェなんです。シャインにあげても構いませんか?」

「良いのか?」

「はい、元々お隣の猫にあげるつもりで作ったものですから」

 昨日の朝ポケットに入れて、すっかり忘れていた。

「そうか。礼をいう」

(うわあ……!)

 ランスロットが柔らかく微笑んだ。

 それは先ほどの愉快がるような笑みとは違った、優しいものだった。

 カーテンの隙間から差し込む朝日に照らされた微笑は、神々しいほど美しい。

 ずっと見ていたいのに、なぜか見ていられなくて、シンシアはそっと視線を外した。頬が熱く、鼓動が速くなっている。誤魔化すように、口を開いた。

「あの、シャインを撫でてもいいですか?」

「好きにしろ」

 サシェを抱きしめ上機嫌なシャインの額のあたりをそっと撫でてみると、気持ちよさそうに目を細めた。シンシアは安心して、耳の後ろから首のあたりを撫でてやった。毛並みはとても柔らかくしなやかで、撫で心地がよかった。

 シンシアの鼓動と頬の熱が落ち着いた頃、ランスロットは立ち上がった。

「シャインと遊びたければ、いつでも部屋に来るが良い。シャイン、部屋に戻るぞ」

 シャインはサシェを咥え、大人しくランスロットの後に続いた。

 ランスロットは私室につながるドアの前でふと足を止めた。

「お前は、内鍵をかけていなかったのか?」

「え、必要ないと思って」

「何?」

 シンシアの言葉に、ランスロットはわずかに眉をあげた。

 ランスロットがせっかく隣にいるのだから、何かあったときにすぐ来ていただけるようにしておいた方が安心かと思ったのだ。

 ランスロットが何か言おうとして口を開いた時、シンシアのお腹が盛大に鳴った。

 シンシアは慌てて自分のお腹を抑えた。恥ずかしくて、火がついたように顔が熱くなる。

「ご、ごめんなさい、失礼しました」

 だけど安心したら、とてもお腹が空いていることに気づいてしまった。シンシアは困った顔でランスロットを見上げる。

「支度をしろ。食堂に案内する」

 ランスロットは小さなため息と共にそう言い残すと、部屋に戻って行った。

 朝食を終え、一休みした後、シンシアは赤の兵舎を探検していた。

 広い建物は歩き甲斐があった。扉や階段の手すりなどに凝った意匠の彫り物が誂えてあったり、廊下に古びた鎧が飾られていたりするので、それらを眺めるだけでも楽しかった。一階と地下を歩いた後は、外に出てみた。訓練場では兵士たちが一糸乱れぬ隊列を組み、号令に合わせて剣を振っていた。

(あれは、確か「赤のクイーン」のヨナさん)

 シンシアは昨日兵舎についてすぐ、軍の「幹部たち」に紹介された。幹部達は選ばれし13人と呼ばれ、トランプのカードと同じような階級がある。数が大きければ大きいほど位は高く、赤のクイーンはキングのランスロットに続く軍のナンバー2だ。

 ヨナの凛とした声に合わせて兵士たちは揃って剣を振るう。

 その様はまるで群舞を見ているかのように美しかった。

 シンシアはしばらくベンチに座って訓練の様子を眺めた後で、探検を再開した。兵舎の東側には、立派なハーブ園があった。カモミールの花が風に揺れ、シャインの喜びそうなレモングラスもたくさんある。ハーブ園の脇を歩いていくと、奥にはキッチンに続く出入口があり、朝食を給仕してくれたクレイトンが、青年と話していた。

 クレイトンはシンシアに気づくと、親しみを込めた笑顔を見せてくれた。

「おや、お嬢さん、お散歩ですか?」

「敷地の中なら自由に歩いていいって言われたから」 

「彼は毎朝の乳製品を配送してくれているターナー牧場の牧童のイーサンです」

 クレイトンは一緒にいた青年をシンシアに紹介してくれた。

「シンシアです、初めまして。今朝いただいたミルクもチーズもとっても美味しかった!」

「それはありがとうございます、光栄です」

 イーサンと呼ばれた青年は、嬉しそうに顔を輝かせた。

 近くで見ると、イーサンはシンシアのすぐ下の弟にとてもよく似ていた。イーサンの方が明らかに年上だが、髪や瞳の色も同じだし、目尻が下がった人の良い笑顔がそっくりだった。

 シンシアは一目でイーサンに親しみを感じた。

「イーサン、さっき話してたミルクの飲み比べをしたお嬢さんですよ」

 クレイトンの言葉に、イーサンが笑い出した。

 シンシアは慌てて言い訳する。

「だって茶色い牛と斑の牛のミルクの味が違うなんて、知らなかったの」

 身分の高い人々は、紅茶にいれるミルクの家畜の種類まで選ぶらしい。目を丸くしているシンシアに、ランスロットが気になるなら比べてみると良いと言ってくれたので、彼女は今朝二杯のミルクティーを飲み比べしたのだった。

「お嬢さんはどちらがお気に入りですか?」

「どっちも美味しかったわ」

 シンシアが笑顔でキッパリ言い切ると、二人は再び笑い出した。

「本当だ、素敵なお嬢さんですね」

 イーサンは目尻に涙さえ浮かべていた。

「近くに牧場があるの?」

 シンシアは笑われた理由はわからなかったが、なんだか恥ずかしくなり、話題を変えた。

「ええ、うちの牧場はハート地区の端の方です。是非遊びにいらしてください」

「行ってみたい!」

「とても大きく立派な牧場ですよ。ランスロット様にお願いしてみてはいかがですか?ランスロット様もこのところずっとお仕事で執務室に篭りがちなので、良い気分転換になるのでは」

 クレイトンがシンシアに微笑みかけた後で、ふと真面目な顔になる。

「そういえば、あんたの牧場は、被害はなかったのかい?」

「うちは魔法の塔や戦いの現場からは一番離れていますからね。それでも振動やら音は伝わってきました。よくぞ赤の軍が守ってくださったものだと皆感謝しています」

 イーサンの言葉に同意するように、クレイトンが深く何度も頷いた。

 二人の話の内容から、最近何か大きな騒動があったらしいことはわかった。シンシアは詳しく聞いてみたかったが、ロンドンから来たことを誰にも言わないよう固く口止めされていたので、ボロが出ないように大人しく聞いていた。

「ランスロット様のお加減はもう大丈夫なんですか?」

「ええ、すっかり元気になられましたよ。まだカイル先生の診察を毎日受けてらっしゃいますが」

(ランスロット様は、ご病気だったの……?)

 シンシアはクレイトンに詳しい話を聞きたかったが、聞いていいものかわからず、やはりただ黙っていた。

 イーサンは、明日配達分の注文を聞くと、気持ちの良い挨拶を残して帰って行き、クレイトンも仕事に戻った。

 シンシアはキッチンの出入り口から再び歩き始めた。兵舎の角を曲がると、本館から離れたところに倉庫のような建物が並んでおり、通路の両脇に花壇があった。背の低い木が形よく整えられており、小さなガーデンのようだ。カラフルなダリアやバラなどの大輪の花が咲き誇り、奥では白いクレマチスが小ぶりの花をたくさんつけ、木製の柵を伝っていた。

 シンシアがうっとりと花を眺めていると、足元のギボウシがガサガサと揺れ、黄色い斑点のある小さな茶色い背中が見え隠れした。じっと見ていると、転がり出るように、小さな鴨の雛が出てきた。

「あら」

 3羽、4羽、5羽……、どんどん出てくる。続いてちょうど羽毛が生え変わりつつある子供の鴨、すっかり大人の鴨が出てきた。大人の鴨を先頭に、向かい側の花壇を目指して、3世代ぐらいにわたる鴨の大家族が隊列を組んで行進し始める。

(ふふ、可愛い)

「それはエドガーが可愛がっている鴨だ。食用の家畜ではないぞ」

 背後から聴き覚えのある声がした。

「可愛いなと思って見てただけですよ」

 シンシアは慌てて振り返る。

 確かに親鴨は丸々と肥えていて美味しそうだと思ったけれど。

「どうだかな。兵舎の探検は楽しかったか」

 ランスロットは笑みを含んだ声で尋ね、歩き始める。

 シンシアも隣に並んで歩き始めた。

「はい。サリーさんが分厚い絨毯を手早く綺麗にするコツを教えてくれました」

「サリーは優秀なメイド頭だ」

「ジャズさんが3時になったら特別におやつを用意してくれるそうです」

「そうか、あのスーシェフは元々パティシエだったらしいからな。今朝はお前の旺盛な食欲にいたく感動していたな」

「……タオルが白くてふかふかな秘密を知りたくてランドリー室のジェーンさんに聞いてみました」

「アンナでもクレアでもなく、ジェーンと名乗ったのか?」

「はい」

「ジェーンはタオルの秘密を教えてくれたか?」

「いいえ。門外不出の技だそうで、教えてくださいませんでした」

「ほう……」

 一瞬、ランスロットの目がわずかに細められたが、すぐに穏やかな表情に戻った。

「他に行ってみたいところはあるか」

「図書室があったら行ってみたいです」

「それなら……」

 ランスロットが言葉を切り、急に立ち止まった。

 穏やかだったランスロットの表情が、突然厳しく引き締まる。

 彼の視線の先には、不敵に笑う長身の男がいた。

「見つけたぜ、ランス……」

 二人の前に立ち塞がる男の、白衣の裾が風にはためく。

 ランスロットの目が、鋭く男を見据えた。

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