MCの無自覚の恋心は、まるで植物の芳香のように彼女の全身から立ち上り、甘くルシファーを誘う。
彼を見上げる瞳に、彼を呼ぶ声に、蜜のようにひそむ恋。それはまるで遅延性の毒のように、甘やかにルシファーを侵し始めた。
現実なのか、毒の見せる都合の良い幻覚なのか。
眠れない夜が続く。
まるで、呪いだ。
「どうぞ。マンドラゴラと魔界サラセニアのブレンドです」
美しい執事は、丁寧に淹れたお茶を差し出すと、深みのある声で、そっと付け足した。
「……今宵は、良い眠りが訪れますように」
「俺は、そんなに寝不足の顔をしているのか?」
思わず手で確かめるように、自分の顔に触れながら問い返すと、執事は何も言わずただ微笑んだ。
「ああ、ひどいもんだぞ。隈ができている。せっかくの美貌が……」
代わりに答えたディアボロが、妙に悲しげな顔で首を振る。
美貌はともかく、不調が顔に出ているのは不本意だ。ルシファーはため息をつきたくなるのを堪え、カップを口元に運ぶ。爽やかな香りが立ち昇り、少しだけ心を慰めてくれた。
「ここでいただくお茶はいつも美味い」
「恐れ入ります」
執事は控えめな笑顔で答える。
「そうだ、眠りが浅くなるほどの不安があるなら、バルバトスに視てきて貰えばどうだ?」
ディアボロが子供のような笑顔で無邪気な提案をした。
「別に不安なわけではない」
「じゃあ、問題は何だ?MCが君に想いを寄せているのは一目瞭然だろう」
手が滑って、ガチャン、とソーサーとカップが鳴ってしまった。
「失礼……、俺たちは今MCの話をしていたのか?」
「違うのか?」
全く悪びれない様子で、ディアボロは肩をすくめた。
違わない。
眠りが浅い理由はMCだ。
無言を肯定と受け取って、ディアボロは子供のようにはしゃいだ笑顔を浮かべる。
「君とこんな話ができるなんて感慨深い。そうだ、今日はいっそ泊まって朝まで」
「坊っちゃま、明日早朝の執務をお忘れなきように」
被せ気味に執事が忠告する。
「……ダメ?」
揺らぎない笑顔のまま圧を増す執事を見て、ディアボロはガックリと肩を落としたが、すぐに気を取り直して、問いかけてきた。
「それでは、一体、問題は何だ?」
「MCが、……自分自身の気持ちに気づいていない」
バルバトスとディアボロが、顔を見合わせた。
「自覚するように持っていけばいいだけの話じゃないか」
「考え得るすべての手は試みた」
どういうわけか、あの人間の娘には一切通用しなかった。捕まえようとしたこの腕をするりと抜け出し、そのくせ、俺を見つめる瞳に込められる、思慕の情は増すばかり。
あの瞳。
あれは、そこらのサキュバスよりもたちが悪い。
MCとそれなりに面識のある二人は、ああ、と何かを察したような表情になった。憐憫に近い同情のこもった目でこちらを見る。
「その目はやめてくれ」
ディアボロが邪気のない笑い声をあげた。
「ははは、なるほど。では君の方から降伏宣言せざるを得ないわけだ」
そう、潔く負けを認め、彼女に跪き、彼女の愛を乞えば良い——。
「俺はそんなことはしない」
「うん、そうだろうな」
ルシファーが、ルシファーであるが故に。ディアボロはそれを肯定も否定もしない。
「それに……」
それに。
MC自らこの腕の中に堕ちてきて欲しいという思いもあった。
言葉にしないルシファーの想いを汲み取るように、執事が静かな声で、独り言のように呟いた。
「ほころびかけた花が開くのを見守りたいという気持ちも、わたくしにはわかるような気がいたします」
彼は慈愛に満ちた笑顔を浮かべ、新しくお茶を淹れ始める。
「うーん、でも続きが気になるなあ。どうなるのかな。気になって仕事が手につかないかもしれないぞ。なあ、バルバトス 、やっぱり君がちょっと未来に行って視てこないか。それでこっそりわたしにだけ教えてくれ」
「おい、娯楽じゃないぞ」
「坊っちゃま」
執事は嗜めるようにディアボロに呼びかけたが、ふとルシファーの方を見て、先ほどとは質の異なる微笑を浮かべた。
「ああ、でも……そうですね。ご本人がお望みなら、わたくしが視て参りましょう。どうか見返りなどご心配なさらずに。先ほどお茶を褒めていただいた、ほんのお礼です」
怪しげな艶のある、深い声が告げる。
「あなたが希求する未来を、この手で掴んできてさしあげましょう」
数多の可能性の中から、ルシファーが望む未来を。
この控えめな執事の持つ、無敵とも言える能力。
こくり、と小さく喉がなる。思わず、ほんの一瞬、本当にすがりたくなってしまった。
馬鹿なことを。
ああ、俺は本当に参っているのかもしれない。今日は何も考えず、早く休むとしよう。
ルシファーは少し皮肉な笑みを浮かべると、軽く首を振った。
「……なるほど、これが悪魔の誘惑というものか」
執事はそれ以上は何も言わず、わずかに笑みを深くしただけだった。
「あー!おかえり、ルシファー。ちょっと聞いてよ、マモンたら僕がせっかく手に入れた貴重な香水、勝手にオークションに出しちゃったんだよ。ひどくない?」
「ベール、マモンを吊るせ。アスモ、落とし前は自分でつけろ」
「ルシファー、腹が減って動けない。冷蔵庫はもう空だ」
「わかった、地獄亭で好きなものを頼んでいい」
「あっ、ベール、ついでに俺の分のピザも頼んで。今日は第一期花ルリたんの一挙放送があるんだ〜」
「ん。ベルフェは?」
「お腹空いてない……あ、でもなんか甘いものが欲しいかな」
「好きなものを頼め。サタンにも声をかけてやれ。……俺はもう今日は休む。頼むから静かに休ませてくれ」
心の平穏が欲しい。
ルシファーは悪魔らしからぬことを願いながら、ミュージックルームの扉をピタリと閉め、ほっとため息をつく。
ミュージックルームには、低く音楽が流れていた。
モーツァルトのレクイエム。ここ最近、ルシファーが気に入って度々聞いていたレコードが、ターンテーブルの上で回っている。かつての所有者の怨嗟が染み付いた曰く付きの古いレコードだ。
ソファの上では、MCが健やかな寝息を立てていた。
頬が自然に緩むのを感じるが、別に構わない。今は誰も見ていない。
「こんなものを聞きながら眠って、目覚めなくなったらどうするつもりだ」
鎮魂を願う歌詞に重なる、裏切られた男の怨嗟の声が部屋に響く。MCには、この怨嗟の声は届かない。それでも彼女がこのレコードを気に入ったなら、早々に解呪しておいたほうが良いだろう。なかなか味わい深いハーモニーだったのだが。
ルシファーは手を伸ばし、MCの髪に触れた。すくいあげたひとふさの髪に、そっと口付ける。
胸に感じる、これは痛みか。
ルシファーは微かに眉を寄せた。
いつか彼女が恋心を自覚し、腕の中に自ら飛び込んでくるのを待ち続けている。それなのに、彼女は一向に自覚する気配がないまま、自分だけで、恋心を育て続けている。
——構わない、悪魔は気が長い。何しろお前たち人間よりずっと長く生きるからな。
皮肉な笑みとともに、切なさの混じるため息をつく。
「MC、こんなところで眠ると風邪をひくぞ」
彼女が目を覚ます気配はない。
「仕方ないな」
彼女の背と膝裏に手を入れ、そっと抱き上げた。
いっそこのまま部屋に連れて行ってしまおうか。それもいいかもしれない。
知らず腕に力がこもってしまったのか、腕の中で、MCが微かに身動ぎした。
「……う……ん、……お……とう……さん?」
「…………何?」
お父さん。
思わぬ言葉に、ルシファーはぴしりと動きを止めた。
問いただそうにも、MCは再び深い眠りに戻って行ったらしく、ただ穏やかな寝息が返ってくるのみだ。
もちろん、これは寝言だ。おそらく幼少期の夢でも見ていたのだろう。人間である彼女の父親より自分のほうがずっと長く生きているのだから、別に大した問題ではない。人間界から単身留学してきた彼女の保護者なのだから、父親的立場にあるとも言えるだろう、彼女が望むのなら、父親役もやぶさかではない。
ルシファーの頭は忙しなく空転し、なんとか心の平穏を取り戻そうとした。だが、どうもうまくいかなかった。
執事の心遣いも虚しく、ルシファーは、その夜も眠れなかった。
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