天使の境界


精一杯背伸びをしても、僅かに届かない。伸ばした指先の少し上にある本を、後ろから伸びてきた手が容易く取り出し、ルークに差し出した。

「今日はシメオンと一緒じゃないんだね」

 近頃やけに絡んでくる夢魔だ。卑屈な感じが、どうしても好きになれない。ルークは警戒しながら答えた。

「別に四六時中一緒にいるわけじゃない」

今日はソロモンが遅くまでRADに残ると言ったので、ルークは図書館で時間を潰していた。

シメオンとMCが一緒に帰ろうと誘ってくれたけれど、調べたいことがあるから、と適当な言い訳をして断った。

あの日から、ルークは二人と一緒にいるのが辛かった。

「シメオンに大好きなMCをとられちゃったから?」

 ルークは夢魔をきっと睨みつけた。

「うるさいな、あっちへ行けよ」

 そうではない。

 シメオンとMCはお似合いだ。ルークはちゃんと二人を祝福できた。あの日までは——。

 夢魔は睨まれても動じた様子はなく、変わらずヘラヘラと軽薄な、どこか卑屈な笑いを浮かべながら言った。

「そんなこと言わないで、仲良くしようよぉ。俺は弱っちいけど、気持ちいい夢を見せてあげられる。みんな喜んでくれるんだよぉ」

「ぼくには必要ない。あっちへ行けったら」

 夢魔はにぃっと嫌な笑いを浮かべたまま、人差し指を立てた。その指が、ルークの目の前をすぅっと横切る。

「試してご覧よ、……ほら」

 ルークは引き寄せられるように夢魔のやけに長い指が指し示す方向を見た。

 いつの間にか現れた、ゆらゆらとゆらめく朧げなもやのようなものが、形をとり始める。すりガラスを通しているように見えていたそれは、ゆっくりと輪郭をあらわにしていった。

 シメオンの均整の取れた褐色の体とMCの白く細い体が絡み合っている。

 あの日と同じ光景が、ルークの目の前にあった。

 やめろ。

「やめろ、もう見たくない」

ルークの口から、掠れた力のない声がこぼれた。

あの日。

窓ガラス越しに見てしまった、シメオンとMCが愛し合っている姿。

シメオンが後ろから裸のMCを抱き抱え、彼女の頬に唇を這わせていた。

あの時と同じように、今目の前でシメオンの両手がMCの胸を包み込み、緩やかに動いている。

MCが猫のように伸び上がり、シメオンに頭を擦り寄せた。細く白い腕が、巻き付くようにシメオンの頭を抱き寄せる。彼女の薄く開かれた唇から、あの時は聞こえなかったはずの甘い喘ぎがこぼれ落ちた。

シメオンの片手がゆっくりとMCの下腹部に滑り降りてゆく。その指が二人が繋がっている場所に届くと、彼女の声が高くなった。

「シメオン、だめ、あ、……」

 MCが白いのどをむき出しにしてのけぞる。

 シメオンが彼女の肩口に顔を埋める。

「MC、MC……」

「シメオン、は……あ……あ……」

恋人たちは互いの名を呼びながら、夢中で体をゆすり始める。

二人の息が荒くなる。

混ざり合う二人の声が、高まってゆく。

ルークは強く目を閉じた。

瞼の向こうでMCがか細い悲鳴を上げた。

あの日。

見てはいけないとわかっていても、目をそらすことができなかった。

大好きなシメオンと大好きなMCの秘め事。それは決して自分が目にして良いものではないはずだ。

それなのに、あの日もルークはゆらゆらと悩ましげに揺れるMCの白い裸身から目が離せなかった。

自分の部屋に駆け込んだルークは、初めて自分で自分を慰め、その浅ましさに涙を流した。

ルークの涙に濡れた頬に、暖かく柔らかいものがそっと触れた。

ルークはびくりと身をすくませ、恐る恐る目を開いた。

頬に優しく触れたのは、MCの指だった。二人がそばで微笑んでいる。

「どうして泣いているの。ルークもこっちにおいで」

 居間でルークを手招きする時と同じ、シメオンの優しい声が誘う。

「せっかく大きくなったんだから」

「え……?」

 自分の体を見下ろすと、シメオンのいう通り、ルークの体は青年のものになっていた。

 胸は厚みを増し、肩もしっかりとしている。そこから伸びる腕も、小枝のような少年のものではない。腕も足も長く伸び、シメオンと同じように力強くしなやかな筋肉をつけている。剥き出しの下半身も、青年らしいものになっていた。

「ルークも、したい?」

MCが微笑む。

シタイ?何を?

ルークは息苦しさに喘いだ。

いつの間にか南国のように温かく湿度の高い空気が辺りを満たしている。

体が熱い。

下腹部に熱が集中し、自分のペニスが硬く立ち上がっていることが見なくてもわかった。

甘い、花の香りがする。

天界の清々しい香りではない。これは魔界の、甘く濃い花の香り。毒々しくも、ひどく蠱惑的な——。

くらくらする。

「いけない、こんなの……」

 ルークは自分に言い聞かせるように、震える声を出した。

「ルークは『これ』がいけないことだと思うの?」

 シメオンが微笑を浮かべたまま、穏やかな声で訊く。

「だって、ミカエル様は誘惑に負けてはだめだって……」

 これは誘惑だ。多分、最も強力な。

「じゃあ、どうして父さんは俺たちの体をこういうふうにつくったんだろうね」

シメオンの声が優しく問いかけた。

シメオンの言う通りだ。

——人間も、悪魔も、天使も。その体で交じり合えるようにできている。

どうして?

ルークは呆然としたまま、M Cに軽く肩を押されただけで仰向けに倒れた。

彼女の手がルークのペニスを優しく包み込んだ。軽く何度がさすられただけで、ルークのそれは硬くそそり立った。

そのままルークの下腹部に跨がった彼女は、ゆっくりと腰を落としていく。

「わあっ」

 ペニスの先端が熱く柔らかなものに包まれる感触にルークは驚いて叫んだ。

「あ、あ、……やめて、MC、やめて。だめだよ、もう、出ちゃう」

 MCが密やかな笑声を上げた。

「まだ全部入ってないよ?」

 ほら、と。いつものように優しい笑顔で。まるでルークに見せつけるように、MCは繋がっている部分を指で開いて見せる。

「ン……」

 彼女は甘えるような声を上げ、切なげに眉を寄せながら少しずつ腰を落としていった。

「うあ、あ、あ、……」

 ルークはなすすべもなく、自分のペニスがゆっくりとMCの中に飲み込まれてゆく様を凝視した。

「全部、入った……」

 MCは満足げな吐息をつくと、ゆっくりと腰をゆすり始める。

 MCの体を支えるように寄り添っていたシメオンの手が伸び、彼女の体を撫で始めた。

「あ、あ……」

 甘い声と繋がった部分から、彼女の悦びが伝わる。

 恍惚とした表情で体を揺らす彼女は、天界の花よりもきれいだった。

 シメオンはまるでかしずくように、手で、唇で、彼女の身体を丁寧に愛していく。

「ルークも触って……」

 MCがルークの手を取って彼女の胸に導いた。 

 ルークは誘われるままに手を伸ばした。しっとりと湿り気を帯びた肌は、まるでルークの手を待っていたように吸い付く。ルークはシメオンがしていたように、彼女のまろやかな胸を包み込み、撫で、先端への愛撫を繰り返した。

「あ……、あ、」

 MCは目を閉じ、せつなげな表情で腰を上下させ続ける。

 ルークを包み込んでいた感触が、きゅうきゅうと吸い付くように変わっていく。

 ルークはいつしか夢中で腰を動かしていた。

「あ、あ……、ルーク」

MCの声が甘くルークの名を呼ぶ。さっきまで積極的に上下していた彼女の腰はただルークの突き上げを受け止めるだけになっていた。

目を閉じ、眉を寄せ、何かを求めるような彼女の表情は祈っているようにもみえる。

わずかに開かれた唇から、途切れ途切れに嬌声が溢れる。

ルークは何かに追い立てられるように腰を動かし続けた。

彼女の体が伸び上がり、小刻みに震える。

初めて知る快楽の極みに、ルークは体を大きくしならせ、絶叫した。

「おい、大丈夫か」

体を強く揺すぶられて、ルークははっと目を開いた。

最初に目に飛び込んできたのはルシファーの真剣な顔だった。

体がだるくて、力が入らない。ルークは本棚に背中を預けて座り込んでいた。

馴染みのRADの図書館の中だ。だけど人気はなく、さっきまでうるさかった夢魔もいない。

体を起こそうと動いた瞬間、下着の中にぐしゃり、と不快感を感じた。

見下ろすと、ショーツから伸びた細い腿を、白い粘性のある液体が伝っている。

自分がこんな場所で吐精してしまったことに思い至り、ルークは愕然とした。

「夢魔にでもからかわれたか」

 ルシファーは表情を変えることもなく、指を鳴らした。黒い影が現れ、彼に紙袋を渡すと、すぐにかき消されるように消えてしまった。前にも一度だけ見たことがある、ルシファーの使い魔だ。

 ルシファーは紙袋を座り込んだままのルークの膝の上にポン、と投げた。

 紙袋はRAD内の売店のもので、中には下着とタオルが入っていた。

「さっさと着替えろ」

 ルシファーはなんでもないことのようにさらりと言って、ルークに背を向けた。

 困惑、羞恥、屈辱、後悔。

 一番心に重くのしかかっているのは罪悪感だ。自分がひどく薄汚れ、大好きなMCをも汚してしまったように感じる。それなのに自分の上で艶かしくゆらめいていた彼女の肢体は未だ鮮明だ。この先も何度も彼女のあの声が、感触がよみがえり、きっとルークを悩ませる。

 ごめん、MC。ごめん、シメオン。

 どんなに抑えてもこぼれてしまう嗚咽に唇を噛み締めながら、ルークは乾いたタオルで下腹部を拭った。なんとか気力を奮い立たせながら着替えを終えると、のろのろと緩慢な動作で汚れた下着とタオルを袋に入れた。

ふと顔を上げると、ルシファーの背中が目に入る。

 認めたくはないけれど、その細身の背中がとても頼もしく、安心感があった。

 悪魔のくせに。

天界を追放されてから、あの兄弟たちを守ってきた背中。今はルークを隠し、守ってくれていた。

 その背中を見ながら、ルークは足に力をこめて立ち上がった。

「顔をふけ」

 ルークの涙でベタベタになった顔を見て、ルシファーがハンカチを差し出した。

 ルークは無言のまま受け取ったハンカチで顔を拭き、ついでに大きな音をたてて鼻をかんだ。

 ずっと涼しい顔をしていたルシファーが僅かに眉をしかめたので、少し胸がすいた。

「こんなところで暇を潰しているぐらいなら執務室で仕事を手伝え」

「ええ……」

 ルークが嫌そうな声を出すと、ルシファーの口元が綺麗な弧を描く。

「今日はバルバトスが新作のケーキを焼いてきている」

「……ちょっとぐらいなら、手伝ってやってもいい」 

きっと魔王城の二人はルークの涙の後にすぐに気づいて——だけど気づかないふりで、いつもと変わらない挨拶をするだろう。いつもより、ちょっとだけ優しい声で。そしてバルバトスは温かくていい香りの紅茶とケーキを用意してくれる。

今ルシファーが助けてくれたみたいに。

悪魔のくせに。

この気持ちは、悔しさに似ている。だけど清々しかった。

ルークは顔を上げると、足を速めてルシファーの隣に並んだ。

「ぼくのことを可哀想だと思っているか?」

 思い切って尋ねてみると、ふっと小さく笑う気配の後で、静かな答が返ってきた。

「これは……、同病相憐むというやつだ」

 ルークの頭にそっと手をのせたルシファーが、どんな顔をしていたのかはわからない。

 いつもなら腹立たしく感じるその手を、今日は振り払う気にはならなかった。

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