レヴィは談話室のソファで鳥の図鑑を見ていた。
春になってから、兵舎の敷地内には様々な鳥が飛んできた。鏡の国に鳥はいなかったから、久しぶりに見る鳥が珍しくて眺めていると、レイが貸してくれたものだ。
レイの部屋にはたくさんの本がある。そのうちのほとんどはレヴィには読めないものだったが、この図鑑にはきれいな鳥の絵が載っていて、その説明もわかりやすい文章だった。時々知らない単語が出てくるが、繰り返し眺めているうちに、いくつかの鳥の名前を覚えることができた。
ワンダーは右隣で、伸び上がって本を覗き込んでいる。左隣では、朝からひと暴れしてくたびれたのか、眠そうなチャツネが、レヴィに背中を預けてうとうとしていた。
チャツネが隣に居てくれると、他の連中が寄り付かないから安心だ。
黒の兵舎の連中は、最初のうちはレヴィを警戒していたくせに、今では遠慮せずレヴィに構ってくる。
(あいつら距離が近いからな)
服の上からならまだしも、うっかり剥き出しの顔や頭に触れてしまったら、怪我をしてしまうというのに。不用意にも程がある。
ワンダーに催促されたので、ページを繰ると、いつも兵舎にくる青い鳥のページになった。青空を溶かしたような羽根の色が綺麗で、レヴィはこの鳥を見るのが好きだ。つい窓の外を見たけれど、今日は残念ながら朝から雨なので、鳥の姿は見えなかった。遠くで、雷の音が聞こえる。
「なんだ、ここにいたのか」
私服姿のレイが、談話室にやってきた。他の連中の挨拶を軽くいなし、レヴィのそばまでまっすぐ来たけれど、隣にチャツネがいるのに気付くと、顔をしかめた。離れたテーブルの椅子を引きずって来て、チャツネと距離をとった場所に、背もたれを前にして座る。
「なんだよ、お前もチャツネが怖くて逃げんのかよ、キングのくせに」
「ばーか。これは君子危うきに近寄らずってやつだ」
「君子ってなんだ」
「立派な人って意味だけど……今の場合は賢い人間ってことだな」
レイは、レヴィよりもずっとたくさんの言葉を知っている。
「……そういうのも、“本”に載ってるのか?」
レヴィが聞くと、レイはちょっとだけ意外そうに目を見開いて、でも微笑んだ。
「他の本も、読んでみるか?」
「……読めねーよ」
「簡単な本から慣れていけば、少しずつ読めるようになる。わからないところがあればそこらのやつを捕まえて聞けばいい」
「……そしたら、お前の部屋にあるような本も読めるようになるのか?」
「なかなか遠い道のりだと思うけどな」
レイが意地悪そうな顔で笑う。
でも、不思議と腹は立たなかった。
それよりも、本を読めるようになることを考えると、そわそわとした気持ちになる。最近、たびたび味わうこの気持ちは、レヴィが黒の兵舎にやって来て初めて知った気持ちだ。
だけど、彼はこの気持ちを表す言葉をまだ知らなかった。
「ちょうどよかった。これ、貸してやる」
レイは背負ったままだったバッグから一冊の本を取り出して、レヴィに差し出した。
「俺が子供の頃よく読んでたやつ。お前その図鑑気に入ってたみたいだから」
表紙には、ワンダーによく似たウサギが描かれていた。
「動物図鑑だけど、これはちょっと面白い。開いてみな」
レイに促されるまま、最初のページを開いたレヴィは、驚いて悲鳴のような声をあげてしまった。
「うわっ!」
開いたページの上に、ワンダーに少し似た、だけど尻尾が長くて耳の短い動物が現れた。
「すごいだろ」
予想通りの反応を楽しむように、レイがくすくすと笑う。
「チ……チンチラ」
そのページには、そう書かれていた。
そっと手を伸ばすと、チンチラに触ることができた。なでてみると、「きゅう」という鳴き声をあげたので、再びびっくりした。
レヴィは夢中でページを繰っていく。その度に、小さくふわふわした動物たちがページの上に立体的に現れた。ちゃんと触ることもできる。
「あ、こいつ知ってる。ハールのところに行く時に森で見た」
大きくふさふさした尻尾を持った、小さな動物。リスだ。解説文に知らない単語を見つけたレヴィは、レイに早速聞いてみる。
「これはなんて言ってるんだ」
「松ぼっくり。知ってるか?」
「松ぼっくりなら知ってる。ふうん、こいつら、松ぼっくりが好きなのか。松ぼっくりやったら喜ぶのか?」
「森の奴らは人になれてないから、直接やるのは難しいかもな。でも松ぼっくりを集めておけば喜ぶんじゃないか」
今度ハールのところに行ったら試してみよう。
終わりに近くなると、ページが繰りにくくなったので、レヴィは注意深く右手の手袋を外した。
「これは最後のページがすごいんだけど、だいぶ古い本だから、もう動かなくなってる」
「動く?」
「まあ、ページはきれいだから見てみれば」
レヴィは、疑問に思いながらもページを繰って行き、ハリネズミ、モルモット、大人しいアライグマなど、それぞれの動物のページを楽しんだ。
レイは、そんなレヴィの様子を黙って眺めている。
そして、最後のページを開くと。
再び、レヴィは驚いた。
今度は声も出なくて、ただぽかんと口を開けてしまった。
色とりどりの小鳥たちが、一斉に本のページから飛び立ったのだ。
「うおっ、動いた!」
レイも驚いて、思わず立ち上がりかけた。
本を抱えるレヴィの周りを、小鳥たちは自由に飛び回る。
小鳥たちを目で追うと、談話室にいる他の連中も目に入った。誰もが小鳥たちを眺め、思いがけない光景に、微笑みを浮かべていた。
「そうか、お前の魔力のせいかもしれないな。本の魔力が切れて、もうずっとこのページは動かなくなってたんだ」
レイの言葉に、レヴィは自分が素手で本を持っていたことに気づいた。
いきいきと飛び回る小鳥たちも、談話室にいる連中と同じように、喜んでいるように見える。
「魔法って、こんなこともできるんだな」
壊すのではなく、傷つけるのでもなく。
「……そうだな、その通りだ」
レヴィが思わずこぼした言葉に、少し間を置いて、静かな応えが返って来た。
思わずレイの方をみる。
その時のレイの表情が何を語るものだったのか、レヴィにはわからなかった。
小鳥たちを見上げるレイの横顔は、笑っているように見えた。
だけどこの時のレイの横顔は、微かな痛みと共に、レヴィの心にずっと残り続けた。
歌い舞う小鳥たちに何かが引き上げられるように、レヴィの口から言葉が出ようとする。
「俺は……、俺の、魔力でも……」
どう続けていいのかわからず、もどかしい思いで言葉を切った。
だけどレイには、ちゃんとレヴィの言いたいことが通じていた。
「できるさ。そのためにお前はハールのところに通ってるんだろ」
ちゃんと、レヴィがその時一番欲しかった言葉をくれた。
ドキドキと鼓動がうるさい。顔が熱くなる。何かが爆発しそうに燃えている。これは「怒り」に似ている。だけど、わかっている。絶対、暴走させたりしない。
これは大切に、ずっと燃やし続ける火だ。
レヴィは息苦しいほどの高揚感を抱えたまま、こっそりと、何度も深呼吸を繰り返した。
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