お人形さんごっこ   第二話


赤のエースで妄想してみた その11 お人形さんごっこ 第二話


 黒の兵舎の執務室では、首脳陣、つまり数の大きい幹部たちが、国境警備に関する長い会議をやっと終えたところだった。

 シリウスが紅茶を用意していると、執務室のドアの隙間から小さなロシアンブルーがするりと入ってきた。

 彼は、猫の口元をみて思わず顔をしかめる。

「ボス、ベルがまたなんかくわえてきたぞ。共有スペースに放置するのは勘弁してくれよ」

 レイが苦笑しながらベルのところへやってきた。

「ベル、俺はネズミも虫も特に欲しくない……ん?お前、何くわえてんの」

 ベルがくわえているのは、泥やらなんやらで汚れた、小さな人形のようだった。

 ベルはレイの言葉を理解しているのかいないのか、レイの足元に人形を転がすと、誇らしげに一鳴きする。

「しょうがねーな。どこで拾ってきたんだ?こんな汚い人形」

 レイがつまみ上げようとすると、人形がもぞもぞと動いた。

 びくりとして、思わず手をひく。

 シリウスもぎょっとした表情で、動く人形を凝視した。

「お、なんだ、どーした?」

 二人の様子を不思議に思ったフェンリルやセス、ルカもやってきた。

 5人の幹部が見守る中、薄汚れた人形はよろよろと起き上がると、みんなを見上げた。

「シリウスさん、フェンリル、レイ……セスさん、ルカさんも。もしかして、ここ、黒の兵舎?」

 泥だらけの人形に名前を呼ばれた5人は驚いて、人形をまじまじと見た。

「……もしかして、アンリか?」

「お嬢ちゃん、なんだってこんなに小さくなっちまったんだ?」

「お前、一体何やってんの?」

 5人は口々に尋ねたが、人形は答えず、もう一度その場に座り込んだ。そして安心したように長く長く息をつくと、口を開いた。

「すみません、説明するとちょっと長くなるんですが……、まずお水を一杯いただけますか」

 ルカにティースプーンで3杯の水を飲ませてもらい、人心地ついたアンリは、黒の軍の幹部たちに事情を説明した。

 クレイドルで生まれ育った皆は、魔法にかかったことにはそれほど驚かなかったが、カラスに拐われた話に目を丸くした。

「災難だったな、お嬢ちゃん。今、赤の兵舎に人をやったから、じきに迎えがくるだろう。ゆっくり休んでいてくれ」

「ありがとうございます」

 アンリはシリウスがハンカチを丸めて作ってくれたクッションに背中を預けると、ほっと息をついた。

 これで、ゼロが迎えに来てくれる。もう大丈夫。

「それにしてもよく生きてたなあ。本当に無事で良かった」

 フェンリルが心底感心したように言いながら、小さく小さく切ったケーキをフォークの先に載せて差し出してくれた。

「うん。猫に捕まったときはもう駄目だと思った」

 アンリは答えてから、フォークの上のケーキを頬張る。

「美味しい!」

 ルカのケーキに思わず笑顔になったアンリに、フェンリルが優雅にウィンクした。

「黒の軍の天才パティシエの力作だからな。いい日にうちに来たぜ、アンリ」

「……お前、本当に見かけによらずたくましいのな」

 フェンリルの隣に座っていたレイが、ボソリと呟いた。感心したとも、呆れたとも取れるような口調だったけれど、表情は柔らかかった。

 アンリに襲いかかってきた牙は、レイの飼い猫、ベルのものだった。

 アンリは逃げる間もなく、ガブリとくわえられてしまった。だけどベルの牙はアンリを傷つけることはなかった。ベルはアンリをくわえたまま森を駆け抜け、結果として黒の兵舎まで運んでくれたのだった。今の小さなアンリの体では、ベルがいなければ、森を抜けるのにどれぐらい時間がかかったかわからない。

「結局、ベルのおかげで助かったんだわ」

「ベルのやつも、たまにはいいもん拾ってくるな」

 フェンリルが笑った。

「たまには?」

「よくでっかい虫とかネズミとか捕まえて見せに来んだよな」

「ええ?」

 顔をしかめるアンリを見て、レイも笑う。

「お前のことも毛色の変わったネズミぐらいに思ってたんじゃないの」

「ひどい……でも、そうだったのかも」

 アンリも笑い出した。

 皆の朗らかな笑い声に混じって、黒の兵舎に似つかわしくない、軽やかな足音が聞こえてきた。

 アンリが不思議に思っていると、やがて、ドアの方から、幼い女の子の甘やかな声がした。

「ただいまあ」

「おかえり、ノヂシャ」

 セスが優しい声で応える。

 見ると、開かれたままのドアのそばに、10歳ぐらいの髪の長い女の子が立っていた。

 彼女はアンリを見ると、目を輝かせて駆け寄ってきた。

「やーん、可愛いお人形!」

 アンリはふわり、と女の子の小さな手に抱き上げられた。

 同じ瞳の色、同じ髪の色、そしてこの言動。

 どこからどう見てもセスの血縁者だ。

「ナースのお人形だわ。どうしてこんなに汚れているの?かわいそうに。アタシが綺麗にしてあげるわね」

 女の子の優しい手が、アンリの髪を優しく整えてくれる。急に抱き上げられてびっくりしたアンリは、大人しくされるがままになっていた。

 確かにアンリは泥だらけだった。

「いい考えじゃねえ?頼むわ、ノヂシャ」

「ただし、優しくしてね。そのお人形、生きてるんだから」

「ええっ?」

 ノヂシャはフェンリルとセスの言葉を聞いて、確認するように手の中のアンリを見た。

 アンリがにっこりと笑って見せると、ノヂシャは大きな目を見開き、ぽかんと口を開けたまま固まってしまった。

「お願いしまーす」

「はあい」

 アンリの合図で、ノヂシャがスプーンのお湯をそっとアンリの上からかけてくれる。ノヂシャが上手にお湯をかけてくれるので、それだけで十分快適なシャワーになった。

 アンリは深皿の真ん中に立ち、削ってもらった石鹸のかけらで自分の体をきれいに洗うことができた。

 泥をすっかり落としたら、ノヂシャがぬるめのお湯をはったスープボウルに運んでくれる。

「お湯、熱くない?」

「うん、ちょうどいい。どうもありがとう、ノヂシャちゃん」

「どういたしまして」

 ノヂシャが嬉しそうな笑顔を見せた。

 アンリは手足を伸ばし、ほっと息をついた。

 スープボウルはなかなか快適なバスタブだ。大冒険で強張った体が、ほぐれていく。あちこちにできた打ち身も、温かいお湯が癒してくれるような気がした。

 泥だらけの制服は、セスが別室ですっかりきれいにして乾かしてくれていた。どこかでひっかけてできたらしいかぎ裂きが、丁寧な針目で繕ってある。

「お兄さんはとっても器用ね」

「そうなの。兄さんは、いつだってアタシのお手本なの」

 ノヂシャが誇らしげに笑った。

 お湯につかって、きれいにしてもらった制服を着ると、生まれ変わったような気持ちよさだった。

「本当に助かったわ。どうもありがとう」

「ふふ。ねえ、お人形さん、ずっとここにいる?アタシ毎日お世話してあげるわ。本当よ?毎日シャワーもしてあげる」

「うーん、残念だけど、そうはいかないの。私もお家に帰らなくちゃ」

「えーっ」

 ノヂシャが残念そうに唇を尖らせた。

 子供らしい可愛らしい仕草に、アンリは思わず笑みをこぼした。だけどノヂシャの表情は本当に寂しげだった。

「ね、ノヂシャちゃんはずっと黒の兵舎に住んでいるの?」

 アンリが尋ねると、ノヂシャは首を振った。

「もうじきここに住み始めて一年になるわ」

「そうなの」

 大人ばかりの中で暮らすのは、寂しいのかもしれない。セスも幹部だから、ゼロと同じように多忙だろう。

「それまで兄さんとも離れて暮らしていたから、今の方がずっと兄さんと一緒にいられる時間は長いの。今の生活の方がずっと幸せなのよ」

 ノヂシャは机に頭を乗せるようにして、アンリを見る。

 アンリは机の上に置かれた本を椅子がわりに腰かけていた。

「それなのに、兄さんが忙しくて寂しいって思ってしまうの」

「そう」

「アタシ、どんどん贅沢になっていってるのかもしれない」

 その気持ちはわかる気がした。

 祖父が亡くなってからクレイドルに来るまでの方が、アンリはずっと孤独だった。でも今、ゼロが仕事で会えないときは、やっぱり寂しい。

「兄さんの仕事は大切ってわかってるの。でも、やっぱり寂しいの」

「そうね、寂しいわね」

「お人形さんにも、お兄さんがいるの?」

「お兄さんじゃないけど、家族がやっぱり軍人なの。会えないときは、寂しい」

 最初は大人としてノヂシャの話を聞くつもりだったのに、素直な彼女につられて、うっかり自分の本心を話してしまった。

 でもノヂシャはふと頬を緩めた。

「一緒だね」

「そう。一緒ね」

 アンリも微笑んだ。

 赤の兵舎からの迎えは、思いの外早かった。

 セスに呼ばれて、ノヂシャと一緒に黒の軍の執務室に入ると、私服姿のゼロがソファに座っていた。

 ゼロはノヂシャの手の中のアンリに気づくと、勢いよく立ち上がった。

「アンリ!」

 アンリはノヂシャに談話室のテーブルの上に下ろしてもらうと、ゼロの方へ駆け寄った。

 ゼロがそっと差し出した手の、指を掴む。

「迎えに来てくれてありがとう」

 ゼロは脱力したように再びソファに座り、俯くと、心底安心したように長い長い息をついた。

「……無事でよかった」

 深く俯いたゼロがなんだかとても弱って見えて、すぐにでも抱きしめて、頭を撫でてあげたかった。だけど今の小さな体では、かなわない。

 アンリはもどかしい気持ちで、ただゼロの指を握った手に力を込めた。

「ごめんなさい、心配かけて」

「お前が謝ることじゃない。怖い目に合わせて、すまなかった」

 顔をあげたゼロは、いつものように優しい微笑をうかべた。

 胸が、ぎゅうっと痛む。

 きっと、たくさん心配して、たくさん探した。だけどそういったことは全部、ゼロは優しい微笑みで覆い隠してしまうから。

「お兄ちゃん、お人形さんつれて帰っちゃうの?」

 いつの間にかゼロの隣に来ていたノヂシャが、小さな声で尋ねた。

「お人形さん?」

 きょとんとしたゼロに、アンリは頷いてみせた。

「お友達になったの」

「お願い、お兄ちゃん、もう1日だけ一緒にいさせて」

 ノヂシャの切実なお願いに、ゼロは戸惑い、途方にくれたような顔になる。

 助け舟を出してくれたのは、意外な人物だった。

「ノヂシャ、このお人形はその兄ちゃんの宝物なんだ。取りあげたりしたら、赤の軍が勢揃いで取り戻しにくるかもしれねーぞ」

 レイの言葉に、そこに居合わせた幹部がどっと笑い出す。

 不思議そうなアンリに、レイは笑いながら説明してくれた。

「ちょっとした騒動だったんだぜ。こいつ、エースの部隊全員を引き連れて、いきなりうちの兵舎に来やがったんだ」

「ええっ?」

 よくよく考えてみると、ここから赤の兵舎まで単騎で駆けても二時間はかかる。だけどアンリが黒の兵舎に来てから、まだ一時間ほどしか経っていなかった。おそらく、赤の軍の使いとは行き違いにゼロはここまでたどり着いたのだ。

「ハールまでいるし、本当に驚いたぞ」

「カチコミかと思って身構えちゃったわよ」

「すまない、一応誤解されないように私服に着替えてきたんだが」

「いや、むしろ領民の反乱かと思ってびびったわ」

 ゼロの話では、ハールに魔法でアンリを探してもらったが、アンリにかけられた魔法のせいで、「黒の兵舎の敷地内にいる」ということまでしかわからなかったそうだ。まずは黒の兵舎の中を隈なく捜索するというゼロと共に、ハールと隊員たちも一緒に駆けつけてくれたのだった。今は、アンリの無事を知った皆は引き上げ、ゼロだけが黒の兵舎に残っていた。

「騒がせて申し訳なかった」

 申し訳なさそうにゼロは頭を下げた。

 だけど黒の軍はみんな、優しい笑顔だった。

「こいつ、今こんなカッコつけてるけど、ここに来た時は死にそうな顔してた。後でお前の大冒険の話も聞かせてやれよ」

 レイの言葉に、アンリは微笑を浮かべたけれど、本当は泣き出したいような気持ちだった。

(……ほらね、やっぱり)

 ゼロは必死で探して、迎えに来てくれた。

 どんなに謝っても、お礼を言っても全然足りなくて、アンリの中にどうにもできないもどかしさが募っていく。

 ゼロは真面目な顔でノヂシャに向き直った。

 寂しそうな表情の彼女に、微笑みかける。

「すまない、こいつは俺の大切な家族なんだ。どうか、連れて帰らせてくれないか」

「家族……」

 ノヂシャは、口の中でゼロの言葉を繰り返すと、きゅっと唇を引き結ぶようにして、黙り込んだ。

 やがて、ポツリと呟いた。

「家族なら、一緒にいなきゃ」

 セスが、そっと寄り添うように、ノヂシャの肩に両手を置いた。

 ノヂシャはセスに寄りかかるようにして、アンリをみた。

 悲しそうな表情に、後ろ髪を引かれる。

「お人形さん、また会える?」

「うん。もしかしたら、今度会うときは今とは違う姿かもしれないけど、それでもお友達でいてくれる?」

「もちろんよ」

 ノヂシャがやっと笑顔を見せた。

「またね」

 アンリは、ゼロがヨナから借りたという小さな蓋つきのバスケットに入れられて帰ることになった。

 アンリとしては、ゼロのポケットがとても気に入っていた。だけどアンリを探し回ってくれたゼロに「こちらの方が安全だから」と言われてしまうと、従うしかなかった。

 兵舎の玄関で、ゼロが不思議そうに口を開いた。

「そういえば、どうして人形のふりをしていたんだ?」

「うん?最初はセスさんの冗談だったんだけど、ノヂシャちゃんすっかり信じてたし……大きくなってから、子供の頃、お人形とおしゃべりした不思議な日があったって思い出せるのも素敵かなと思って」

「……なるほど、そういうものか」

 ゼロが、納得したように微笑んだ。

「ありがとうね、アンリちゃん」

 見送りに出てきたセスの柔らかな声がする。

「最近ちょっと寂しい思いをさせてたから、お友達ができて嬉しかったみたい」

「こちらこそ、お世話になりました」

「それにしても……」

 セスはゼロをちらりと見ると、いきなり笑い出した。可笑しくて仕方ない様子で、きょとんとしたゼロの胸を、軽く叩く。

「ナース人形に執着する成人男子って……アンタ、あの子の頭の中では相当な変態かもしれないわね」

「うっ……そ、そうか……」

 ゼロは一瞬不本意そうに眉を寄せたが、潔く諦めたようだ。

「まあ、仕方ない」

 そして少し逡巡した後で、ポケットから封筒を取り出した。

「黒の10、これを。あの子を連れて行ってやってくれ」

 セスは封筒を受け取って中身を見ると、目を丸くした。

「あら、これ。……いいの?アンリちゃんと行く予定だったんじゃないの?」

「俺たちの分はまた手に入れるからいい。アンリが世話になったし、……せっかくできた友達を取り上げて寂しい思いをさせてしまった。せめてものお詫びだ」

 アンリの位置からは封筒の中身は見えなかった。でも、きっとノヂシャが喜びそうなものなのだろう。

 多分ゼロは、ずっと、ノヂシャの寂しそうな顔が気になっていたのだ。なんだかとてもゼロらしくて、アンリはそっと微笑んだ。

「そうか……。二人とも、どうもありがとう」

 いつもより低く、落ち着いた声で礼を言ったセスは、穏やかな微笑を浮かべ、見送ってくれた。

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