赤のエースで妄想してみた その5 幸せな朝
温かい、を通り越して、なんだか暑い。
ゼロは息苦しさを感じて身動ぎしようとした。
それなのに、体が全く動かない。体の自由が効かない、この感覚はずっと昔に覚えがある。暗い予感と共に、嫌な汗が吹き出た。
違う。そんなはずはない。
俺はもう、あそこには戻らない。
早く帰ろう、あの子の元へ。
俺の、大切な――。
ふわり、とよく知っているハーブの香りが優しく漂い、ゼロははっと目を開いた。
溺れかけた人のように大きく息を吸う。心臓が大きく鳴っていた。
2、3度深く呼吸すると、寝起きで混乱していた頭もだんだんはっきりしてきた。体はまだ動かないが、頭だけをもたげて周囲を見る。
今の自分の状態も、なぜあんな夢を見たのかもすぐに把握でき、ゼロは苦笑を漏らした。
「……なるほど」
いつも通り自分のベッドに寝ているのだが、アンリが右隣からしっかりとゼロにしがみつき、半分ゼロに乗り上げるようにして、丸くなって熟睡している。そしてゼロの真上でリコスが丸くなって眠っていた。
動けないわけだ。
リコスを拾ってから一年と少し。あっという間に大きくなった。今のリコスは、流石に真上で寝られると重たい。
窓からは、カーテン越しにもわかるぐらい明るい日が射している。鳥たちのさえずりも賑やかで、昨夜の嵐はすっかり去ってしまったようだった。
ぐっすり眠っているアンリとリコスを見て、ゼロは微笑む。
そして昨夜のことを思い出した。
クレイドルは穏やかな気候だが、4月だけ特別天気が荒れやすい。
昨日も、夜からの嵐に備えて、午後からゼロもクレイドルを走り回っていた。軍に命じられたのは森の近くの土砂崩れの対策だった。仕事を終え、明るいうちに兵舎に戻ろうとしたのだが、嵐に備えて早めに店をたたむ花屋や、腰を痛めて動けなくなっている老紳士を助けているうちに、どんどん帰りは遅くなってしまった。
昨日はどういうわけか、次から次へとゼロの助けを必要とする人が現れて、いつまで経っても兵舎にたどり着けなかった。
最後に、ターナー牧場に、風に怯えて逃げ出してしまった仔牛を保護して届けた頃には、深夜になっていた。
雷が鳴り始めているのに気付いて、ゼロは馬を宥めながら帰路を急いだ。
ゼロ一人ならば、どうとでもなるが、今は違う。
リコスは雷をひどく怖がる。
今はアンリが一緒かもしれないが、アンリも実は雷が苦手だ。
兵舎にたどり着いた頃には、ひどい雨まで降りだしていて、ゼロはずぶ濡れだった。
消灯時間は過ぎていたが、玄関を入ってすぐに、大きな籠を抱えたエドガーに会った。エドガーもびしょ濡れだ。
「おかえり、ゼロ。お互いひどい有様ですね」
「何か手伝うか?」
「こっちは大丈夫、ボリスが手伝ってくれていますから」
エドガーの隊の小隊長、ボリスが同じように大きな籠を抱え、仏頂面で彼の後ろに立っていた。ボリスの籠からは、鴨の雛が顔を出している。
「嵐の夜です。お前も早く、お前の家族のもとにいってあげなさい」
「ああ、そうする」
ゼロは微笑んだ。
自室のドアを開け、ゼロは驚いた。
部屋は煌々と明るく、ストーブが部屋を温めていた。
雨で冷え切って硬った体から、力が抜ける。
部屋を見回して、思わず笑みをこぼす。
窓から一番離れた部屋の隅で、アンリとリコスがブランケットにくるまり、団子になって眠っていた。
ゼロは足音をたてないようにして、そっと部屋の片隅の団子に近いた。アンリの頬の涙の跡に気付き、余程怖かったのだろうか、と胸が痛んだ。思わず手を伸ばしかけて、自分がずぶ濡れなのに気付き、思いとどまる。
目を覚ましたのはリコスが先だった。
ゼロがハッとして止める前に、元気に一吠えしてしまったので、隣のアンリも目を覚ます。
「ゼロ……!」
「待て!」
目を覚ました途端ゼロに駆け寄ろうとしたアンリとリコスは、彼の号令で、揃ってピタリと動きを止めた。
「お前たちまで濡れてしまうから、今は飛びつくのはなしだ。シャワー浴びて着替えてくるまで待てだ、いいな」
アンリはゼロがずぶ濡れなのに気付いて、慌てる。
「ゼロ、風邪引いちゃうよ!私たちは大丈夫だから、ゆっくりあったまってきて」
そんなことを言いながらも、外で雷の大きな音が響いた途端に、アンリとリコスはびくりと身を竦ませた。
彼らの様子をみていると、とてもゆっくりはできない。ゼロは大急ぎでシャワーを浴び、着替えて、すぐに大切な家族たちを抱きしめた。
そして雷を怖がるアンリとリコスを宥めながら、揃って眠りについたのだった。
ゼロは、目を覚ました途端に揃って彼に飛びつこうとして、「待て」の号令で揃ってピタリと動きを止めた、昨夜のアンリとリコスの様子を思い出して、小さく笑った。
リコスが目を覚まし、鼻を鳴らす。
ゼロはすぐに人差し指を口元にあて、吠えないように言い聞かせた。
アンリはまだ眠っている。今度は起こさずにすんだ。
ゼロは右腕でアンリを抱えたまま、左手でリコスを撫でてやる。
「腹が減ったか?もう少しだけ、アンリを寝かしてやろう」
しがみついてくる温もりは心地良い。つい最近まで知らなかった、自分とは別の命の温もり。
ゼロは、眠るアンリの髪をそっと梳いた。
ずっとこのままでいたいような気もするし、早く目を覚ましたアンリの笑顔を見たいような気もする。
「幸せな悩みだな」
ゼロはまた小さく笑った。
両手に大切な家族を抱え、心が穏やかに満たされていく。
幸せな朝だ。
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