木枯らしが吹き荒ぶ寒い日。
ハールが青い閃光と共に執務室に現れたのは、午後の早い時間だった。
ゼロが事故で古い魔法薬を浴びてしまった。
その知らせを聞いたハールは、軍からの使いを魔法の塔に残したまま、単身魔法で瞬間移動してきたのだ。
突然現れたハールに、一人で執務室にいたランスロットは驚いた様子も見せなかった。
「仕事中に呼び出して悪かった」
「構わない。詳しく説明してくれ」
「……おそらく、記憶喪失の一種だと思うのだが。実際に見てもらった方が早いだろう」
もともとランスロットはあまり表情を変えないので、事態の深刻さを彼の顔色から読むことはできない。ハールは不安な気持ちを抱えたまま、ランスロットと共にゼロの部屋へ向かった。
ハールは初めてゼロの私室に入った。
オレンジを基調に、明るく清潔に整えられた彼の部屋には、数名の幹部たちと、ゼロの恋人でもある赤の軍の看護師、アンリがいた。
ゼロはベッドに体を起こした状態で、彼らに囲まれていた。
意識もはっきりしているし、体に怪我などもないようだ。ハールはそっと安堵の息をついた。
だけど、すぐに違和感を感じた。いつも落ち着いている彼が、やけに不安そうな表情をしているのだ。
ゼロはハールに気づくと、ぱっと表情を明るくして言った。
「キャンディのお兄ちゃん!」
いきなり、ハールの心は強引に過去へ引き戻された。
少年のハールが、特待生として魔法の塔にいた頃。
ほんの少しだけ、幼いゼロと共に過ごした時間。
当時と同じようにハールを呼んだゼロは、何かおかしいと気がついたのか、不思議そうにハールを見上げる。今ここにいるのは、14歳のハールではないから。14歳のハールは今よりも無知で未熟で無垢で、仮面もつけてはいなかった。
「……一体、どういうことだ?」
ハールは混乱しながら、ランスロットに説明を乞う。
「見ての通りだ。彼は魔法薬を浴びた後、しばらく意識を失っていた。そして意識を取り戻したと思ったら、中身が10歳の子供になっていた」
ハールは再び視線をゼロに戻した。
「お兄ちゃんじゃないの?」
ゼロが、また不安そうな表情を浮かべる。
ハールはとっさに嘘をついた。
「……いや、俺だよ。今日は魔法でちょっと大人になってみたんだ。ほら、君も大きくなっているだろう」
ゼロはハールに言われて、自分の両手を見下ろした。白いTシャツの袖から伸びているのは、彼が10歳の頃の、小枝のような腕ではない。剣で鍛え抜いた男のたくましい両腕だ。
ゼロは少しだけ納得したような表情になった。
「そっか、魔法だったんだ。これが今日の実験?」
ハールは言葉をなくした。
ここにいるのは、魔法の塔に幽閉されていたゼロだ。毎日、実験という名の苦痛に耐えていた健気な子供。
目の前のゼロの無垢な表情が、あの頃のハールを責めているようで息苦しくなる。
「……うん。でも、今日の実験はこれでおしまい。後はもう、何もしなくていいよ」
ゼロが安心したように微笑んだ。
その笑顔に再び胸が痛み、ハールはわずかに眉を寄せる。
「だけどちょっとだけ、様子を見せてもらえるかな。痛いことも怖いこともしないから」
「うん、わかった」
ハールがゼロの浴びた魔法薬の影響を調べる間、ゼロは大人しくしていた。
ゼロはハールが逃げた後、魔法の塔で記憶操作を受けている。塔にいた頃のハールのことは一切覚えていないはずだった。だけど彼が浴びた魔法薬は、その記憶操作にも影響したようだ。
ここにいるのは、記憶操作を受ける前のゼロ。
あの頃のハールを知っているゼロ。
ハールが、彼を残して魔法の塔を逃げ出す前の——。
「……大丈夫、これなら俺にもすぐ解くことができる。現在から、過去のある時点までの記憶が、全て魔法で覆われてしまっているだけだ。その障害を取り除いてやれば、もとに戻るだろう」
思案げに二人を見守っていたランスロットが、安心したように息をついた。
「では、頼めるか」
「わかった」
ハールがおもむろに魔法石を取り出す。
「……待って!」
突然声を上げたのは、赤のクイーンだった。
「もう少しだけ、待って欲しい」
「ヨナ……」
ランスロットはしばらく黙ったまま、緊張した様子の彼の顔を見つめた。やがて一つ頷くと、ハールに向き直った。
「……可能か、ハール」
「あまり長くは待てない。数時間もすれば魔法が自然に解け始めるが、その場合、記憶の混乱を招く恐れがある」
ヨナが表情を明るくした。
「数時間もあれば十分だ。ゼロ、一緒にケーキを食べよう!」
ハールには、一体どうしてそんなことになるのか、さっぱりわからない。
だけど今ここで首を捻っているのはハールだけで、赤の軍の連中は皆ヨナの意図がわかっているように見える。
「……ケーキって何?」
きょとんとした顔のゼロに尋ねられ、ヨナは一瞬言葉に詰まった。だけどすぐに、拳を握りしめ、笑顔になる。
「とても美味しくて、素敵なものだよ。待ってて、すぐ持ってくるから!」
ヨナは鼻の頭を真っ赤にして部屋を飛び出して行った。
状況が飲み込めないハールは、説明を求めるようにランスロットを見る。
ランスロットは穏やかな笑みを浮かべ、ヨナが出て行ったドアを見つめながら言った。
「すまない、ハール。もうしばらく我々に付き合ってもらえないか」
「……それは、構わないが」
今日は急ぎの仕事はない。それに、ランスロットにこんな風に頼まれては断れなかった。
カイルと何やら相談していたエドガーは、自分もちょっと準備があるから、と部屋を出て行った。
「お前を引き止めておいてすまないが、俺はそろそろ執務に戻らなくてはならない。ハール、あとは任せる。何かあったら呼んでくれ」
ハールが無言で頷くと、ランスロットはマントを翻し部屋を出ようとした。だが、ドアの前でふと足を止め、ゼロを振り返った。
「ゼロ」
「はい!」
ゼロは条件反射のように背筋を伸ばして返事をした。赤のエースである時と同じように。記憶がなくても赤のエースであるゼロの体に染み付いた動きなのか、それともランスロットという人間が、自然と相手をそのような態度にさせてしまうのか。
ハールは不思議に思いながら二人を見守る。
ランスロットは微かに目を細め、表情を和らげた。
「お前は強くなる」
ゼロの表情に、驚きともう一つ、子供時代の彼にはなかった何かが浮かぶ。
ハールにはあの頃のゼロと今のゼロの表情の違い、今のゼロの表情にある「何か」の正体はわからなかった。
その一言だけを残してランスロットが出て行った後も、ゼロはしばらく無言で、彼が出て行ったドアを見つめていた。
ヨナはランスロットが出て行ってからそれほど間を開けず、ケーキとハーブティーを載せたカートと共に戻ってきた。
何やら平たい箱を抱えたエドガーも一緒だ。
「これが、ケーキ……」
皿に切り分けられたケーキを見たゼロは、歓声こそあげなかったが、頬を赤く上気させ、大きく見開いた目は、期待にきらきらと輝いている。
ゼロはふと心配そうな顔で、ハールの方を見た。
魔法の塔にいた時は、食べ物に関しても厳しく決められていた。
「大丈夫、食べてもいいよ。誰も叱らない」
ハールがそう答えてやると、ゼロは嬉しそうに微笑み、皿の上のケーキを、フォークを上手に使って口元に運んだ。
ハールは少し驚いていた。あの頃の彼は、カトラリーの使い方などほとんど知らなかったはずだ。
「なるほど、身についていることに関しては、記憶がなくても自然と身体が動くものなんですね」
もう一人、ハールと同じく意外そうな顔をしていたエドガーがつぶやいた。
ハールは改めてエドガーの方を見た。
エドガーはこちらを見るハールに気づくと、にこりと笑って言った。
「もしかしたら、剣もうまく使えるかもしれませんね」
彼はゼロの剣の師匠だ。そして寄宿学校に入ったゼロの世話係でもあった。きっとゼロにカトラリーの使い方を教えたのも彼なのだろう。
ハールとは別の方法で、彼もまたゼロを見守り続けていた。
ハールはケーキを頬張るゼロを眺めながら、エドガーにだけ聞こえるぐらいの小さな声で言った。
「……君たちは、何も訊かないんだな」
ハールが魔法の塔にいたことは公然の事実だが、ハールとゼロの関係については、赤の軍ではアンリとランスロット以外誰も知らない。10歳のゼロがハールを見知っていることについて、問い詰められても不思議ではなかった。
「それが必要なことなら訊きます。あるいは、あなたが話したいことなら」
魔法の塔での出来事は、そのどちらでもない。ハールはエドガーの返答にただ感謝した。
ふとゼロの方へ目をやると、彼は皿の上に一口残したケーキを名残惜しそうに眺めていた。あまりにも子供らしいその様子に、ハールはつい小さく笑ってしまった。
「大丈夫、また明日食べられるよ」
ヨナも苦笑する。
ゼロが確認するようにハールの方を見たので、ハールは保証するように頷いた。
安心した様子のゼロが、最後の一口を頬張り、幸せそうな笑顔を浮かべる。
周りもついつられて微笑んでしまうような、邪気のない笑顔だった。
「美味しかった?」
「うん、すごく!ありがとう、お兄ちゃん」
ヨナはぐっと声を詰まらせると、ゼロを抱きしめた。
「また一緒にケーキを食べようね!」
突然抱きしめられたゼロは目をぱちくりさせている。
再び赤くなった鼻の頭を隠すようにして、ヨナも職務に戻っていった。約束だよ、と何度も言い置いて。
「さあ、次は俺の番です」
ジャジャーン、という効果音を口ずさみながら、エドガーが楽しそうな笑顔でボードゲームを広げた。
「ゲーム・オブ・ライフです。アンリ、やったことは?」
「初めてみる」
「大丈夫、ルールは簡単ですから。ゼロ、やってみたいですか?」
「やってみたい!」
ゼロがいきいきとした、好奇心にみちた笑顔で答えた。
エドガーは満足げに微笑み、手短にルールを説明した。ルーレットを回し、その指示に従うボードゲームだ。
ルールをよく知っているカイルが銀行役となった。
「おい、エドガー!お前さっきから銀行を倒産させるのが目的になってないか」
「えっ、そういうゲームじゃないんですか?」
「違う……はずだぞ。おいアンリ、お前は現金を溜め込みすぎだ!ちょっとは投資か貯蓄しろ」
「だって手元にあったほうがなんだか安心なんだもの」
「なんだそりゃ。……ハール、あんたはもうちょっとやる気出せ」
「う、すまない。真面目にやってるつもりなんだが」
ハールは何故か一回休みと3コマ戻るを繰り返してしまい、他のみんなは真ん中あたりまで進んでいるというのに、彼だけ、いまだスタート地点をうろうろしていた。
「ゼロ、お前は子供を増やしすぎだ」
「だって家族は多いほうがいい」
「だそうですよ、アンリ。楽しみですねぇ」
エドガーの茶々を、アンリは澄ました顔で受け流した。でも彼女の顔は真っ赤だ。ゼロは、キョトンとしている。
朗らかな笑い声の中、どこまでも自由に振る舞うメンバーを、カイルがなんとか調整しながらゲームを進めていく。夕方と呼ぶにはまだ少し早い時間、賑やかなゲームは終わりを迎えた。
「なあ、ボードゲームってこんなに疲れるもんだったか?」
ぐったりしたカイルと対照的に、赤のジャックは上機嫌で伸びをした。
「ああ、楽しかった。また遊びましょうね、ゼロ」
「また、一緒に遊べるの?」
ゼロが嬉しそうな笑顔になる。
この数時間で、ゼロの表情は見違えるほど明るくなった。
ハールは魔法の塔にいた頃のゼロを思い出す。年齢は子供であったけれど、彼が置かれていた特殊な環境は、彼に子供でいることを許さなかった。あの頃のゼロが、こんな明るい笑顔を見せることなんてなかった。
エドガーもまた、朗らかな笑顔で答えた。
「もちろんです。俺も、また一緒に遊べる日を心待ちにしていますよ」
エドガーが出て行くと、部屋は急に静かになった。
ハールは時計を見た。
——そろそろ、頃合いだ。
ハールがアンリとカイルに目配せすると、二人も頷いた。
ハールはポケットの中の魔法石を握りしめ、口の中で詠唱した。ゼロを、自然に眠りに導くための魔法。
効果はすぐに現れ、ゼロが大きなあくびをした。
「なんか、眠くなってきた……」
「遊び疲れたのね。少し眠る?」
「うん」
「ね、ちょっとだけ、ぎゅっとしてもいい?」
アンリにそう言われて、ゼロはちょっと戸惑うような顔をしたけれど、頬を染めて頷いた。
「……うん、いいよ」
「ありがとう」
アンリは柔らかく微笑むと、両手を大きく広げて、恥ずかしそうに俯くゼロをしっかり抱きしめた。
恋人同士の抱擁なんて、いつものハールなら頬を赤らめ、いたたまれない思いで目をそらしているところだ。だけど、目の前にあるのは、ただ優しい光景だった。そこにいるのは慈愛にみちた抱擁を受け止める、安心しきった子供。
(ああ、やっぱりそういうことだったのか)
今はもう、ハールも彼らがなぜこんな時間を持とうとしたのか理解していた。
彼らは10歳だったゼロが当時持てなかったような時間を、わずかにでも取り戻そうとしたのだ。
甘いケーキ、楽しいゲーム、多くの子供が当たり前に享受しているような、子供が子供でいられる時間。
ここにいるのは、ただ記憶を一時的に無くしただけの、すでに成人したゼロだ。彼らのしたことは、ただの感傷にすぎない。
記憶にある赤の軍とは違い、彼らは随分感傷的で甘いとハールは感じた。だけど彼らをランスロットが率いていると思うと、何故かしっくりきた。
——そうか、ランスロット。これがお前の赤の軍なんだな。
おそらくはゼロが魔法の塔で受けた記憶操作の影響で、今日ここで起きたことは全て、彼の記憶からは消えてしまうだろう。それでも、彼らのゼロへの思いが、何らかの形でゼロの中に残っていて欲しいと願わずにはいられなかった。
14年前のゼロは持ち得なかったもの。今の彼の表情にあって、10歳当時のゼロにはなかった何か。ランスロットが、彼の赤の軍がゼロに与えた、それは多分、未来への——。
アンリは別れを惜しむようにそっと腕を緩めると、最後にゼロの額にキスをした。
ゼロは何か言おうとしたけれど、ハールの魔法による眠気にもう負けてしまいそうだ。
「……さ、もうおやすみなさい」
ゼロは、アンリに促されるままに、ベッドに横になる。
「本当は、眠りたくないんだ」
殆ど目を閉じてしまった状態で、ゼロがポツリと言った。
「目が覚めたら、またもとの場所にいる気がして」
アンリが、ゼロの頭を撫でながら、もう片方の手で彼の手を握った。
「大丈夫。あなたはちゃんとここに戻ってくる。ここで、待ってるから」
彼女の落ち着いた、甘やかな声がささやく。
すっかり目を閉じてしまったゼロは、安心したような微笑みを浮かべた。
「……『俺は強くなる』って……」
ゼロの言葉はそこで途切れた。ただ、穏やかな寝息が続く。
彼はハールの魔法で深い眠りに落ちていた。
ここにいるゼロは、苛烈な日々を乗り越え、赤のエースとなったゼロだ。ただ、一時的に記憶を失っているに過ぎない。そう、わかってはいても。
10歳の彼をあの場所に一人送り返すようで、心が痛んだ。
——俺まで感傷的になりすぎだ。
ハールは思い直したように顔をあげ、魔法石を取り出した。
窓のない塔の片隅で、少年は目を覚ました。
頬にいつも通りの冷たい石の感触を感じながら、自分が微笑っていたことに気づく。
だけど微笑っていた理由は思い出せない。
夢を見ていた——ような気はする。
柔らかい、温かい、優しい、ふわふわとしているのに力強い、明るい何か。
彼が、生まれてから一度も触れたことのないような。
見失いたくない、忘れたくない。それなのに、それが何だったのか。もうその輪郭さえわからない。
思い出せないけれど。
指一本動かせないぐらい疲弊していた体に、力が戻っているのがわかる。
——いつか、もう一度。
彼は動かないまま、しばらく暗闇を見つめていたが、やがて祈るように目を閉じた。
願わくば、もう一度同じ夢を見たい。
夜明けはまだ遠い。
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