王子様とわたし  —Prologue—


赤のキングで妄想してみた その1 王子様とわたし —Prologue—


 シンシア・ヘミングが南通りを東へ、家路を急いでいた時、何か硬いものが落ちたような、小さな音がした。

(ボタンでも落とした?)

 音のした方を振り返ると、透き通った石が歩道の上に落ちていた。ただの石かと思ったが、銀の鎖が通してあり、ネックレスになっている。

 通りの先の方を見ると、華やかな長いブロンドをなびかせ、大きなスーツケースを持って走る女性の後ろ姿が見えた。さっき音がした時、ちょうどすれ違った記憶がある。おそらく、彼女が落とした物だろう。

「待って、あなた!」

 シンシアは石を拾って彼女に呼びかけたが、後ろ姿の女性は振り向きもせず、角を曲がってしまった。仕方なく、シンシアはブロンドの女性を追いかけ、来た道を走って戻り始めた。

(は、速い……!)

 前を走るブロンドの女性は、重そうなスーツケースを持っているにも関わらず、すごい勢いで前を駆けてゆく。大切な人でも待たせているのだろうか。

 足に少しばかり自信のあるシンシアも、本気で追いかけ始めた。

「あ、あれ……?」

 ハイドパークに入って行った女性を追いかけたはずなのに、大きな木の幹に一瞬隠れたと思ったら、そのまま彼女は消えてしまった。

 彼女が隠れたように見えた木の後ろ側にまわってみても、誰もいない。彼女は忽然と消えてしまった。

「どこへ行っちゃったの?」

 息を切らしながら、不思議に思い、あたりを見回していたシンシアは、少し足元の注意を怠ってしまい、木の根の盛り上がりに足をとられてしまった。おっと!勇ましい声とともに慌ててもう片方の足を前に出した。が、そこにあるはずの地面が、なかった。

 内臓が浮くような浮遊感とともに、がくん、と体が下がった。

(落ちる――!)

 シンシアは落とし穴にでも落ち込んだのかと反射的に体を縮めたが、いつまでたっても予想した衝撃はこない。

 恐る恐る目を開けてみると、シンシアの落下はまだ続いていた。

「えええーっ?」

 シンシアは、今まで見た事のない不思議な光に満ちたトンネルを、ゆっくりと落下していた。地球の裏側に出てしまうのではないか、というぐらい落下し続けた頃、突然、ふわりと頬に風を感じた。いつの間にか不思議なトンネルが途切れ、眼下に闇が広がっている。そよ風程度だった風は今や耳元でぴゅうぴゅうと音をたてている。突然、周囲が明るくなったように感じた。見ると、雲の切間から満月が現れた。満月が、すぐ隣に見える。

(私、空飛んでる?)

 正確には、彼女は空から落下していた。

 眼下の闇の中に、少しずつ街の小さな明かりが見えはじめる。

 風の音はどんどん大きく鋭くなり、ついに彼女は目を開けていられなくなった。

 今度こそ、地面に叩きつけられる!

 体を丸め、身を硬くする。

 だけど彼女が次に感じた衝撃は、弾力のあるマットレスに沈み込むような感覚だった。十分ゆっくり時間をかけて減速して、静止した後で、もう一度、ぽん、と小さく跳ね返るような感覚があり、その後ふわりと暖かなものに包み込まれた。上空の風で体が冷え切っていた彼女は思わずその温もりにほっと安堵のため息をついた。それは、無条件に安心してしまうような安定感と温もりだった。くったりと力を抜いてその温もりに体を預けた彼女はそっと目を開く。

 まず目に飛び込んできたのは、深い海のような青く澄んだ双眸だった。金の髪がキラキラと月明かりに輝いている。作り物のように美しい男性が、シンシアを見ていた。

「……王子様……」

 シンシアの無意識の呟きに、その男性は美しい眉を、訝しげにひそめた。

(う、動いた!)

 その男性は作り物ではなく、生きている。

 シンシアはゆっくりと周りを見回した。他に、二人の男性と、一人の女性が、びっくりした顔でこちらをみていた。女性は、シンシアが追いかけていたブロンドの長い髪の女性だった。

 よかった、追いついた。

「あの……」

 彼女に話しかけようとして、やっと自分があの王子様のような男性に横抱きに抱えられていたことに気がついた。

「こ、これは失礼いたしました、あの、もう大丈夫なのでおろしていただけますか?」

 シンシアは王子様におろしてもらうと、ブロンドの彼女にに駆け寄った。

 間近で見ると、とても綺麗な、シンシアと同い年ぐらいの女の子だった。

「あの、これを落とされませんでしたか?」

「あ!」

 彼女は自分の胸元を抑えて確認すると、シンシアから石を受け取り、大切そうに抱きしめた。

「ありがとう!私の宝物なの……」

 よほど大切なものだったのだろう、彼女は涙ぐんでいる。

「君はまだそれを持っていたのか」

 隣に立っていたグレイの瞳の男性が驚いている。

「もうそれはただの石だ」

「それでも、私の宝物です……あ、鎖が切れちゃってる」

 肩を落とす彼女に、グレイの瞳の男性は優しく微笑んだ。

「帰ったらなおそう」

 彼女が、グレイの瞳の男性を嬉しそうに見上げる。

 グレイの瞳の男性が、優しく微笑み返し、二人は見つめ合った。

 シンシアの父が母を見るのと同じ眼だ。

 二人は深く愛し合っていること、ネックレスは彼女にとってとても大切な物だったらしいことがわかった。

(やっぱり追いかけて、よかった……)

 シンシアは温かな気持ちになり、微笑むと、二人の邪魔をしないように、そっと帰ろうとした。しかしどちらに帰ればいいのかわからないことに気づいた。もう一度周囲を見回してみると、足元にはきれいに整えられた芝生が広がっており、少し離れたところに、薔薇の垣根とアーチが見える。とてもきれいな庭だけれど、今まで見たことない景色だった。

 ここは一体どこなんだろう。

 シンシアは、恋人同士らしき二人の邪魔をしてはいけないと、少し離れたところにいる二人の男性に尋ねることにした。

「あの、すみません。ハイドパークまではどう行けばいいんでしょう」

 二人の男性はシンシアの質問に驚いた後、互いに目を見合わせ、――深いため息をついた。

 あの美しい王子様は、ランスロットと名乗った。もう一人の、やけに背の高い、目つきの鋭い男性はシリウス。きれいなブロンドの女の子はアリス、グレイの瞳の男性はハール。

 5人はバラのアーチをくぐり、そこにあったテーブルを囲んでいた。備え付けらしいティーセットで、シリウスが紅茶を入れてくれた。

 ここはクレイドル。不思議の国。

 彼らはシンシアにそう教えてくれた。

 クレイドルはロンドンの裏側、コインの裏と表。満月の夜の数時間だけ、二つの世界がつながる。さっきシンシアが通ってきた不思議なトンネルで。

 不思議の国クレイドルは、科学の代わりに魔法が発達した国だという。

「魔法……?」

「お前はさっき体験したばかりだろう」

 目を丸くしたシンシアにランスロットが言った。

 落下してきた彼女を受け止めたのはランスロットの魔法らしい。

 この世界では、魔法石という不思議な石を使えば誰もが魔法を使えるが、魔力を持っている人間はごく稀だという。

「たまたまここにはクレイドルの2大魔法使いが揃ってるけどな」

 ハールとランスロットは強大な魔力を持っている、とシリウスは笑った。

 次の満月まで1ヶ月、ロンドンには帰れないと聞いたときは絶望的な気持ちになったけれど。

 クレイドルの話を聞きながら、シンシアの心のどこかに、わくわくした気持ちもこっそり隠れている。

 一通りの説明を聞き終え、話が途切れた時、アリスが微笑んだ。

「シンシアって、きれいな名前ね」

 そして隣に座るハールに説明する。

「月の女神様の名前なのよ」

「そうか。いい名前だな」

 ハールがシンシアを見て微笑んだ。

「ありがとうございます」 

 シンシアもはにかんで微笑む。

 ロマンチストの父がくれた名前だ。ちょっと名前負けしているが、それでも気に入っている。

 ふ、と誰かが小さく笑う気配がした。

「女神……女神の『使い』の間違いじゃないのか」

「ランス!お前なあ、女の子に……まあ、毛色は似てるが」 

 シリウスはランスロットを咎めながらも、シンシアをちらりと見て、苦笑した。

「シリウスまで……!全く、お前たちは」

 ハールが二人を咎めるように見る。

(アルテミスにお使いなんていたっけ?)

 シンシアがこっそり首を傾げていると、同じように疑問を感じたらしいアリスが不思議そうにハールに尋ねた。

「月の女神の使いって?」

 ハールはチラリとシンシアを見た後で、彼女の視線から逃げるように目を逸らし、気まずそうに答えた。

「クレイドルでは……月の女神はアライグマを使うんだ」

「アライグマ……」

 ——そうか、あの美しい王子さまから見たら、私はアライグマなのか。

 シンシアはむしろ厳かな気持ちで、小さなため息とともに現実を受け止めた。

 現実は、時折とても厳しい。

 彼女は今まであまり自分の容姿を気に病んだことはなかった。しかし今、目の前のランスロットを見て、アリスを見た後で、自分の地味なブラウンの瞳とブラウンの癖毛を思い浮かべ、さらにアライグマを思い浮かべると、確かにアライグマの方に親しみを感じたのだった。

「さて、お嬢ちゃんの今後だが」

 シリウスが咳払いをして、仕切り直すように言った。

「次の満月まで、よかったらうちに——黒の兵舎にこないか?男ばっかりのむさ苦しいところだが、皆気のいい奴らだ。あんたを歓迎してくれる」

「……ありがとうございます、とても助かります」

 とりあえず、次の満月まで屋根の下で暮らせそうで、シンシアはほっとした。

「私、ちゃんと働きます。なんでもお手伝いします」

「そりゃ、助かるが……、1ヶ月のヴァカンスを手にいれたと思って、のんびり過ごしてくれりゃいいんだ。クレイドルを、楽しんでくれ」

 シリウスが、微笑んだ。顔はとても怖いが、優しい人のようだ。

「いや、待ってくれ」

 物静かに二人のやりとりを見守っていたハールが、口を開いた。

「さっきアリスとも相談したんだが、家に来てもらうのはどうだろうか。同郷の人間がいた方が、何かと心強いだろう」

「部屋はあるのか?」

 シリウスが尋ねる。

「二階の、ロキの部屋の隣を片付ければいい。君さえ良ければ」

 ハールがシンシアに視線をうつすと、控えめに微笑んだ。

「森の中にある、可愛いお家なの。一緒に住んでいるロキも、すごく優しい人よ」

 アリスが楽しそうに笑う。

「森で暮らすのは、とても楽しいの。魚を釣ったり、木の実や果物を採ったり……、私、あそこで暮らすようになってから魚釣が好きになっちゃった」

「素敵。私、魚釣は得意よ。弟たちと一緒によく行ったの」

 弟たちと釣りに行くと、いつもシンシアが一番大きな魚を釣り上げた。

「それは頼もしいな」

 ハールとアリスが微笑んだ。

 この二人となら、きっと穏やかに1ヶ月過ごせそうだ。仲の良い恋人同士と暮らすのは気がひけるが、どうやらもう一人同居人もいるようだし。

 シンシアも、二人につられるように微笑んだ。

「お嬢ちゃんには弟がいるのか?」

「はい。4人いて、うち二人は双子です」

「兄弟の多さはうちといい勝負だな。そりゃにぎやかだろう」

 シリウスが笑った。

「はい、一番下はまだ10歳で、やんちゃ盛りです」

 シンシアは言いながら、弟たちの顔を思い浮かべる。続いて父と母の顔。

 きっととても心配している。

「お嬢ちゃん……」

 シリウスの声にシンシアが顔を上げると、みんなが心配そうな顔をして彼女を見ていた。シンシアは慌てて気合を入れ直して笑顔をつくった。

「たくさんクレイドルでのお土産話を持って帰らなきゃ」

 特に一番下のアスランは、父に似たロマンチストだ。クレイドルの話を聞いて喜ぶだろう。父の仕事に役立つかも知れない。

  ——だからみんな、1ヶ月もの間心配かけること、許してね。あんまり、心配しすぎないでね。

 シンシアは笑いながら、心の中で祈った。

 ぽん、とシンシアの頭の上にシリウスの手が載せられた。

「一番上はつらいな」

「シリウスさんも、もしかしてお兄ちゃんなんですか?」

「5人の弟妹がいる」

 それはさぞ賑やかだろう。

 シンシアは不思議な共感を感じて、シリウスと笑い合った。

「お嬢ちゃん、賑やかなのが好きなら、やっぱり黒の兵舎に……」

「俺が拾ったのだから、俺が引き取る」

 突然、それまでずっと黙っていたランスロットが宣言した。

 それは宣言だった。

 和やかな雰囲気が、静まる。

 王子様が深い海のような瞳でシンシアをまっすぐ見た。

「お前は俺と共に赤の兵舎にくるが良い」

「はい」

 シンシアは何かを考えることもなく、自動人形のように返事していた。

 他の返事など存在しないような気がして、「はい」と答えてしまった。

 シンシアは今でも、あの時ランスロットは魔法を使ったのではないかと思うことがある。

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