赤のキングで妄想してみた その1 王子様とわたし —第六話—
シリウスは、兵舎の敷地内なら自由に歩いて良いと言ってくれた。
「可哀想だが、外には出ないほうがいい。誰の目があるかわからないからな。しばらく我慢してくれ」
シリウスは申し訳なさそうに言ったが、シンシアは全く異論がなかった。せっかくたくさんの人が協力して外に避難させてくれたのに、それを全て無為にすることはできない。それに地下牢で味わった恐怖は、まだ生々しくシンシアの心に残っていた。
シンシアは大人しく、庭を散歩することにした。誰も使っていない訓練場らしき広場の外側を歩いていく。花壇があるのは建物の周りだけだが、訓練場の周りには木が並んでおり、5本ほど並んだナナカマドが花盛りだった。
訓練場を半周ほどして、兵舎の東側にポツンとあるブナの大木の近くまでたどり着いた時、ふと猫の鳴き声が聞こえた気がした。
あたりを見回してみても、猫の姿は見当たらない。
(気のせいかな)
シンシアが歩き出そうとすると、引き止めるようにもう一度。
ぐるりと木の周りを回ってみて、左右を見渡すが、声の主はどこにも見当たらない。最後に彼女は上を見て、やっとそれらしき姿を見つけた。
大きなブナの木の、シンシアが思い切り手を伸ばしたあたりからさらにシンシア一人分ほど登った高さに、小さなロシアンブルーの頭が見えた。
シンシアは猫を飼っている隣人の言葉を思い出した。
(そういえば、お隣の夫婦が、猫は木登りは得意だけど、降りるのは苦手みたいだって言ってた……)
「もしかして、降りられなくなっちゃったの?」
シンシアは一応尋ねてみたが、もちろん返ってくるのは猫の鳴き声だけだ。
さっきから何度か聞こえている鳴き声は、助けを求めているようにも聞こえる。幸いブナの木は、しっかりしており、太い幹とシンシアに都合の良い枝振りを持っている。
「よし!」
シンシアは気合を入れた掛け声とともに、ブナの木に登り始めた。
シリウスがフェンリルの部下に呼ばれ慌てて敷地の東端まで駆けつけると、レイとフェンリルがブナの木の下に、二人並んでいた。
「お嬢ちゃんは?」
二人は無言で上を指差す。
「今上見んなよ、おっさん。丸見えだから」
レイが心持ち頬を染めて言った。
どうやらシンシアがスカートのまま木登りをしているらしい。
「おっさん言うな。まあ、お前らが紳士で安心したよ。なんだってお嬢ちゃんは木登りを?」
二人は肩をすくめた。
「目を離すなって言うから向こうで銃の手入れしながら見てたんだけどさ。ちょっとの間ブナの木を眺めてたと思ったらスルスル登っちまった」
それで二人は慌てて駆けつけたらしい。
「早く降りたほうがいいな。最近この木の上の方にカラスが巣をかけてるんだ」
シリウスが眉を寄せた。
小さなロシアンブルーは、シンシアが同じ枝まで登り、手を差し出すと、素直に寄ってきた。
(良かった、私を怖がらなくて)
そっと抱いて、耳の後ろあたりを撫でてやる。
「もう大丈夫だからね」
シンシアは太い枝に腰かけると、周りを見た。
「わあ」
今シンシアのいる高さからなら、兵舎をぐるりと囲っている塀の向こうが見えた。思わず歓声をあげてしまうような、素晴らしい眺めだった。兵舎のある場所は小高い丘になっているらしく、黒の領地が一望できた。真ん中には賑々しく建物が並んでいるが、森の近くには畑や果樹園らしき緑が広がっている。遠くの方に時計台が見えた。
頬に風を受けながらうっとりと街を眺めていると、シリウスの声がした。
「お嬢ちゃん、早く降りて来い」
「はあい」
(いつの間にシリウスさんが来ていたんだろう?)
シンシアは猫を抱いたまま、スルスルと木を降り始めた。ちょうど3分の1ぐらい降りたあたりで、今度はレイの声がする。
「まずい、親鳥が帰ってきたぞ!急げ」
「えっ」
シンシアが驚くまもなく、突然黒い影が襲いかかってきた。
大きなカラスだ。
シンシアは抱いた猫を庇いながら、腕をふり、必死でカラスを追い払おうとしたが、カラスは足とくちばしで容赦なく攻撃してくる。
「痛あい!」
後頭部を酷く蹴られて思わず涙が滲んだ。
彼女は頭上のカラスに気を取られすぎてしまった。
クチバシで突かれて、大きく腕を振り回した瞬間、足が滑る。
(落ちる……!)
「危ねえ!」
シンシアは悲鳴を上げる間もなく落下したが、フェンリルがしっかりと受け止めてくれた。
「あ、ありがとう」
ほっと息をついたのも束の間、カラスは今度は木の下にいる4人をターゲットにしたらしい。一番背の高いシリウスの頭をかすめるように低く飛んで来た。
「話は後だ、まずは逃げるぞ!」
フェンリルはシンシアを抱えたまま走り出した。
レイとシリウスは、両手の塞がったフェンリルを庇いながら、脱いだ上着を振り回し、カラスを追い払った。
建物の中に逃げ込んだフェンリルは、抱えたシンシアを見ると、息を切らしながら言った。
「なあ、あんた深窓の令嬢って嘘だろ」
「シンソウノレイジョウ?」
シリウスとシンシアはきょとんとして繰り返す。
「よくわからないけれど、本当に助けてくれてありがとう」
シンシアはほっと安堵の息をつくと、笑顔でお礼を言って、フェンリルに下ろしてもらった。
「びっくりしたわね、もう大丈夫よ」
胸に抱えていた小さなロシアンブルーに話しかけると、猫が小さく鳴いた。
「なあ、もしかして、そいつ助けようとした?」
レイが尋ねる。
「うん。ブナの木から降りられなくなってたみたいなの」
「ベル、お前は、また……」
レイはため息をつくと、目を細めて猫を睨んだ。
「ごめんな。こいつ、かまって欲しくなると、あの木に登って降りられないふりするんだ」
「えっ、ふり?」
シンシアはぽかんとした顔になった。思わず「本当?」と尋ねながら腕の中の猫を見る。
猫は無邪気な表情でシンシアを見ると、満足げな様子でもう一度小さく鳴いた。
「こいつあれぐらいの高さだったら余裕で降りられるから」
猫は、全く悪びれた様子もなく、つぶらな目でシンシアを見上げている。
シンシアは笑い出した。
「すっかり騙されちゃった」
フェンリル、レイ、シリウスも一緒に笑い出した。
猫はシンシアの腕をするりと抜け出すと、レイの方へ行った。
レイは猫を抱き上げ、目を合わせるようにして「めっ」と叱る。
ベルは何だか嬉しそうに一声鳴いた。とても叱られているようには見えない。
「おい、ところでさっきの深窓の令嬢ってなんだ?」
シリウスが思い出してフェンリルに尋ねた。
「いや、皆言ってるぜ。赤の軍からの大切な預かりもんは、すげーお嬢様なんだろって」
「ええっ?」
シンシアとシリウスは二人揃って驚きの声をあげた。
「まあ、ガセなのはわかった。こんな木登りの上手い令嬢はいねーよな」
レイが猫を撫でながら可笑しそうに笑う。
「ごめんなさい、その……がっかりさせてしまって」
シンシアが両手を頬に当てながら思わず謝ると、フェンリルがからりと笑った。
「いや、俺は木登りして猫を助ける女の子の方がずっと魅力的だと思うぜ」
シンシアはお礼の代わりに微笑んだ。
「ま、まずは」
レイとフェンリルがお互いを見ながら言い、示し合わせるようにニヤリと笑った。
「歓迎会のやり直しだな」
彼ら流に言えば、昨夜の歓迎会は、「手加減」してくれていたらしい。主にシンシアが深窓の令嬢だという勘違いのせいで。
(みんなパワフル……!)
昨夜の和やかな歓迎会とは打って変わって、今夜は「賑やか」を軽く振り切った騒々しさだ。歌う者、演説を打つ者、鬼ごっこまで始める者。幹部も、彼らの部下も、一緒になって楽しんでいた。その中で、みんな次々にシンシアに挨拶しに来てくれる。5分もしないうちに、シンシアはほぼ全員に愛称の「シシィ」で呼ばれるようになっていた。
「こりゃ勘違いさせたままの方が良かったかもな。騒々しい連中だろう」
シリウスが隣で苦笑する。
「楽しいです!」
「シシィちゃん、面白いもんが見れるわよ。こっちいらっしゃい」
シンシアはセスに呼ばれ、シリウスと一緒に奥のテーブルに行った。
そこではレイとフェンリルが小さいテーブルを挟んで向き合ってい、互いの右手を握りあっていた。
「腕相撲?」
「そう。準決勝なの」
フェンリルはシンシアに気づくと、レイに言った。
「相棒、勝った方が次はシシィと勝負だ」
レイはちょっと目を丸くしたが、にっと笑う。
「了解」
「いーいー?いくわよー。Ready……、go!」
セスの合図で、二人の腕と背中の筋肉がわずかに盛り上がる。
最初はそれぞれに声援が飛んでいたが、やがてみんな固唾を飲んで見守るようになった。
二人の力は全く拮抗していて、握り合った手は右にも左にも動かなかった。
やがてゆっくりと握り合った部分が傾き始め、フェンリルがギアを変えるように、ふっと息をもらすと、そのままレイの手の甲がテーブルにつくまで、一気に倒れてしまった。
見物人たちからどよめきが起きる。
「よっしゃあ」
面白くなさそうなレイの前で、フェンリルがガッツポーズをする。
「しょうがねえなあ、シシィ、交代だ」
「え、私?」
思いがけない指名に、シンシアは自分を指差し、目を丸くした。
「こいよ、シシィ。ハンデつけてやるから」
「でも」
どんなにハンデがあっても勝てる気はしない。
「お前が勝ったら明日のデザート俺の分もやるよ」
「えっ、本当?」
「あら!ルカ、ちなみに明日のデザートは?」
「グーズベリーのタルト……ヴァニラアイス添え、です」
「やる」
シンシアはセスとルカの会話を耳にした途端、しゃきっと気合を入れてフェンリルの前に座った。
両手対片手、フェンリルは利き腕と逆の腕、しかも少し傾けた状態からのスタートだ。これならもしかしたら勝てるかもしれない。
シンシアは真剣な面持ちで、フェンリルが差し出した左手を両手でぎゅっと握った。
「いくわよー。Ready……go!」
セスの合図で、シンシアは満身の力を両腕に込めた。
「うお、思ったより強いな!」
フェンリルの驚いた声がした。だけど最初ハンデで傾いていた手は、どんなに踏ん張ってもだんだんフェアな開始位置へと戻っていってしまう。
(グーズベリーのタルト……!)
「ちょっとー。フェンリルったらシシィちゃんの手ぇ握りたいだけでしょ。いつまでやってんの」
「えっ」
真っ赤になってプルプル震え始めていたシンシアは、セスの言葉にびっくりして急に力が抜けてしまった。手はパタン、とあっさり倒される。
「あーあ」
圧勝したフェンリルが、なぜか残念そうな声を出した。
「ちょっとぐらい大目に見てやれよ、セス」
笑いを含んだレイの声がする。
「何言ってんの、シシィちゃん、もう真っ赤じゃない。大丈夫よ、今アタシがカタキを討ってあげるわ」
全力で戦ったせいで、はあはあと息を切らしているシンシアの肩にそっと手を置き、セスがウィンクした。
セスはテーブルにつくと、不敵な笑みを浮かべながらフェンリルに右手を差し出す。
「あんたのタルトはもらったわ」
「待て、お前にやるとは言ってねーぞ」
フェンリルはシンシアの時とは打って変わって真剣な顔で右手を出した。
「よーし、いいか。Ready……go!」
合図はレイだ。
みんな口々に声援を飛ばす。
「もしかして、これが決勝?」
「そう……」
レイは答えながらシンシアの顔を見て、吹き出した。
「お前、鼻の頭に汗かいてる」
シンシアが慌てて鼻を隠してハンカチを出そうとした時。
「うおりゃあああ」
突然、野太い咆吼が聞こえた。
びくりと身を竦めてテーブルを見ると、すでに勝負はついていた。セスがフェンリルの手をテーブルに押さえつけ、フェンリルは体ごと傾いている。
悔しそうなフェンリルを前にセスが高笑いした。
見物人から歓声が上がる。どうやら賭けていた兵士もいるらしく、何人かが悔しそうに財布を出し始めた。
「すごい、セスさん!」
拍手するシンシアに、セスは元どおりの柔らかい笑顔を見せた。
「やーね、ちょーっと本気出しちゃったわ」
「フェンリルもすごい」
何しろ準優勝だし、シンシアが全力を出してもびくともしなかった。
「セスにはなかなか勝てねえんだ」
フェンリルはちょっと悔しそうだったが、まんざらでもない顔でシンシアの称賛を受け取った。
「あら、何かしら」
セスが今度は部屋の反対側を見て首を傾げる。
腕相撲をしていたテーブルとは別の場所に人だかりができ、ざわめいていた。
人だかりの隙間から覗いてみると、やけに機嫌の良さそうなシリウスがルカの前髪を三つ編みにしていた。
ルカは途方に暮れた表情でされるがままになっている。
「よしよし、ルカは可愛いなあ」
シンシアの知る限り、シリウスは常に穏やかな人だけれど、何だか様子が違う。
日頃の鋭さがカケラも感じられない笑顔だった。幸せそうではあるけれど。
シンシアの隣にきたフェンリルが顔をしかめて言った。
「あー、誰かシリウスに酒飲ませたな」
「えっ、シリウスさんお酒弱いの?」
ウィスキーのボトルを空けても平然としていそうな見かけなのに。
「あいつ、ケーキに入ってるブランデーだけでも酔うんだ。いつも気ぃつけてんだけどなあ」
頭から4本ほどの三つ編みをぶら下げ、ルカはすがるような目でフェンリルをみた。
だけどフェンリルは、やる気のない応援をするように、「諦めろー、ルカ」と言うだけだった。
とても楽しい時間だった。
だけど部屋に戻って一人になったシンシアは、やっぱりため息をついてしまった。
大勢で騒いでいる時は気が紛れていたのに、一人になると、すぐに押し込めていた不安が顔を出す。みんなは無事なんだろうか。ランスロット様は。
ベッドに腰掛け、ぼんやりとするシンシアの耳に、小さく、猫の鳴き声が聞こえた。
不思議に思って窓の方へ行ってみると、窓の外にベルがいた。昼間ブナの木から助けたきれいなロシアンブルーだ。
シンシアを見ると、また鳴き声をあげ、カリカリと前足で窓を引っ掻く。
「入りたいの?」
窓を開けると、ベルは慣れた様子で飛び込んできて、シンシアの肩に乗った。昼間はゆっくり見ることができなかったが、美しい毛並みの猫だ。首には鈴をつけている。
シンシアはベルを抱いてソファに座った。柔らかい温もりを抱えると、それだけで不思議と心が慰められた。
ベルは彼女の膝の上で寛ぎ、額を擦り付ける。
(可愛い)
シンシアは同じ仕草をするシャインを思い出した。同時に、美しい飼い主の姿が鮮やかに心に浮かんだ。
ここ何日かで、ランスロットの話をたくさん聞いた。他の人の口から聞くランスロットは、とても強く、そして孤独な人だった。
シンシアの知っているランスロットとはやっぱり別人のようだ。
シンシアの知っているランスロットは。
初めて会った時は作り物のように美しい人だと思った。でも決して作り物なんかじゃなかった。
並んでミルクティーを飲んだ時の、柔らかな横顔を思い出す。整った冷たそうな美貌は、かすかな微笑を浮かべるだけで印象をガラリと変えた。そしてシンシアをからかう時は、あの海のように深い青い瞳に、弟たちと同じようないたずらっぽい光が宿った。緊張のあまり眉を寄せながら注射を待つ顔、ジョセッペの物語を聞いている時の無防備な表情。
まるで、魔法にかけられたようだ。
たった、二日間。ランスロットは忙しいから一緒にいられたのはさらにほんの短い時間なのに、彼はすでにシンシアの心の大きな場所を占めていた。
だけどここ何日かで聞いたランスロットの話が、彼をシンシアから遠い場所へ連れていってしまったように感じる。
早くもう一度ランスロットに会って、シンシアの知っているランスロットがちゃんとそこにいることを確かめたい。
無事な姿を一目見るだけでもいい。ただ、ランスロットに会いたい。
それは思いの外強い欲求だった。
じわり、とシンシアの目に涙が滲む。
――魅入られてしまいましたか?
ふとエドガーの言葉を思い出した時に、ドアがノックされ、シンシアはびくりと震えた。膝の上のベルが、抗議するように小さく鳴く。
「どうぞ」
そうっとドアが開き、入ってきたのは、レイとセスだった。セスはジャックラッセルテリアの仔犬を抱いて、彼のベッドらしい籠を下げていた。
レイはベルを見て目を丸くした。
「何だよ、お前ここにいたのか」
「さっき、窓から遊びにきてくれたの」
「こいつ本当に気まぐれでさ」
レイはベルを見て微笑む。
シンシアが座るように勧めると、レイは机の前の椅子に、セスは仔犬と一緒にシンシアの隣に座った。賢そうな仔犬は、尻尾を振りながらセスの腕の中で大人しくしている。
「この子はね、シュシュ。フェンリルの飼い犬よ。もふもふが部屋にいるとよく眠れるかもしれないから、シシィちゃんさえよければ、一晩貸してあげるって」
「いいの?でもシュシュはフェンリルが恋しくならない?」
「大丈夫、ちゃんとシュシュのベッドも持って来たから。フェンリルが留守の時に預かったことがあるけど、このベッドがあれば大人しく寝るわよ」
「嬉しい。私、仔犬と寝るの初めて」
自然と笑みがこぼれる。
「ふふ、フェンリルも来れば良かったのに」
セスが小さく笑った。
「深夜に女性の部屋に行くのは気が進まないってよ。あいつ変なとこで育ちの良さが出るよな」
「知ってる?シシィちゃん、あいつ財閥の御曹司なのよ」
「えっ!」
シンシアは思わず驚きの声をあげたが、考えてみれば納得いくようなところもあった。
フェンリルは派手なのにどこか気品を感じさせるし、粗暴な言葉を使っていても、何だか所作が紳士的な、不思議な人だった。
「明日会ったら『御曹司』って呼んでみなさい。嫌がるから」
「やだ、せっかくシュシュを貸してくれたのに、嫌がらせたくない」
シンシアはセスの悪戯な提案を笑った。
レイがシンシアの顔をじっとみて、口を開いた。
「泣いてたの?」
シンシアははっとして、思わず目元を隠すように俯いた。
「んもう、レイったら!こういう時は気づかないふりするものよ」
セスが怒る。
レイはセスを無視した。
「ランスロットが心配?」
「……うん」
シンシアは俯いたまま頷いた。
「あいつがそう易々とくたばるとは思えねえけど」
レイの淡々とした声に、シンシアはそっと顔をあげた。
「知ってるか?俺たちはすげー強い。歴代の黒の軍の中でも、最強だって言われてる」
シンシアは黙ってレイの言葉の続きを待った。
「そんな俺たちとパワーバランスを保っていられる赤の軍も同じぐらい強い」
黒のキングとしての複雑な褒め方に、シンシアは笑みを浮かべた。
レイもわずかに表情を和らげる。
「刺客なんて返り討ちに遭うのがオチだ。それに、あいつは今の俺と変わらねーぐらいの頃から、独りで7年以上もの間、アモンと戦ってきたんだ。アモンに従うフリをして、駆け引きを繰り返しながら、奴の戦力を少しずつ削ぎ落としていった。……とんでもねー精神力だろ?そうそう簡単にくたばったりしねーよ」
レイの口調は、変わらず淡々としていたが、まるで同志を褒めるようでもあった。
「……黒の軍と赤の軍はもう対立してないの?」
レイはちょっと難しい顔になって、考えながら、口を開いた。
「元は思想の違いだからな。意見が合わないことも、気に食わないところもある。だけど、あいつらも俺たちもクレイドルを守りたい。それがわかった以上、敵じゃない。俺たちが武力で争うことは二度とない」
敵じゃない、と言ったレイは穏やかな表情をしていた。
「気に食わないところって?」
「特に俺を若造扱いしやがるところが気にくわない」
レイは老成した印象があり、シンシアと同年代のはずなのに、ずっと大人だと感じていた。
だけど今若いと言われて怒っているレイは、返って年相応の青年に見え、シンシアはつい微笑んでしまった。
「あとは、あれだ。あいつが何も言わなかったせいで、アモンを殴り損ねた」
「あら、アタシもそれは同意よ。一度ぶっ飛ばしてやりたかったわー」
ハールに倒された悪い魔法使いは、黒の軍でも相当な恨みを買っていたようだ。
シンシア自身も、会ったことも無い悪い魔法使いアモンに、腹の底の方で、不快な怒りを感じていた。彼女が直接に被害にあったわけでは無いけれど、やはり許しがたい。
悪い魔法使いはもう消えてしまったけれど。
(もし黒の軍のみんなに、悪い魔法使いをぶっ飛ばす機会が与えられたとしたら。私もみんなと一緒に、是非一言二言文句を言わせてもらおう!)
シンシアはありえない想像をして、その時アモンへ言う文句を考え、溜飲を下げた。ちょっとスッキリしたせいか、自然と笑顔になった。それは少々悪い笑顔だったかもしれないが、幸いレイとセスはそこには気がつかなかった。
シンシアの笑顔を見て、二人はほっとしたように微笑む。
「じゃあ、俺たちはそろそろ帰るな。ゆっくり休んでくれ」
レイが立ち上がると、彼に抱かれていたベルが腕からするりと抜け出して、シンシアのベッドに飛び乗った。
「何お前、今日ここに泊まる気?」
ベルは返事のように一鳴きすると、ベッドの上をウロウロして、落ち着く場所を探し始めた。
レイが伺うようにシンシアを見た。
「……いい?」
「もちろん!ふふ、私猫と一緒に眠るのも初めて」
レイはシンシアの返事を聞くと表情を和らげた。
「いいわねー、アタシもここにお泊まりしちゃおうかしら」
セスが指をくわえながらベルとシュシュを眺める。
「えっ」
「セースー」
レイが低い声でセスを呼ぶ。
「いやーん、冗談よっ」
セスはコロコロと笑いながら、シンシアの頭に弾むようなキスをした。
「おやすみなさい、素敵な夢を」
シンシアは何となく弟たちを思い出し、微笑んだ。
「おやすみなさい。二人とも、どうもありがとう」
レイとセスは、穏やかな笑顔をみせると、帰っていった。
「さ、もう寝よっか」
シュシュのベッドは枕元のサイドテーブルの上に置かれた。ベルはシンシアがベッドに入ると、しばらくうろうろしてから、足元に丸くなった。
やがて、どちらのものかわからない寝息が聞こえて来た。
(あんなに小さいのに、寝息は結構大きい……)
シンシアはベッドの中で声を立てずに笑った。
規則正しい寝息を聞いていると、シンシアの心も落ち着いてきた。
小さな仲間たちのおかげで、この夜はシンシアにも深く優しい眠りが訪れた。
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