青空と 第一話


 初夏の眩しい日差しの中、セントラル地区のメインストリートの脇に大勢の人々が並んでいた。誰もが興奮した顔で、赤い旗と黒い旗を一本ずつ持っている。

「来たぞ!」

 誰かの声をきっかけに、わっと歓声が上がった。

 まだ姿は見えないが、音楽が聞こえてくる。

「もう7年か、早いものだなあ」

 すぐ隣にいた老紳士のしみじみとした呟きが聞こえ、アンリはふと祖父のことを思い出し、微笑んだ。

 今日は、クレイドルが平和になったことを祝う記念日だ。500年の長きにわたる対立の後、まさに大きな戦争を始めようとしていた赤の軍と黒の軍が和平協定を結んだのが、7年前の今日だった。毎年この日には、軍のパレードがある。赤の軍は赤の兵舎を、黒の軍は黒の兵舎を同時に出発し、それぞれの領地のメインストリートをパレードする。そしてちょうど中間地点の公会堂の前で、両軍が並び、クレイドルの繁栄を祈り、平和を誓う儀式が行われるのだった。

 アンリの目の前の通りには、もうすぐ赤の軍が姿を現すはずだった。

 先頭は騎乗したクイーンで、そのすぐ後ろがキングの乗る馬車だ。そしてその後ろに騎乗した幹部、マーチングバンドの馬車、騎乗した兵士たちと続く。

 拍手と歓声がひときわ大きくなり、アンリのいる場所からも、翻る赤い大きな軍旗と、馬上のクイーンの堂々と凛々しい姿が見えた。

 思わず、自分の背筋も伸びるような心地がする。

 セントラルで働く彼女が、勢揃いした赤の軍の幹部を見ることができる機会は、このパレードぐらいだった。日々見かけるセントラル地区を警備してくれている巡回の兵士達も礼儀正しく立派だが、馬車の前後に並ぶ幹部達は、アンリの目から見ても格が違った。

 この立派な人たちが自分たちの生活を守ってくれているのかと思うと、気持ちが高揚した。両手が痛くなるぐらい夢中で拍手する。

「あっ!」

 誰かの声が聞こえたのと、ほぼ同時に、幹部らしい兵士の一人が、わずかに上体をそらした。彼の帽子が弾かれるように飛び、アンリの足元に転がってきた。

 アンリは慌てて帽子を拾い上げ、汚れを払った。

 顔を上げると、ちょうど帽子を飛ばされた馬上の兵士と目が合った。

 帽子を被って前を向いている時には見えなかった、澄んだ青い目と、ダークブラウンの髪に混じる、一房の金の髪が見えた。

 アンリは驚いた。

 アンリの心の中に、一瞬で子供の頃の記憶が蘇った。

 しかし実際には、その邂逅はほんの一瞬だった。

 アンリと同じように一瞬だけ驚いた顔を見せた彼は、すぐに前を向き姿勢を正した。隣の兵士と2、3言言葉を交わして、馬車の両脇を守るように素早く馬を移動させた。

「一体何事だ……?」

 周りにいた人たちの間に、いつの間にか歓声とは違う訝しげな騒めきが広がっていた。

 通りの向こうから罵声が聞こえ、パレードの兵士たちに向かって何かがバラバラと投げつけられている。

 アンリの足元にも、その「何か」が転がってきた。それは黒い石だった。

(石飛礫……!)

 何者かが、パレードを妨害しようとしているのだ。

「皆さん、大丈夫です、落ち着いてください。安全のため、どうぞこちらへ」

 落ち着いた声の誘導に従い、通りにいた人々が路地の方へ移動していく。

「お嬢さんも、どうぞこちらへ」

 人々を誘導していた青年が、戸惑っていたアンリにも声をかけてくれた。

 アンリは帽子を胸に抱えたまま、誘導に従った。

「赤の軍の方達は大丈夫かしら」

 アンリが不安げに呟くと、青年が優しい笑顔を見せた。

「ご心配ありがとうございます。我が軍は大丈夫ですよ」

 アンリがびっくりして青年の顔を見上げると、青年が今度は歯を見せて笑った。

「ご安心ください、すぐに収まりますから。少しの間だけ、そちらの路地に避難していてください」

 青年は制服を着ていないが、赤の軍の兵士だったのだ。

 あたりを見回すと、数名の青年が、やはり落ち着いた様子で人々を避難させている。彼らもおそらく赤の軍の兵士なのだろう。

 彼らの落ち着いた誘導と頼もしい笑顔に、パニックを起こしかけていた人々もすぐに落ち着き、誘導に従って退避した。

 青年の言葉通り、通りの騒ぎはすぐに鎮まり、怪我人も出なかった。その後は、パレードも儀式も滞りなく進められた。

 後で聞いた話では、石飛礫を投げ込んだのは、数年前から時々騒ぎを起こしている団体の仕業だということだった。アンリも詳しく知っているわけではないが、クレイドルが平和になってからいつの間にか活動を始めた彼らは、クレイドルの軍の存在に反対を唱えているのだ。一度彼らの講演を聞く機会があったが、彼らの主張は支離滅裂で、アンリにはさっぱり理解できなかった。

 その夜。

 アンリは、ベッドに腰掛け、帽子を膝の上に乗せたまま、ぼんやりと子供の頃のことを思い出していた。

 子供の頃、アンリは祖父と二人きりで国境の森の中に住んでいた。

 アンリが5つか6つぐらいの頃。

 ほんの短い間、家に少年がいた。

 今日見た兵士と同じように、澄んだ青い目の持ち主で、髪が一房だけ金色だった。

「どうしてここだけ金色なの?」

「わからない。生まれつきこうなんだ」

 確かあの人はそう言った。

「おじいちゃんの髪もね、昔は金色だったんだって。今は真っ白だけど」

「そうか」

「私も金色の髪が良かったな」

 当時夢中だった絵本のお姫様が美しい金髪で、あの頃は、自分のブラウンの髪をいつも残念に思っていた。

 あの人は優しい笑顔で髪を撫でてくれた。

「そうか?俺はお前の鳶色の髪はとてもきれいだと思う」

 子供の頃、そう言われてとても嬉しかった気持ちが、そのまま蘇ってきて、ふわりと胸のあたりが暖かくなる。アンリはそっと微笑んだ。

 小さなアンリは、彼が家にいる間は、いつも後をついて回っていた。

 ほんの短い間だけ、彼女にできた、優しいお兄ちゃん。

 ずっと優しい笑顔を浮かべた少年だと思っていたけれど、手繰り寄せた記憶の中の彼の笑顔は、どこか寂しそうだった。

 アンリは、膝の上の帽子のつばを、そっと指先でなぞった。

 昼間見た、兵士の驚いた顔を思い出す。

 褐色の肌に、同じ色の瞳と、同じ髪。

 彼なのだろうか。

 自分のことを、覚えているだろうか。

 会って話してみたい気持ちと、大切な思い出が形を変えてしまいそうな恐れがないまぜになって、自分でもどうしたいのかわからない。

「そもそも、本当に本人かどうかもわからないのに……」

 そう声に出して呟いては見たが、心の奥底には、確信のようなものがあった。

 アンリはふと、無意識に撫でていた帽子に、小さな綻びを見つけた。

「あら」

 よく見ると、帽子は丹念に手入れされていて、他にも2カ所ほど繕った後があった。やや不格好な針目で、それでも丁寧に修繕されている。

(もしかして、ご自分で修繕されたのかしら)

 昼間見た兵士の、精悍な横顔が心に浮かぶ。

 そっとその針目を指でなぞってみる。丁寧で、不器用な修繕の後に、なんだか愛しさを感じて、頬が緩んだ。

 アンリはいそいそと立ち上がると、クロゼットと並んだ小さなチェストから、針箱を取り出した。

 翌日も、日差しは眩しく、雲ひとつなかった。

 記憶の中の少年、そしてあの兵士の瞳と同じ、鮮やかで濃い青が頭上に広がっている。

 アンリは繕った帽子を持って赤の兵舎の近くまで来たものの、まだどうするべきか決心がつかなかった。

 守衛の兵士に渡しておけばよい。

 いや、でも、できればもう一度会って、挨拶したい。

 彼があの少年なのか確かめたい。

 でもたとえ彼であったとしても、自分のことを覚えてくれているかわからない。

 彼は今赤の軍の幹部だ。突然自分が訪ねてきたりしたら迷惑では。

 何度も何度も同じようなことをぐるぐると考えながら、守衛から見えない位置で、うろうろと行ったり来たりを繰り返す。

(よし、やっぱり守衛さんに預けるだけにしよう)

 やっとそう後ろ向きな決意をし、門の方へ歩き始めた時。

「お嬢さん、どうかなさいましたか?」

 全く人の気配を感じなかったのに、突然背後で柔らかな男性の声がした。

 アンリは驚いて、文字通り飛び上がってしまった。

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