青空と  最終話


 男はディーン・トゥイードル、寄宿学校の教師だと名乗った。

 ディーンは自分はゼロを迎えに来たのであり、ゼロはこれから寄宿学校に編入しなければならない、と言った。

 ゼロに選択権はなかった。

 アンリが眠っている間に、この家を出ていくことになった。

 別れ際に、ロイはゼロの手を握って、目に涙を浮かべていた。

 ゼロは、彼が別れを惜しんでくれているのだと思った。

「ゼロ……、生まれてきて良かったか?」

「わからない。でも、なんのために生まれてきたんだろうって思うんだ」

 ゼロは、ロイの問いかけに正直に答えた。

 自分は一体何のために生まれてきたのか。あの場所にいた時からずっと考え続けていたが、答えは見つからないままだ。

 何故自分は生まれてきたのか。何故自分だけがまだ生きているのか。

 ロイは辛そうに顔を歪めた。

 そして握ったゼロの手に自分の額を押し付け、絞り出すように言った。

「許してくれ……」

 ゼロには、なぜロイが許しを乞うのかわからなかった。

 ディーンが乗ってきた馬車に一緒に乗り込むと、すぐに馬車は走り出し、森は遠くなって行った。

 いつの間にか頬を涙が伝っていた。

 ゼロが戻れない日々を惜しんだのは、後にも先にもこの時だけだった。

「なんのために生まれてきたのかは、これから君が自分で見つけ出すことだ」

 ディーンが窓の外を眺めたまま、ポツリと言った。

「俺は、そう思う」

 その後、何度か彼らを訪ねようとして森に出かけては、思いとどまった。

 赤のエースに着任した時、やっと再びあの家を訪れたが、そこにはもう誰も住んではいなかった。彼らがどうなったのか、ゼロにはまだ調べる術がなかった。

 7年前、魔法の塔の上層部が解体された時の調査で、ロイがかつて上級魔法学者として、魔法の塔にいたことを知った。

 その時やっと、ゼロはロイが許しを乞うた理由に思い当たったのだった。

 ロイはおそらく最初からゼロを知っていたのだろう。彼がどこまでゼロの実験に関わったのかは不明だ。彼は口を閉ざし、ひっそりと森の中で暮らしていた。ゼロは当時の魔法の塔の卑劣なやり方を目の当たりにしていたし、ロイがアンリを守るために口を閉ざすしかなかったことは容易に想像できた。

 真実はわからない。

 しかしゼロに彼を責める気持ちはおきなかった。

 森で三人で暮らしたのは、一週間にも満たない短い期間だった。

 だけどその記憶は、ゼロの心のずっと奥の一番柔らかな部分で、ほのかな光りを放ち続けている。

 寄宿学校も、赤の軍も、あの家ほど優しい場所ではなかった。

 青空はただ眩しく、圧倒的な孤独を突きつけているようで、見上げるのが辛い日々が続いた。

 だけどたまに、あの時のように見上げた青空を美しいと感じる日もあった。

 どうして今日はこんなに昔のことを思い出すんだろう。

 ああ、そうか。

 昨日、彼女に会ったからだ。

 あの子だと一目でわかった。

 きれいな娘になっていた。恋人の一人ぐらいはいるかもしれない。ひょっとしたらもう結婚しているかもしれない。相手はちゃんとした男だろうか。

 どうか、幸せでいてほしい。あの子はいつだって俺にとって世界で一番大切な女の子だから。

「またお前はこんなところで寝て。そういうところは変わりませんね」

 芝生を踏みしめる足音とともに聞き慣れた声がして、ゼロは目を閉じたまま眉を寄せた。

「うるさいな。次の新兵訓練までの休憩だ。放っておいてくれ」

 ゼロは声の主に背を向けるように、芝生の上で寝返りをうった。

 柔らかな声はお構いなしに喋り続ける。

「昨日はお疲れ様でした。素晴らしい対応でした」

「警備は俺ではなく俺の部下だ。部下を直接ねぎらってやってくれ」

 おそらくパレードの妨害があるだろうとわかった時に、パレードに出るはずだったゼロの部下たちが警備を志願したのだった。それなら自分も警備に入る、と言うゼロの意見は部下の総意で直ちに却下されてしまった。

 彼らは騒ぎを迅速に鎮めた。我が部下ながら、見事なものだった。パレードと式典が無事行われたのは、優秀な部下たちと、パニックを起こさず落ち着いていた国民のおかげだ。その両方を、ゼロは誇りに思っていた。

「それでもあの警備計画はお前が寝る間も惜しんでつくりあげたものでしょう。完璧な警備計画でした。よくがんばったお前に神様がご褒美を用意してくれたのかもしれません」

「さっきからなんなんだお前は」

 ゼロはつい根負けして目を開け、振り向いた。

 エドガーの後ろから女性が顔を覗かせているのに気付いて、飛び起きる。

「お前の帽子を届けてくださったそうですよ」

 エドガーはゼロの反応に満足げに微笑んだ。

 あの子だ。

 大きな目を見開いて、息をつめるようにしてゼロを見つめている。あの頃と変わらない。

 何と言って声をかければいいのかわからない。

 ゼロの口をついて出てきたのは、なぜかあの頃と同じ冗談だった。

「……『そんなに目を見開いていると、目玉が落っこちてしまうぞ』」

「えっ」

 彼女は6歳の時と同じように、手を頬のあたりへ持って行った。

 ゼロはたまらず、声を立てて笑い出してしまった。

「変わらないな」

 自分の反応が恥ずかしくて顔を赤らめたアンリも、笑うゼロを見てはにかむように微笑んだ。

「よし」

 二人を見ていたエドガーが、腕組みすると、決心したように声をあげた。

「今日の新兵の訓練は俺が引き受けましょう」

「えっ」

「師の好意は素直に受け取りなさい」

 エドガーはゼロの肩を軽く叩いた。

「……お前のそんな笑顔を見るのは本当に久しぶりだ」

 エドガーはやけに上機嫌で、軽い足取りで訓練場の方へ歩いて行った。

 やがて訓練場の方から、新兵のものらしい悲鳴のような声が聞こえてきたが、ゼロは聞かなかったことにした。

 16年ぶりに再開した彼女に向き合う。

「あの、これを」

 彼女が差し出した帽子を受け取った。

 パレードの直前に気付いて気になっていた綻びが、きれいな針目で繕ってあることに気づく。 

「ありがとう、繕ってくれたんだな」

 ゼロがお礼を言うと、あの頃より大人びた、それでも変わらない優しい微笑が返ってきた。

 頭上には、雲一つない夏の青空が広がっている。

 ああ、今日の青空はとてもきれいだ。

 あの夏の日と同じぐらいに。

 遠くから、時計台のチャイムが風に乗って聞こえてきた。

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