赤のエースで妄想してみた その1 愛さずにいられない —第三話—
とてもよく晴れた昼下がり。
「よし、今日はハート地区に往診に行くぞ。付き合え」
アンリはカイルに連れられて、初めて街に出かけることになった。
アンリは徒歩で行くのかと思っていたが、二人は兵舎の入り口で用意されていた馬車に乗り込んだ。
「あっちーな、今日は。仕事上がりのビールがうまそーだ」
馬車の窓から外を眺め、カイルが気だるそうに言った。カイルの言う通り、外に出るとうっすら汗ばむような陽気だった。
「アンリ、お前クレイドルの地図は見たことあるか?」
「あんまり詳しい物じゃなかったけど、ブランに見せてもらったことがある」
クレイドルは、赤の軍と黒の軍の二つの勢力が治める国だと聞いている。両軍の対立は500年以上続いており、黒の領地は黒の軍が、赤の領地は赤の軍が治めている。中心にあるセントラル地区は中立地区であり、行政機関などはすべてそこにあった。それぞれの領地とセントラル地区は赤の橋、黒の橋と呼ばれる橋でつながっている。
半年前、公共の研究機関である魔法の塔の上層部が国家への反逆を目論んでいたことが発覚し、赤の軍、黒の軍を交えた大きな戦いが起きた。赤黒両軍が協力し、魔法の塔の上層部を制圧したと聞いている。その後、両軍の対立は当時ほど緊迫したものではなくなった。
「赤の領地と黒の領地は仲がいいの?」
「うーん、微妙なとこだな。半年前ほどの緊迫した対立は無くなったけど、500年以上続いている対立だ、対立がなくなることを望む者もいれば、いがみ合う者もいる。どっちがいい悪いっていう対立ではなく、もともとの考えの違いだからな」
カイルは外を眺める。
アンリもつられるようにして、もう一度窓の外を見た。
クレイドルに着いた時は夜だったし、馬車の中で寝てしまったから、明るい光の下で赤の領地を見るのは初めてだ。瀟洒な家が立ち並び、庭で遊ぶ子供たちも見えた。庭はよく手入れされている。人々は、皆それなりに裕福な暮らしをしているようだった。アンリの目には、少なくとも今のクレイドルはとても平和な国に映った。
「この通りの北側がダイヤ地区、南側がハート地区になる……この先にあるのが、赤の橋だ」
30分ほど馬車に揺られ、二人は赤の橋で馬車を降りて、そこからハート地区の方へ歩いて行った。4件の往診を済ませた時には、二人はハート地区のメインストリートらしきところに来ていた。広く整備された石畳の道の両脇に、様々な店が賑わっている。
「これがうちが利用している薬局」
カイルはアンリを連れて店に入ると、店主に気さくに挨拶し、アンリを紹介してくれた。ここまできて、アンリはようやく、カイルはどうやら往診だけでなく、街を案内するために連れてきてくれたのだとわかった。ブラブラと歩いていると、前を通りかかっただけで挨拶に出てきてくれる店員もおり、街の人々の反応から、カイルが医者として信用され、慕われていることがよくわかった。アンリもまたその恩恵に預かり、みんなにカイルの助手として、暖かく迎え入れてもらえた。
「そんでこの向かいが酒屋。ここは品揃えが天下一品だ」
「え、酒屋?」
カイルが上機嫌で酒屋に入っていくので、アンリも慌てて後に続いた。
薄暗い店の中はひんやりしていて、オペラのような女性ヴォーカルの歌が低く流れている。棚には酒瓶や大きな樽が並んでいて、木と熟成された酒の良い匂いがした。
「おや、カイルじゃないか」
奥から出てきた店主は、てらてらと輝く赤ら顔と大きなお腹をしていた。満面に人の良さそうな笑みを浮かべている。
アンリもつられるように微笑んだ。
(昔絵画で見たお酒の神様みたい)
薄暗い店の中で、その店主のいるところだけがスポットライトが当たっているように明るく見える。
カイルは薬局の時と同じように店主に気さくに挨拶し、アンリを紹介してくれた。
「カイル、珍しいカスクが入ったんだ。試飲していくかい?」
気の良さそうな店主が、細身のボトルを取り出しながら、カイルにウィンクして見せた。瓶の中には、飴色の液体がトロリと揺れている。
「いいねえ」
「カイル、往診は?」
「安心しろ、アンリ、今日の予定は完了してる」
(でもこんなお昼から飲んでいいの?)
「お嬢さん、あんたにはこっちのいちご水をあげよう。外は暑かっただろう?一休みするといい」
――だからちょっと大目に見ておあげ。
店主の言外の主張に、アンリは仕方なく見逃すことにした。店主の出してくれたいちご水はかすかにミントの香りがし、よく冷えていて美味しかった。
薄暗く涼しかった店を出ると、くらりとするほどの強い日差しを感じる。
アンリたちは日陰を選んでゆっくりと通りを歩いていた。通りのちょうど真ん中あたりにに小さな噴水があり、そこは広場のようになっている。それなりに人出も多く、噴水に入り込んではしゃぐ子供たちや木陰のベンチに腰掛けてくつろぐ人々がいた。
「アンリ、アイスクリームは好きか?」
「大好き」
カイルは広場のアイスクリームスタンドを指差した。
「カスクを見逃してくれた看護師さんにご褒美だ。フレーバーは何がいい?」
「……ピーチ」
アイスクリームで買収されるのはどうかと一瞬逡巡したが、アンリは遠慮なくご馳走になることにした。
カイルはスタンドの店員とも知り合いらしく何やら談笑している。
「ほらよ」
カイルに差し出されたコーンには、大きなピーチフレーバーのアイスクリームが乗っている。
「ありがと。カイルは食べないの?」
「俺は甘いもんはなー。帰ってビール飲むまで我慢する」
「美味しいのに」
カイルの酒飲みらしいコメントに笑いながらアンリが口を開け、アイスクリームを舐めようとした、まさにその瞬間。
「うわああああん。僕もアイスクリーム欲しいよー」
すぐ近くで、子供の大きな泣き声がして、アンリは大きく口を開けたまま止まってしまった。
「ダメよ、今日はもう一つ食べたでしょ。また明日にしなさい」
母親らしき女性が、一生懸命なだめようとしているが、なぜか男の子はアンリのアイスクリームを見ながら泣いている。
(ど、どうしよう……)
食べるに食べられなくなって、カイルの方を見ると、カイルは面白そうにこちらを見て苦笑している。
「早く食わねーと溶けるぞ」
アンリが思い切ってもう一度口をあけ、アイスを舐めようとすると、
「うわあああああん!」
子供の泣き声がひときわ大きくなって、アンリはまた口を閉じるしかなかった。
カイルはひたすら面白がっているだけで、助けてはくれない。
大好きなピーチのアイスを手に途方にくれるアンリの前に、突然、大きな影がさした。顔をあげると、つやつやしたダークブラウンの馬のお尻の辺りが、ちょうどアンリの目の前にあった。
馬上では、制服を着たマリクが笑っていた。
「お疲れ様です、アンリさん、カイル先生」
「マリク!」
さっきまで泣いていた男の子はぽかんと口を開けて、すっかり馬に心を奪われているようだ。
「坊や、もしもう泣かないでいい子にするって約束できたら、この馬に乗せてあげよう」
マリクが馬上から子供に優しく語りかける。
「約束する!」
子供が意気込んで、叫んだ。
マリクは子供の母親に許可をとってから子供を馬に乗せ、アンリに目配せすると、ゆったりと馬を歩かせ始めた。
アンリはやっとピーチアイスを味わう。
(んー。美味しい……よかった、食べられて)
「ごめんなさいね、お嬢さん。困らせちゃって」
子供が帰ってくるのを待っている女性が、申し訳なさそうに言った。
「小さい子は元気ですね」
アンリも笑って答える。
マリクが噴水の周りをぐるっと回って戻ってくる頃には、子供はすっかり上機嫌になっていた。何やら一生懸命マリクに語りかけ、マリクもそれに優しく答えてやっていた。
「じゃーねー。お兄ちゃん、またお馬乗せてねー」
子供は手を振りながら、母親は何度もお礼を言いながら、帰っていった。
アンリは馬を降りたマリクに、改めてお礼を言った。
「隊長の命令なんです。『うちの看護師が困ってるから助けてやれ』って」
「え、ゼロもいたの?」
「本当は隊長が助けてあげたかったんだと思いますよ。でも子供が相手だったので、俺が拝命しました」
「……ゼロは、子供が苦手なの?」
アンリは意外に思ってマリクに改めて尋ねた。
「うーん。どうなんでしょう」
マリクは口元に手を当て、ちょっと考えるようにしてから、続けた。
「隊長は、子供を怖がらせたくないんですよ。ほら、タトゥーもあるし、笑ってない時は結構怖く見えますからね、うちの隊長は」
「でも、怖がられるからって遠慮してたら……子供がゼロが優しいって気づくこともできないよ」
マリクが優しく笑う。
「そうですね。その通りだと思います」
アンリはゼロに会いたくて、そわそわし始めた。
「隊長なら、そこの角を曲がったところにある店で、馬に水を飲ませていると思いますよ」
「ありがとう!」
心を読んだように教えてくれたマリクにお礼を言うと、アイスを食べ終えたアンリはそのまま駆け出した。
マリクの言った「店」とは、宿と一緒になった酒場のようで、裏手に馬を休ませる場所があった。建物の裏手に回ると、白いシャツの、姿勢のいい背中が目に入った。
「ゼロ!」
嬉しくなって呼びかけると、ゼロが振り向いて、目を見開いた。
「どうした?何かあったのか」
「マリクが、ゼロがここにいるよって教えてくれたから」
ゼロが微笑む。
「困ったやつだな……アイスクリームは無事食べられたのか?」
アイスを食べられなくてオロオロしていたところを見られたかと思うと、かなり恥ずかしい。
「……おかげさまで」
すまして答えるアンリの背後で、カイルの声がした。
「こ…こいつ、絶対、リード、必要だぞ……」
振り向くと、アンリを追いかけて走ってきたらしいカイルが、しゃがみこんでいた。息が上がってかなりくるしそうな状態だ。
「カ、カイル……本当に23歳?」
「運動不足にもほどがあるぞ」
「俺は頭脳労働専門だ……この暑い中走らせやがって……お前、なんであんなに足が速いんだ。うう、気持ち悪い……」
いくら何でも様子が変だと思ったアンリはハッとして、思わず叫んだ。
「カイル、さっきカスク飲んでた!」
「何やってるんだ」
アンリは大慌てで店の人に頼んで水を分けてもらい、ゼロと二人でカイルを店の軒先のベンチに横たえた。
「ちょっと休めば大丈夫」と主張するカイルを信じて、アンリとゼロは店の人が用意してくれた椅子に腰掛けて待つことにした。後からやってきたマリクは、担当地区の巡回に向かった。
日差しは強いけれど、店の軒先はちょうど大きな木の陰になっていたので、涼しかった。サラサラとした心地よい風が時折吹き抜けていく。
「今日は、遠くまで行っていたの?」
「ああ、森の方とセントラル地区を回っていた。中心部はもうすっかり元どおりだが、森の近くまで行くと、まだ先の戦いで倒壊した建物や荒れた道がそのままなんだ」
先の戦闘で壊された街の復興の先導も、軍の仕事らしい。
アンリには、赤の軍で過ごす比較的穏やかな日々の中で、わずか半年前にそんな大きな戦いがあったことがまだ実感できずにいた。
沈黙が落ち、カイルの穏やかな寝息と、穏やかな風による葉ずれの音だけが聞こえた。ゼロと一緒にいるときの沈黙は、いつも居心地が良かった。
「あっ、お兄ちゃん!」
突然、子供の甘く高い声がした。軽やかな駆け足の足音が聞こえたかと思うと、真っ赤な頬をした5、6歳ぐらいの男の子が、目を輝かせてゼロの前に立った。むっちりしたハムみたいな手足が、仕立てのよい半袖のシャツと半ズボンから伸びている。心の栄養も体の栄養も十分満ち足りた、健康で幸せな子どもに見えた。
ゼロは突然現れた男の子にびっくりしている。
「おい、ルーク、突然なんだよ!」
すぐ後を、少し年長に見える男の子が走ってきたが、ゼロを見て、ピタリと足を止める。ゼロを怖がって、というよりは知らない大人を警戒しているように見えた。アンリの方をそっと伺うその子に、アンリはにっこりと笑って見せた。その子は笑ってはくれなかったが、少しは警戒心を解いてくれたようだ。
「ジョー、話したでしょ。一昨日お母さんを悪い奴から助けてくれたお兄ちゃんだよ。すごく強かったんだ。でっかい奴ら、三人いっぺんにのしちゃったんだよ」
ルークと呼ばれた男の子は、子ども特有の高く甘い声で、一生懸命年長の男の子に説明した。
「ああ、お前、あの時の子どもか」
ゼロはやっと思い当たったように、微笑んだ。
「お兄ちゃん、助けてくれてありがとう」
子供は満面の笑みでゼロを見上げる。ゼロは少し躊躇した後、手を伸ばして、男の子の頭をそっと撫でてやった。
「どういたしまして。お前たちを守るのが、俺の任務だからな」
ゼロの言葉に、ルークは感動したように目をキラキラさせると、勢い込んで叫ぶように宣言した。
「お兄ちゃん、僕も大きくなったら赤の軍に入る!」
「ばかだなあ、お前。赤の軍は深紅の血統じゃないと入れないんだぞ。お前の父ちゃん大工じゃないか」
子供は容赦がない。ジョーという子に悪気があるわけではないのだ。
しゅん、としょげた様子のルークに、低く優しい声が語りかけた。
「俺は深紅の血統ではないが、赤のエースだ」
ルークは再び明るい表情で顔を上げる。
「じゃあ、僕も赤の軍に入れるかもしれない?」
「……そうだな」
「何で深紅の血統じゃないのに赤の軍にいるの?」
年長のジョーはルークほど単純ではないらしい。ジョーの言葉に、ゼロが答えあぐねて沈黙が落ちた時、のんびり間延びした声がした。
「そいつが強いからに決まってんだろー?」
見ると、さっきまでぐったりしていたカイルが、自分の腕を枕にして、寝転んだまま子供達を見ていた。
「こいつは自分を鍛えて鍛えて、誰にも文句言わせないぐらい強くなったんだ。だから、深紅の血統でなくても赤のエースなんだ」
「かあっこいいー」
ルーク、ジョー、アンリの声が綺麗に重なった。
「お前、何子供と一緒になってんだ」
ぶはっ、とカイルが吹き出した。
だって、本当にかっこいい。
「じゃあじゃあ、僕も強くなって赤の軍に入る!」
「お兄ちゃん、どうやったら強くなれるの?」
二人の子供が声を揃えてゼロにたずねる。
いつの間にか年長のジョーもルークと同じようにキラキラした瞳でゼロを見上げていた。
「えっ……」
子供の短絡的な質問に、適当に答えられない真面目なゼロ。アンリは助け舟を出すことにした。
「ご飯をちゃんと食べて、まずは大きくならないとね」
「ご飯はちゃんと食べてるよ!」
「本当?玉ねぎも人参も残しちゃダメよ」
アンリが返すと、ジョーがウヘェ、と情けない声を出した。
「どうしても玉ねぎ食べなきゃだめ?」
「もしかして、ブロッコリーも食べなきゃダメ?」
どうやらルークはブロッコリー、ジョーは玉ねぎが嫌いらしい。
「食べたほうがいいんじゃないかなあ。このお兄ちゃんはブロッコリーも玉ねぎもたくさん食べるよ」
「すげー、お兄ちゃんブロッコリーも食べれるの?うちのお兄ちゃんだいぶ大きいけど食べられないよ!」
ルークがさらに目を輝かせる。この子にとっては、赤のエースでいることも、ブロッコリーを食べられることも、同列ですごいことらしい。
「ああ、食べられる」
子供の勢いに押されながら生真面目に答えるゼロがおかしくて、アンリは笑いを噛み殺した。カイルも背後でうつむいて肩を震わせている。
「君たちの最初の任務は、今日の晩御飯を残さず食べること」
「了解!」
子供たちはどこで覚えたのか敬礼をして見せた。
「よーし、いい返事だ!君たちが赤の軍に入隊する日を心待ちにしている」
アンリも立ち上がって、子供たちに敬礼してみせる。
「任務だー!」
アンリの言葉を合図に子供たちは駆け出した。
「またねー、お兄ちゃん」
「また、な」
始終子供たちに押されっぱなしだったゼロは、唖然とした表情のまま、子供達を見送ったあと、ふと頰を緩めた。
「おかしな奴らだな」
「元気な子たちだったね」
「お前は子供が好きなのか」
「別に嫌いじゃないけど……どうして?」
「嬉しそうな顔をしている」
「そうかな」
多分、単純に、子供達がゼロに懐いているのが、嬉しかったのだ。
子供達にちゃんとゼロの優しさが伝わっていたのが、嬉しかった。
(別に心配するようなことじゃなかったんだ)
ゼロはゼロのやり方で、子供たちとも誠実に向き合って、そうしてゆっくりと確実に受け入れられていくのだろう。レンガを一つ一つ積み重ねていくように。見ているぶんには歯がゆくなるような、愚直とさえ言えるような、不器用なやり方で。
アンリには、それがとても尊いものに感じられた。
「ねえ、そういえば」
アンリはさっきから疑問に思っていたことを思い出した。
「深紅の血統ってなあに?」
アンリが尋ねると、ゼロとカイルが目を丸くしてこちらを見た。
「お前、そんなことも知らねーで子供無責任に煽ってたのかよ」
「無責任にじゃないよ。あんな小さい子の可能性なんて、誰にも否定できないもん」
「まー、それについては同意するが。……赤の軍ていうのは、決まった家系のものが代々後を継いでいるんだ。言い換えれば、その血筋のものしか赤の軍には入れない。例えば、俺の家、アッシュ家の人間は、代々軍医として赤の7を務めてきた。これが、深紅の血統」
カイルの説明に、ゼロの静かな声が続いた。
「俺は魔法の塔で生まれ、14までそこで育った。寄宿学校を卒業した時にエドガーに赤の軍に引っ張り込まれた。本来赤の領地出身でない俺にはその資格はなかったが、ランスロット様が入隊を許可してくれた。赤のエースは代々アトラス家が務めてきたが、ある時赤のエースが、退役した。そこで空席となった赤のエースに俺が就任することになった」
ゼロが、自分の感想は挟まずに、事実だけを淡々と説明した。
「だから俺は深紅の血統ではないが、赤のエースをやっている」
ゼロはさらりと話したけれど、クレイドルや赤の軍をまだよく知らないアンリにも、それが決して平坦な道ではなかっただろうと想像できた。医務室で、ひどく不遜な態度をとった兵士たちを思い出した。ロンドンでも、貴族たちは身分、階級に厳しかった。そんな中になにも持たずに飛び込んだとしたら。
今まで、ずいぶん傷ついてきたのではないだろうか。
それでも、負けなかったんだ。誠実に努力を重ね、深紅の血統ではなくても、エースの座につけるぐらいの実力を身につけたゼロ。彼らしいやり方で、赤の軍でも周りとの信頼関係を築いてきたんだろう。少なくとも、アンリの会った幹部たちは、ゼロを認めていた。
一体それは、どれほどの努力だったのだろうか。
かっこいい。
ゼロの生き方は、私の知っている誰よりも、かっこいい。
アンリは静かに感動していた。
代々大切に守られてきた伝統はきっとすごく重くて大事なものなんだろうけど、ゼロの積み重ねてきた努力は、同じぐらい尊いものだと思う。
「深紅の血統じゃない赤の軍もいていいと思う。さっきの子たちが、いつか次のエースになるかもしれないし、そしたら名前の通り、ゼロが深紅の血統だけじゃない赤の軍の始まりだね」
「名前?」
「全部、ゼロから始まるでしょ?ゼロには、始まりって意味があるんだよ」
何もないところには、無限の可能性がある。
深紅の血統じゃないところから努力して努力して、実力だけで赤のエースに上り詰めたゼロには、ぴったりの名前だ。
ゼロはしばらく黙っていたが、やがて、微笑んで
「ありがとう」
と静かに言った。
アンリには何のお礼なのかさっぱりわからなかった。だけどその時のゼロの微笑が、胸が痛くなるような印象的なものだったので、アンリは何も言わず、曖昧に微笑んでお礼の言葉を受け止めた。
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