内緒の殿下3


 太陽のない魔界は、わたしの母国のほど四季がはっきりしているわけではない。それでも月の色や、風の匂い、生き物の営みは四季と同じようなサイクルを繰り返している。 

 グリフォンの気が荒くなり、攻撃的になってしまうというこの季節。通学路やRADでグリフォンと遭遇することなんてほぼないはずだったのに、最近急に目撃情報が相次いだせいで、やっぱり非力な人間は用心したほうが良いだろうということになった。

 せっかく試験が終わったというのに、現在、わたしは一人で外出することを禁じられている。

 通学も、「必ず兄弟たちの誰かと一緒に登下校するように」とルシファーからきつく言われていた。

 日頃から兄弟たちと一緒に行動することが多いから、一人で登下校するような機会はあまりない。でも、今日みたいにそれぞれに用事ができてしまった時なんかは、本当なら一人でさっさと帰ることができた。

「すまないな、今日はどうしても部活が休めなくて。レヴィかベルフェに迎えにきてもらうか?」

 ベールが申し訳なさそうに眉を下げる。

 レヴィは通常通り、ベルフェの姿も今日はRADでは見ていない。多分、家で寝ているのだと思う。わざわざ呼び出すのは申し訳なくて、わたしはベールの部活が終わるまで待つことにした。

 ぽっかり空いてしまった放課後の時間。

 さてどうしようかな、と思った時、ふと地下迷宮のことが頭に浮かんだ。

 以前、兄弟たちを次々と引き込んでしまい、ちょっとした騒動を起こした寂しがり屋の地下迷宮。魔力を暴走させ、増殖していた地下迷宮は、今はもう落ち着いて、RADの地下とその周辺の大きさに収まっている。

 事件の後も、約束通りわたしは時々地下迷宮を訪れていた。ほんの短い時間、地下迷宮でのんびり過ごすだけだけど、最近は蔦とのコミュニケーションも取れるようになってきた(と思う)。

 あれ以来地下迷宮を訪れているのはわたしだけではなくて、レヴィが時々3Dゲーム機を持ち込んでダンジョンごっこしたり、ベルフェがお昼寝したりしている。

 時々、休憩中に遊びに来た殿下と会っておしゃべりすることもある。殿下は忙しいので、ほとんどの場合とても短い時間だけど。

 よし、決めた。地下迷宮に遊びに行くことにしよう。

 久しぶりなこともあって、地下迷宮は大歓迎してくれた。

「うひゃ、待って待って、くすぐったい」

 地下迷宮の化身でもある蔦が、わさわさと巻きつくようにしてはしゃぐ。なんだかすごく大きな犬に懐かれているような気分。

 ほとんど蔦に運ばれるようにして迷宮の中心部に移動する途中で、ふとこの迷宮の中では見たことのない、鮮やかなオレンジ色が目の端に止まった。

 よく見ると、オレンジ色の小さな蕾をいくつもつけた、背の低い草花が、通路の端に生えていた。初めて見る花だと思う。小さくて鮮やかな蕾が、なんだかかわいらしかった。

 迷宮の中心部に着いた後は、ひたすらじゃれつく蔦を撫でて宥める。

「ごめんね、忘れてたわけじゃないって。試験とかがあったから、なかなかこれなかったの。試験も終わったし、レヴィもベルフェもきっとまた遊びにきてくれるよ」

 蔦が、嬉しそうにはしゃいだ。しゃらしゃらと葉っぱが鳴る。

 かわいい。

 こんなに喜んでくれるなら、またここで試験の打ち上げとかをしてもいいかもしれない。

「殿下も、最近は来ないの?」

 蔦が、今度はちょっとだけ寂しそうにさわさわとうごめいた。

「そっか。やっぱり忙しいんだね」

 試験期間も合わせて、かれこれ二週間以上顔を見ていない。ルシファーの日頃の仕事量を目にしているから、それより忙しい殿下が、ほとんど執務室にこもりっきりになってしまうのもわかる。

 でも。

「なんだか寂しいね。またバルバトスさんのおやつ持って遊びにきてくれたらいいのにねえ」

 賛同の意を示すように、蔦の葉がしゃらりと揺れた。

「ふむ、それはやっぱり、私ではなくおやつの方を御所望なのかな」

 突然背後から聞き慣れた声がして、飛び上がりそうになる。

 苦笑しながら蔦の葉の影から現れた殿下は、本当に申し訳なさそうな顔で首を振りながら、両手をこちらに広げて見せた。

「すまないね、あいにく今日は手ぶらなんだ」

「ち、違います、おやつが欲しかったわけじゃないですよ?」

 慌てて否定するわたしを見て、彼はいつものようにからりと笑った。

「なんだか久しぶりな気がするね、MC。元気だったかい?」

 安心して、笑顔を返す。

「やっと試験が終わってほっとしています」

「ずいぶん頑張っていたとルシファーから聞いてるよ」

 わたしにしては、頑張った。人間界にいた時よりもずっと頑張った。だから筆記に関しては、我ながら前回の試験よりずっと良くできたと思う。問題は、実技だ。特に甘言学。実技は苦手だというレヴィでさえあっさり合格した課題に、わたしはずいぶん手こずってしまった。

 その話をすると、殿下はひょいと眉をあげた。

「あの兄弟たち全員と契約した君が甘言学に手を焼くというのは意外だな」

「だってあれは、別にみんなを誘惑したわけじゃないもの」

「なるほど。確かに君が我々悪魔と同じように誘惑する姿は想像しにくい」

 殿下が笑った。

「でも、現代の甘言学はどちらかというと、誘惑するのが目的じゃなくて、相手を意のままに動かす交渉術なんだよ。まあ、誘惑が一つの有効な手法であることに変わりはないけれど……特に、魔界ではね」

 甘言学の思いがけない説明に驚く。

 人間をうまく誘惑して、堕落させる手法を学ぶ学問だとサタンは言ったし、教科書にもそう書いてあった。

 でも言われてみれば、実技の課題は「相手を誘惑する」ではなくて「相手に何かをさせる」というゴールが設定されていた。それに、相手も人間ではなく悪魔だった。

「人間界では、「賢」と「徳」が人を治めるんだろう。人間である君が、悪魔と全く同じやり方をする必要はない。君らしい方法を見つけるといい」

 殿下が穏やかな声で言った。

 わたしらしい方法。

 しっかり受け止めるために、心の中で繰り返す。

 と、突然電子音が聞こえた。

 殿下がポケットからD.D.D.を取り出し、確認する。

「ああ、もう時間切れか。バルバトスの呼び出しだ」

「えっ、もう?」

 行っちゃうの?

 殿下は、ちょっと目を見開いた後で、なんだかくすぐったそうに笑った。

「前言撤回する」

「えっ」

「君は今、とても上手に私を誘惑した」

 殿下は笑顔のまま、困ったように眉を下げて、わたしの頬をそっとなでる。

「そんな顔しないでおくれ、立ち去り難くなってしまう」

 そんなことを言っておいて、殿下はあっさり仕事に戻ってしまった。

 だけど彼がいなくなった後も、わたしはなんだかぼんやりしてしまって、何度か不満げな蔦にくすぐられた。

(あの笑顔は、なんというか、ちょっとだけ……可愛かった)

 そう思ってしまった自分に驚く。

 いやいや、次期魔王のことを、可愛いなんて。

 最初に偉いひとだと聞いたので、会う時はいつも少し緊張していた。でも、いつの間にか、そばにいることが心地よくなっていた。

 どれほど気さくで優しくても、実質上、今お世話になっているこの魔界を統べているひとだ。うっかりくつろぎすぎて失礼のないように気をつけないと。

 わたしはそう誓ってから、さっきから不満げな迷宮と遊ぶために立ち上がった。

 その瞬間。

 突然、ぐらり、と世界が傾いた。

(……あれ?)

 立ちくらみかと思って、咄嗟に蔦につかまる。

 だけど回復する気配はなく、視界は暗く狭まっていく。蔦につかまっているはずの手からも、力が抜けていく。

 その後のことは、もう覚えていない。

 次に目に入ったのは、もうすっかり見慣れた天井と、心配そうに覗き込む兄弟たちだった。嘆きの館の、わたしの部屋。

 実家の私室よりはずっと広い部屋だけど、彼らが勢揃いすると、流石にこの部屋も狭く感じる。

「うわああああん、よかったあ、MC」

「具合はどうだ。どこか、痛いところはないか?」

「喉が乾いてないか?腹は?何か食えそうか」

 皆が一斉に口を開いたので、その迫力にびっくりして固まっていると、皆を黙らせたルシファーが、わたしは高熱を出して一晩意識がなかったのだと教えてくれた。

 地下迷宮が殿下に知らせてくれたらしい。揃って駆けつけたルシファーと殿下が、ぐったりとしたわたしを発見したそうだ。

「何かの中毒だとまでは分かったんだが、まだ何の毒かはわかってない。ソロモンの解毒剤が効いて本当によかった」

 みんなほっとした表情をしていて、でも疲労の色が濃かった。ずいぶん心配をかけてしまったのだと、申し訳なかった。

 あのベールが昨夜から何も食べていないと聞いた時には、こちらが慌ててしまった。

「ソロモンが、君が倒れた原因を調べてくれている。この中に心当たりはないか?」

 サタンが差し出したD.D.D.の画面には、見慣れない虫や植物の写真が並んでいる。その中の、鮮やかなオレンジの花がふと目に止まった。昨日、迷宮で見かけた小さな蕾の色と似ていた。葉っぱの形も似ているような気がする。

 わたしがそのことを説明すると、サタンはすぐに出かけてしまった。他のみんなも、ほとんど寝ていない様子なのに、今日も登校するらしい。

「熱が下がったとはいえ、一晩意識がなかったんだ。君は人間だし、今日一日は大事をとって寝ていた方がいい」

 ルシファーに言われ、わたしは留守番していることになった。

 自分たちも今日は家にいると言い出したのは、レヴィとベルフェ。いつもの在宅組だ。

 ルシファーは「わたしを一人にしておけないから」と主張する二人に、長考の末、「今回だけだぞ」と渋々許可を出した。

 兄弟たちがそれぞれの1日を始めるために、わたしの部屋から出ていく。

「じゃあ、なんか欲しいものとかあったら呼んで」

 最後に残ったベルフェはそう言ってD.D.D.を振って見せると、ドアを押さえて待っていたレヴィと一緒に部屋を出て行こうとした。

「あ……」

「何?」

「……なんでもない。どうもありがとう」

 ベルフェは変なの、と少し笑った。

 レヴィが何か言いかけたけど、結局何も言わなかった。二人が部屋を出て行き、ドアが静かに閉じられる。

 ——うっかり、引き止めそうになっちゃったな。

 子供みたいだ。

 目を覚ましてからずっとこの部屋にみんながいてくれたからか、誰もいなくなった部屋が、急に広く感じた。夜寝るときはもちろんいつも一人だし、部屋に一人でいることだって珍しくもないのに、なんだかすうすうする。  

 きっと体調が万全じゃないからだ。こんな時は、さっさと寝てしまおう。

 わたしはソロモンにメッセージを送ると、D.D.D.をサイドテーブルの上に戻し、布団の中に潜り込んで目を閉じた。

 体のだるさは残っているのに、眠れない。二度目の寝返りを打った時、小さなノックが聞こえてきた。

 どうぞ、と答えると、そっと入ってきたのはレヴィ。

 びっくりして起きあがろうとしたわたしの方へ、片手をあげて制する。

「あ、気にしなくていいから」

 彼はわたしの寝ているベッドに背中を預けるようにして床に座り込むと、自分の部屋にいる時と同じようなくつろいだ調子で、持参したおーちゃんクッションを抱え込みながらゲーム機をいじり始めた。

 程なくして、牛柄の大きな枕を抱えたベルフェもやってきた。

「なんだ、レヴィもいたの」

 そう言いながらベッドの足元の方へ直行すると、彼はレヴィの隣にころりと横になった。

「ソファ使えばいいのに」

「いい……ここ、で……」 

 ベルフェはすでに眠ってしまったようで、返事の最後の方は、ほとんど寝息だった。

 レヴィはゲームに夢中だし、ベルフェは熟睡だし、何かおしゃべりするわけでもない。規則正しい寝息と、ゲーム機を操作する音。時々、ざまあ、とか、うりゃ、なんていう小さな独り言が聞こえてくるだけなのに、それがなんだか落ち着いた。

 ついさっきまで広く感じていた部屋が、今は暖かく感じる。

 ありがとう、と小さな声で言うと、レヴィは、何が?ととぼけた。

 深く息を吐いて、また目を閉じる。すぐに、ふわふわと優しい眠りが訪れた。

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