内緒の殿下


 ——今日の会議には、MCも来るように。遅刻は厳禁だ。

 朝食の時にルシファーにそう念を押されていたので、授業が終わってすぐに講義室を出て議場に向かった。

 RADの作りはちょっとややこしくて、こっちに来たばかりの時は迷子になることもあったけど、今はさすがに議場までの通路もちゃんと頭に入っている。ベールも一緒だったし、指定された時間の10分前には着くはずだった。それなのに。

 どうしよう。

 議場への扉を開いたと思ったのに、そこは図書室で。さらにその図書室を出たら、さっきまでとは違う、歩いた事のない廊下に出てしまう。

 そんなことを繰り返しているうちに、ベールともいつの間にかはぐれて、自分がどこにいるのか、さっぱりわからなくなってしまった。

 見知らぬ廊下で、途方に暮れて立ち尽くす。

 いきなり右側のドアが勢いよく開いた。思わず小さな悲鳴をあげてしまう。

「おっと、失礼」

「殿下!」

 開け放たれたドアの前にいたのは、ディアボロ殿下だった。

 魔王の後継。魔界で、魔王に次いで身分の高い人だと聞いている。

 そのせいか、彼の前に出ると、いつも少し緊張してしまう。肩書から受ける印象とは違って、ずいぶん気さくな人だとわかってはいるのに。

「もしかして、君も迷ったのか」

 頷くと、殿下は屈託なく笑って、よし、一緒に議場を探そう、と歩き出した。

 前を歩く、広い、大きな背中を慌てて追いかける。

「待って、置いていかないで」

 ははは、とからりとした笑い声をあげた殿下は、振り返ると、伸ばしたわたしの右手を、左手で包むように握った。

「大丈夫、置いていったりしない」

 安堵の息をつく。

 こんな風に誰かに手を引かれるなんて、どれぐらいぶりだろう。

 大きくて温かい手には、安心感があった。

 気がつけば、いつの間にか歩くペースも合わせてくれている。

「既視感があるな」

「やっぱり3D脱出ゲーム……?でも、わたし今日は持ってきてません」

「わかってるよ」

 以前、レヴィに借りたゲーム機をうっかり誤作動させてしまい、RADの中が迷路のようになってしまったことがあった。ちょうど今みたいに。

 あの時も、確か殿下と一緒に議場を目指した。

「よし、ここはどうだ?」

 殿下が次に開けたドアは、実験室へと続いていた。

「外れかあ。前回より手強いな?」

 そう言いながらこっちを見た殿下は、子供みたいにワクワクした表情で、なんだかわたしも本当にゲームを楽しんでいるような気分になってきた。さっきまで心に満ちていた不安は、きれいさっぱり消えている。

 つい笑ってしまうと、殿下からも無邪気な笑顔が返ってきた。

「よし、次は向こうの扉から出てみようか」

 今入ってきたものとは逆側にある扉を目指して、二人並んで部屋を横切る。

 と、突然。実験室の隅のシンクから、黒い大きな影が飛び出してきた。

 黒い影は一瞬のうちにむくむくと、大きく大きく膨らんで、実験室の天井まで覆うように広がった。ケタケタという耳障りな笑い声のようなものが響く。

 恐怖のあまり悲鳴も上げられなかった。

 身動きの取れなくなったわたしは、何かに強く引っ張られた。

 目の前に殿下の胸があって、抱き寄せられたのだと分かった。

 殿下は動じた様子もなく、わたしを抱き寄せているのとは逆の手をその黒い影にかざした。

「さては、誰かが中和しないままの魔法薬を流したな」

 厳重に注意しておかなければ、という呟き。同時にパチン、という、ガムの風船が壊れるような、拍子抜けするほど軽い音がして、大きな影は霧散した。

 その代わり、殿下が手をかざした先に、子供の頃アニメ映画で見たような、小さくて真っ黒な毛玉のような物体がふよふよと浮いている。その物体の目玉がギョロリとこちらを睨んだ。

(ちょっと可愛いと思ったけど、やっぱり怖い……!)

「今すぐRADを出ていくなら見逃してやろうと思ったが……、この子に付き纏うつもりなら、容赦はしない」

 殿下の静かなのに圧のある声が告げた。

 真っ黒な物体は、キィキィと甲高い、荒ぶる獣のような声を残して姿を消した。

「もう大丈夫だよ、……MC?」

 殿下がわたしに話しかけていると気づくまでに、少し時間がかかった。

「あ、あれ……?」

 もう黒い物体はいないのに、なぜか体の震えが止まらない。

 がたがたと震え続けるわたしの体を、ふわり、と殿下の両腕が包み込んだ。

 温かい。

 今日はそんなに寒いわけではなかったのに、いつの間にか体が冷え切っていた。

「よしよし、びっくりしたね。もう大丈夫だ」

 殿下の大きな手が、わたしの頭をゆったりと撫でる。あまりの心地よさに、思わず目を閉じてしまった。

「どうしてあんなのがRADに入り込んでいたのかわからないけれど、たいして害のない魔物だ。たまたま誰かが不用意に捨てた魔法薬で巨大化してしまったんだろう」

 話している内容よりも、低く落ち着いた声に、心が静まっていくのがわかる。

 彼の腕の中の安心感といったらなかった。少しの間そうしているだけで、浅くなっていた呼吸が普段通りに戻り、体の震えも、いつの間にかおさまった。多分、もう一人で立てる。

 だけど離れるタイミングを逃してしまった。頭を撫でてくれる大きな手が心地良くて、つい、もう少しだけこのままでいたいと思ってしまったせい。

 どうしよう、と思い始めていると、ポツリと殿下の声がした。

「どうしよう、MC」

「どうしたんですか?」

「手が離れなくなってしまった」

「えっ?」

「呪いかもしれない」

「の、呪い……?」

 さっきの黒いのに?

 害のない魔物じゃなかったの?

「困ったね、しばらくこのままでいるしかないかな」

 あまり困っているように聞こえない殿下の声は、笑いを含んでいるようにも聞こえる。

「しばらくって、どのぐらい……?」

「ううん、どうだろう、もしかしたら明日までか、もっと先かも」

「えっ……、晩ご飯、どうしよう」

 殿下が小さく吹き出した気配がする。すぐ近くで聞こえるひそやかな笑い声が、なんだかくすぐったい。

「そうだね。うちにくるかい?バルバトスの料理は美味しいよ。食後には手作りケーキ付きだ」

 それはとても魅力的なお誘いだ。だけど。

「ちゃんと嘆きの館に帰りたい」

「君はすっかりあの家の一員だな。うらやましいことだ。じゃあ、私が嘆きの館に行くことにしようか。それも楽しそうだ」

「バルバトスに叱られない?」

「ううん、悩ましいところだ。一緒にバルバトスを説得してくれるかい?」

 執事の説得は手強そうだけれど。

「わかった、頑張る」

 もう一度、殿下の嬉しそうな笑い声。

 彼が笑うと、わたしもなんだか嬉しくなっていることに気づいた。困った状況を相談しているはずなのに、心のどこかが弾んでいて、知らないうちに笑みを浮かべていた。殿下とずっと一緒にいる方法を相談しているみたいで、楽しかった。

「ああ、でも眠るのは私の部屋の方がいいんじゃないかな。MCのベッドに二人は狭いかもしれない」

  ベルフェと昼寝した時は問題なかったけど、殿下はベルフェより大きいから、確かに狭いかもしれない。

 こうして殿下に抱きしめてもらっていたら、とてもよく眠れそう。

 暢気にそんなことを考えていると、ちょうどわたしの背後で、ドアの開く音がした。

「ディアボロ、あまりMCをからかうな」

「坊っちゃま」

 ルシファーとバルバトスの声だ。

 二人の方を見ようとしたけれど、殿下の腕の中にすっぽり包み込まれていて、身動きが取れない。わたしは殿下の胸に頬を押し付けたまま、3人の会話だけを聞くことになってしまった。

「なんだ、思ったより早かったな。ルシファーまで一緒か」

「議場に向かう途中でバルバトスに会ったからな。助かった」

「お役に立てて光栄です」

「さて、今回のこれはどういうことなんだ?またあの小僧のゲームか?」

「原因はゲームだが、レヴィは無実だ」

 ルシファーのため息混じりの声に、バルバトスの声が続く。

「RADに入り込んだ下等悪魔の悪戯です。もう捕まえましたから、元どおりですよ」

「レヴィの名誉のために言っておくと、ゲームもレヴィが持ち込んだものじゃない」 

 ルシファーがそう手短に付け足したのを聞いて、つい頬が緩む。

 やっぱりお兄ちゃんだ。

「ところでお前はいつまでMCを抱きしめているつもりだ」

 続くルシファーの言葉に、はっと現状に気づいた。

 殿下の腕の中が居心地良すぎて、ついうっかりくつろいでしまっていた。

「んー、MCの抱き心地がよくてつい離し難くなってしまってね」

 殿下はわたしを抱きすくめたまま、屈託なく笑う。

「坊っちゃま」

 さっきとはちょっとだけニュアンスの異なるバルバトスの声がした。

 頭上で小さなため息が聞こえた。少しだけ名残を惜しむようにぎゅっと力が込められた後で、ゆっくりと腕が緩められた。

(呪いじゃなかったの……?)

 わたしをすっぽりと包み込んでいた腕の温もりが離れていく。

 なんだか急に心細くなって、殿下を見上げた。

 殿下はわたしの顔を見ると、ちょっと眉を下げて、困ったように笑った。

「そんな顔をしないでおくれ」

 大きな温かい手がわたしの頬をそっとひと撫でして、離れていった。

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