内緒の殿下2


 殿下に助けてもらったお礼を届けるために、RADの執務室を訪ねた。

 お礼に選んだのは、ルシファーに教わった、殿下が最近お気に入りだという紅茶。

 最初は思い切って手作りのお菓子を、と考えていたんだけど。兄弟たちの「殿下はいつもバルバトスのケーキを食べている人だよ」という言葉に、すぐに度胸は萎んでしまった。唯一ルシファーは「お前の手作りの菓子でもいいんじゃないか」と言ってくれたけど、何事も無難な方がいい。

 残念ながら殿下は不在だった。殿下に会うのはいつも少し緊張するので、3割ぐらいほっとして、残念な気持ちが7割。お礼の紅茶はバルバトスに預けることにした。

「確かにお預かりいたしました。ああ、坊っちゃまの大好きなお茶ですね。きっとお喜びになると思いますよ」

 バルバトスはそう微笑んだ後で、ふと真面目な顔でわたしを見た。

「……明日、もし、RADの中で何者かに追われて逃げるようなことがあれば、外に逃げることをお勧めいたします」

「えっ」

 わたしがびっくりして思わず聞き返すと、彼はまたきれいな微笑を浮かべた。

「占いのようなものですよ。どうか、お気になさらず」

 未来を視ることができるというバルバトスの言葉に、なんだか魔法にかかったような不思議な気持ちで、執務室を後にした。

⭐️⭐️⭐️

(こういうのは占いじゃなくて、予言っていうんじゃないのかなあ……!)

 翌日、バルバトスの「占い」通り、わたしはRADの中を逃げ回っていた。

 小さな、ねずみの姿で。

 ちょっとした事故で、サタンが(いつもの如く)ルシファーへの罠として仕掛けた「ねずみになる呪い」を、まともに浴びてしまったのだ。

 優秀なサタンの呪いは完璧で、わたしはどこからどう見てもねずみだった。兄弟たちに助けてもらおうとしても、アスモには追い払われるし、ベールには食べられそうになってしまった。誰もわたしだと気づいてくれない。

 ルシファーならきっと助けてくれると探したけれど、そのうち他の魔物たちにも食べられそうになって、それどころじゃなくなった。

 逃げながら、バルバトスの言葉を思い出す。

 ——外へお逃げになることをお勧めいたします。

 廊下を駆け抜けたわたしは、ドアの隙間から薄暗い部屋に滑り込むと、地窓がわずかに開いているのを見つけて、そこから外に飛び出した。

 勢い余ってコロコロと茂みの中に転がり込む。

 幸い、魔物たちは外まで追っては来なかった。

 木の根にもたれ、ほぅっと安堵の息とともに脱力する。

 だけど平穏は短かった。

 すぐに草を踏みしめる音が聞こえたかと思うと、その足音が、ゆったりとしたペースで近づいてきた。

(どうしよう。もうくたくたで、一歩も動けない……)

 茂みの中に隠れてやり過ごすことはできるだろうか。どうか見つかりませんように。

 身を固くしていると、目の前で、ぴかぴかに磨かれた黒い革靴がぴたりと止まった。

(見つかった……!)

 万事休す、と目を閉じる。

 だけど、降ってきたのは聞き覚えのある穏やかな声だった。

「やあ、こんなところで何をしているんだい、MC。ずいぶん小さくなってるね」

 恐る恐る目を開くと、気さくな笑顔が茂みを覗き込んでいた。

「殿下!」

 わたしだとわかってもらえたのが嬉しくて、喜んで呼びかけたけれど、口から出るのはキュッキュッというねずみの鳴き声だ。

「うーん、何を言っているかまではわからないな、ごめん」

 殿下は困ったように眉を下げると、わたしの方へ手を差し出した。

 大きな体を小さく縮こまらせるようにしてしゃがみ込んでいる殿下の顔と、差し出された手を見比べる。

「おいで」

 促されるままに、掌に飛び乗ると、殿下はわたしを観察するように近くで眺めた。

「ああ、なるほど、優秀な呪いだな」

 はい、それはもう。何しろサタンの渾身の呪いなので。

「さて、どうしようか。時間が経てば解ける呪いだけど」

 そのうち解ける呪いだとわかって、両手を胸にあて、ほっと息をついた。

「これならすぐに解呪してあげることもできるよ。その場合は呪いをかけた者に同じ呪いを返すことになるけど」 

 呪いを返す。

 早く元に戻りたいけれど、サタンがねずみになってしまうのは忍びない。自業自得とも言えるけど、つい先月、試験勉強を見てもらった恩もある。

 少しだけ迷ったけれど、結局わたしは殿下に首を横に振って見せた。

「じゃあ、自然に解けるのを待つかい?」

 肯く。

 殿下は、君はそう言うような気がしていた、と笑った。

「よし、了解した。では、呪いが解けるまで、私が安全な場所できみを保護することにしよう。少しの間、ここで我慢しておくれ」

 わたしは殿下の胸ポケットにそっと収められた。

 次期魔王の胸ポケット。もしかしたら、RADの中で、最も安全な場所かもしれない。

「それは災難でございましたね。ご無事で何よりです」

「ああ、バルバトスの提案にしたがって、気分転換の散歩に出たのは正解だった」

 執務室へ戻ると、わたしは泥と埃に塗れてしまった体をきれいに洗ってもらい、魔法で乾かした後で、テーブルの上に乗ることを許された。(ねずみの姿とは言え、バルバトスの手で体を洗われるのはなんだかとても恥ずかしかった)

 テーブルの上にはバルバトスお手製のケーキと湯気を立てている紅茶。ふわりと甘さのある、良い香りが漂う。

 どうやって食べたものかと躊躇っていると、殿下がケーキの小さなかけらをのせたフォークを差し出してくれた。

 口の中で、しゅわりと溶けて消えてしまう、柔らかいスポンジと優しい甘さのクリーム。あまりの美味しさに至福を極め、全身をぷるぷると震えさせていると、バルバトスが小さく笑う気配がした。

「お口に合ったようでよろしゅうございました。では坊っちゃま、私は少し出かけて参ります。兄弟たちに、事情を説明して迎えにきてもらうことにしましょう。MC、どうぞゆっくりくつろいでいてくださいね」

「ああ、頼むよ。ありがとう、バルバトス」

 バルバトスは優雅なお辞儀とともに、部屋を出て行った。

 お茶を飲み終えると、殿下はすまないね、と謝りながら、書類仕事を始めた。わたしはどうかお構いなく、と答えたけれど、やっぱりキュッキュッという鳴き声だったので、通じたかどうかわからない。

 考えてみれば当たり前なんだけど、書類に向き合う殿下には、いつもの気さくな笑顔はない。真剣に仕事に向き合う姿が新鮮で、なんだか目が離せなくなってしまった。

 ふと顔を上げた殿下が、わたしの方をみて、無邪気な笑顔を見せる。

「おしゃべりができないのは残念だけど、君がここにいるのはとても良いな。こ

れからも、たまにねずみになって、遊びにくるかい?」

 またねずみに?

 思わずキュッという鳴き声が出た。

 殿下は楽しそうに笑って、冗談だよ、と言うと、また書類に向き直った。

 静かな室内に、さらさらとペンが紙を滑る音と、紙をめくる音だけが続く。沈黙は、気まずいものだと思っていた。でもそうとも限らないみたいだ。今のこの静寂は、落ち着いて、なんだか心地よかった。言葉を交わすことがなくても、時々殿下がわたしを見て微笑むのが嬉しかったし、仕事をする殿下を眺めているのも楽しかった。

 ゆらゆらと、水に浮かぶように揺れている。温かい、優しい、何かに包まれる安心感。少しずつ、意識が覚醒していく。

 微かに聞こえる、紙をめくる音。

 リズミカルに、ペンが紙上を滑る音。

「目が覚めてしまったかい?もう少し、このまま眠っておいで」

 ごく近くで、落ち着いた、甘い声が囁いた。大きな手が、優しく髪を撫でる。頭にそっと押し付けられた、温かくて柔らかい感触。

 気持ちいい。

 ずっとこのままでいたい。だけど、意識はだんだん現実に戻ってきてしまう。体は暖かいのに、足元だけやけにすぅすぅと風通しが良く、心許ないのも気になってきた。

 ゆっくりと目を開くと、間近で覗き込んでいた殿下と目が合う。

 殿下が微笑んだので、わたしもつられて、笑顔になった。

「よかったね、呪いは無事に解けてるよ」

 呪い。そうだ、わたしは呪いでねずみになってしまって……。

 寝起きでぼんやりしていた頭が、次第にはっきりしてきた。仕事をする殿下を見つめているうちに、うっかり眠り込んでいたようだ。無意識に人間に戻った自分を確認しようとしたのか、両手を見た。

「えっ……?」

 思わず声がでた。混乱しながら、自分の体を見下ろす。

 わたしはどういうわけか殿下のジャケットに身を包み、彼の膝の上に横抱きにされていた。見なくてもわかる、ジャケットの下には何も着ていない。

「ねずみは服を着ていないからね」

 殿下がさりげなく視線を逸らして言った。

 見上げた耳元が、ちょっと赤くなってる。

 そうだ、考えてみれば、呪いを浴びた後、布の山を乗り越えた記憶がある。あの布は、わたしの制服だったんだ。

 つまり、人間の姿に戻った時、わたしは……。

 心臓のあたりで爆発が起こったように、身体中を血が駆け巡り、ぐわっと一気に頭に血が上った。

 何か言いたいのに、何を言えばいいのか分からない。混乱しながらおろおろと言葉を探していると、バルバトスが部屋に戻ってきた。

「ああ、お目覚めになったんですね、ちょうどよかった。あなたが脱ぎ捨てた制服を回収しておきました。お迎えもきていますよ」

「もう少しいいじゃないか」

 殿下が拗ねた子供のような顔で、わたしを抱える腕に力を込めた。

 バルバトスが優雅な笑顔を崩さずに返した。

「十分充電していただけたと思いますが。欲をかくと、ろくなことはありませんよ、坊っちゃま」

 殿下は降参したように、小さくため息をついた。

「感謝はしているよ」

 そう言って、わたしを膝から降ろしてくれる。

「MC、着替えにはそっちの部屋を使うといい。ねずみにはならなくてもいいから、また時々執務室に顔を見せておくれ」

 「統べる者」の貌に戻った殿下の大きな掌が、そっと頭を撫でた。

 隣の部屋には、迎えにきてくれたアスモとサタンとベールが待っていた。

「本当にごめんね、MC、気づいてあげられなくて。大変だったでしょう」

「あのねずみはMCだったんだな。やけに美味そうなねずみだと思った。食べそうになってすまん」

「本当に、ごめん」

 サタンは一番落ち込んでいて、こっちが気の毒になるほどだった。

「今度の食事当番代わってくれたら許してあげる」

 わたしがそう条件を出すと、サタンはやっと少し笑ってくれた。

「向こう1ヶ月の当番を引き受けてやる」

 そう言ってわたしの頭にポンと手を乗せると、ごめん、ありがとう、と小さな声で呟いた。

「MC、よかったら今日のケーキをお持ちになりませんか」

 バルバトスが小さな紙袋を差し出してくれる。

「わあ、いいんですか」

「ええ、あなたのために用意したものですから」

 にこりと笑う彼に、ずっと気になっていた疑問が、再び頭をもたげる。

 昨日の「占い」。

 殿下への散歩の提案。

 予め用意されたケーキ。

「あの……」

「はい、なんでしょう?」

 彼は穏やかな微笑を浮かべたまま、小首を傾げた。

 もしかして、あなたは今日起きることを全て知っていたのではないですか?

 最初から呪いを避けることもできたのではないですか?

 彼にこの疑問をぶつけてみようかとも思ったけれど。

 でも、悪いことばかりじゃなかった。

 ふと殿下のそばで過ごした穏やかな時間を思い出して、自然に頬が緩む。

「……ありがとうございました」

 結局出てきたのは、お礼の言葉だった。

 彼は意外そうに眉を上げ、それから控えめに笑った。困りましたね、と。

「育たないうちに潰してしまうのが定石だと理解していたのですが、あなた方を応援したくなってしまいました。……ああ、失礼、こちらの話です、お気になさらず。どうぞ、お気をつけてお帰りください」

 美しい執事の微笑みに見送られながら、やっぱりわたしは魔法にかかったような不思議な気持ちで、兄弟たちと並んで、帰路についたのだった。

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