内緒の殿下   〜魔界の太陽 編〜


 魔界には太陽がない。

「人間界の太陽が恋しいかい?」

 あれは、初めて殿下と二人で迎えた朝。

 彼が、ぽつりと尋ねた。

「……少しだけ」

 本当は、朝日の昇らない朝を迎えるたびに、太陽を恋しく思っていた。だけどそれを殿下に伝えるのはなんだか申し訳ないような気がして、結局曖昧な返事しかできなかった。

「君は優しいね」

 彼はわたしの髪を撫でると、少しだけ寂しそうに笑った。

「本当に海だ……」

「海に来たんだってば」

 歓声にしては間抜けなわたしの呟きを、アスモが隣で笑った。

「だって、太陽があるよ」

 この夏、わたしたちは殿下のプライベートビーチに招待されていた。

 夜の海は怖いし、魔界の海はレヴィがリタンを放して以来、とても危険な場所だと聞いていた。

 だけどこのビーチの上には、真夏のような太陽が燦々と輝いている。

「殿下の魔法なんだって。すごいよねぇ」

 魔法で作られた太陽は、それでも人間界の太陽と同じように、足元の白い砂を温め、海を明るい青に輝かせていた。

 本物の太陽でないなんて信じられなくて、つい青空を見上げてしまう。

「そんなに太陽が恋しかったのか?直接眺めると目を痛めるぞ」

 パラソルの下、デッキチェアに優雅に横たわったルシファーの優しい声が忠告する。

 もう一つのパラソルの下では、バルバトスが手際良くドリンクを用意していた。カラカラと氷のなる音が、楽しい時間の始まりを告げている。

 マモンとベールが何か叫びながら早速海に飛び込んで、競争を始めたかと思うと、レヴィとサタンもすぐに引っ張り込まれてしまった。すでに木陰で寝ているベルフェ、セルフィーに夢中なアスモ。

(あれ……?)

 このビーチを用意してくれた殿下だけが、見当たらない。

 ここに到着した時は、出迎えてくれたのに。

 一言お礼が言いたくて、わたしは殿下を探しにいくことにした。

「あっ、いた!」

 つい声に出してしまってから、慌てて両手で自分の口を塞いだ。

 そっと耳を澄ますと、安定した穏やかな寝息が聞こえてきて、ほっと胸を撫で下ろす。

 みんながいる場所から少し離れた静かな岩陰。乾いた白い砂浜の上、大きなやしの木の幹にもたれかかって、殿下は眠っていた。兄弟たちのはしゃぐ楽しそうな声が、ずっと遠くに聞こえる。

 殿下を起こさないように、わたしは少し離れた場所に並んで座った。

「すごい……」

 目の前には、思わず感嘆の声がもれてしまうような絶景が広がっていた。写真でしか見たことのないような、深く澄んだ群青色の海がどこまでも広がっている。遮るもののない水平線。暖かい海風。穏やかな波の音の繰り返しが、ただ耳に心地良い。

 魔界の日々は慌ただしい。こんなにのんびりした気持ちになるのは、久しぶりだ。

 しばらくの間、わたしは時間を忘れて、景色に見入っていた。

「おや、やはりMCもこちらにいらしたんですね」

「バルバトスさん!」

 ここはもちろん、殿下を起こさないように、二人とも小声で。

「坊っちゃまのお気に入りの場所なんですよ。眺めがいいでしょう」

 わたしは心からの同意を声を出さずに示すために、力強く繰り返し頷いた。

 二人分の飲み物を手にしたバルバトスは、目を覚ます気配のない殿下を見てそっと苦笑する。

「やはり少しお疲れだったようですね。この休みを確保するために、ずいぶん仕事を詰めていましたから」

「そうだったんですか」

 言われてみれば、ここ数日間は、いつもに輪をかけて忙しそうだった。

「MCとビーチで遊びたければ仕事を片付けていくように、と条件を出したのは私ですが。坊っちゃまが余計なことに興味を持たずに仕事に集中してくださったので、私としては大変心穏やかな数日間を過ごすことができました」

 バルバトスは、どこまで本気かわからないような口調でそう言うと、またきれいに微笑んで、どうぞ、と飲み物を差し出してくれた。

「さて、プライベートビーチとはいえ寝こけている次期魔王を一人で放置しておくのは少々不用心ですね。私が見ておりますから、MCは少し泳いでいらしては?まだ海に入っていないでしょう」

 海にももちろん入りたいけれど、今はもう少しだけ殿下のそばにいたかった。多忙が日常の殿下と、こんなにゆったりした時間を過ごせるなんてとても貴重だし、この景色と殿下の寝顔をまだ見ていたい。

「わたし、もう少しここにいます。殿下が目を覚ますまで」

「……そうですか?では、お言葉に甘えて。貴女が一緒にいてくださるなら私も安心です。ソロモンから、ずいぶん魔術も上達したと伺っています」

 さらりとプレッシャーを与えてきたバルバトスは、顔をひきつらせた私を見て微笑んだ。

「ふふ、そんなに緊張しなくても、この辺りで気をつけなければいけないのは毒ヤドカリぐらいです。ああ、でも……ここにしばらくいらっしゃるなら、もう少し右に移動された方が良いかもしれません。そこはすぐに日陰でなくなってしまいますから」

 わたしは言われるままに、少しだけ右に移動して座り直した。

 バルバトスは満足げに微笑むと、坊っちゃまをよろしくお願いします、といい置いて、またみんなの方へと戻って行った。

 わたしは再び海を眺める。

 凪いだ海、潮の匂い、肌を撫でる風、波の音。

 何もかもが、優しく、穏やかで暖かい。

 ふと、殿下が何か言ったような気がして隣を見ると、わずかに身動ぎした大きな上体が、ぐらりと傾いだ。

(あっ……)

 支えようと慌てて両手を伸ばしたけれど、全く力が足りなくて、咄嗟に適切な魔術も出てこない。結局そのまま、殿下の上体はわたしの膝の上に倒れ込んでしまった。

 それでも殿下は目を覚ます気配がなくて、わたしの膝を枕に、穏やかな寝息をたて続けている。

 のどかな寝顔がなんだかかわいくて、自然に口元が緩んだ。

 こうして寝顔を見ていると、次期魔王なんて冗談みたいだ。

 それでも空を見上げれば、彼の強大な魔力の一端が輝いている。

 日照時間が減少すると、人は心を病んでしまうことが多いという。人間のわたしが魔界で健やかに過ごせているのは、もちろん、あの優しい兄弟たちのおかげでもあるけれど、きっと殿下の存在が大きい。次期魔王が、このディアボロと言う悪魔だったから。

 厳しいときもあるけれど、いつだってわたしを助けてくれた。この太陽のない魔界で、わたしを温め、照らし、護り続けてくれる悪魔。

 ふと、殿下のいつもの邪気のない笑顔が、太陽と重なる。あなたは太陽のようだと伝えたら、彼はどんな顔をするだろう。

 自分の想像がおかしくて、こっそり笑った。

 殿下の髪をそっと撫でながら、ゆったりと繰り返される波の音に耳を傾ける。今のこの時間が、永遠に続けばいいのに。そんなことをつい願ってしまうぐらいに満ち足りた時間だった。

(なんだかわたしも眠くなってきちゃったな)

 あくびをしながら海に目をやると、海の色が、少し濃くなったような気がした。空を見上げると、雲はなく、さっきまでと同じように、ただ太陽が燦々と輝いている。

 不思議に思ってじっと見つめていると、少し大きな波が来た時のように、海面が盛り上がった。だけどその波は海岸に打ち寄せることなく、そのままどんどん盛り上がっていく。

 何が起こっているのか分からず、呆然と眺めているわたしの目の前で、波は急激に高くなり、その高波の中から、海よりも少し明るい水色の大きな塊が姿を表した。水色の塊の周りを、ざあざあと勢いよく海水が流れ落ちる。やがて水のカーテンがなくなると、丸みのあるぶよぶよとした塊の下に、うねうねと動く同色の棒状のものが何本か生えていることがわかった。

 わたしの知っているものとはサイズがずいぶん違ったので認識するのに少し時間がかかったけれど、それは大きな大きなタコだった。

 頭の部分だけで、3メートルぐらいはありそうだ。その下に伸びた足はさらに長く、うねっている。

 以前人間界で友人たちと爆笑しながら見た巨大ダコの出てくるホラー映画を思い出したけれど、実際に目の当たりにしてみると全く笑えない。

 咄嗟に覚えたての退魔術を詠唱してみても、大きなタコはびくともしない。こんな大きな魔物がいるなんて聞いていない。せいぜい毒ヤドカリに気をつけろという話ではなかったのか。

 水色のタコの大きな目が、ぎろりをわたしたちを睨んだ——気がした。

 わたしは必死で、膝の上の殿下を庇うように抱きしめた。怖くて、目を閉じる。

「MC、MC、大丈夫だよ」

 ぽんぽん、と宥めるように腕をたたかれて、目を開けると、目を覚ました殿下が、ちょっと困ったような顔で微笑んでいた。

「驚かせてしまったね、彼はオズワルド。このビーチの警備係なんだ」

 彼はそう言いながら立ち上がると、座り込んだままのわたしに手を差し出してくれた。

「怖がらなくていい、彼はとても紳士的なんだ」

 殿下に手を引かれるまま、オズワルドに近づく。

 近くで見ると、オズワルドは人間界の蛸とは違う、牛や馬みたいな、大きな動物特有の優しい目をしていた。

 その目を見た途端に、なんだかさっき退魔術を仕掛けたのがとても申し訳なくなった。全く効果はなかったとはいえ、わたしの態度は、紳士的だという彼をとても傷つけてしまったのではないだろうか。

「さっきは、ごめんなさい」

 オズワルドの目が少し細められて、ゆっくりと、水色の足が一本、私の方へと差し出された。

 ちょっと考えてから、握手を求められているのかもしれないと思って、そっと差し出された足を握ってみる。すると、握った手がゆらゆらと緩やかに振られた。

「ふふ」

 なんだかかわいい仲直りの握手に、ほっとしたのも束の間。

「えっ?」

 握手をしているのとは別の足が、ぐるりとわたしの体に巻きつき、悲鳴をあげることもできないまま、わたしはオズワルドに高く持ち上げられてしまった。

 決して乱暴ではなかった。むしろ大切な壊れ物を運ぶように丁寧に、オズワルドはもう一本の足で私の上半身を支えるようにして、ゆったりと私の体を自分の顔の横辺りまで運んだ。突然体を持ち上げられて驚いたけれど、怖くはなかった。なんだか安全なリフトにでも乗っているような感覚だった。 

「おい、オズワルド、どういうことだ?」

 殿下が驚いた表情で見上げている。

 わたしよりずっと背の高い殿下を見下ろすなんて、貴重な体験。

 呑気にそんなことを考えたけれど、彼にあんな心配そうな顔をさせておくわけにはいかない。

「あの……、オズワルド、おろしてくれない?」

 わたしが頼むと、オズワルドはわたしを支えているのとは別の足で、頭を掻くような仕草をしてみせた。なんだか困っている様子が伝わってくる。

「……ははあ、なるほど、分かったぞ。レヴィアタンの命令か」

 殿下の言葉に、オズワルドの大きな頭が、頷くようにゆっくりと傾いた。

「レヴィ?」

「これは相手が悪いな。海に棲む者は誰も彼には逆らえない」

 殿下は腕組みし、困ったように眉を下げ、笑って首を振った。

「どうしてレヴィが?」

「私がずっと君のことを独り占めしていたから、兄弟たちのところへ彼女を連れてくるようにオズワルドに命じたんだろう」

 それは、……ものすごくあり得そうだ。

 どうしよう。

 殿下はわたしの顔を見て苦笑した。

「そんな顔をしないでおくれ、MC。私も君と一緒にいたいのは山々だけど、好きな女性の家族を敵にまわすのは得策じゃないからね。不本意だが、ここは彼らに譲ることにしよう」

 殿下はそう言いながら、オズワルドの足に腰掛けた状態のわたしの左足を手に取った。

 触れられた場所からちりちりと甘い感覚が這い上がってきて、密かに息を飲む。

 金の瞳が私を見上げた。

 いつもの優しい眼差しなのに、その奥に込められた熱に、射抜かれたように動けなくなる。 

「夜には、私の元に戻ってきておくれ」

 殿下はそう言うと、身動きできなくなってしまったわたしのつま先に、そっとキスをした。

「楽しんでおいで、私の可愛い小鬼ちゃん」

 もともと海は好きだし、兄弟たちは大歓迎してくれたし、大勢で遊ぶのはとても楽しい。バナナボートも、ビーチフラッグもビーチバレーもすごく楽しい。

 だけどはしゃいでいても、殿下の唇が触れた場所が、呪をかけられたみたいにずっと熱を持っている。太陽に焼かれた肌よりずっと熱いつま先。そこに意識が向くたびに、私を見上げる殿下のあの目を思い出してしまう。

 空を見上げると、殿下のつくった太陽は、まだずっと高い位置にある。

 長い長い午後になりそうだった。

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