愛さずにいられない —第一話—


赤のエースで妄想してみた その1 愛さずにいられない —第一話—


 アンリが目覚めたのは、クレイドルに着いた翌々日の朝だった。

 目覚めてすぐ軍医のカイルの診察を受けたり、赤の軍の最高司令官であるランスロットに挨拶したり、たくさんの書類を書かされたり、と朝は忙しかった。しかし昼前には一通りの用を終え、部屋に戻ることができた。

 赤の兵舎でアンリに与えられた部屋は、今まで彼女が暮らしてきたどの部屋よりも広く豪華で、クルミの木で誂えた重厚な印象の家具が揃えられていた。ベッドには温かみのある赤いブランケットがかけられている。くるみの木の家具は昔よく遊んだ祖父の書斎を思い出させる。アンリはこの落ち着いた部屋が気に入っていた。

 部屋で特にすることがあるわけでもなく、アンリはぼんやりと机に向かい、頬杖をついていた。机の上にはロンドンから持ってきた数少ない私物の、「看護覚書」という本が開かれている。だけどアンリの目は窓の外を向いていた。

(本当に不思議の国があったんだなあ。大きくなってからは、ずっとブランがつくってくれたお話だと思ってた)

 ここクレイドルは、科学の代わりに魔法が発達した国だという。

 アンリがまだ小さな子供で、ロンドン郊外の田舎で祖父と暮らしていた頃、祖父の友人だというブランが時々訪ねてきた。ブランは祖父と同じように真っ白な髪をした青年で、祖父はよく彼のことを『白ウサギ』と呼んでいた。

 ブランはアンリに色々な『お話』を聞かせてくれた。アンリはその中でも特に、クレイドルという不思議な国の、魔法の話を聞くのが大好きだった。ブランはアンリたちのいる世界を「科学の国」クレイドルを「不思議の国」と呼んでいて、彼は、普段は「不思議の国」に住んでいるのだと言っていた。

 ブランによれば、アンリもよく知っている物語「不思議の国のアリス」はクレイドルで本当にあったことをもとに書かれた物語らしい。でもブランの話す不思議の国の物語はもう少しリアルだった。トランプのカードや猫が喋ったりはしない。ブランの話に出てくるクレイドルの住人はみんなアンリと同じような人間で、生き生きと生活していた。アンリもある程度大きくなるまでは、全部本当のことだと信じていた。―――実際に、こうしてクレイドルは存在したわけだが。

(それに、魔法石も本当にあった)

 夕べ馬車の中で、噴水や街灯が魔法石で輝いていることをランスロットが説明してくれた。街灯の中で、美しい宝石のような石が輝いていた。魔法石には魔力が込められていて、魔法石さえあれば、誰でも魔法が使えるらしい。科学の代わりに魔法が発達したクレイドルだが、魔力を持っている人間はごく稀で、ほとんどがアンリと同じ普通の人間だそうだ。

 アンリは小さくため息をつくと、椅子に座ったまま伸びをした。開けられた窓から、気持ちの良い風が入ってくる。工場や車の廃棄ガスが溢れるロンドンより、クレイドルの方がずっと空気がきれいな気がした。風に乗って、遠くで訓練をする兵士たちの声が聞こえてきた。

(ここは、安全だ)

 ブランのおかげで安全な場所に逃げてくることができた。安心して眠れる場所もできた。アンリが安心してぐっすり眠ったのは本当に久しぶりだった。2度ほど火事の夢を見て飛び起きたが、助けてくれた兵士にもらったキャンディを握りしめていると、不思議と安心してきて、再び安らかな眠りに戻ることができた。

(あの人、強かったなあ)

 一瞬にして銃を持った三人を倒してしまった。満月を背に振り返った姿が、今もアンリの胸に強く焼き付いている。月明かりみたいにかすかな微笑みと、髪を撫でてくれた手の温もりに、なぜか涙が止まらなくなってしまった。ロンドンでひたすら逃げ惑っている間は、一度も泣かなかったのに。

(そうか、私……)

 私は、安心したんだ。

 アンリは学校の寮の火事以来、自分が久しぶりに安心したのだと気付いた。あの時、泣き出したアンリに、なぜか差し出された棒付きキャンディを思い出して、自然と口元がゆるんだ。でも。

(ここにいる間は安心だけど、ずっとここにいられるわけではない)

 入国時のトラブルのせいで保護してもらえることになったけれど、本来、赤の軍に国民でもないアンリを守る理由なんてない。

(これからどうしよう……)

 ずっとここにいるわけにはいかない。ちゃんとロンドンで起きた問題を解決して、再びロンドンで生活していくことを考えないといけない。そう思うものの、アンリには自分がなぜ追われることになったのか、見当もつかなかった。

 頼みの綱は、ここにくる直前に依頼した探偵、ケアリだ。アンリがクレイドルに隠れている間に、彼が調査し、解決方法を見つけ出してくれることになっていた。次の満月の夜、ブランが一足先にロンドンへ行き、ケアリに会うことになっている。

 でも、それでも、何もわからなかったら?

 足元に、大きな暗い穴がぽっかりと口を開けているような気がして、身震いをする。先のことを考えると、アンリはやはり途方にくれた気持ちになり、唇を噛み締めた。

 アンリが今日何度目かのため息をそっとついた時、廊下の方で、犬が元気に吠える声がした。まだ幼い犬の声に聞こえた。

(犬?なんで?)

 聞き間違いかもしれないけど、気になって仕方がない。アンリの部屋の前には、常に彼女を警護するための兵士が配備されていた。アンリは自分が出歩くと警護の兵士に迷惑だと考え、なるべく部屋でおとなしくしていようと決めていた。でもどうにも我慢できない。アンリはドアの方へ向かった。

(ちょっとだけ、廊下を覗くだけだから)

 誰にともなく言い訳しながら、そっとドアを開け、隙間から廊下を覗くと、すぐにこちらを見上げる黒く円らな目と目があってしまった。ドアの前で、だいぶ大きくはなっているけれど、まだ子供だとわかるレトリバーが、行儀よく座って、尻尾を振りながらアンリを見上げていた。口を開け、舌を出している様子が、笑っているように見える。小首を傾げるようにして、全身で「遊んでくれるの?」とアンリに問いかけているようで、アンリの目はその可愛い犬に釘付けだった。

「犬がお好きですか?」

 柔らかな声が優しく問いかける。アンリは失礼になるとわかっていても、レトリバーから目を外すことができず、そのまま答えた。

「大好き。……撫でても、いいですか?」

「ああ、構わない」

 さっきの問いかけとは違う、低く静かな声が答えた。アンリは早速犬の前にしゃがみ込んだ。犬の方もアンリに興味津々といった風で、尻尾を振りながら、すぐに近寄ってきて、アンリの匂いを嗅ぎ、膝の上に登ってきた。頬の下や、耳の後ろのあたりを両手で撫でてやると、甘えるような声を出し、尻尾を振りながら、ゴロン、と寝転んでしまった。

「ふふ、お腹も撫でるの?」

 脇の下あたりをわしゃわしゃと撫でてやると、犬は全身で喜んで見せてくれる。

「リコス、お前、飼い主に少しは遠慮したらどうです?」

「まったくだ」

 笑いを含んだ会話が聞こえる。

 確かに、初対面の人間の前でこんなにリラックスしてしまうなんて、如何なものか。きっとすごく愛されている犬なんだろう。アンリは自然と自分が笑顔になっているのに気付いた。

「リコスっていうの。アンリよ、よろしくね」

「リコスはいい仕事をしましたね」

 柔らかな声に、アンリはやっと顔を上げた。

 四人の男性が、そろって優しい微笑を浮かべてこちらを見下ろしていた。四人とも姿勢が良く、立ち姿だけで、日頃体を鍛えている人たちだとわかる。三人は制服姿だった。一人だけ私服姿なのは、あの夜アンリを助け出し、キャンディをくれた兵士だった。

「……! ごめんなさい、ご挨拶もせずに」

 アンリは自分がずいぶん無礼な態度をとっていたことに気づいて、慌てて立ち上がった。リコスが、もっと撫でて欲しい、と甘えるようにクンクンと鼻を鳴らし、すり寄ってくる。

 ブラウンのさらさらした髪と緑の瞳を持つ男性が口を開いた。

「ふふ、貴方の笑顔を見ることができて俺たちも安心しました。申し遅れました、俺は赤のジャック、エドガー・ブライトです。どうぞ気軽にエドガーと呼んでくださいね。彼は赤のエース、ゼロです」

「ゼロだ、よろしく」

 エドガーの隣に立っていた棒付きキャンディの兵士が控えめに微笑んだ。

 褐色の肌は異国的だけど、瞳は綺麗な青で、精悍な顔立ちはアンリの知っているどの国の移民とも違った。首元から、タトゥーの一部がのぞいていたが、アンリには、何の絵柄かわからなかった。

 アンリは以前ブランに聞いた話を思い出していた。―――軍の幹部は選ばれた十三人、トランプと同じように、数の大きい方が階級が上になる。ただし、特攻隊長であるエースは任務の特性上、破格の扱いを受けている。今柔らかい声で説明しているエドガーは、ジャック、つまり赤の軍のナンバー3ということだ。そして、キャンディの兵士ゼロは、特攻隊長。

(なるほど、強いわけだ)

 リコスはゼロの犬のようだ。もうアンリに撫でてもらえないとわかると、彼の横に大人しく伏せていた。でも尻尾はリズミカルに動いている。

「その向こうにいるちょっと年上なのが、赤の2、レイフ・アドラー。こちらがゼロの部下の小隊長、マリク・クロフォードです」

 レイフ、マリクが口々に挨拶する。エドガーを含め、レイフもマリクも、アンリの頭にある軍人のイメージとは少し違う、柔らかく洗練された、紳士然とした印象を与えた。アンリには、この中ではゼロだけが、軍人らしい、どこか生真面目で硬い雰囲気を持っているように見えた。

「アンリ・ウィリアムズです。ここに置いてくださって、ありがとうございます」

「貴方の安全は、我々赤の軍が保証します。どうか、安心してクレイドルでの生活を楽しんでください」

(クレイドルでの生活を、楽しむ……そんな発想はなかった)

 どう返事をしたものかアンリが戸惑っていると、エドガーが柔らかな声で続けた。

「ゼロ、彼女もリコスの散歩に連れて行ってあげたらどうです」

「えっ、ああ……、一緒に行くか?」

「行きたいです!」

 アンリは勢いよく即答する。ゼロは驚いたように目を見開いたあと、微笑んだ。

 アンリとゼロはエドガーたちに見送られながら、連れ立ってリコスの散歩に向かっていた。リコスは尻尾を振りながら2、3歩ごとにゼロにじゃれつくので、ゼロは少し歩きにくそうにしている。リコスは歩いている最中も一途な目でゼロを見上げ、時折飛びつくように跳ねていた。

「リコス、わかったからもう少し落ち着いてくれ」

 ゼロがリコスをなだめる静かな声は低く優しく、どこか甘く響く。アンリはそれ以外にゼロの声を聞くことはなかったが、決して気詰まりではなく、不思議と居心地の良い沈黙だった。

「リコスはゼロさんが大好きなんですね」

 アンリの言葉にゼロが振り返る。

「アンリ、俺のことはゼロ、でいい。敬語もいらない」

「……わかった、ゼロ」

 アンリの返事に、ゼロはふっと目元を和らげた。

「お前はずいぶん犬に慣れているな」

「お祖父様の家にフェンリルって名前の大きな犬がいたの」

「フェンリル?」

 ゼロが小さく笑った。

「黒のエースと同じ名前だ。フェンリルとお前は仲がよかったのか?」

「うん、すごく。6歳の時にお祖父様のところに引き取られてから、ずっと一緒だったの。ブランがね、私とフェンリルは兄妹みたいだったってよく笑うの」

「ブラン?書記官のブランか?」

「そう。ブランはお祖父様の古いお友達で、時々お祖父様の家を訪ねてきてたの。その時からの知り合いなの」

「そうか」

「お祖父様も軍人だったの。私が引き取られた時には、もう退役していたけど」

「そうか」

 ゼロは、静かにアンリの話に耳を傾け、時折話の続きを促すように相槌をうってくれた。アンリはそれに誘われるように、とりとめのない話を続けた。

「14の時に、お祖父様が亡くなって、その時、フェンリルもどこかへ行ってしまったの」

「……そうか」

「もっと小さな時に、教会で動物は天国に行けないって聞いたことがあってね。フェンリルが天国に行けないのはおかしいって私が怒っていたら、お祖父様が、フェンリルはお祖父様の大切な相棒だから、お祖父様が天国に行く時にはちゃんと連れて行くから安心おしって言ってたの。お祖父様は優秀な軍人だったから、何か手を考えるって」

「そうか」

 ゼロは小さく笑う。

「だから大人になった今でも、お祖父様がフェンリルを連れて行ったような気がしているの」

「そうか……本当にそうかもしれないな」

 ゼロの低く優しい声から、心からそう思っていることが伝わってきた。アンリはそれが嬉しくて、笑って隣のゼロを見上げると、ゼロも優しい顔でアンリを見、微笑んでいた。

 兵舎の裏手の丘にたどり着くと、アンリは見晴らしの良さと景色の美しさに思わず歓声を上げた。緑の背の低い草が繁るなだらかな丘が遠くまで続いており、森が見える。森のさらに向こうに高く険しい山が見えた。広く頭上に広がる青空とのコントラストが美しかった。丘のあちこちにオレンジや黄色のちいさな草花が咲いている。

「行こう、リコス!」

 アンリはリードを外してもらったリコスと一緒に駆け出した。

 丘の緩やかな傾斜を勢いよく駆け下りる。だんだん楽しくなって、アンリは声を立てながら笑っていた。ひとしきり駆け回った後、走り疲れたアンリが息を切らして立ち止まると、リコスが頭を低くして、尻尾を揺らしながらアンリの方を見ている。目がキラキラしている。遊びたい気持ち全開だ。

「ちょっと待って、リコス休憩させて」

 リコスはお構いなしに、アンリにじゃれるように飛びかかってきた。

「わ、待って待って、わ、わっ……!」

 勢いをつけて飛びかかってきたリコスを、アンリは支えきれずに、そのまま草むらの中に後ろ向きに倒れてしまった。

「いてて……」

 思わず口をついてそんな言葉が出てきたが、土は柔らかく、さらに生い茂った草がクッションになってくれたので、それほどの衝撃はなかった。仰向けになったアンリの目の前に、雲ひとつない澄んだ青空が広がっていた。

「きれい……」

 こんな青空を見るのは、いつ以来だろう。アンリは祖父と暮らしていた頃を思い出す。あの頃は、よくこうやって外を駆け回って、寝転がっていた。

 そよそよと爽やかな風がアンリの全身を撫でてゆく。草の青い匂いと、花のかすかに甘い香りがした。

「気持ちいい……」

 アンリは深呼吸した。

 ――できることを、探しなさい。

 深く息を吸った瞬間、アンリは唐突に祖父の言葉を思い出した。

 ――行き先を見失って、途方にくれた時はな、アンリ。右足と左足を一歩ずつ前にだすだけでもいい。何かできる仕事を見つけて、その仕事を無心にしなさい。そうしているうちに、いつかまた道が見えてくる。

(いま、私にできること……)

 ふと、脳裏に今朝会ったばかりの軍医のカイルの顔が浮かんだ。

「大丈夫か?」

 今日の青空を写しこんだような、澄んだ青い瞳が心配そうに覗き込んできて、思考は中断された。

 いつまでもアンリが起き上がらないから、心配して駆けつけてくれたらしい。

「大丈……わっ!」

 答えようとしたアンリの顔をリコスがペロリと舐めた。

「やめて、リコス、あはははは!顔舐めないで」

「こらリコス、やめろ」

 ゼロはリコスをアンリの上から退かせると、片手でひょいとアンリを起こしてくれた。

「すまない、こいつまだ自分が小さいままだと思っているみたいで」

 リコスははしゃいでゼロに飛びかかるが、さすがにゼロはびくともせず受け止めた。

「もう大きいんだから、そろそろ加減を覚えろ」

 言い聞かせるようにゼロがいうけれど、リコスは気にせずゼロの顔を舐める。

「こら、顔を舐めるな」

 生真面目なゼロと無邪気なリコスのやりとりが可愛くて、またアンリは声をあげて笑いだした。

 アンリとリコスがさらに野を駆け回り、ひとしきり遊んで、空が綺麗なグラデーションを写しだした頃。

「アンリ、リコス!そろそろ帰るぞ」

 遠くでゼロに呼ばれ、リコスが駆け出した。アンリも後を追う。

「もう帰るの?」

 ゼロの元まで急いで駆けつけたアンリは、息を切らしながらたずねた。ゼロは一瞬ぽかんとした表情でアンリを見つめた後、突然笑い出した。

「えっ、何?」

「いや、すまない、なんでもない」

 ゼロはそう言いながらも可笑しそうに肩を震わせている。

(こんな笑い方もするんだ……)

 子供みたいな無邪気な笑い方だ。でも、とても素敵な笑顔だった。

 ぼんやりゼロを見ていたアンリの頭に、骨ばった大きな手が乗せられた。

 ゼロはまだどこかおかしそうな顔をしている。

「また、連れてきてやるから」

「うん」

「あれだけ走り回ったら腹も減っただろう。兵舎へ帰ろう」

 二人と一匹は並んで兵舎に向かい歩き始めた。リコスはやっぱりゼロにじゃれつきながら。そしてゼロはアンリのとりとめのない話に優しく誠実な相槌を打ちながら。

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