愛さずにいられない —第二話—


赤のエースで妄想してみた その1 愛さずにいられない —第二話—


 その朝、アンリはひどく緊張していた。医務室のドアの前で何度目かの深呼吸をする。心臓が頭に上がってきたみたいに、鼓動がうるさい。

(大丈夫、断られても何かを無くすわけじゃない。時間をおいて、何度か頼んでみればいい)

 ぎゅっと拳を握りしめると、覚悟を決めて医務室のドアをノックした。

「ううう……どうぞー」

 中から呻くような声がした。そっとドアを開けて中を覗くと、顔色のひどく悪い、しかめ面のカイルに睨まれて、怯んでしまう。

(昨日は気さくな優しい感じの先生だったのに、全然違う!)

「どうしたー、どっか具合悪いのか」

 それでもカイルは頭を押さえながら、気だるそうにアンリの方にやってくる。

 アンリはもう一度ぎゅっと拳を握りしめた。思い切って声を出す。

「あの、カイル先生、私に医務室の手伝いをさせていただけませんか」

 情けなく声が震えてしまった。

「手伝い?」

「ロンドンで、看護学校に通っていました。卒業はまだですけど、実習には行っています」

「看護学校?ふぅん……ちょっとこの点滴俺にやってみてくれ」

「は、はい」

 いきなり試験かと、アンリは緊張しながらも、学校で習った通りの手順でカイルの左腕に点滴の針をさす。

「サンキュー、これが一番二日酔いに効くんだよな」

「ふ、二日酔い?」

 言われてみれば少しお酒の匂いがする。でも点滴を打ち始めると、自分で言った通り、だんだん顔色が良くなってきた。

「看護学校生か。よし、今日試してみるかー」

「はい!」

「結構な激務だからな。今日やってみてちょっとでも無理だと思ったら、やめときな」

「……はい」

 激務と聞いて、アンリはにわかに緊張し始めた。だけど、ここで引き下がるわけにはいかない。

 すっかり酒が抜けたらしいカイルは、ニヤリと笑うと、ドアの方を見た。

「今日で、ちょうどよかった。……そろそろ来るぞ」

「えっ?」

 アンリが聞き返す間も無く、廊下が騒がしくなったかと思うと、怪我をした兵士が次々と医務室に飛び込んできて、あっという間に廊下の先の方まで行列ができてしまった。

「おい、ぼやっとしてんな!」

 カイルから檄が飛ぶ。

「はい!」

 アンリは泥だらけの兵士たちを見て、慌てて水を汲んだ盥を持って、兵士の並ぶ列に向かう。

「なんだお前は!」

 一番最初にアンリが対面した兵士は随分と不遜な人物だった。

「しばらく赤の兵舎でお世話になるアンリ・ウィリアムズです。今日一日カイル先生のお手伝いをさせていただきます。どうか傷を洗う作業だけ、私にさせていただけませんか……大丈夫、傷はちゃんとカイル先生がみてくださいます」

 アンリはにっこり笑って見せた。

 看護師は、今は専門職として認め始められているが、元はメイドだった。ロンドンでも不遜な態度をとる医師も患者もいた。

 だけど患者さんには、とにかく笑顔で。

「ふん。勝手にしろ」

「ありがとうございます」

 兵士の態度には構わず、アンリは傷だけを見て、傷を丁寧に清めていった。

 二人目の兵士は一人目ほど不遜な態度は取らず、傷を清めたアンリにお礼を言ってくれた。偉そうな態度であることには変わりなかったけれど。

(なるほど、赤の兵士にもいろいろな人がいるんだな)

 こちらについてから会った人たちが皆紳士的で優しかったのは、運がよかっただけなのかもしれない、とアンリは思う。彼らの不遜さは、どこかロンドンの特別階級、貴族に似ていた。もちろん、貴族が揃って皆不遜だったわけではない。

 それほど多くの貴族と接したわけではないが、アンリには、階級のやや低い貴族の方が、不遜な態度をとる人物が多い印象があった。

(とにかく、今は目の前の仕事をしよう)

 アンリは傷の洗浄や止血など、看護学校で習った知識を総動員して、自分にできる仕事に没頭した。中には肋骨を折っている重症患者などもいて、アンリは慌てて医務室のベッドに誘導した。

「アンリ!ちょっとこっち手伝ってくれ」

「はい!」

 息をつくまもなく、次々仕事はやってくる。

 結局アンリとカイルが一息つけた頃には、午後2時を回っていた。

「……ふう」

 グラス一杯の水を勢いよく飲み干した後、アンリは思わず大きく息をついた。

「あー、ビール飲みてえ」

 カイルがどっかりとソファに腰を下ろすと、天井に向かって叫ぶように言った。

「気持ちはわかりますけど、まだお昼ですよ、カイル先生」

 アンリは患者がはけると急にだらしなくなったカイルを見て笑った。怒涛の時間の後には、不思議な連帯感が生まれていた。

 どうやらこの先生は、お酒が大好きらしい。朝不機嫌そうに見えたのはやはり二日酔いのせいらしく、今は気さくで優しい顔つきに戻っていた。加えて、さっきまでの治療の様子をみていたアンリには、彼がとても腕の良い医者であることもわかった。

「どうだ」

「えっ?」

「なかなかの激務だろう。これからも続けられそうか?」

「……はい!」

 アンリの返事を聞くと、カイルはくしゃっと笑った。

「よっし、よろしくな!」

「よろしくお願いします!」

 アンリはカイルが差し出した右手を両手で握った。

(……やった!)

「ま、今日みたいなのはせいぜい週1回だ。普段はもう少し暇だから安心しな。今日は何しろ『優しい悪魔』の訓練日だったからな」

「優しい悪魔?」

「まだ会ってないか?赤のジャックのことだ」

「えっ、エドガーのこと?」

 アンリは昨日あった柔らかな声の紳士を思い出す。常にゆったりとした微笑みを浮かべた、優しそうな人だった。

(でも、悪魔なんだ……理由を知りたいような、知りたくないような)

 優しい顔の悪魔の方が、怖い顔の悪魔より、一層怖い気がした。

 アンリの内心の葛藤を知ってか知らずか、カイルのタレ目が細められた。

「ま、そのうちわかんだろ」

 その日の午後は、カイルの言った通り他に患者もなく、アンリはこれからの仕事の説明を受けたり、備品のラベル貼りをしたりして過ごした。今まで薬品を扱うのはカイル一人だったので必要なかったそうだが、これからアンリも扱うことになるため、一つ一つの薬瓶にラベルを貼っていく作業があった。アンリが最後のラベルを貼り終えると、カイルが上機嫌で立ち上がった。

「よっし、じゃ、いくぞ」

(どこに連れていかれるかと思ったら)

 カイルがアンリを連れてきたのは、夕食の時間を終え、綺麗に片付けられたキッチンだった。

「そのへんに座ってちょっと待ってろ」

 カイルは言うと、大きな冷蔵庫をごそごそ漁り始めた。チーズやハム、イチゴなどをどんどん取り出していく。テーブルの上に蜂蜜をかけたチーズや生ハムが並べられて、最後にグラスにぴったりと芸術的に注がれた白ビールが二杯用意された。

「ほれ、乾杯、アンリ。今日はお前の歓迎会だ」

 カイルがグラスを掲げる。アンリもそれに倣って、自分のグラスをカイルのグラスにそっと合わせた。

「乾杯!ありがとうございます、カイル先生」

「カイルでいいし、敬語もいらねー。これからよろしくな、相棒」

「……よろしく、カイル!」

 看護師を相棒だと言ってくれる医師は少ない。職場環境はなかなか良さそうだ。ビールも美味しい。

 とりあえず、目先の仕事が見つかった。先のことはわからないままだけど、できることが見つかったのはとても嬉しかった。ケアリの調査がうまくいってなかったとしても、その時は、何か他の手段を考えよう。きっとなんとかなる。アンリはアルコールのせいか、久しぶりにそんな楽天的な希望を感じていた。

「おや、こんなところにいましたよ」

 アンリがグラスを半分ぐらい空けた頃、柔らかな声がして、エドガーとゼロがキッチンにやってきた。ゼロがアンリを見てホッとしたように微笑む。

「ちょうどいいや、お前らも飲んで行けよ。こいつの歓迎会だ」

「いいですね、いただきましょう」

 エドガーは優雅にアンリの隣に腰掛けた。

 ゼロが冷蔵庫まで行って、エドガーにビールを、自分にはジュースを持ってくると、エドガーとは逆側のアンリの隣に座った。

 エドガーはゆったりとした仕草で自分のグラスにビールを注ぎながら、可笑しそうに笑った。

「ゼロが、仔犬ちゃんが迷子になっているんじゃないかとオロオロしていたので、一緒に探していたんですよ」

「エドガー!妙な言い方するな。……この時間に部屋にいないから、少し心配しただけだ。ここにいたのならよかった」

 ゼロがそう言いながらこちらを見たので、アンリはエドガーの言う「仔犬ちゃん」が自分のことだとわかった。

 昨日の散歩の後でアンリはゼロと相談し、昼間の警備は外してもらうことにした。アンリは科学の国からの追っ手は黒の兵舎にいるのだから、警備はもういらないと主張したが、ゼロは夜間の警備は外さないことと、二階の一般兵士の部屋があるフロアには一人で行かないこと、兵舎の外へ行くときは、必ず幹部の誰かと一緒に出ること、と言う三つの条件は譲らなかった。二つ目の条件の理由がアンリにはよくわからなかったが、部外者がウロウロするのは望ましくないと言うことだろう、と解釈した。

「ごめんなさい、私警備の人に言わずに……」

 もう夜間の警備の兵士が部屋の前に待機しているはずなのに、不注意だった。それでも、アンリが見上げた青い目は優しい。

「謝らなくていい。お前を監視しているわけじゃないんだから」

 ぽん、とアンリの頭にゼロの手が乗せられた。

(今度から絶対、遅くなるときは連絡しよう……!)

 ゼロも、ゼロの隊の兵士も、もちろん任務としてアンリを警護してくれているのだが、アンリが少しでも快適に安心して過ごせるようにと心を砕いてくれている。そんな兵士達に余計な心配をかけてはいけない。

「アンリ、今日はうちの隊員がお世話になりました。どうもありがとう。……素敵な看護師さんに」

 エドガーがグラスを掲げ、ゼロもそれに習ったので、アンリはそっとそのグラスに自分のグラスを合わせた。

「毎度のことながら、カイルにもお世話をかけましたね」

 エドガーは向かいに座っているカイルにもグラスを掲げて見せる。

「訓練に怪我はつきもんだろ。でも、エドガー、肋骨はやりすぎだ」

「あれは俺がやったんじゃありませんよ。新人同士ちょっと熱が入りすぎたみたいで。でも、確かに俺の監督不行き届きではあります。以後気をつけますね」

 エドガーはあまり悪びれた様子も見せずにそう言うと、グラスに口をつけた。

「お前が看護師だったなんて、知らなかった」

 ゼロが微笑んだ。

「まだ看護学生で、卒業はしてないの」

「そいつはなかなか有能だぞ。ジャックの癖のある隊員たちも難なくあしらってた」

「あしらうとか、そんな人聞きの悪い……」

「上等上等」

 カイルがグラスを掲げながら、やけに嬉しそうに笑う。

「そうか、……嫌な目にあったんじゃないか?」

 ゼロが心配そうに言った。ゼロには、兵士たちがアンリにどのような態度をとったか、アンリが本当はどんな気持ちになったか、わかっているようだった。

「ちょっと偉そうな患者さんがいただけなの」

 アンリは微笑んでみせた。

「……あんまり、無理はするなよ。困ったことがあったら言ってくれ」

「ゼロは過保護ですね。アンリもリコスみたいに甘えん坊に育ってしまいますよ」

「エドガー、私はもうちゃんと育ってるから!」

「おっと、失礼……ふふっ、ツッコミどころはそこですか」

 エドガーは全然悪びれない様子で、コロコロと笑う。

「ゼロ、心配いらねーって。そいつ見た目よりずっとたくましいぞ」

 カイルがフォローともつかないことを言う。

 カイルの目に自分は一体どんな風に映っているんだろうか。アンリが疑問に感じていると、ゼロが真顔で答えた。

「ああ……それは、俺もそんな気がする」

「えっ?ゼロまで、なんで?」

 思わずアンリは抗議の声を上げてしまった。エドガー、カイル、ゼロが三人揃って笑い出す。

「まーまー、頼りになる相棒ができて俺は嬉しいぜ」

 三人に笑われてむくれたアンリをなだめるように、カイルが空いたグラスにビールを注いでくれた。

「良かったですねえ、カイル。優秀な看護師さんが来てくれて」

 エドガーが手放しで褒めるので、アンリはだんだん恥ずかしくなってきた。

「ごめんなさい……私は優秀ではないの。どちらかと言うと落ちこぼれなの。同期の看護学生の中で一番よく叱られていたの」

 先生は、それはそれはもう厳しかった。特にアメリア先生には、アンリはしょっちゅう叱り飛ばされていた。アメリア先生が怒ってアンリのフルネームを呼ぶ声を思い出すと、今でも心臓がきゅっと縮むような心地がする。今思えば、それでもアメリア先生は、根気よく指導してくれたものだ。

「へえ、なるほどね。でもアンリ、一番叱られる学生が落ちこぼれとは限りませんよ」

 いたたまれない気持ちで両頬を抑え、うつむいていたアンリはエドガーの言葉に顔を上げた。

「見どころのある弟子にはついつい高い障害を用意して、厳しく指導してしまうものなんです、乗り超えてくれることを期待して。ねえ、ゼロ」

 エドガーは言いながら、なぜがゼロに読めない微笑みを向け、同意を求める。

「俺に言われても知らない」

 ゼロはエドガーの方を見ずにジュースを飲む。どこか拗ねたような、不機嫌そうな表情が珍しくて、アンリは隣にいるゼロの横顔をまじまじと見てしまった。

 アンリの視線に気づいたゼロが、不本意そうに、ぼそりと言った。

「エドガーは俺の剣の師匠なんだ」

「えっ、そうだったの」

「彼が14の時に寄宿学校に編入してきた時からの付き合いでね。たまたま俺が彼の面倒をみることになったんです」

 あまり説明する気のなさそうなゼロの後をエドガーの優しい声が続けた。

「じゃあ、エドガーもゼロみたいにすごく強いの?」

「ふふ、まあ、それなりに」

 コロコロと鈴がなるような笑いとともに、エドガーが答えた。

「……よく言う」

 隣でゼロがボソッと呟く。いつも優しく微笑んでいる印象しかなかったゼロの不機嫌そうな顔が、アンリには新鮮だった。拗ねる他に自分の気持ちを表現する方法が思いつかない少年のようで、なんだか可愛い。

「あの頃のゼロは可愛かったんですよ。鳥の雛みたいに俺の後をついて……」

「エドガー、その話はいいだろう」

「でも仔犬ちゃんは聞きたそうですよ」

 エドガーの言葉にゼロはアンリの顔をみる。

 アンリはゼロに申し訳ないと思いながらも、好奇心に抗えなかった。

「……聞きたい」

 隣のゼロの青い目を見上げ、ワクワクしながら小さな声で主張すると、ゼロは絶句した後、ふい、と顔を背けた。

「ゼロ、怒っちゃったの?ごめんなさい」

 アンリが慌てて謝ると、ゼロは視線をアンリに戻した。さっきまでの拗ねたような表情ではなく、いつもの、穏やかな微笑に戻っていた。ぽん、と手がアンリの頭に置かれ、グリグリと撫でられた。リコスにするみたいに。

「別に、怒ってない。……困ったやつだな、俺の話なんか聞いてどうするんだ」

 アンリはゼロに言われて、改めて自分がどうしてそんなにエドガーの話を聞きたいのか考えた。好奇心?ただ、知りたい。ゼロのことを、もっと知りたい。

「なるほど、なるほど。 ……アンリ、今度ゼロがいないときに、ゆっくりお話してあげますよ」

「ほんと?」

「やめろ」

「アンリ、俺は寄宿学校には行ってないから、入隊してからのゼロの話を聞かせてやる」

「それも楽しそう!」

「本当やめろ、なんなんだお前ら」

 本気で嫌そうな顔をするゼロに、カイルまで悪ノリしてみんなで笑った。

「カイル、寝ちゃってる」

 グラスを握ったまま、カイルは机に頭を乗せ、幸せそうな顔で眠っていた。

「あらら、静かだと思ったら。そろそろお開きにしましょうか」

 テーブルを片付け、グラスを洗い終わってもカイルは起きない。

「俺が連れて帰る」

 ゼロがひょい、とカイルの肩の下に体を入れ込んだ。

「手伝おうか?」

「いつものことだから大丈夫だ。こいつは弱いのに酒好きで、いつも飲みすぎて潰れるんだ」

 ゼロがしょうのないやつ、と言う顔で笑って見せる。

 エドガーがアンリを部屋まで送ってくれることになった。

 アンリとエドガーが廊下に出ると、あたりは静まり返っていた。もう消灯時間を過ぎている。

「エドガー」

「なんです?」

「なんで私が仔犬なの?」

 アンリは今日度々気になった疑問をエドガーにぶつけてみる。

 エドガーは答えるより先に笑い出した。

「ああ、あは……ふふふ、ゼロがね、っふふ、今朝ランスロット様にあなたの様子を尋ねられた時に、『アンリは仔犬のように元気です』って真顔で答えたんですよ」

 エドガーはその時の様子を思い出したのか、また可笑しそうにコロコロと笑い出す。

「ランスロット様が『仔犬?』って聞き返したら、真顔のまま頷いて、『はい、リコスが二匹いるみたいでした』って、ふ、ふふふふ」

「リコスが二匹……」

 アンリはゼロが言ったという言葉に衝撃を受けた。私はそんなに犬みたいなことしたのかしら。

「でも、今日あなたの様子を見て、そう言ったゼロの気持ちがちょっとわかりました」

「えっ、どういうこと?」

「ふふふ」

 アンリは聞こうとしたが、エドガーは楽しそうに笑うだけで、答える気は無いらしい。そうこうしているうちに、部屋についてしまった。

「さ、到着です。おやすみなさい、良い夢を……今日はご一緒できてとても楽しかったです。またぜひお話しましょう。よければ昔話もお聞かせしますよ」

 エドガーがウィンクする。エドガーのいう昔話、の意味がわかって、アンリも思わず微笑んだ。

「エドガー、送ってくれてありがとう。また是非お話を聞かせて。おやすみなさい」

 クレイドルに来て4日目、アンリの長い長い1日はこうして幕を閉じた。

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