赤のエースで妄想してみた その1 愛さずにいられない —第八話—
朝早く、みんなが揃って朝食に向かう時間。
アンリは食堂への廊下を駆け足で急いでいた。
「こらアンリ、廊下を走るんじゃない!」
ヨナの叱る声が背後から飛んでくる。
「おはようございます、ごめんなさい、ヨナさん、急がなきゃいけないの!」
食堂の入り口には、困惑する兵士たちの大行列ができていた。
「おはようございます。ごめんなさい。ちょっと通してくださいますか」
アンリは並ぶ兵士たちに詫びながら彼らを押し除け、食堂の入り口になんとかたどり着いた。そこには、ワインのマグナムボトルの空き瓶を恋人のように抱きかかえ、幸せそうに熟睡するカイルが横たわっていた。カイルが食堂の入り口をしっかり塞いでしまっているのだが、仮にも幹部をまたぐわけにもいかず、他の兵士たちは途方にくれていたのだった。
「カイル、カイル、起きて」
アンリはカイルを一通り揺すったり叩いたりしてみたが、やはり彼は目をさまさなかった。
(もう、起きなかったカイルが悪いんだからね……)
アンリは心の中で謝りながら、ポケットから茶色い小瓶を取り出した。
初めて試す方法だけど、よほどのことがなければ、これで起きるはず。
(カイルには相当ダメージを与えるけど……)
アンリは覚悟を決めると、幸せそうなカイルの鼻先で蓋を開けた。
「うがっ……!」
カイルはびくん、と体を震わせると、動物の断末魔のような声をあげ派手に咳き込んだ。
並んでいた兵士達からどよめきと拍手喝采が起きる。
カイルが目を覚ましたのを確認すると、アンリはすぐに瓶の蓋を閉めた。
食事前に嗅ぎたいような匂いではないはずだ。
「あ、アンリ、お前っ何しやがる!」
カイルはボロボロと涙と鼻水を流しながらアンリを睨む。
「これが嫌なら、今度からちゃんと自分の部屋で休んで。ほら、起きて。とにかく医務室に移動するのよ。……ごめんなさい、みなさん。おさわがせしました」
アンリは他の兵士たちに愛想笑いで謝りながらグイグイとカイルの背中を押して移動した。
「くそー。鼻洗浄鼻洗浄」
カイルはハンカチを口と鼻に当て、猫背のままブツブツ言いながら、医務室に向かった。
アンリはホッと息をついた。
「驚いた、あの状態のカイルを起こしたのは、君が初めてだよ。君は見かけよりずっと有能なんだね」
廊下で一部始終を見ていたらしいヨナが感心したように言った。
アンリがどう反応したものか悩んでいると、ヨナと一緒にいたゼロが、ヨナは褒めているつもりだと教えてくれた。
ヨナは言葉の選び方がちょっと独特らしい。
「さっきどうやってカイルを起こしたのさ」
「あ、ちょっとだけ匂いの強い精油をブレンドしてみたの」
早速オリヴァーの装置を活用させてもらったのだ。
アンリがポケットから茶色い小瓶を取り出して見せると、ヨナはひょい、とそれをつまみ上げた。
「へえ、どれどれ」
「あ、直接かがない方が……」
アンリは慌てて止めたが遅く、ヨナすでに蓋を開けていた。
「うっ……」
まともに瓶の中身の匂いを嗅いでしまったヨナは、何やらうめくと、がくりと膝をついてしまった。
「おい、ヨナ様に膝をつかせたぞ……!」
ヨナ様親衛隊のものと思われるささやき声が、さざ波のように広がっていく。
気の毒なのがたまたますぐ隣に居合わせたゼロで、ヨナと一緒に瓶の中身を吸ってしまい、ひどく咳き込んでいた。
「お前、すごいもの作るな」
「ご、ごめんなさい」
「アンリ、赤のクィーンに膝をつかせるなんてなかなかやるじゃないか。覚えておきなよ」
よろよろと立ち上がったヨナは、アンリを指差し、白いハンカチで口元を塞ぎながら、涙ぐんだ目で睨みつけた。
「ええっ、そんなつもりなかったのに」
「なるほど。アンリ、是非その瓶の中身、分けていただけませんか?色々使い道がありそうだ」
少し離れたところで、しっかりハンカチを口と鼻に当てたエドガーが、いつになく目を輝かせていた。
その日の午前中にエドガーの隊の訓練があったので、医務室は昼過ぎまで大忙しだった。怒涛の時間が過ぎて、カイルとアンリがやっと一息つけた頃。
「アンリ、助けてくれ」
憔悴した様子のゼロが医務室にやってきた。
「どうしたの、ゼロ」
こんなゼロを見るのは初めてだ。アンリとカイルは思わず顔を見合わせた。
「どうした、やっぱり鼻洗浄するか?」
「いや、俺の鼻は大丈夫だ。リコスが……」
ゼロはそこまでいうと、どう説明したものか困ったような顔をした。
「……?アンリ、ここは大丈夫だから行ってやれ。俺の手が必要ならまた呼びに来い」
カイルに言われ、アンリはゼロと一緒に彼の部屋に向かった。
「ダメだ、リコス。まだ動くな。待てだ。よーし、いい子だ」
ゼロの部屋に入ると、リコスは大人しく「待て」の姿勢で伏せていた。帰ってきたゼロを見て立ち上がりかけたのを、ゼロが慌てて制する。
尻尾をパタパタ振っていて、元気そうだ。リコスに何かあったのかと心配していたアンリは、ホッとした。
「リコスの肩のあたりに……」
ゼロはなぜかリコスと距離を取りながらリコスの肩のあたりを指さした。
見ると、リコスの肩のあたりに小さな丸いこぶのようなものができていた。顔を近づけてよく見ると、そのこぶのような丸いものが小さく膨らんだり縮んだりしているのがわかった。毛色がよく似ているので最初わからなかったが、どうやら小さな別の生き物がリコスの肩に乗ってるようだ。アンリはそっと掌ですくうようにして、その小さなこぶを取り上げた。
「……ハムスター?」
それは丸くなって眠るハムスターだった。
「ふふ、可愛い。どこの子?」
アンリが振り返って、ゼロに掌にのせたハムスターを見せようとすると、ゼロがすっと一歩退いた。
「……ゼロ、もしかしてハムスター嫌い?」
「……小さい生き物は苦手だ」
ゼロが気まずそうに斜め下を見ながら答える。
アンリは意外に思いながら、ふといつかのマリクの言葉を思い出した。
――隊長は、子供を怖がらせたくないんですよ。
「もしかして、怖がらせたくないから?」
「怖がらせたり、傷つけたりしそうで、……どうすればいいのかわからないんだ」
アンリは急に目の前の大きな体を抱きしめたくなった。小さな子供を抱きしめるように。
この気持ちは、なんだろう。
「リコスは、平気でしょ?」
「リコスは……なんとか慣れた」
「じゃ、ハムスターにも慣れよう」
アンリがもう一歩ゼロの方に踏み出すと、ゼロはまた一歩退く。
アンリは自分がいじめっ子になったみたいで、苦笑した。
「……すまない」
「ね、ゼロ、手をだして。そう。掌を上にして」
アンリはゼロが躊躇いながら差し出した右手を少し丸めるように、手を添えた。
「大丈夫だよ。ゼロの手は優しいから。私も、リコスも、よく知ってる」
ゼロは、優しいから。
アンリはゼロの手に自分の手を添えたまま、そっと眠るハムスターを載せた。
ゼロは一瞬だけ不思議そうな顔をして、そして顔を綻ばせた。子供みたいな笑顔だ。
「……温かいな」
ゼロは優しい目で自分の手のひらの上の小さな命を見つめる。とても大切そうに。ずっと見ていたくなる笑顔だった。
「あ」
ゼロの笑顔に見惚れていたアンリは、ゼロが急に驚いた顔をしたので、慌てて手のひらのハムスターに視線を戻した。
すやすやと眠っていたはずのハムスターが、いつの間にか起き上がって鼻をヒクヒクさせている。と、突然ゼロの腕を勢いよく駆け上り始めた。不測の事態に、体を硬直させる腕の主にお構いなく、ハムスターはゼロの頭の天辺までのぼると、満足げにそこに落ち着いた。
「アンリ、どうしよう」
いつも落ち着いているゼロが、頭にハムスターを載せ、途方にくれた顔でアンリを見る。
(写真に残しておきたい可愛さ……!)
「アンリ。笑ってないで助けてくれ」
「そのままでもいいと思うけど」
「落ちたら大変じゃないか」
ゼロは真剣な顔で訴える。
「じゃ、捕まえるから、もうちょっとだけしゃがんでくれる?」
「ああ、頼む」
ゼロが頭上のハムスターに最大限に気を使いながら、そっとアンリに頭を寄せるようにした。アンリの肩の辺りまで下げられた頭から、ハムスターを捕まえる。初めて触るゼロの髪は、思ったより柔らかかった。
「捕まえられたか?」
「うん、もう大丈夫」
アンリはハムスターを捕まえているのとは別の手で、ゼロの頭を撫でた。
「なんだ?」
「苦手なもの克服して偉かったから」
アンリの肩のあたりで、ゼロが小さく笑う気配がした。
「お前のおかげだ。ありがとう」
ゼロは頭を上げると、微笑んだ。
「この子、どこの子かわかる?」
「いや……、でも誰かが飼育しているなら、執務室にある飼育届を見ればわかる。行ってみよう」
「わっ!」
部屋をでた二人は立ち尽くした。
廊下のあちこちで、兵士たちが四つん這いになっている。
「どうしたんですか?」
「パイン様が……」
手前にいた兵士が、答えようとして顔をあげ、アンリの右手を見てぽかん、と口を開けた。
「おい、パイン様が見つかったぞ!」
這いつくばっていた兵士たちがザワザワと立ち上がり、スッと廊下の両脇に移動して道を開ける。その真ん中から憔悴し切ったヨナが現れた。
「パイン……!」
「あ、もしかしてこのハムスターはヨナさんの?」
「そうだよ!俺のパインだ。ありがとう、アンリ。君が見つけてくれたの」
ヨナは今にも泣き出しそうな顔で両手でハムスターを受け取った。
「もう、いけない子だね!」
ヨナはパインに怒りながら頬擦りする。
「ゼロがね、リコスの上で眠ってたのを見つけたの」
「ありがとう」
ヨナはゼロに深々と頭を下げた。
「いや……ハムスターっていうのは可愛いものだな」
ゼロの言葉に、ヨナの顔がパッと明るくなる。
「そうだろう?たまになら撫でさせてあげてもいいよ」
ヨナは振り返ると、探していた兵士たちにも丁寧に頭を下げた。
「みんなも、ありがとう」
兵士たちも皆嬉しそうな笑顔で引き上げていく。
アンリとゼロも、顔を見合わせて微笑みあった。
ハムスター騒動のあった日の夜。アンリは夕食を終えた後で、医務室に本を忘れたことに気づいた。
「あー、しまったなあ」
少し迷ったが、まだ時間も早い。仕方なく医務室にもう一度戻ることにした。
夕方アンリが医務室を後にした時は、カイルは調べ物をしていた。医学雑誌に興味深い記事が掲載されていたらしく、それに刺激を受け、目をキラキラさせて貪るように関連する本を読んでいた。
カイルは色々残念なところもあるが、ああいうところは本当に尊敬する。医者になるために生まれてきたような人だとアンリは思っていた。
医務室のドアから明かりが漏れていて、カイルがまだいることがわかった。
(良かった、鍵がまだ開いていて)
アンリはカイルが調べ物をしているだけだろうと思い、ノックもせずにドアを開けた。
何か話していた様子のマリクとカイルが驚いて振り返った。二人揃って、しまった、という顔をする。
「アンリ、早く閉めろ」
カイルの鋭い声が飛んできた。
「ごめんなさい」
アンリは慌ててドアを閉めた。
マリクの裸の上半身はあざだらけで、カイルが手当てしていたようだった。
「……マリク、それどうしたの」
「訓練で、ちょっと。お恥ずかしいところをお見せしてしまってすみません」
マリクはいつものように如才なく微笑む。
カイルは手当てを続けながら、アンリを見ずに言った。
「アンリ、俺たちに守秘義務があることはわかっているな?」
「……はい」
マリクが今ここであざだらけで手当てを受けていることを誰にもいうな、という意味だ。
アンリはカイルの隣に行くと、手当てを手伝い始めた。
間近で見ると、マリクのあざは暴力によるものに見えた。ロンドンにいた時、喧嘩で病院に運び込まれた男の手当てを手伝ったことがあったが、怪我の状態はよく似ていた。
マリクは体はあざだらけなのに、顔は無傷だった。
(本当に、訓練なのかな)
エドガーの隊以外で、訓練でこんな状態になった兵士は見たことがない。
アンリはいつの間にか、マリクの顔を窺うようにじっと見ていたらしい。
「アンリさん、そんなに見つめられると照れちゃいます」
マリクが戯けて言った。
「何言ってるの、もう」
アンリはマリクに怪我の原因をもう一度尋ねたかったが、聞けなくなってしまった。
「ちょっと熱が出るかもな。熱さまし持ってけ」
カイルは錠剤を渡してから、マリクを帰した。
マリクが帰った後も、アンリは部屋には戻らなかった。カイルはすぐに机に向かったが、アンリが説明を求めてじっとカイルを見ていることに気づくと、ため息をついて、アンリに向き直った。
「たまにある兵士同士のいざこざだ。心配いらない」
「でも……本当に大丈夫なの?」
「マリクは大丈夫だ。……絶対誰にもいうなよ。特にゼロには」
「ゼロ?どうして?」
「あー、……兵士同士の私闘は禁止されているからな。ゼロが知ったら、上官としてマリクに処罰を与えざるを得なくなる」
「……わかった」
アンリはそう答えざるを得なかった。
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