愛さずにいられない —第九話—


赤のエースで妄想してみた その1 愛さずにいられない —第九話—


「えっ、ぎっくり腰?」

「ああ、それで今日の分の往診を代わりに引き受けてくれって頼まれた。ついでにちょっと様子も見てくるわ」

「わかった。お父様お大事にね。何かお手伝いできることがあったら言って」

「おー、サンキュー。じゃ、医務室の方任せたぞ」

「うん、わかった」

 カイルはひらひらと手を振ると、カバンを担ぎ、医務室を出て行った。アンリは簡単に医務室の掃除をすませると、他にすることもなくなったので、薬草学の本を開いた。でも中身はあまり頭に入ってこない。訓練場の方を見ると、今日はレイフの隊が訓練を行なっているようだった。

(まずけが人は出なさそうだな、よかった)

 看護師のアンリにできる手当はやはり限られているので、カイルの留守中に大きなけがや病人が出ると、ちょっと困る。

 街でトラブルがあって兵士達が派遣されたり、あるいはエドガーの隊の訓練がある時以外は、医務室は暇なことが多い。

(カイルの往診をお手伝いした方がよかったのかな)

 多分このまま、午後になってカイルが帰ってくるまで暇だろう。頬杖をつき、うららかな窓の外を眺めながらそう思っていたのだが。

 にわかに廊下のあたりが騒がしくなってきた。幹部以外の兵士達は分刻みでスケジュールが決められている。休憩時間だろうか、とアンリが思うまもなく、兵士が5、6人医務室に飛び込んできた。

「アンリ、紙で指を切ったんだ、手当を頼めるか」

「おい、順番だ」

「いいな、一人2分だぞ。休憩時間は限られているんだ」

 口々に言い募る兵士に、アンリは慌てて向き合った。

 一人目は小さな切り傷だった。

(こんな小さな傷で医務室にくるのは珍しいな)

 少し疑問には思ったが、顔には出さず手際よく手当していく。

 消毒して絆創膏を貼り終えると、なぜが兵士がアンリの両手を握った。

「あの……」

「おい、もう2分たったぞ、代われ」

 なにか言いかけた一人目の兵士を押しのけて、二人目の兵士がアンリの前の椅子に座る。

「えーと、怪我はどこですか?」

「怪我はしてません、あなたに話したいことがあって」

「え?」

 アンリが兵士の言った言葉の意味を捉えかねて戸惑っていると、二人目の兵士もまたアンリの手を握りしめた。

「あの、俺っ……」

 兵士が思いつめた様子で口を開いたのとほぼ同時に、突然医務室のドアが勢いよく開かれた。

「げっ!」

 入ってきた人物を見て、兵士達がちょっと品のない悲鳴のような声を上げる。

 硬い表情で医務室のドアを開けたゼロは、そのまま躊躇なくすたすたと入ってくると、どっかりとカイルの席に座った。その表情には、柔らかさのかけらもない。ゼロは笑うととても優しい顔になるが、こんな風に笑顔を消してしまうと、周りを威圧し、近寄りがたい印象を与える。

「気にせず続けてくれ」

 ゼロがその表情を変えないまま、アンリの手を握る兵士を眺めながら言うと、兵士は慌ててアンリの手を離した。すっかり萎縮しておとなしくなった兵士達は、お互いに顔を見合わせると、

「失礼いたしました!」

と言い残して、逃げるように医務室を出て行った。

「なんだったんだろう」

 アンリは慌ただしく出て行く兵士達を見送りながら、疑問が声に出てしまった。

「間一髪だったな」

 ゼロがそっと息を吐く気配がしたので、アンリはゼロの方を振り向いた。

「ゼロはどうしたの?怪我?」

「いや……、今日はここで書類仕事をしてもいいか?リコスが遊んで欲しがって、部屋ではあまり集中できないんだ」

 思いがけず可愛らしい理由に、笑ってしまった。部屋に入ってきた時とは違い、ゼロの表情もアンリが見慣れた、優しいものになっていた。

「あは、リコスは本当に甘えん坊だね」

「本当に、困ったやつだ」

 ゼロは表情を和らげてそう言うと、机に向きなおり、持ってきた書類を読み始めた。

(ゼロが机に向かっているところなんて、初めて見た)

 幹部なのだから書類仕事もたくさんあるはずだけど、なんとなく、いつも体を動かしている印象があった。カイルは、特に机に向かっている時は少し猫背だけど、ゼロは机に向かっていても姿勢がいい。訓練された軍人だからだろうか。そういえば、お祖父さまも机に向かっていても姿勢が良かった。アンリがゼロの真剣な横顔を見るともなしに眺めながら、とりとめもなくそんなことを考えていると、ゼロが前を向いたまま口を開いた。

「……リコスは」

 低く、静かだけど聞き取りやすい声だ。

「じゃれたり吠えたりするわけじゃないけれど、俺が仕事をしている間、ずっと尻尾を振りながら俺を見ている。多分、俺がペンを置いたら、遊んでもらえると思って待ってるんだ」

 健気にゼロの背中を見つめるリコスを想像して、アンリは頰を緩めた。ゼロはペンを置いて、アンリの方に向き直ると、続けた。

「今のお前と似ている」

「えっ!」

「お前も遊んで欲しいのか?」

 ゼロはからかうように言うと微笑んで、おいで、と迎え入れるように両腕を広げて見せた。ちょうどリコスにするのと同じように。アンリは自分がじっとゼロを見つめていたことに気づき、一気に自分の体温が上がるのを感じた。

「ち、違うよ。ゼロがそこにいるのが珍しいからつい見ちゃっただけだよ」

「困ったやつだな」

 ゼロは可笑しそうに笑いながら呟くと、それ以上追求することなくまた机に向かったので、アンリも開いていた薬草学の本に取り組むことにした。隠すように抑えた頬は、やっぱりとても熱かった。

 その後、医務室を兵士達が何度か訪れたが、皆入室せず、入り口で引き返して行った。何人めかの兵士達が、やはり入り口で引き返したあとで、すぐまた医務室の扉がノックされた。

「失礼します。あ、隊長、やっぱりここにいらしたんですね。こんにちは、アンリさん、お邪魔します」

 ゼロの部下のマリクだった。

「すまない、俺を探していたのか?よくここにいるのがわかったな」

「ちょうど意気消沈して医務室を後にする兵士を見かけたもので、もしかしたらと思って。来月のシフト表です、サインをお願いします」

 ゼロはマリクから受け取った書類に丁寧に目を通す。

「アレンの足はもう大丈夫なのか?」

「本人にもカイル先生にも確認しましたが、もう馬にも乗れるそうです」

「そうか、良かった」

 ゼロは頬を緩めた。しかし、ふと書類から目を上げマリクを見ると、再び眉をしかめた。

「何笑ってるんだ」

「すみません、今朝のエドガー様の伝令を思い出して、つい」

 ゼロは不本意そうな顔で書類に手早くサインすると、その書類でばさりとマリクの頭を叩くようにした。

「いつまで笑ってるんだ」

「申し訳ありません」

 マリクは肩をすくめ、謝りながらも楽しそうな微笑みを崩さない。

 今日は、ゼロの珍しい顔を見る日だな、とアンリは思う。上司としてのゼロ。

 ゼロは他の兵士と距離を置いているようだが、マリクはどうやらゼロが作る距離をひょいと飛び越えてしまう能力があるらしい。不思議な人懐こさの持ち主で、アンリもマリクとはすぐに仲良くなってしまった。マリクがゼロを慕っているのはよくわかるし、ゼロがマリクを信頼しているのも伝わってきて、なんだか微笑ましい。

 アンリは二人に誘われ、一緒に食堂に昼食を取りに行くことにした。

 午後になって、アンリは再び薬草学の本に取り組んでいた。

 自分の知らないものをノートに書き出しながら読み進めていくと、アンリの知らない、香りの強い薬草が出てきた。

(これはカイルの目覚ましに使えるかも)

 ちょっとイタズラを企むような気持ちになって、自然と顔がにやけてしまう。

 解説は残念ながら写真はなく、モノクロのスケッチだけだ。

(実物があったらもっとわかりやすいのになあ)

 朝ノルマとして決めたページまで読み終えると、アンリは大きく伸びをした。

 あくびで潤んだ目を開くと、目の前には頬杖をつきながら、じっとこちらを眺めているゼロがいた。

 アンリは間抜け顔のまま、ピタリと動作を止めてしまった。

 じわじわと頬が熱くなる。

「……いつから見てたの?」

「さっきお前がにやけてたあたりから。にやけたり顔しかめたり面白かったからしばらく眺めてた」

「リコスのこと言えないよ」

「そうだな。俺も、お前に構って欲しかったのかもしれない」

 ゼロはクスクス笑いながら、さらりと言ってのけた。

「薬草学?看護師ってこんなことも勉強するのか?」

 絶句するアンリを気にせず、ゼロはアンリがさっきまで読んでいた本の表紙を覗き込んだ。

「うん……仕事の役にも立ちそうだけど、もともと興味があって」

「科学の国とクレイドルの薬草は違うのか?」

「同じものもあるけど、私がよく知らないのもある。実物が見れたらもっといいんだけどなあ」

「そうか」

 ゼロは立ち上がると、アンリの頭にいつものようにぽん、と手を乗せた。

「一休みするか?紅茶を入れてやる」

「あっ、お湯は私が沸かす!」

 アンリは戸棚の引き出しにストックされている魔法石を取り出した。淡く光るその石を、スタンドの下に置かれたランプにそっと置く。お湯を沸かすための青い光をイメージしながらそっとなでると、ふわりと青い湯気のような煙が石の上方に広がった。

(うまくできた……)

 アンリが満足してゼロを振り返ると、ゼロがアンリの頭を撫でた。

「よしよし」

「……もしかして今、またリコスに似てるって思った?」

「俺の投げた棒を拾ってきた時のリコスに似てた」

 むくれるアンリを見て、ゼロは可笑しそうに笑いだした。

「アンリ、機嫌なおしてくれ。カイルが帰ってきたら、一緒にリコスの散歩に行こうか」

「行く!」

 散歩と聞いて顔を輝かせたアンリに、ゼロは再び込み上げてきた笑いを噛み殺した。

 お湯が沸いて、ゼロがカップを温め始めた時、エドガーが医務室にやってきた。

「ゼロ、俺の分もお願いしますよ」

 エドガーはゼロの返事を待たず、優雅な仕草で診察用の椅子に腰掛けた。

「アンリ、初めてのお留守番はどうですか?何か困ったことはありませんでしたか?」

「ありがとう、大丈夫よ。午前中はちょっとお客さんが多かった気がしたけど」

「へえ、お客さん?」

 エドガーの目が少し細められる。

「うん……怪我じゃないらしいんだけど、でも結局すぐ帰っちゃったからよくわからないの」

「なるほど。ゼロが威嚇したのかな?」

「俺はそこで書類仕事をしていただけだ」

 アンリは二人の会話を疑問に思いながらも、ゼロの淹れてくれた紅茶に口をつけた。柔らかな味わいとともに、甘い香りが立ち上る。アンリは満ち足りた気持ちになって、ほぅっと息をついた。

「いいため息ですね」

「うん、美味しい。ゼロお茶淹れるの上手ね」

「そうか?……エドガーにいつも淹れさせられるからな」

「へえ、ゼロにそんな特技があったなんて知らなかったよ」

 開けたままだったドアから、今度はヨナが入ってきた。

「俺も飲んでみてあげてもいいよ」

 ヨナはソファに腰を下ろすと、長い足を組んだ。

 ゼロは無言のまま新しいカップを用意した。

「どうしたの、ヨナさん」

「カイルが不在だっていうから心配になって様子を見にきたんじゃないか。何も問題はなかった?」

 ヨナは高飛車な口調のわりには本当に心配そうな顔をしていた。

「ありがとうございます。今日は怪我人もいなかったし、大丈夫です」

「俺が心配しているのはそういうことじゃないんだけどね……まあ、何も問題ないなら良かったよ」

 ヨナはゼロの淹れた紅茶を一口飲んで、目を見開いた。

「へえ、悪くないね」

 これがヨナの最上級の賛辞だというのはアンリにもわかってきた。

「ねえ、何か甘いものないの」

「ヨナさん、いくら居心地が良くてもここは医務室ですからね。あ、グミならありますよ。どうぞ」

 エドガーが取り出した真っ青なイルカの形のグミを見て、ヨナは顔をしかめる。

「キャンディならあるぞ」

 ゼロがポケットから常備している棒付きキャンディを何本か取り出した。

「もっとこう、俺の口に合うようなものはないの」

「あ、そうだ。ヨナさん、チョコレートがありますよ」

 アンリは薬品を保存している冷蔵庫の中から、薄い四角い箱を取り出した。白地に銀のラインが入った包装紙に、緑のリボンが結ばれている。

「へえ、『ばら園』のチョコレートじゃないか」

「有名なんですか?」

「最近ハート地区にできたショコラトリーだよ。よく行列ができている」

「ふうん」

「どうしたのこれ」

「昨日カイルの手伝いで往診に行ったお家のご主人に頂いたんです。お近づきの印にって。カイルは甘いものいらないって言ってたから、みんなで食べてしまいましょう」

 ヨナはふと綺麗な眉を寄せた。

「アンリ、お菓子もらったからってホイホイついて行っちゃダメだからね」

「何言ってるんですか、小さな子供じゃあるまいし、ついていきませんよ」

「わからないよ。だって君、ゼロにキャンディもらってあっという間に懐いちゃったじゃない」

「いや、別にキャンディにつられたわけじゃ……!」

「まあまあ、せっかくだからいただきましょう。開けてもいいですか?」

「もちろん」

 エドガーが箱を開けると、バラをかたどった丸いチョコレートが並んでいた。

 アンリは思わず小さな感嘆の声をあげた。

「綺麗」

 ヨナの白く長い指が、優雅にバラをつまんで、自分の口に放り込む。じわり、とチョコレートが溶けるように、ヨナの顔に満面の笑みが広がる。

「悪くないね」

 今日一番の笑顔のヨナは、もう一つつまむと、アンリの口元に差し出した。

「ほら、アンリ、食べてごらんよ」

(え、口開けろってことかな)

 アンリが思わずゼロの方を見ると、ゼロがびっくりした顔をする。

 エドガーが盛大に吹き出した。

「あは、あはははは、飼い主の許可を求めるなんて、アンリはお利口ですね」

「エドガー!」

 ゼロはエドガーを咎めるように睨んだが、すぐに俯くと、笑いだした。

「ああ、そうか。ゼロ、アンリにチョコレートあげてもいい?」

 こんな時だけ妙に素直にゼロに許可を求めるヨナの様子に、エドガーは涙を浮かべて笑っている。

 誰に何を突っ込めばいいのかわからずアンリが呆然としていると、

「なあ、なんなのお前ら。暇なの?」

 医務室の入り口で、いつの間にか帰ってきたカイルが呆れていた。

「全く、いつからうちの医務室は集会場になったんだ」

 その日の散歩は、いつもより少し遅い時間で、空はすっかり鮮やかなオレンジに染まっていた。

 リコスはいつも通り、ゼロを見上げ、ゼロに戯れながら歩くので、ゼロは少し歩きにくそうだ。アンリは少し後ろから、ゼロの背中を眺めながら歩いていた。    

 ロンドンにいた時、夕暮れ時のこの時間は、いつもどこか寂しい気持ちになっていた。アンリには叔母の家だったり、看護学校の宿舎だったり、帰る場所はあった。それなのに、夕暮れ時には、ふと、帰る場所をなくしてしまったような、帰り道を見失ってしまったような心細さを感じていた。

 今は違った。

 あの心細さがなかった。

 この先も、ずっと、今みたいに赤の兵舎に帰りたい。

 ずっと、ゼロとリコスのところに帰ってきたいな。

 いつだったかオリヴァーが言っていたみたいに、このままクレイドルにいたい。そう願うことは、許されるだろうか。

「どうした?疲れたのか」

 ゼロが、遅れがちなアンリを気遣って振り向いた。

「ううん。ねえ、ゼロ」

「うん?」

「今日、ゼロもやっぱり私のこと心配して医務室にいてくれたの?」

 返事はない。沈黙は、肯定。

 ゼロは、何も言わないから。単純な自分は、うっかりたくさんの優しさを見逃しているんじゃないかと思う。一つも気づかずにいたくはないのに。ゼロの思いは、一つ残らず、ちゃんと拾い集めて、大切にしまっておきたい。

 言葉では何も伝わらない気がして、アンリは本当はゼロの背中に飛びつきたい気持ちだった。リコスみたいに。

 でも、人間の女の子なので。

「ありがとう」

 微笑んで見上げるアンリに、ゼロは困ったような微笑みを返した。

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