ルシファーの逡巡


 書店を出たルシファーは、足を止め、訝し気に眉を寄せた。

(一体、何事だ……?)

 視界にいるあらゆる悪魔たちが、熱望するような目で同じ方向を見つめている。

 下級悪魔たちは、だらしなく口を開け、だらだらとよだれを垂らしていた。中には酔っ払いのようにふらふらとそちらの方へ歩みよるものまでいる。上位の悪魔でさえ、何やら気になって仕方がない様子で、同じ方向にちらちらと視線を送っている。

 彼らの視線の先には、クロハライモリの串焼き屋台。

 そしてその鉄板を興味深そうに眺めている二人の人間。

 暢気そうなその横顔を見たルシファーは、思わずこめかみを押さえ、深い深いため息をついた。

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「こんなところで何をしている」

 ルシファーの声に振り向いたソロモンは、ぱっとMCの背中に添えていた手を離すと、ホールドアップのように、掌をこちらに向け、顔の両脇に両手をあげた。

「そんな顔をしないでくれ、ルシファー。僕が彼女を連れ出したわけじゃないよ」

 そんな顔?

 俺が一体どんな顔をしているというのだ。

 ——相変わらず、胡乱な男だ。

「彼女が一人でここをうろついているのを見かけたから、一緒にいただけだよ。MC、君のお迎えが来たみたいだから、僕はここで失礼するね」

 ソロモンは、いつもの胡散臭い笑顔を絶やさないまま、柔らかい声で挨拶すると、そそくさと姿をくらませた。

 彼の言うことは事実なのだろう。

 ルシファーが声をかけるまで、ソロモンの護法がMCを護っていた。それがなければ、何の力も持たないMCは、あっさり食われてしまっていたはずだ。

 人間界からの二人の留学生は、ある意味とても対照的だった。

 ソロモンは強力な魔術師で、彼を襲おうとして返り討ちにあった悪魔たちはすでに百を超える。どれも散々な目に遭ったと聞くから、もはや彼に食欲を感じるような下級悪魔はいないだろう。

 先ほどから魔物たちの、文字通り垂涎の的となっていたのは、もう一人の人間、MCだ。

「お前は何故こんなところをうろついていた?」

「マモンのお使い」

 無知にして無垢。あらゆる意味でイノセントなMCは、危機感のかけらも感じさせない長閑な笑顔を見せた。

 再びルシファーはため息をつく。

 契約した悪魔に使われてどうする。

「まだRADにいるならここの串焼きを買って帰って来いって言われた。ルシファーの分もちゃんと買ってあるよ」

 MCは自分用の串を一本右手に持ち、左手で持ち帰り用の串が入った袋を持ち上げ、かさかさと振って見せた。

「俺はこんなもの食べない」

 誇らしげだった笑顔が、腑に落ちない表情になる。

「マモンが、ルシファーもこれが大好きだって」

「お前が体よく騙されたのだろう」

 MCは、今度はぎゅっと眉を寄せ、不機嫌そうな表情になった。

 彼女は自分の感情を隠さない。怒るときに怒り、悲しいときに悲しみ、嬉しいときに笑う。そこには見栄もなく、計算もなく、全ては、無防備に、あるがまま。

 ルシファーには出来ない芸当だった。

 それとも、彼女が人間だから可能なのだろうか。

「もうマモンのことは信じない」

 MCが不機嫌な顔のまま、宣誓するように言う。

 お前、3日前にも同じようなことを言っていなかったか?

「俺のために買ったと言うのなら、少しいただこうか」

 ルシファーはMCの持つ串を、彼女の小さな手ごと握りしめると、ガブリと大きな一口を齧りとった。

「……思ったより悪くないな」

 咀嚼し、飲み込んだ後でそう告げると、MCが満足そうな笑みを浮かべる。

 ルシファーは自分もつられて微笑んでいることに気づき、誤魔化すように咳払いした。

 自分の感情を隠さない彼女からは、無自覚の恋心も丸見えだ。

 どういうわけか、油断していると、時折、心のずっと奥の、すっかり忘れていたような気持ちをくすぐられてしまう。

 ルシファーは自分の心を立て直すために、慣れた説教を始めることにした。

「何度も言っているだろう、お前は被食者だ。一人で出歩くんじゃない」

「わかった」

「行きたいところがあるなら兄弟の誰かに相談しろ」

「わかった」

 本当にわかっているのか、隣を歩くMCは、マモンに騙されたことはすっかり忘れたように機嫌の良い笑顔で、聞き分けの良い返事を返してくる。

 並んで家路を歩きながら、ルシファーは小さく笑った。

 彼女がルシファーへの恋心を自覚したときには、一体どうなるのだろう。

 そして、ルシファー自身は。

 それほど遠くはないはずのその未来は、楽しみではあるが、微かな恐れも感じる。

 ——急がなくていい。

 今はまだ、ゆっくりと。

 5千年ぶりに味わうこの気持ちを楽しむとしよう。

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