ケセラセラ   〜紅茶派のあなた2〜


 今日は、久しぶりの魔王城紅茶教室の日。

 不定期に魔王城で開かれるこの紅茶教室は、殿下の思いつきから始まった。先生は魔王城のパーフェクト執事、生徒はわたし一人というとてもとても贅沢な教室。もちろん先生は多忙なので、頻繁に開かれるわけではない。

 万能執事のきれいな手の動きをうっとりと眺めながら、深みのある声に耳を傾ける。それは永遠に続いてほしいような、わたしの至福の時間。

 今回はちょっと趣向を変えて、お茶道具の手入れの仕方を教わることになった。茶渋の定着を防ぐ方法やシルバーウェアを磨く時のコツなんかも教えてもらえて、面白かった。

 一通りの勉強が終わったら、彼の作ったお菓子とわたしの淹れた紅茶で、二人でゆっくりとお茶の時間。自分がが淹れた紅茶を彼に飲んでもらうのは初めてではないけれど、最初の一口はいまだに緊張する。

 ハンドルをつまみ、確認するように香りを味わってから、カップに口をつける。彼のその優雅な一連の動作を、固唾を飲んで見守る。

 柔らかな微笑と共に「上出来です」の言葉が聞けて、ほっと息をついた。

「魔術修行の方はいかがですか?」

 うっ、来た。

 最近は、一番最初の話題はいつもこれだ。

「えーと、まあ、ぼちぼち……」

 わたしは気まずいような申し訳ないような気持ちでもごもごと返事した。

 ソロモン師匠によれば、わたしは身の丈に合わない魔力を持ってしまったらしい。時々それが暴走してしまって、みんなに迷惑をかけてしまう。まずは魔力のコントロールを、と訓練しているものの、成果は芳しくない。

 そんなこときっと百も承知の彼は、どこか楽しそうに微笑んだ。

「ソロモンから先日は教室を一つ吹き飛ばしそうになったと伺いました」

「うっ…ごめんなさい、精進します……」

「坊っちゃまも私も応援しています」

「え、えへへ……」 

 彼の完璧な微笑に、ちょっと情けない笑顔で応える。

 あとは二人でゆっくりお茶を飲みながら、彼が先月、茶葉の買い付けの時に出会った仙人のような老人の話を聞いたり、ベールの筋トレの話をしたり。レヴィが昨夜また嘆きの館を水浸しにした話を聞いて、彼は楽しそうに笑った。

「嘆きの館はいつも賑やかですね」

「魔王城は静か?」

 わたしはカップを扱う彼の手をうっとりと眺めながら、尋ねる。

「そうですね、嘆きの館と比べれば。使い魔たちはいますが、私と坊っちゃまだけですから」

 カップのハンドルをつまむ真っ白な手袋を着けた長い指から、彼の顔へと視線を滑らせて、また尋ねる。

「寂しい?」

 彼は、意外そうに目を見開いて、でもすぐにいつもの微笑を浮かべた。

「いいえ、私は。でも坊っちゃまは時々嘆きの館の賑やかさを羨ましがっていらっしゃいます」

「本当に?」

「内緒ですよ」

 彼は人差し指を口元に当てた。

 わたしはクスクスと笑いながら頷いた。

 たわいない内容でも、内緒話は距離が少し近づいたみたいで嬉しくなる。

 ずっとこの楽しい時間が続けばいいと心から願っているのに、16時の鐘が鳴ってしまった。

「さて、そろそろお開きにしましょうか。この後はアスモ会に行かれるのでしょう?」

「うん……」

 今日はこの後アスモ会に行くことになっている。アスモにねだられて、参加すると返事してしまった後で、この紅茶教室の連絡が来たのだ。

 まだまだこのままでいたいわたしを気に留める様子もなく、彼はあっさりと席を立ってしまった。

 せっかくの楽しい時間が、もう終わってしまう。

 わたしは未練がましく、まだ時間があるから後片付けを手伝うと言い張った。

 彼は子供のわがままを許すような表情で了承してくれた。

 魔界には、食洗機も食器乾燥機もない。魔法でこれらを済ませる習慣もない。大きなパーティーがあった時などは魔法も活躍するらしいけれど、日頃は、嘆きの館でも、魔王城でも、ちゃんと洗剤を含ませたスポンジで食器を一つ一つ洗い、リネンで拭いていく。日常の作業にあえて時間をかける、人間界におけるいわゆる「丁寧な暮らし」というものが、自然に営まれている。日頃大量の仕事に追われている殿下やルシファーでさえ、毎日お茶の時間を持っている。

 なぜ魔法でぱぱっとやってしまわないのか不思議だったけれど、やがてこれもまた、悠久に近い時間を生きる彼らと私たち人間との、時間感覚の違いなのかもしれないと思うようになった。

 わたしは彼らほど多くの時間を許されない人間だけれど、それでもこうした作業をこなすことは嫌いではない。

 彼の洗った食器を受け取り、リネンで拭く。魔法城の小さい方のキッチンでシンクの前に二人並んでいると、なんだかちょっと新婚の夫婦みたいだなと思ってしまい、頬が熱くなった。

「初めて聞く曲です。人間界のものですか?」

 不意に、穏やかな深みのある声に尋ねられた。

 そこで初めて自分が鼻歌を歌っていたことに気づいた。

 これは恥ずかしい。浮かれすぎるにも程がある。

「よく祖母が歌っていた歌で」

 幼い少女が、大きくなったら綺麗になれるかと尋ねると、母親は、なるようになる、先のことはわからない、と答えるのだ。

「ずいぶん容赦のない回答ですよね。小さな女の子なんだから、きっと可愛くなるわよ、とか言ってくれてもいいのに」

 照れ隠しに歌詞を説明し、茶化してみせると、彼はひょいと眉をあげた。

「おや、あなたは優しい嘘に騙されていたい人ですか」

「優しい嘘?」

「先のことなどわからないというのは、一番誠実な回答だと思いますよ」

 わたしは改めて、彼の横顔を見上げる。

 未来を見る能力を持つ彼がそう言うと、言葉に重みが増す。

 幼い娘にきっと綺麗になれるよと答えることに、嘘という言葉はちょっと強すぎると思うけれど。

 穏やかな笑みを湛えた彼の横顔には、「優しい嘘」という言葉がやけに似合った。

「わたしは、本当のことが知りたいです。——優しい嘘よりも」

 優しい嘘よりも、怖くても、醜くても、その笑顔の向こう側を。

 彼はこちらを向くと、少し笑みを深くして、話題を切り上げるように言った。

「さ、ここはもう大丈夫です。そろそろ出かけないと、遅くなるとアスモが拗ねますよ」

 また、かわされた。

 わたしはほんの少し失望しながら、ため息をぐっと飲み込み、借りていたエプロンを外した。

「エプロンをありがとうございました」

「せっかくのお召し物を濡らしたくはありませんから。その色もよくお似合いです」

 万事にそつのない、いつもの執事の微笑。

「忘れ物はございませんか?」

「大丈夫です、ありません」

 バッグは持ったし、ハンカチもピンキーリングも回収した。

「どうもありがとうございました。じゃあ、また」

 わたしは元気よく、空元気だったけど、とにかく笑顔でペコリと頭を下げ、見送りを断って魔王城のエントランスに向かった。

 階段に差し掛かったところで、はたと気づいた。

 ——今日は一度も、好きだと伝えていない!

 紅茶教室のたびに、わたしは彼に好きだと言葉で伝え続けていた。

 いつもあの笑顔でさらりと受け流されてしまうけれど、それでも毎回懲りずに、少なくとも教室一回ごとに一回、多いときは3回。

 すっかり定例行事のようになってしまっていたけれど、今日はいつもと勝手が違ったから、言いそびれてしまった。

 ——まあ、いいか。

 階段を一段降りる。

 どうせいつも受け流されるだけだし、彼はきっと気づいてもいない。

 もう一段。

 伝えた回数が増えたからと言って気持ちが伝わるわけでもない。

 もう一段。

 だけど、どんなに軽く受け流されるとしても、わたしの大切な気持ちだ。

 もう一段。

 次の紅茶教室もいつになるかわからない。

 もう一段、つま先が降り切る前に、わたしは回れ右をして、キッチンへ駆け戻った。

「バルバトスさん!」

 ちょうどキッチンから出るところだった彼を呼び止める。

「おや、忘れ物ですか?」

 そう、忘れ物。

「わたし、バルバトスさんが好きです」

 息を切らしながら勢いで言ってしまってから、なんだか自分がすごく愚かなことをしている気がして恥ずかしくなってしまった。

「……今日、一回も伝えてなかったな、って……」

 もごもごと付け足す声は、だんだん小さくなる。視線もそれにつれて下がってしまった。だからこの時、彼が本当はどんな顔をしていたのか知らない。

 急に腕を強く引かれて、次の瞬間には、壁を背にしていた。

 背中には彼の腕。後頭部にも手袋の感触があって、だから痛みも壁の冷たさも感じなかった。

 唇だけが、熱い。

 彼の唇が離れた時、やっとわたしは咄嗟に瞑ってしまった目を開いた。

 間近にみる端正な顔は全ての表情を拭い取ったように無表情で、いつもの微笑はない。

 こんな表情を見るのは初めてだった。

 整った美貌は冷酷にさえ見える。

 だけど再び彼の顔が近づいてきた時、わたしは自ら目を閉じた。

 祖母が脳裏で高らかに歌う。

 ——なるようになるわ。先のことなど、わからない。

 柔らかな物腰の彼に、勝手に中性的なイメージを抱いていた。だけど背中に回された腕も、押し付けられた硬い胸も、成熟した男性のものだった。押し返すこともできなくて、ただ彼の服を掴む。

 乱暴ではないけれど、決して優しくもない口づけは、快楽だけを引き出す。応え方を知らないわたしはその気持ちよさに従うほか術はない。唇が離れた時には、彼の服を掴んでいた手もだらりと下がって力が入らなくなっていた。崩れ落ちてしまいそうな体を、彼の片腕が支えている。

 滲んだ視界に、彼が口の端を舐める赤い舌がちろりと見えた。

 触れていた唇も舌もあんなに熱かったのに、彼の目はひどく冷めている。間近にある彼の顔が、ふっと見たことのない微笑を浮かべた。

「男を誘うならこれぐらいは覚悟しておきなさい」

 白い手袋の指がわたしの口の端を拭う。いつも染みひとつなかったあの純白の手袋を自分の唾液が汚してしまったと思うと、ぞくりと快感が背中を駆け上った。

「ふふ、なんて顔をしてるんです。……さあ、エントランスまでお送りしましょう」

 わたしは何も考えられなくて、ただ彼に促されるままに歩き出した。

 頭の中も、足元も、ふわふわと漂っているよう。

 聞きたいことがたくさんあるような気がするのに、何を聞けばいいのかわからない。

 彼が何か話している声が聞こえるけれど、その言葉の意味までは理解できなかった。何もかもがぼんやりと曖昧で、ただ、左肩に載せられた彼の手がやけに温かい。

 外へのドアを開けると、細かい霧のような雨が降っていた。ひんやりとした空気が心地よくて、自分の頬がずいぶん熱っていたことに気づく。

 バルバトスが小さく笑う気配がした。

「遣らずの雨ですね。雨宿りして行かれますか?——私の部屋で」

 彼は左手を私の肩に載せたまま、右手で私の手を取り、ダンスにでも誘うように言った。

 見上げた彼は微笑を浮かべているけれど、それはもうわたしがよく知っている表情ではない。

 だけどなんだかやけに生々しい。

「……遣らずの雨って?」

「出かけようとする人を引き止めるように降る雨のことですよ」

 ああ、また。彼が悪魔であることを思い出させるような、冷たく整った微笑。わたしが今まで見たことのないような。

 まるで別の世界に迷い込んでしまったかのよう。

「一体誰が降らせているのでしょうね」

 彼の瞳が妖しく細められた。

 わたしはハッとした。

「あの、わ、わたしが降らせてるわけじゃないです、……よ?いくら一緒にいたいからって、雨を降らせたりなんて」

 できるものなら降らせたいけれど。

 彼は慌てて言い募るわたしをきょとんとした顔で眺めた。

 まるで初めてわたしがここにいることに気づいたように、まじまじとわたしを見つめると、やがて声を立てて笑い出した。そんなに可笑しなことを言った覚えはないのだけれど、彼は心底可笑しそうにお腹の辺りを抑えるようにして笑った。さらさらとした髪が流れて揺れる。

 彼は壁に寄り掛かるようにして笑い続けて、笑いすぎて涙ぐんだ目尻を指で拭いながらこっちを見た。

「本当に、厄介な女性ひ とだ」

 笑いすぎて赤くなった目元が、ちょっと色っぽい。

「この傘をお持ちなさい。どうぞお気をつけて」

「……ありがとう」

 わたしは差し出された傘を受け取って開くと、一歩踏み出した。

 振り返ると、彼が気怠げに壁に寄りかかったまま、微笑んで手を振った。

 いつもの万能執事の微笑とも、ついさっきまでの悪魔然とした微笑とも違う。

「楽しんでいらっしゃい。またお会いしましょう」

 霧のような雨の向こうの儚い微笑になんだか胸が騒いだ。

 こうしてわたしは魔王城を後にした。

 どこかで選択肢を間違えてしまったような、後悔に似た気持ちが何度も何度もわたしを振り返らせた。

 彼の姿が見えなくなっても、霧雨にけぶる魔王城を振り返り続けた。

 だけどもう戻ることはできなかった。

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