「さて、困りましたね」
囁くような独り言が闇に溶けた。
MCはバルバトスの手を緩く握ったまま、健やかな寝息を立てている。
彼の夢に入るために重ねた手を、夢から醒めた今もまだ離せずにいる。
MCの手は、バルバトスがその気になれば難なく解ける程度の緩やかな束縛でしかない。
それなのに、離れられない。
もう少しだけこのままで。
そう願ってしまう自分自身に、バルバトスは困惑していた。
MCの、お腹の足りた子供のような満足げな寝顔を眺め、途方に暮れる。
この魔界に突然召喚されたにも関わらず、MCは驚くほどの順応性を見せた。瞬く間に嘆きの館にも馴染み、今ではすっかりあの兄弟たちの一員だ。
明るく人懐こくて無邪気。現在の若者らしい軽薄な青年かと思えば、意外と礼儀を弁えており、時折見せる仕草や姿勢からも、それなりの教育を受けて育ったらしいことが見てとれる。
どういうわけか彼はバルバトスが気に入ったらしく、やたらと後をついて周り、じゃれついた。最初は厄介だと思ったものの、思いの外、彼は人との距離の取り方に長けていて、不快に感じるようなことは一度もなかった。
(あのルシファーが気に入るわけです)
バルバトス自身も、毛並みの良い大型犬に懐かれたようで、悪い気はしなかった。
ただ、懐かれた犬の世話をし、時おり可愛がっているだけのつもりだった。
まさか。
まさかあんな激情を受け止めることになるとは。
思わずこぼした自分の吐息の熱さに驚き、バルバトスはまた途方に暮れた。
全ては所詮、夢の中の出来事。
だけどこの身体に⎯⎯そして心に、決して消せない跡を残してしまった。
夢のなか、彼の作り出した狭い茶室の中で抱き合った。
魔がさしたのだ。
彼が夢魔の手に落ちなかったことを喜ぶ気持ちもあったし、自分の元に無事帰ってきた彼をいじらしいと思う気持ちもあったかもしれない。
所詮夢だから、と誘ったのはバルバトスの方だった。
その場の雰囲気を楽しむような、ごく軽い気持ちだった。
彼は遊び慣れていたし、これもまたひとときの戯れのようなものだと思っていた。
だけど彼は丹念にバルバトスの肌と心を暴きつくした。
バルバトスは注ぎ込まれる彼の熱にうかされ、おぼれた。幾度となく高みに打ち上げられ、すがりつき、快楽に泣いた。
バルバトスの上で果てたMCは、彼を抱きしめたまま深い眠りに落ちてゆき、二人の夢は緩やかに終焉を迎えた。
ふいに、夢の中で聞いた狂おしく自分を呼ぶ声が耳元に蘇り、思わず目を閉じる。無意識に、空いている片手で自分を抱きしめる。そうしていないと、体が震えてしまいそうだった。
まだ体の熱が引かない。
魔がさしたで済ませるには、何もかもこの身体に深く刻まれてしまった。
どんなに言い訳しても、これは自分が望み、自分が招いたこと。
途方に暮れたまま、カーテン越しの月明かりに照らされた、MCの健やかな寝顔を見つめる。
「ふ、かわいい顔をして」
バルバトスはほとんど無意識に手を伸ばし、彼の温かな頬をそっと指先で撫でた。
愛しさに、つい頬が緩む。
少し躊躇った後、バルバトスはMCの額にそっと手をかざした。彼の夢の記憶から、二人が抱き合った時間を覆い隠す。
本当は、もうわかっている。
自分が未だこの部屋を立ち去れないことが全ての答。
だけどもう少しだけ。
どうか、あと少しだけ、今のままで。
MCの瞼が微かに震える。
バルバトスは深呼吸した後、今一度気合を入れて、全ての感情を心の裡にしまいこむ。
そうして静かに朝を迎えた。
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