恋は、悪魔を狂わせる。
放課後の議場には、執行部だけではなくメゾン煉獄の面々も揃い、皆でテーブルを囲んでいた。テーブルには、バルバトスが用意した菓子や軽食が所狭しと並んでいる。
多少のトラブルはあったものの、なんとか今年も体育祭を無事終えることができた。今日はその反省会という名目の、要は慰労会だ。
協力して一仕事無事に終えたという開放感のせいか、議場はいつもより和やかな空気に満ちていた。来年はこうしたらどうか、などの提案に頷きながら、ルシファーは、時折無意識にドアに視線を送る。
「MCは遅いね?迎えに行ってあげなくていいのかい、ルシファー」
めざといディアボロの問いかけに、ルシファーはそっけなく答えた。
「子供じゃないんだ、じきにくるだろう」
ところが今度は執事の呟きが追い討ちをかける。
「また厄介なことに巻き込まれていないと良いのですが……」
残念ながらその可能性は否定できない。MCは妙なものに好かれすぎる。
ルシファーはだんだん心配になってきた。
もしやまた迷宮に捕まったのか、あるいはそこらの魔物に懐かれて時間を忘れて遊んでいるのか、あるいは——動けなくなっているのか。
ひたひたと押し寄せてくる不安。耐えきれなくなった彼が無言で立ち上がりかけた時、廊下の方からコロコロと聞き馴染みのあるベルの音が聞こえてきた。
「遅れてすみませえん」
ベルの音の主が、のどかな笑顔とともに議場に現れる。
走り回った後のように髪が乱れ、頭や肩に葉っぱを乗せている。また外で仲の良い魔物と遊び回っていたのかもしれない。
それに加えて。
「……待て、腹の中に何を隠している」
「なんでもない」
MCは、不自然にぽっこりと膨らんだ制服の腹の部分を庇うように手を当て、ルシファーから隠すように横を向いた。
なんでもないわけあるか。
かつてはサタンが、度々こうやって犬やら猫やらを拾ってきたものだ。
猫ならまだいい。だが、もし人に有害な魔物だったら。
「見せなさい」
「いや」
MCは腹の膨らみを大事そうに抱え、後退る。
「とにかく、見せなさい」
「いーやー」
「いいから見せろ!」
ルシファーが思わずMCの制服の上着に手を伸ばすと、シメオンが慌てて止めに入った。
「まあまあ、ルシファー落ち着いて。そんな頭ごなしじゃMCが警戒するのも無理はないよ。MC、ルシファーはね、君が危険な魔物を拾ったんじゃないかって心配してるんだ。まずは見せてごらん。何か飼いたいなら俺も味方になってあげるからさ。猫でも拾ってきたの?」
「何、猫?」
猫と聞いたサタンがふらふらと寄ってきた。
「君がどうしても飼いたいというなら、俺も味方になってやってもいいぞ」
仕方なく、という風を装ってはいるが、サタンの目は隠せない期待にきらきらと輝いていた。
「じゃあ、僕もMCの味方になってあげる」
これは単にルシファーに反対したいだけのベルフェ。
MCは3人の味方とルシファーの顔を順番に見回し、渋々制服の中から何やら丸い物を出した。
彼女が両手のひらに乗せるようにしてみせたそれは、大きさは子猫ぐらい。全体的に赤に近い艶々とした桃色で、ボールのようにまん丸く、上の方に円な目らしきものが二つ並んでいる。確かに生き物のようではあるが、見た事のない姿だった。
「……猫じゃない。でも、なんだそれ」
博識なサタンにもわからないらしい。
「……不思議な生き物ですね。私も見たことがありません」
バルバトスが小首をかしげる。
誰もが初めて見る生き物に、首を傾げる中。
「飼ってもいい?」
MCは懇願するような目でルシファーを見上げてきた。
彼女がルシファーを見る瞳には、いつだって息苦しくなるほどの恋情が込められている。彼女自身がその想いを自覚していないというのに。
元の場所に戻してきなさい、と言いたいところだが、つい願いをかなえてやりたくなってしまう。
ルシファーがどう対処するべきか悩み始めたところ、それまで黙って考え込んでいたソロモンが口を開いた。
「あまりいい考えじゃないと思うよ、MC。それはセンチメントワームだ」
ルシファーは、思わずディアボロと視線を交わした。表情を引き締めたディアボロが、小さく頷く。
初めてその名を聞くらしいMCは不思議そうに聞き返した。
「センチメントワーム?」
「俺たち人間の『気持ち』を食べる蟲だよ。懐かしいな。こんなところで見かけるなんて、魔界で流行ってるって噂は本当だったんだね」
センチメントワームはもともと人間が魔術で生み出したものだ。だが人間界では、二千年ほど前にはもう廃れていた。
それが最近になって魔界の悪魔たちの間でひっそりと流行り始めている。ワームをつくり、人間の気持ちを食べさせる。その人間の気持ちに染まったワームを、今度は悪魔が食べるのだ。もちろん魂ではないので、栄養にも魔力の補給にもならない。嗜好品として好まれている。主な効果は高揚感、多幸感。
ところがワームにはどうも中毒性があるらしく、続けて摂取するうちに奇妙な言動を繰り返す悪魔や、禁断症状で暴れる悪魔の報告が相次いだ。そのため魔界での使用を取り締まるべきではないかとディアボロたちと調査を進めていたところだった。
——しかし、こんな形状をしていただろうか?
「でもさ、センチメントワームって細長くてにょろっとしてなかったっけ?」
ルシファーの心に浮かんだ疑問を、アスモが口にした。
「待て、お前どうしてワームの形なんて知っている?まさか……」
ルシファーが、険しい表情でアスモを睨む。
「違う違う、僕はやってないって。ルシファーがワームには絶対手を出すなって言ってたじゃん」
アスモは慌てて胸の前で両手を振った。
「僕はデビグラで見かけただけ。ほら」
アスモが差し出したD.D.D.の画面には、RAD新聞部が挙げた写真。そこに、手のひらに載せられた、まだ人間の気持ちに染まっていない透明なワーム——おそらくは魔術でつくられたばかりのもの——が写っていた。
本学の新聞部でこんなものに手を出すような人物は、一人しかいない。
「メフィストフェレスの好奇心にも困ったものだ。それが彼の長所でもあるんだが」
ディアボロが腕組みをし、ため息をついた。
「それにしても形状が随分違うが」
「最初見つけた時はこんな感じだった」
D.D.D.を覗き込んだMCが言うには、ワームは一緒に遊んでいるうちにだんだん色づき、まるまると膨らんでいったのだという。
「なるほど、つまり君の気持ちを食べてこんなにまるまると太ってしまったということか。そんなこともあるんだな」
ソロモンが感心したように呟いた。
彼女の両手の上に転がっているワームは、はち切れそうにまんまるに膨らんで、てりてりと濃淡のある桃色に輝いている。
「こんなになってしまうなんて、よほどMCの気持ちが美味しかったんでしょうね。さしづめこの色は……」
バルバトスはそこで言葉を切ると、横目でちらりとルシファーを見て嫣然と微笑む。
ルシファーはあえて無視をした。
それがかえって彼を楽しませてしまったようで、バルバトスは笑いを堪えるように肩を震わせている。
「気持ちを食べられると、どうなるの?」
「たとえば深く悲しんでいる時に悲しみを食べてもらうと、少し気持ちが楽になる。所詮一時凌ぎだけどね」
ソロモンは少し皮肉な笑みを浮かべた。
「あとは片想いに悩む娘が持て余した恋心を食べてもらった話がある。やっぱり気持ちが楽になったらしいよ」
「ふうん……」
わかったようなわからないような表情のMCに、バルバトスが問う。
「MC、あなたの気持ちには変化がありましたか?このワームと遊ぶ前と、後で」
MCはまるでそこに気持ちが集まっているかのように、自分の胸に両手をあてると、深く探るように目を閉じて考え込んだ。眉を寄せて難しそうな顔で考え込んでいたけれど、結局、答は「わからない」だった。
「それで、このワームはどうするんだい?」
ソロモンが興味深そうに尋ねる。
「とにかくまずは持ち主と話すべきだろう」
ディアボロが腕組みをしたまま、悩ましげに眉を下げた。
「持ち主?」
まるまると太ったワームを手のひらで転がしていたMCが、不思議そうに聞き返す。
「これは使い魔みたいなものだからね。ちゃんとした飼い主がいるんだ。その人のところへ返してあげないと」
ソロモンが穏やかな笑顔でMCに言い聞かせた。
センチメントワームはただの嗜好品であり、今彼女が可愛がっている個体も、いずれ悪魔に食べられてしまう運命だ。しかしその事実は彼女には伏せておこうという暗黙の了解がいつの間にか存在した。
(やれやれ、皆揃ってMCに甘いことだ)
そう心の中で呟きながら、ルシファー自身もほっとしていた。
そうとも。誰も、彼女の悲しむ顔はみたくない。
「まあ、まだこれがメフィストフェレスのものだと決まったわけではないが……」
「これが彼のものでなかったとしても、彼がワームの術式をどこで手に入れたか、誰に教えたかを聞けば十分手がかりになる。RADの中にこんなものに手を出すやつはそういないだろう」
「うん、サタンの言う通りだ。ルシファー、悪いが君が彼に確認してくれないか。そしてあまりおかしなものに手を出さないように釘を刺しておいてくれ」
ディアボロの指令には逆らえない。
「このワームはどうする?」
「……そうだね。君に任せるよ」
ディアボロは、彼にしては珍しくどこか含みのある笑い方をした。
皆の話を聞いていたMCは、今度は素直にワームを差し出した。
だけどその寂しそうな表情に、ルシファーの胸は痛んだ。
「そんなにしょげるな。帰ったらケルベロスと遊ばせてやるから」
それ本当に嬉しいこと?という外野の声は聞こえないふりをする。
それでもMCは、ルシファーを見上げ、少しだけ微笑んだ。
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