赤のエースで妄想してみた その3 天使&悪魔イベント補完ショート
少しずつ春の気配が感じられる、でもまだまだ外は寒い昼下がり。
アンリは暖かい医務室で、ゼロの淹れてくれた紅茶を飲んでいた。
午前中はカイルに連れられて街まで往診に出かけ、それなりに忙しい時間を過ごしたが、午後は怪我人も病人もなく、医務室はのんびりしていた。
カイルはさっきまで新しく届いた医学誌を読んでいたが、今は雑誌に突っ伏して居眠りをしている。
美味しい紅茶に、思わずホッと満足げなため息をついたアンリを見て、ゼロが優しく微笑んだ。
アンリもはにかんだ微笑みを返す。
このところクレイドルでは平和な日々が続いていた。だからと言って幹部たちの書類仕事は減るものではないらしい。
ゼロは、今日も朝から書類の山と一緒に部屋に閉じこもっていて、ついさっき、休憩がてら医務室にやってきて紅茶を淹れてくれたのだった。
ここ数日はとても忙しいらしく、アンリが彼の淹れてくれた紅茶を味わうのも、実は3日ぶりだった。
「ゼロ、俺にも紅茶をお願いします」
「ひっ」
突然すぐ後ろでエドガーの声がして、アンリは情けない悲鳴をあげた。危うくカップを取り落としそうになる。
「そういうのやめてって言ってるのに!」
「ごめんなさい、驚かせてしまいましたか」
エドガーは白々しい笑顔を浮かべ、アンリの背中をぽん、と叩いた。
アンリの恨めしそうな視線も涼しい顔で受け止める。
「アンリ、お前ももう一杯飲むか?」
ゼロが苦笑しながらポットを少し上げて見せた。
「うん、ありがとう……でも、ゼロの分は?」
「俺はもうそろそろ仕事に戻らないと」
「えっ、もう帰っちゃうの?」
いつものアンリなら、うっかりこんなことを言ってしまっても、慌てて寂しさを飲み込んで、ゼロを笑顔で送り出していた。
でも、今日はなぜかそんな気持ちにはなれなかった。
「ねえ、もう一杯だけ一緒に紅茶飲もうよ」
ゼロはちょっとだけ目を丸くすると、なんだか嬉しそうに微笑んだ。
「珍しいな」
さらに珍しいことに、アンリは立ち上がってぐるりとテーブルを回り込み、ゼロのそばまで行って、彼の腕をきゅっと掴んだ。
「ね、もう少しだけここにいようよ」
ゼロはアンリを見て微笑んだまま、ちょっと困ったように眉を寄せる。
(あ、この顔もっと見たいな)
もっと困らせたい。
私のために、困って欲しい。
今まで意識したことのない気持ちがアンリの中でむくむくと育っていく。
「そうだ、書類仕事、医務室ですればいいよ。私の机使ってもいいから」
アンリは笑顔でゼロを見上げた。ゼロも流石に驚いて、ちょっと不思議そうな顔になる。
「アンリ、お前一体どうしちゃったんだ?」
よくわからない。どうかしちゃったのかもしれないけど。
「ゼロともうちょっと一緒にいたいだけなの。おかしい?」
アンリはゼロの左腕を掴んだまま、小首を傾げながら見上げる。
「アンリ」
ゼロはポットを置くと、空いた右手をアンリの背中にまわした。
「ふふ」
アンリは嬉しくて、応えるように彼の背中に腕をまわし、固い胸に頬を押し付ける。
だけど、降ってきたゼロの声は冷静だった。
「お前背中に何つけてるんだ?」
制服の背中の部分がちょっと引っ張られるような感じがして、ぺりっと何かを剥がすような音がした。
(んん……?)
のぼせたようになっていた頭が冷える。
周りの空気が切り替わったような気がして、アンリは何度か瞬きした。
いつの間にか目を覚ましていたカイルとエドガーが、なんだか楽しそうにアンリを見ている。
「わっ!」
アンリは自分がゼロに抱きついているのに気づいて、慌てて離れた。顔が一気に熱くなる。
「あ、あれ……?なんで?どうして私……」
なぜこんなことをしてしまったのかわからない。
どうしてゼロを困らせたいなんて思ってしまったんだろう。
アンリは両手を熱い頬に当ててうろたえた。
ゼロはアンリの背中から剥がしたカードを眺めている。
「もしかして、これのせいか?」
「……トランプ?」
クラブのエース。
裏には、天使と悪魔の絵が書かれていた。
「あ!それ、あれじゃねーか。レイリー爺さんの言ってた『魔法のトランプ』」
カイルがカードを指差しながら言ったので、アンリも今日の往診の時にレイリーに聞いた、不思議なトランプの話を思い出した。
「魔法のトランプっていうのは、なんだ?」
「あー……、確か赤いカードをめくったり、身につけたりするとその人の中の天使が引き出されて、黒いカードだと悪魔が引き出されるとか、……なんかそんな話だったよな?」
カイルが言いながら、確認するようにアンリを見た。
アンリも頷く。
確かにレイリーはそんなことを言っていた。
「若者の間で流行ってるらしいな。あのじーさん、やけに若者文化に詳しくってなー」
自分も若者文化を担う世代だとは微塵も感じさせない口調でカイルが言った。
どうしてそんなものがアンリの背中に?
――というのは愚問である。
「エドガー!」
アンリは振り向くと、さっきから笑顔で成り行きを観察していたエドガーを睨んだ。
「ごめんなさい、そんな怖い顔しないでください。たまたま街で手に入れましてね。俺はアンリの中の悪魔が新しい兵器でも開発してくれないかなと思って試してみたんですよ」
エドガーは笑顔のままそういうと、声を立てて楽しそうに笑い出した。
「とんだ小悪魔ちゃんが出てきてしまいました」
カイルも一緒に笑い出す。
「いやー、おもしれーもん見たわ」
「そうか、あれがお前の中の悪魔か……」
そう呟いたゼロの声も笑いを含んで楽しそうだ。
アンリは恥ずかしくて顔が上げられなかった。俯いたまま、謝る。
「ごめんなさい。いつもはちゃんと我慢できるのに……、なんだか、急にゼロを困らせたくなってしまったの」
ぽん、と頭にゼロの大きな手がのせられた。笑みを含んだ優しい声が聞こえる。
「本当に……困った奴だな」
そっと見上げると、ゼロは怒っている訳でも呆れている訳でもなくて、ただ困った顔で微笑んでいた。
(ああ、やっぱりこの表情好きだな)
今はトランプを身につけているわけではないのに、やっぱりゼロの困った顔にときめいてしまう。これでは、さっき出てきた悪魔が、自分の中に確かにいることを認めるしかない。
「よし」
気持ちを入れ替えるように、ゼロが明るい声を出した。
「俺は仕事に戻るぞ。エドガー、紅茶は自分で入れろ。アンリをからかった罰だ」
「はいはい」
エドガーはさして反省している風もなく、優雅に肩をすくめて見せた。
ゼロがやけに明るい表情で医務室を後にしてから、エドガーがアンリの分も紅茶を入れてくれた。
「アンリ、そろそろ機嫌を直してください。俺の淹れたお茶もなかなかいけると思いますよ」
アンリは、ゼロにわがままを言って困らせたことを気にして、しょんぼりと肩を落としていた。顔を上げないまま、エドガーの淹れてくれた紅茶に口をつける。
認めたくないが、エドガーの淹れてくれた紅茶もとても美味しかった。
「……美味しい」
俯いたまま、それでも素直に感想を漏らしたアンリに、エドガーは目を細めた。
「そんなに落ち込まないでください。クレイドルでは、誰の心にも天使と悪魔が住んでいるって言いますよ。科学の国では違うんですか?」
「右側と左側に天使がいるって話なら聞いたことがあるけど……」
「天使?」
「右側の天使は良いことを、左側の天使は悪いことを教えるの」
「へえ、両方天使なんですか」
「風刺画では左側が悪魔になったりするけど。……お祖父様は、人間は左側の天使とうまく付き合わなくちゃいけないって言ってたの」
だから、アンリなりに、わがままを言ってしまわないようにいつも気をつけていたのに。
アンリはついため息をついてしまった。
「困ったな、どうか元気出してください。俺は愛弟子になかなか豪華な差し入れができたと喜んでいたんですけど」
エドガーの言葉に、カイルが雑誌から目を離さないまま笑った。
「確かに。あいつ今頃がむしゃらに書類片付けてるぜ、きっと」
アンリは二人の言っていることがわからなくて、眉を寄せる。
「ゼロを困らせただけじゃない」
カイルとエドガーはきょとんとして顔を見合わせた。
カイルが呆れたように言う。
「お前、もしかしてゼロがなんで困ってたのかわかってねーの?」
「私がわがまま言ったからでしょう?」
カイルは苦笑した。
「それはそうだけど、でもそうじゃない……、お前、他のことはわりと察しがいい方なのにな」
「お祖父様が余程大事に育てられたんでしょうね」
「……もしかして、ばかにしてる?」
「いいえ。堅物の愛弟子にお似合いだなあといつも微笑ましく見守っていますよ」
エドガーの言葉は少し白々しかったけれど、その笑顔は、いつもほど嘘っぽくはない。
「ねえ、アンリ。このカードは若い恋人たちの間で流行っているんですよ」
「えっ」
それは意外だ。
エドガーみたいな人が悪戯するために流行っているのだと思い込んでいた。
「天使みたいに優しくなった恋人にとことん甘やかされたり、悪魔みたいに意地悪になった恋人にからかわれたり。どちらにせよ甘い時間が過ごせます」
「……天使はわかるけど、悪魔でも?」
「世の中には、甘い意地悪ってものが存在するんですよ。……それに、日頃天使みたいに優しいゼロの中の意地悪な部分、興味ありませんか?」
「それは……」
ちょっと、ものすごく、見てみたい……かも。
そう思ってしまったことがなんだか恥ずかしくて、頬が火照った。
アンリはまた俯いてしまった。
「ふふ。そんなに恥ずかしがらなくても、恋人の普段みられない姿に興味を持つのは、皆一緒ですよ。だからこのトランプが流行るんです」
エドガーが言いながら、ポケットからトランプの残りの束を取り出した。ゼロが置いていったクラブのエースを束に戻す。
「いくら魔法のトランプでも、本人の中にない悪魔や天使は出せません。どうやらこのトランプは、日頃天使と悪魔がうまくバランスをとることで隠れてしまっている部分を引き出すみたいです。さっきのあなたのようにね」
「そっか……」
確かに、ゼロともっと一緒にいたい気持ちは、口にしないだけでいつもアンリの中にあるし、トランプがなくてもゼロの困った顔にはドキドキした。
さっきのわがままなアンリも、アンリであることには違いない。
祖父の言う通り、上手に付き合っていかなければ。
そして、ゼロの中にも普段は隠れてしまっている、いつもと違うゼロがいるなら、やっぱり会ってみたい。
素直に納得した様子のアンリを見て、エドガーは笑みを深めた。
「アンリ、お詫びにこのカードを差し上げましょう」
エドガーは魔法のトランプの束を差し出した。
「好きな一枚を、ゼロのポケットにでも忍ばせてご覧なさい。きっと彼の意外な一面が見れますよ」
アンリは、エドガーのとんでもない提案に目を丸くすると、困ったように眉を寄せた。
「使えないわ、そんなの」
「ええ、もちろん使うも使わないも、あなたの自由ですよ」
エドガーは優しい笑みで魅力的な誘惑をする。
――「左側の天使」は、もしかしたら、エドガーみたいな姿をしているのかもしれない。
そう思いながらも、アンリはトランプを受け取ってしまった。
――あの様子だと、三時間後ぐらいには、全ての書類を片付けてるはずですよ。
アンリはエドガーの言葉に従って、きっかり三時間後、ゼロの部屋のドアをノックしていた。手元では、トレイに載った差し入れのホットチョコレートが湯気を立てている。ポケットには、エドガーにもらったトランプ。
(仕事中だったら、トランプは使わず、差し入れだけして、リコスの散歩を引き受けよう。それなら邪魔にはならないはず)
心の中で、誰にともなく言い訳する。
ドアを開けたゼロは、アンリを見て嬉しそうに笑った。
「いいタイミングだ」
アンリもつい釣られて微笑んでしまった。
困った顔も好きだけど、やっぱりこの笑顔は大好き。
「医務室の仕事は終わったのか?」
「うん。カイルがもう上がっていいって」
「俺の方もほぼ片付いた。あとは確認してサインをするだけなんだ。もうちょっとだけ、部屋で待っててくれるか?」
「いいの?」
つい声が弾んでしまう。
ゼロは微笑みながら、体をずらすようにして、アンリを部屋に入れてくれた。
アンリはローテーブルにトレイを置くと、ソファに座った。
ふとソファの背にかけられている制服の上着に気付いて、急に心臓が忙しなくなる。制服は、無防備に胸ポケットを上にしてかけられていた。
アンリを、誘うように。
しかも、ゼロはソファに背を向け、机に向かっている。
(私の知らないゼロがいるなら、会ってみたい……)
アンリは心を決めると、ゼロの背中を見ながら、震える手で魔法のトランプを一枚取り出した。そっとゼロの上着のポケットに忍ばせる。
ゼロは背中を向けたままだった。
無事ミッションを終えたアンリは、ほっと息をついて、ソファに背中を預ける。なんだか落ち着かない気持ちをごまかすように、口を開いた。
「えっと、リコスはどうしたの?」
「うん?さっきエドガーが、今夜は冷え込みそうだから一晩貸してくれって連れて行った」
アンリは小さく吹き出した。
「エドガーったら、もしかしてリコスと一緒に寝るの?」
「鴨の一家は一緒には寝てくれないらしい」
ゼロが背中を向けたまま、楽しそうに笑った。
「まあ、あいつなりにちょっとは反省したのかもな」
ゼロは言いながら立ち上がると、書類をまとめて、振り返った。
そして、テーブルの上のホットチョコレートに目を止める。
「飲まないのか?」
「これは、ゼロへの差し入れなの」
やっぱり自分の分も持ってくればよかった。
アンリがちょっと残念に思っていると、ゼロが書類と上着を抱えて微笑んだ。
「書類を提出してくる。冷めないうちに戻るから、一緒に飲もう」
「うん」
嬉しそうに微笑んだアンリのこめかみに、弾むようなキスが落とされた。
「すぐ戻ってくる」
耳元でささやくゼロの声は、普段より数段甘く響く。
赤くなったアンリを置いて、ゼロは軽い足取りで出て行った。
(どうしよう、トランプなんてなくても、十分甘い……!)
やっぱり、こっそりトランプを忍ばせたりするんじゃなかった。
いつものゼロと一緒にいられるだけで、こんなに幸せなのに。
アンリの心に、後悔の大波が次々と押し寄せてくる。
だけどもう遅い。
「左側の天使」やエドガーとは、上手く付き合わなくてはならない。
アンリは祖父の言葉を、身を以て学習した。
今、ゼロのポケットには……
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