王子様とわたし   —第三話—


 赤のエースで妄想してみた その1 王子様とわたし —第三話—


 翌朝、ランスロットは用があるとのことで、シンシアを食堂まで案内してくれたのは、ゼロとエドガーだった。

 エドガーはゼロと同じく軍の幹部で、階級はジャックだ。物腰が柔らかく、いつも微笑を浮かべている。制服を着ていなければ、きっと軍人だとはわからない。

 3人で朝食をとっていると、カイルがやってきた。

「シンシア、今日はランスロットの診察はナシだ。あいつ本当に忙しいみてーだから」

「そうなの……」

(医務室で会うこともなくなっちゃった……)

 心持ち俯いてしまった彼女に、ゼロが微笑んだ。

「今日は俺は1日休みだから、よければどこかへ連れて行ってやろうか?」

「……じゃあ、魚釣りに行きたいな」

 大きな魚が釣れたら、きっと気持ちも晴れる。

 ゼロはシンシアのリクエストが意外だったのかちょっと目を丸くしたが、すぐに笑顔になって、「それならいい場所がある」と言った。

 シンシアはゼロと並んで池のほとりに並んで座り、釣り糸をたらしていた。

 さらさらと心地良い風が水面を揺らし、吹き抜けていく。程よい厚さの雲の隙間から、時折顔を覗かせる太陽の光は優しい。暑くも寒くもない、気持ちの良い釣り日和だ。

 ゼロが連れてきてくれたのは、「涙の池」と呼ばれる、名前も景色も美しい池だった。深い森の中を進んでいくと、ポッカリと開けた場所があり、そこに大きな池が現れる。池の水は驚くほど澄んでいて、泳ぐ魚の影が見えた。

「魔法の塔?」

「そう。魔法石の精製、流通を司っている機関だ」

 シンシアが、道中見かけた、高くそびえ立つ、だけど窓も入り口も見当たらない不思議な塔を疑問に思っていると、ゼロが教えてくれた。彼女は「魔法の塔」という言葉をつい最近どこか別の場所でも聞いたような気がしたが、思い出せなかった。

「あっ、かかった!」

 シンシアの釣竿が大きくしなった。彼女は魔法の塔について考えるのを止め、すぐに立ち上がると、勇しく地面を踏み締めるように構えた。

 四匹目ともなるとゼロも慣れたのか、手際良く網を用意してサポートする。

「お前本当にすごいな」

 釣った四匹目の魚をバケツに放すと、ゼロは尊敬のこもった目でシンシアを見た。

 シンシアはゼロの素朴で素直な称賛が嬉しくて、満面の笑みを返す。

(なんだか弟たちを思い出すな……)

 二人は再び並んで座ると、釣り糸を垂らした。

「ね、さっきの話だけど」

「うん?」

「魔法石ってつくれるの?」

「水晶に魔力を込めてつくられる」

「水晶に込める魔力はどこからくるの?」

「森の中に光っている石があっただろう?ほら、その辺のほとりにもある」

「うん」

 ゼロの指差した場所には、水晶のような石が、淡い優しい光を放っていた。

「あれが自生している天然の魔法石。魔力はあれから精製して、増幅する」

「ふうん、そっか。……ふふ、私ね、魔力を持った人が自分の魔力を込めてつくるのかなって思ったの。それじゃあ魔力を持った人が大変よねえ」

 考えてみれば、カイルも魔力は生命力と同じだと言っていた。

 シンシアは自分の妙な想像に自分で笑った。

 ふと目をあげると、ゼロの釣竿の先が揺れている。

「あ、ゼロ、引いてるよ!」

「えっ!」

 シンシアに言われ、慌ててゼロは釣竿を操作しようとしたが、その前に糸を切られ、逃げられてしまった。

 ゼロはため息をつくと、呟いた。

「釣るより、直接捕まえる方が楽だな」

「えっ、そんなことできるの?」

「野営には必要な能力だ」

 ゼロが言うには、赤の軍の兵士は、新兵一年目に、夏と冬の2回、野営訓練を行うそうだ。最低限の道具だけを持ち、兵舎の裏の山に3日間籠るらしい。もちろん食料も自分で調達しなくてはならない。

「泣く泣くトカゲを食べる奴もいる。味はそんなに悪くないらしいんだが」

 目を丸くするシンシアにゼロは笑って説明した。

 シンシアが興味津々だったからか、それとも自分のバケツが空っぽのままなのが気になったのか、ゼロは立ち上がると言った。

「よし、やって見せてやる」

 ゼロは防水されているというブーツのまま池の浅い場所に入っていくと、じっと水面を見つめた。ゆっくりと手を水の中に入れ、しばらくじっとしていたが、水から手を出した時には、両手で魚を掴んでいた。

「すごい……!」

 目をまん丸にして惜しみない拍手をするシンシアに、ゼロは白い歯を見せて得意気に笑った。

「私にもやり方教えて」

 シンシアはゼロが止める間も無く、靴を脱ぎ捨て、スカートを縛ると、池の中に躊躇なくざぶざぶと入って行った。

 ゼロは唖然としてシンシアを見ていたが、戸惑いながらも丁寧に説明し始めた。

「まず、魚の動きを……」

 シンシアはゼロの良い弟子となって一生懸命挑戦したが、魚はたやすく彼女の手を逃れてしまう。

 数え切れないぐらいの失敗の後で、魚たちもそろそろ警戒し始めた頃、シンシアはやっと小ぶりの魚を、危うげながらもなんとか掴んだ。

「やった!」

「うまいぞ、シンシア!」

 だけど喜びはほんの一瞬だけだった。池から持ち上げてすぐに魚は暴れ出し、シンシアの手から勢いよくジャンプすると、池に飛び込んで逃げてしまった。さらに残念なことに、魚はその小さな姿からは想像できないぐらい大きな水しぶきを上げて飛び込んだので、二人とも頭からずぶ濡れになってしまった。

「君たちは一体、何をやってるんだ?」

 ずぶ濡れで茫然と池の中に立ち尽くす二人を、釣竿を持ったハールとアリスが目を丸くして見ていた。

「ごめんなさい、ゼロ。ひどい目に合わせちゃった」

「いや。俺は結構楽しかった」

 二人はハールの家で、暖炉の火にあたりながら並んで温かいスープを飲んでいた。

 ゼロは口元に楽しそうな笑みを浮かべていた。

 池で出会ったハールは、すぐに二人のずぶ濡れの服と髪を魔法で乾かしてくれた。

 ハールとアリスは昼食を釣りにきたらしかった。だけどシンシアのバケツを覗き込んだアリスが、一緒にランチはどうか、と笑顔で提案したのだった。

「家にハールさんが今朝焼いたおいしいパンと、私の作ったケーキとスープがあるの。サラダも用意できるから、シンシアがお魚を提供してくれると、素敵なランチになると思うんだけど」

 ちょうどお腹が空いてきていたシンシアは、この提案に迷わず大賛成した。

 初めて訪れたハールの家は、大きな木の上に建つ、絵本に出てきそうな可愛らしい家だった。家の中も、木と緑の香りがして、なんだか落ち着く。そして魔法学者だというハールの家には、そこここに本が積まれていた。

 シンシアは着いてすぐに台所を手伝おうとしたが、まずは温かいスープでも飲んで体を温めるようにと言われ、ゼロと二人で暖炉の前に並んでいた。

 シンシアはスープを飲み干すと、立ち上がった。

「よし、じゃ私はお台所を手伝ってくるわ」

「俺も手伝う」

 ゼロも立ち上がった。

「ゼロ、お台所に立ったことあるの?」

「無い」

「それじゃ、かえって邪魔になると思うの。私がゼロの分もちゃんとお手伝いしてくるから、ゼロはここでゆっくりしてなさいよ」

「う……、そうか……」

 シンシアは弟たちにするのと同じような調子で言い聞かせると、いそいそとキッチンに手伝いに行った。

 シンシアにばっさり切り捨てられ、肩を落とすゼロの背後で控えめな笑い声がした。

「ゼロ、……その、良ければこちらの作業を手伝ってくれないか」 

 ハールの「作業」は、木彫りの小物作りだった。ハールは倒木の一部らしい木材を、小刀を使って削り、彫っていく。彼の手の中で、素っ気ない長方形だった木片は、だんだん丸みを帯び、形を変えていった。

 ハールに頼まれたヤスリかけを終え、器用なハールの手の動きを眺めていたゼロは、思わず声をあげた。

「小鳥だ……!」

 いつの間にか、ハールの手の中の木材は、可愛らしい小鳥の形になっていた。

「すごいな、魔法みたいだ」

「これは魔法じゃない」

 ゼロの素朴な感想に、ハールは思わず笑みをこぼした。

「君もやってみるか?」

「いいのか?」

「これなら柔らかいから、彫りやすいだろう……指を切らないように気を付けて」

 ハールは木材を選び、小刀と一緒にゼロの前に置いた。

 ゼロは長方形の木材をじっと眺め、何やら真面目な顔で考えこんでいたが、やがて少しずつ小刀で削り始めた。

「ハール、その小鳥はどうするんだ」

「色を塗って、セントラルの雑貨屋に納品する」

 ゼロはびっくりして顔をあげた。

「お前は、魔法の塔の最高責任者になってもそんな仕事をしているのか?」

 ハールはなんだか気恥ずかしそうに目を伏せた。

「これは実益を兼ねた趣味みたいなものなんだ。それに、俺はあくまでも一時的な最高責任者『代理』だ」

「……お前が責任者になってから、魔法石の質が良くなり、価格が下がったと領民が喜んでいるのを何度も聞いている」

「そうか。それはよかった」

 ハールは目を伏せたまま、微笑んだ。

 ハールがそれ以上何も言わないので、ゼロも自分の手元に視線を戻した。

 二人はそれ以上は何も話さず、手元の作業に集中した。

 同じ頃、台所では二人の女の子がくるくると忙しく働いていた。

「アリスさん、ドレッシングはこれでいいですか?」

「うん。美味しい」

 アリスはスプーンで味見すると、笑顔を見せた。

「ねえ、私のことはアリスでいいし、敬語も使わないで。私もシンシアって呼ぶから。それとも、シンディって呼ばれてた?」

 シンディはシンシアの愛称としてよく使われる呼び方だ。

「ううん、私はシンディって呼ばれたことはないの。家族や友達はシシィって呼ぶの」

「シシィ?可愛い響きね。シンシアだからシシィ?」

「本当は弟たちの『お姉ちゃん(シッシィ)』が縮んでシシィになったんだけど、多分友達の半分ぐらいはシンシアだからシシィだと思ってる」

  シンシアの説明にアリスは笑った。

「私もシシィって呼んでいい?」

「もちろん」

「ねえ、このサラダ、くるみ入れてみようか」

「絶対美味しいと思う」

 二人の朗らかな笑い声がキッチンに響いた。

 ハールの手製のパンも、スープもくるみ入りサラダも、もちろんシンシアの釣った魚をハーブと一緒に焼いたものも、どれも素晴らしい出来だった。

 シンシアは出されたものを全てお腹におさめて、満足げなため息をついた。

「ご馳走様でした!すごく美味しかった」

「お口にあってよかった。シシィも、お魚をありがとう」

 テーブルのお皿を片付けると、アリスが新しい紅茶と一緒に彼女の手作りだというクラフティを出してくれた。タルトの表面から丸い艶々したアプリコットが顔を出している。

「わ、美味しそう」

「アプリコット、入れすぎちゃったかも」

 アリスははにかんで笑いながら、タルトを切り分けてくれる。

 ハールが紅茶用にミルクを持ってきてくれた。

 シンシアはミルクを見て、ふと、赤の領地にある牧場の話を思い出した。そして昨日聞いた、クレイトンとイーサンの会話を思い出した。

(そうか、あの時に「魔法の塔」って言葉を聞いたんだ)

 二人の会話には、「魔法の塔」「戦い」「被害」そんな言葉が出てきていた。

 思い出すと、なんだか気になる。

(一体、この平和そうなクレイドルで、何があったんだろう)

 今ここにいる人たちはみんなシンシアの事情を知っているので、何を質問しても問題無いはずだ。チャンスだと思った彼女は、思い切って彼らに尋ねてみることにした。

「クレイドルで、最近、何か大きな騒動があったんですか?」

 シンシアは、兵舎で聞いた話を説明した。

 シンシアの話を聞いた3人はすぐに思い当たることがあったらしく、顔を見合わせた。

 彼らがお互いを気遣うような様子を見せたので、シンシアは何かいけないことを聞いたのか、とはっとした。

「ごめんなさい。もしかして、聞いてはいけないことを……」

「いや、クレイドルの人間なら皆知っている話だ。その……ここにいるのは皆当事者なので、誰がどう話すべきか迷ってたんだ」

「当事者?」

「君が聞いたのは、1ヶ月ほど前に起きた、魔法の塔での戦いの話だ。そしてその戦いの現場に、ゼロもアリスも俺もいた。我が家のもう一人の同居人のロキも、そしてランスロットもいたんだ」

 ハールはそう言って穏やかに微笑むと、机の上で指を組んだ。

 思いがけない話にシンシアは驚いて、確かめるようにアリスとゼロを見た。

 二人はハールと同じようにただ、穏やかに微笑んだ。

 シンシアは、再びハールに視線を戻すと、黙って彼の話の続きを待った。

「魔法の塔は知っているか?ここに来る途中で見かけたと思うが」

「はい、さっきゼロが魔法石の精製と流通を司る公共の機関だと教えてくれました」

「そう。そして魔法を研究する機関でもある。上級魔法学者が、魔法を人々の生活に役立てるために、日夜研究に励んでいる。人を、幸せにするために。それが、本来魔法の塔の……魔法の、あるべき姿だ」

 ハールの表情は変わらず穏やかだったが、瞳は強い意志を感じさせた。

「だけど、魔法の塔の前の最高責任者だったアモン・ジャバウォックは、魔法によるクレイドル支配を目論んでいた。そしてそのために、人の道に外れた研究を繰り返していた」

 人の道に外れた研究。

 隣に座っていたゼロが、静かな声で説明を足した。

「彼らは、魔力を持つ人間を使った人体実験を繰り返していた」

 人体実験、という言葉を聞いて、シンシアは息を呑んだ。

 言葉の持つおぞましさに、すうっと体が冷える心地がする。

「アモンは、自分の野望のために、人間の持つ魔力から魔法石をつくり出す研究をしていた」

「でも、カイル先生は魔力はその人が持つ生命力と一緒だって……」

「実験に使われた人間はほとんどが命を落とした」

 ゼロの説明は端的で、容赦なかった。

 シンシアは震える手で口元を押さえた。

 ゼロが説明の続きを促すようにハールを見た。

 ハールは、労わるような目でゼロを見つめていたが、気を取り直すように口を開いた。

「人間の持つ魔力から作り出した魔法石はより強力なものになる。アモンは、魔力を持つ人々を犠牲にして作った強力な魔法石を、大量に隠し持っていた。一度に使えば、それこそ、クレイドルを吹き飛ばしてしまえるぐらいの魔力になる」

 シンシアは自分がこの国の「魔法」について勘違いしていたことに気づいた。

 クレイドルにとって、魔法はおとぎ話ではない。科学の代わりに発達したものだ。科学の力と同じように、使い方によっては傷つけ、破壊することもできる。

「俺たちはアモンを倒し、アモンの魔法石を破壊した。魔法の塔も、魔法石が隠されていた廃墟も赤の領地に近いから、戦いの衝撃が伝わったんだ」

「アモンという人は、どうなったんですか?」

「わからない。俺はアモンと魔法石を防御壁の中に閉じ込め、全ての魔法石を一度に爆発させた。アモンは何処かへ飛ばされたのか、魔法石の爆発で消し飛んでしまったのか……廃墟からアモンの体は見つかっていない」

「……ハールさんは、ご無事だったんですか」

「俺は爆発の直前に逃げ出したけど、その時の衝撃でクレイドルの外へ飛ばされてしまった。しばらく気を失って動けなくなっていた」

 ハールはさらりと言ったが、とても壮絶な戦いだったのだ。

「……ランスロット様は」

 ハールがゼロを見て、ゼロが説明を引き継ぐように口を開いた。

「ハールがアモンを追って廃墟に行ったとき、ランスロット様と俺は赤の領地に戻り、領民を避難させ、兵舎にあるだけの魔法石を使って赤の領地に防御壁をつくった。だけど何度目かの衝撃が来たとき、防御壁に大きなひびが入って、ランスロット様はそれをとっさにご自分の魔力で塞がれた。赤の領地はもちろん、セントラル地区も、深刻な被害はなかった。だけどランスロット様は一週間ほど動けなかった」

 シンシアは顔が強張っていくのを感じた。

「魔法の塔での戦いや、アモンとの駆け引きでずいぶんご無理をされていたから、その後も長い休養が必要だった。どうしても必要な公務は無理してこなされていたが……」

(そうか、それでイーサンはランスロット様の体を案じていたんだ)

 シンシアは胸が苦しくなり、唇を噛み締めた。

 ゼロはシンシアを安心させるように微笑んで見せた

「今はもうお元気になられたから、大丈夫だ。まだカイルの治療は続いているが……あれは、もう無茶をするな、って言うカイルの警告なんだ」

 アリスがそっと席を立ち、紅茶を淹れ直してくれた。シンシアは今聞いた話を自分なりに消化するためについ黙り込んでしまい、テーブルを囲む4人の間に沈黙が降りた。

 シリウスが、ハールとランスロットはクレイドルの二大魔法使いだと言っていたのを思い出す。

 クレイドルの二大魔法使いと、悪い魔法使いとの戦い。そんなに壮絶な戦いの話だとは思っていなかった。きっと誰もが、たくさんの傷を負った出来事だ。

「あの……、教えてくださってありがとうございました」

 シンシアは軽々しく尋ねてしまったことを反省し、教えてくれた3人に心から感謝した。

 ハールはシンシアに笑みを返して、テーブルにおいた自分のカップを眺めた。

「ランスロットは、クレイドルのためなら平気でその身を投げ出す。あいつは、自分はクレイドルのためだけに存在すると思っている」

「クレイドルのため“だけ”……?」

「赤の軍は世襲制だ。ランスロットは生まれた瞬間に赤のキングになることが決まっていた。クソ真面目なあいつは、キングスレー家の長男として生まれた以上、その身も、人生も、全てはクレイドルのためのものだと考えているんだ」

 ハールの笑みが、苦い後悔を含む、自嘲のようなものに変わった。

「……それを、昔から俺は十分知っていたはずなのに……」

「ハールさん……」

 ハールの隣に座っていたアリスが、労わるように彼の腕にそっと手を添えた。

 シンシアにはそれ以上尋ねることはできなかった。

 ゼロとシンシアはハールの家を後にし、並んで馬を歩かせていた。

 シンシアは、赤の軍の馬の中で一番大人しいと言う栗毛の馬を借りていた。名前は、スイートハート。額の真ん中に一箇所だけ白い毛が生えている部分があって、そこがちょうどハートの形をしているから付けられた名前だそうだ。「僕のスイートハート」とふざけて呼ぶ兵士もいるが、大抵はスイーティーと呼ぶらしい。シンシアもゼロに倣ってスイーティーと呼ぶことにした。

 ゼロは行きとは違う道を選んだ。やがて、遠くに魔法の塔が見え始める。

「ここを右に行くと、ハールとアモンが戦った廃墟の跡に出る。もう何も残ってはいないけど」

 魔法の塔から広い道のようなものが伸びていたが、近くに行ってみると、それは道ではなかった。森の木々がなぎ倒された後だ。

 倒された木々はやっと全て運び出され、これから新しく植樹されるのだとゼロが教えてくれた。

 深い森にぽっかり空いた空間は、どれほど凄絶な戦いだったかを物語っている。その空間は、魔法の塔を通り過ぎ、赤の領地まで伸びていた。

「魔法の塔は、無事だったのね」

「魔法の塔は、アリスと魔法学者が守った」

「アリスが……?」

 シンシアはびっくりして聞き返す。

 そう言えば、魔法の塔の戦いにアリスもいた、とハールは言っていた。

 彼女はとても綺麗だけど、シンシアと同じ普通の女の子に見える。もしかして、何か特別な力でも持っているのだろうか。

「そうか、お前はまだ知らなかったのか」

「何を?」

「科学の国の人間には、魔法を弾き飛ばしたり、無効化する力がある」

「魔法を、無効化……」

 魔法を使えるというならともかく、無効化することが何の役に立つのだろう。とっさにその力の使い道は思い浮かばなかった。

「悪い魔法使いと戦うときにしか、役にたたなそう」

 シンシアが自分の手を見ながら呟くと、ゼロが笑った。

「そうだな。もう悪い魔法使いはいないから、使う機会もないだろう」

 アモンこそが悪い魔法使いだったから。

 ゼロは、感慨深げに魔法の塔を眺めた。

 二人は、木々がなぎ倒された跡を、赤の領地に向かって進んでいった。

 まっすぐに赤の領地に伸びた魔法の跡。これだけたくさんの大木をなぎ倒してしまうような力から、ランスロットは赤の領地を守ったのだ。ここを駆け抜けた凄まじいエネルギーを想像し、シンシアは身震いした。

「街が無事で、本当によかったね」

 シンシアの呟きに、ゼロは当時のことを思い出したのか、わずかに眉を寄せた。

「ランスロット様のおかげだ。だけどもう、あんな無茶はさせない。ランスロット様を独りで戦わせたりはしない」

「独り……?」

「何年もの間、アモンは大量の魔法石を使い、クレイドルを人質にランスロット様を脅迫していた。ランスロット様はアモンに従うふりをしながら、ずっと機を待っていた。ランスロット様はクレイドルを守るために、アモンと刺し違える覚悟だったんだ」

 ハールの家では聞かされなかった事実だった。

 シンシアは驚いてゼロの横顔を見つめる。

「俺たちは、アモンが倒されるまで、何も知らなかった」

 ゼロの横顔は、ハールと同じように、苦い後悔を滲ませていた。

 それは、どれほど孤独な戦いだったのだろう。

 シンシアの脳裏に、冷酷にさえ見える美貌が浮かんだ。

 孤独な戦いを選び、乗り越え、クレイドルを守り抜いたランスロットの悲しいまでの強さを思う。

 その姿は、昨日シンシアの隣で微笑んだランスロットとは別人のようだった。シンシアは、ランスロットが急に遠くなったような気がした。

「今、俺たちはもっとランスロット様を理解しようとしている」

「理解?」

「こんなことを考えるのは不敬で無礼なことで、俺たちはただ盲目的に主命に従えばいい。今まで赤の軍はそうだった。だけどそのせいでランスロット様を独りで戦わせることになった」

 ゼロは、強い意志を感じさせる目でまっすぐ前を見ていた。

「だから俺たちはランスロット様を理解する。そしたら、少なくともランスロット様がまた無茶をしようとしたら気づけるはずだ。それで、今度こそ絶対に止める。叱責を受けることになっても、仕事をなくすことになっても、ランスロット様が倒れるより何倍もマシだから」

 これはランスロット様には内緒だぞ、とゼロは付け足した。

 シンシアは温かな気持ちになって、微笑んだ。

「みんな、ランスロット様が好きなのね」

「そうだな。尊敬しているし、信頼している。俺は恩もある」

 ゼロはふと頬を緩め、シンシアの方をみた。

「それに、ランスロット様はもうご無理できないはずなんだ。ヨナに誓わされたから」

 ゼロの話では、戦いの後で、全てを知ったヨナがランスロットの枕元で泣きに泣き続け、ランスロットは仕方なく、もう無理はしない、何か有事の際は、必ずクイーンに相談する、とヨナに誓ったそうだ。ヨナにしかできない方法だ、とゼロはもう一度笑った。 

 シンシアも釣られて笑った。

「あの戦いの前から、赤の軍はランスロット様を中心とする一枚岩だった。だけど今の赤の軍の方が、ずっと強い」

 全てが明るみに出て、兵士たちのランスロットへの信頼は揺るぎないものになったのだ、とゼロは言った。

「これは立派な赤魚ですね」

 エドガーがバケツを覗き込んで感心した。

 シンシアは釣った魚のうち、ハールに聞いて、一番美味しいと教わった魚を一匹だけ、ランスロットへのお土産に持ち帰った。

 シンシアとゼロは馬を馬舎に戻し、手入れしてやった後で、キッチンの出入り口に魚を持っていった。出てきたキッチン担当の使用人たちと、どこからか現れたエドガーが口々に魚を褒めてくれた。

「お任せください、最高のディナーにして見せましょう」

 シェフのタミエルがどん、と自分の胸を叩いて見せた。

「ずいぶん賑やかだな」

「ランスロット様!」

 使用人たちは皆ランスロットがこんなところに現れたので、とても驚いた。慌てて頭を下げる。

 シンシアは今日やっとランスロットに会えたのが嬉しくて、笑顔で駆け寄った。

「お魚を釣ってきました。タミエルさんが、夜はこれでランスロット様にご馳走をつくってくださるそうです」

 ランスロットはシンシアの背後に目をやると、憮然として小さなため息をついた。

「そんな目で見ずともちゃんと頂く」

 シンシアが不思議に思い振り返ると、使用人たちとゼロ、エドガーが並んで、ただニコニコと微笑んでいるだけだった。

 首を傾げるシンシアの頭に、ランスロットの手が載せられた。

 見上げると、ランスロットはかすかな微笑みを浮かべていた。

「魚釣が得意だというのは本当らしいな……夕食が、楽しみだ」

 シンシアはランスロットの言葉にぱっと顔を輝かせた。

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