🐕1
「こら、アンリ!廊下を走るんじゃない」
「ごめんなさい!」
ヨナの叱る声を背中に聞きながらも、アンリの足は止まらない。
口元は自然に綻んでしまい、心はふわふわと浮き立っていた。
やっとゼロに会える。
ゼロはマリクの小隊を引き連れ、郊外の小さな村に出かけていた。今回の任務は、その村で相次いでいた暴動の調査及び鎮圧。任務は無事遂行された。ところが、昨夜帰還したのは隊員だけだった。マリクの話では、ゼロは帰途で突然用ができたため別行動となったらしい。
そして今日、一日遅れでゼロが帰還したという知らせが届いだのだ。
アンリがゼロに会うのは、一週間ぶりだった。
事情を知っているヨナも、今日ばかりは大目に見てくれるのか、それ以上の叱責は飛んでこなかった。
早く『ただいま』を聞きたい。
あの、ちょっと低くて甘い声で。
こちらを振り返り、優しい笑顔で手を差し伸べるゼロの姿が心に浮かんだ。
アンリはすぐにでも部屋に飛び込みたかったけれど、ドアの前でかろうじて立ち止まった。髪を手早く手櫛で整えてから、大きな深呼吸を一つして、ノックをする。
どうぞ、の返事とほぼ同時に、飛び込むようにドアを開けた。
「お帰りなさい、ゼロ!」
窓際にいたゼロは、制服姿のまま、アンリを振り返った。
そしてアンリの頭の上から爪先まで視線を滑らせた。まるで品定めをするように。
それはほんの一瞬。瞬きぐらいのわずかな時間。
だけど、まっすぐゼロの腕の中に飛び込むつもりだったアンリの足を止めるのに十分な「違和感」だった。
「……ただいま、アンリ」
ゼロが何事もなかったように優しく微笑んで、手を差し伸べる。
心で思い描いていた通りの、いつもの彼の、優しい笑顔だ。
だけど。
アンリは違和感を抱いたまま、ゆっくりとゼロの元へ向かう。
廊下を走り抜けてきたはやる気持ちは、水をかけられたようにすっかりしぼんでしまった。そのかわりに心の中に生まれた、自分でもうまく説明できないもやもやとした何かが、アンリの歩みを遅くする。少しずつ足が前に進まなくなり、ゼロの手にたどり着く前に、ついに彼女の足は止まってしまった。
「……どうかしたのか?」
不思議そうにゼロが問いかける。
自分でもわからない。
どう答えたものか迷うアンリの耳に、くぅ、という小さな声が聞こえた。
声のした方を見ると、リコスがバスルームへの扉の影から、ひょこりと顔を覗かせている。
「リコス。どうしたの?そんなところで」
名前を呼ばれたリコスは、すぐにアンリの元へ駆け寄ってきた。足元にまとわりついて、甘えるように鼻をならす。いつもなら元気に振り回されている尻尾も、しおれるように下がってしまっていた。
(いつもなら、帰ってきたゼロにじゃれついて離れないのに)
「どうしちゃったの、リコス?」
アンリはしゃがみ、リコスを撫でてやる。
リコスの様子もいつもと違う。
具合でも悪いのだろうか。
「そんなことより、やっと帰ってきた恋人に、キスもしてくれないのか?」
——今、そんなことって言った?
アンリは我が耳を疑うような思いで顔をあげた。
見下ろしているのは、いつもの優しい笑顔だけど。今の言葉も、ゼロの声だったけれど。ゼロの口から出たものだとは信じられない。
「早くお前を抱きしめたいと思っていた」
ゼロはアンリの驚いた顔を気にもとめず、彼女の腕を掴むと、強引に立たせ、抱き寄せた。いつもより強く、柑橘系のコロンが香る。
何かざらついたもので肌を擦られるような感覚が、ぞわりと這い上がってくる。
「ゼロ……」
アンリは思わず身をよじって逃げようとしたけれど、ゼロの力は強くて、アンリは逃げられない。
(いや、怖い……!)
「痛ってえええええ」
突然、ゼロが素っ頓狂な声をあげた。
驚いて見ると、ゼロが醜く顔を歪めていた。彼のこんな表情は、今までみたことがない。何事かと足元に視線を動かすと、リコスが必死の形相で、ゼロのふくらはぎに噛み付いていた。
「リコス!」
アンリは驚きのあまり、咄嗟に動けなかった。
「くそ、離せよ!」
ゼロは品のない悪態をつきながら、必死でリコスを振り払おうと足をふりまわしたり、引っ張って引き剥がそうとした。だけど噛みついたリコスは離れない。喉の奥から、聞いたことのないような低い唸り声を上げている。
「ちくしょう、この野郎!」
ゼロはついに拳を握り締めて、リコスを殴ろうとした。
「やめて、何するの!」
アンリは慌ててリコスを庇うように抱きしめた。
リコスはやっとゼロの足から離れたが、まだアンリの腕の中で牙を剥き出し、ゼロを睨みつけるようにして、低い唸り声をあげ続けている。
ゼロも、アンリがみたことがないような凶悪な表情をしている。
リコスもゼロも、どうかしている。
「ゼロ、一体どうしちゃったの?」
アンリは震える声で問いかける。
ゼロははっとすると、取り繕うように、いつもの穏やかな表情を取り戻す。
「……すまない、疲れているんだ、きっと。許してくれ」
ゼロはいつもの柔らかい微笑みを浮かべたけれど、アンリは微笑み返すことはできなかった。
「疲れているなら、ゆっくり休んだ方がいいと思う。リコスは私が預かるから」
アンリはリコスを抱きかかえたまま、ドアまで後ずさると、部屋を飛び出した。廊下に出た途端、駆け出す。
ゼロが何か言っていたかもしれないけれど、アンリは振り返ることもせず、逃げるように走り続けた。
幸い、ヨナに見つかって咎められることはなかった。
🐕2
「おっと」
混乱しながら部屋に駆け戻る途中で、アンリは誰かにぶつかった。
弾き返されるようによろけたアンリは、しっかりとした腕に支えられた。
「ごめんなさ……、ランスロット様!申し訳ありません」
ランスロットは勢い付いたアンリの体当たりにもびくともせず、アンリの顔を見つめると、わずかに眉をひそめた。
「何があった」
ランスロットの表情はほとんど変わらない。だけど静かな声が、様子のおかしいアンリを案じてくれている。
「ランスロット様、あの、あの、……ゼロが……」
アンリは落ち着いて、順を追ってランスロットに説明しようとした。だけどゼロの名前を口にした途端に、涙が溢れ出してしまった。
一体何が起こったのか、アンリにもわからない。
混乱する自分の心を見極めようとすると、深い深い喪失感が現れた。
アンリはおそらく何かとてもとても大切なものを失くしてしまったのだ。だけどそれが一体何なのか、はっきりわからない。
犬を抱きしめたまま子供のように泣きじゃくるアンリを見つめ、ランスロットはそっとため息をつくと、自分の部屋へアンリを招き入れた。
外では木枯らしが寒そうな音を立てている。
でも部屋の中は暖かかった。
暖炉の前でゆったりと長くなって眠っていたシャインは、アンリたちが入ってくるとピクリと耳を動かしたが、こちらを向くこともなく、挨拶のように尻尾を一回パタンと振っただけだった。
アンリはリコスを膝に抱え、勧められるままにソファに座った。
ランスロットはしばらく何も聞かなかった。
暖かく静かな部屋の中で、アンリの動揺した心も少しずつ落ち着いてきた。
やがて、俯いたままのアンリの前に、湯気を立てる紅茶がそっと置かれた。
ランスロットが手ずから淹れてくれた紅茶からは、甘い香りが優しく立ちのぼる。アンリもよく知っている杏のリキュールの香りだ。
紅茶はティーカップではなく、マグカップに淹れられていた。ランスロットの優雅な仕草に、コロリとした厚みのあるマグカップはあまり似合わない。だけど温かみのあるまろやかな手触りと伝わってくる温もりは、アンリを慰めてくれた。
部屋の中は暖かいのに、体はなぜか冷え切っている。アンリは温もりを求めるように、マグカップを両手でしっかり包み込んだ。
膝の上のリコスも、アンリを温めるかのようにぴったりと寄り添っている。もしかしたら、リコスも寒いのかもしれない。
「……なるほど」
アンリの辿々しい説明を聞き終えたランスロットの瞳が、考え込むように細められた。こんな表情をすると、彼の整った容貌は、冷たそうな印象を与える。
だけどアンリもリコスも、ランスロットの優しさをよく知っていた。
やがて彼は冷たく研ぎ澄まされた表情のまま、口を開いた。
「俺は帰還したばかりのゼロから報告を受けた。その時、不審なものは何も感じなかった」
アンリは不安になって、唇を噛み締める。
だけどランスロットは表情を変えないまま続けた。
「だが、ずっとゼロの一番近くで寄り添ってきたお前とリコスが違和感を感じたというなら、そこには必ず何かあるはずだ」
「ランスロット様……」
「早急に調べよう。お前とリコスは、明日の夜までゼロに近づくな。……できるか?」
「……はい」
アンリはリコスを抱き寄せながら頷いた。
🐕3
自室に戻りベッドに横になると、アンリはリコスを抱き寄せた。
ゼロのことを思い出すと、またじわりと涙が滲んできた。
ランスロットに、「ゼロに近づくな」と言われて、アンリは心のどこかで安心していた。そしてその事実に、彼女はさらに傷ついていた。
まさか自分がゼロに会いたくないと思うなんて。
あんなに一緒にいたのに、ゼロにはまだ自分の知らない部分があったということなのだろうか。
そう考えると、「ゼロに会いたくない」と考えるのは間違っているように思えてくる。だけど、もう一度あのゼロに向き合う勇気がどうしてもでてこない。
ゼロに会うのが、怖かった。
リコスが、くぅ、と慰めるように鼻を鳴らす。
アンリはリコスのふわふわした毛を撫でた。
まるで、宇宙の真ん中にリコスと二人だけで放り出されたよう。
二人は、帰る場所をすっかり見失ってしまった。
寒々しい現実から逃げるように、アンリはリコスと寄り添いあったまま、眠りについた。
🐕4
アンリが出て行ってからしばらく考え込んでいたランスロットは、もう一度執務室に行くことにした。今日ゼロに報告を受けた場所に戻って、その時のことを思い出し、何か妙な兆候はなかったか、自分が見落としていることはなかったか、確認するつもりだった。
さて、どうしたものか。
消灯時間を過ぎ、人気のない廊下を歩きながら、ランスロットは思考を巡らせ続ける。
考え事をしながら執務室のドアに手をかけた彼は、ピタリと動きを止めた。
誰もいないはずの室内から、物音が聞こえる。
ベルトの短剣を確認してから、ドアを開け、明かりをつけた。
中にいた人物が、驚いて振り返える。
ランスロットも彼がいたことに驚いたが、表情を押し隠した。
「……ゼロ、明かりもつけずに何をしている?」
「すみません……」
ゼロは、いつものように控えめに目を伏せた。
ランスロットはゼロに気づかれないように、彼を観察する。表情や仕草は、見慣れたゼロらしいものだ。
まるで忍び込むように執務室にいたゼロはあからさまに怪しい。だけどランスロットは先ほどのアンリの報告を鑑みて、敢えて追求せず、様子を見ることにした。
「探し物か?」
「……はい、調べたいことがあって書類を探していました」
「……書類?」
「先日の、アヴァロン・カンパニーの」
「ああ、それならエドガーが持っている。生憎休暇中だが、明日の午後には帰るはずだ。戻り次第、お前の元へ届けさせよう。それでいいか?」
ランスロットは微笑んで見せた。
「はい、ありがとうございます」
礼儀正しく挨拶をして出て行こうとしたゼロを、ランスロットは呼び止めた。
「ゼロ、何か困っていることはないか」
「えっ」
本当に思いがけないことを聞かれたというように、ゼロが目を見開いた。
「いえ、その、特には」
「……そうか。赤の軍がいつでもお前と共にあることを忘れるなよ」
ゼロはぎゅっと眉間に力を入れたが、すぐに顔を伏せた。
「ありがとうございます」
ゼロは静かに執務室を出て行った。
ランスロットはゼロの足音が聞こえなくなってから、おもむろに、机の一番下の引き出しの鍵を開け、厚みのあるファイルを取り出した。
アヴァロン・カンパニー調書。
たった今ゼロが探していた書類だ。
調書の中身は全て頭の中に入っているが、ランスロットはファイルを開いた。
アヴァロン・カンパニーは、3年前突然クレイドルに現れた海外投資会社だ。異国にある大量の魔法石が自生する森を買い取り、毎年一定量の魔法石を採掘し、それを資産に替えるプランを紹介し、投資を募っていた。その投資話に乗った資産家たちからフィードバックが滞っているとの相談を聞くようになったのが昨年初め。外交官ムースが現地まで赴いて調査した結果、そのような森はなく、アヴァロン・カンパニーは実体のない会社だと判明した。他国との国交に力を入れ始めたクレイドルで初めて起きた、大規模な詐欺事件だ。
直接投資を募った連中はすぐに捕まったが、彼らだけで全てを取り仕切ることができたとは到底思えない。赤の軍では、上流階級に詳しい、彼らに指示を出した連中がいるはずだと考えた。しかし、軍の調査は未だその黒幕にたどり着けていない。
——さて、どうしたものか。
この書類を、ゼロが隠れて調べようとしていた。
ランスロットにとって、他の幹部と同様、ゼロは絶対の信頼に値する部下だ。
もしゼロがランスロットに言えないようなことをするとしたら、それは彼が、他に選択の余地がないほど追い詰められているということを意味する。かつての自分のように。
あるいは。
以前耳にした、ゼロのタトゥーのことがふと頭をよぎった。
「さて、どうしたものか」
ランスロットは今度は声に出してつぶやくと、わずかに眉を寄せ、静かに目を閉じた。