リコスの勲章2

🐕5

アンリはちょっと遅い昼休みを取って、裏庭のベンチに腰掛けていた。朝あまり食べなかったアンリのために、給仕係のクレイトンが温かい紅茶の入ったポットと焼きたてのビスケットを持たせてくれた。

(心配かけちゃった……)

 反省とともに小さなため息をつく。

足元ではリコスが無心に風に舞う枯れ葉にじゃれていた。昨夜のことが嘘のように、いつも通りのリコスだ。

 昨日はゼロがいつも通りのゼロではなく、リコスもいつも通りのリコスではなかった。だけどアンリは迷わずリコスを連れて、ゼロを置き去りにしてしまった。

(本当に、それでよかったのかな)

一晩置いて考えると、ますますわからなくなってくる。

 もう一度、小さなため息がこぼれた。

 ふと、俯くアンリの足元に影がさした。

「そんなにしょげないで下さい」

 聴き慣れた柔らかな声に、慌てて顔をあげる。

「エドガー!」

「ただいま戻りました。ランスロット様から一通りの話は聞きました。俺の休暇はちょっとタイミングが悪かったみたいですね」

 エドガーは申し訳なさそうに微笑んだ。

 頼もしい味方が帰ってきた。

 アンリはおかえりなさいの言葉も忘れて、エドガーに訴える。

「エドガー、どうしよう、やっぱり私、間違っていたのかも……」

 気が緩んでしまったのか、最後は涙声になった。

 唐突なアンリの訴えにも驚かず、エドガーは膝をついて、アンリの顔を覗き込んだ。微笑みを消し、真剣な表情で、ゆっくりアンリに語りかける。

「アンリ、直感を軽くみてはいけません。貴女がゼロに恐怖を感じたのなら、そこには何かがある。貴女はすぐに逃げていいのです。自分の身を守ることを第一に考えてください。俺は、貴女が無理にゼロと仲直りしようとしなくて本当に良かったと思っていますよ」

 エドガーの柔らかな声を聞いていると、昨日から不安定だったアンリの心も、落ち着いてきた。

「エドガー……」

「大丈夫、もし貴女が間違えていたら、俺とゼロが教えてあげます」

 エドガーは付け足すと、さっきから大喜びで戯れついているリコスを撫でた。

「さて、見たところリコスは怪我もしていない、具合が悪そうでもない。そうなると、答えは出たようなものですね」

 立ち上がったエドガーは、にこりと笑ってアンリに手を差し出した。

「さあ、一緒にゼロに何が起こっているのか確かめに行きましょう。幸い今日の午後はエースの隊の訓練があります」

「でもランスロット様に、ゼロに近づくなって言われてる」

「大丈夫。貴女のことは、俺たちが守ります」

 アンリはぎゅっと唇を引き結ぶと、覚悟を決めてエドガーの手をとった。

🐕6

訓練場を見ると、どういうわけか、小隊長のマリクが整列した隊員の前にいて、ゼロはその後ろのベンチに腰掛けていた。

エドガーは、アンリたちに訓練場の手前で待っているように伝え、ゼロの元へ何の気負いもない様子で近づいていった。

アンリはドキドキする胸の前で祈るように手を重ね、エドガーとゼロを見守る。

リコスはアンリの足元に行儀よく座っていた。

「あいつどうするつもりなんだ?」

「カイル!」

 いつの間にかカイルも兵舎から出てきていた。

「この訓練が終わったらゼロを診察してみるって言ってんのに、エドガーの奴それまで待てねーってよ」

 カイルは頭を掻きながら顔をしかめる。

 ランスロットとヨナも兵舎から出てきた。

エドガーの声が聞こえてきたので、アンリは慌てて訓練場へと視線を戻す。

「おや、ゼロ、どうしたんです。訓練は?」

「ああ、右肩を痛めてしまって……」

「それは大変。まあ、左で抜けばいいでしょう。剣を取りなさい。久しぶりに愛弟子の上達具合を確認してあげましょう」

「そ、そんな無茶な。俺は、怪我を……」

 柔らかな口調とは裏腹に、エドガーは目にも止まらぬ速さで抜いた剣先をゼロに突きつけた。

 ゼロは、引きつった表情で、固まったように動かない。

 何事か、とざわめき始めた隊員たちを、マリクが抑える。やがて皆、アンリと同じように静かに二人の様子を見守り始めた。

「さあ、立ち上がって剣を抜け!」

 柔らかなのに凛とした、芯のある声が響いた。

 ゼロはエドガーの剣先から逃れようと立ち上がり、後ろに下がろうとしたが、エドガーは逃さなかった。エドガーの剣先は、まるで吸い付くようにゼロの喉元に突きつけられたまま、少しもぶれない。

「くっ……」

 ゼロが観念したように、剣を抜いた。

(んん……?)

 アンリは思わず眉を寄せた。

 剣を構えたゼロの姿が、なんだかいつもと違う。

 剣を扱うゼロの姿は、アンリにいつも人間の体の美しさを思い起こさせた。「鞘から剣を抜き構える」ただそれだけの動作が、精緻に研ぎ澄まされた美しさを持っていて、見惚れてしまうことさえあった。

それなのに。

今日のゼロからは、その美しさがかけらも感じ取れない。つまり、ひどく不格好なのだ。

「……どういうことだ」

 不審気なランスロットの声がした。

「ランスロット様……?」

 ランスロットの隣に立つヨナも、不可解そうに眉を寄せている。

「お前たちにはまだあれがゼロに見えるのか?」

「えっ……?」

 ランスロットの言葉の意味がわからないまま、アンリとカイルは再び訓練場の二人を見た。

 鋭い音がして、エドガーの剣が一撃でゼロの剣を叩き飛ばす。エドガーはそのまま容赦無くゼロの胸を蹴り飛ばし、ゼロは尻から不格好に倒れ込んだ。エドガーの足がゼロの胸を乱暴に押さえつける。

「ひっ」

 ゼロが情けない悲鳴をあげた。腰を抜かしてしまったようで、後退りすることさえできない。

「あれっ……?」

 アンリは思わず、その場に似つかわしくない間の抜けた声をあげてしまった。

「なんだありゃ」

 カイルも訝しげに呟いた。

「一体誰だ、あいつ?」

 何が起こったのかわからなかった。

 今、エドガーの足に押さえつけられ、青い顔で情けなく震えている男は、——ゼロではなかった。

 さっきまでは、確かにゼロだったはずなのに。

 同じ髪の色、目の色、良く似た顔立ち。背格好も同じ。だけど、明らかにゼロではない別の人間になっている。

 見たこともない、無様な男だ。

 二人の様子を見守っていた部下たちも、ザワザワと騒ぎ始めた。

 呆然と訓練場を眺めるアンリの隣で、ランスロットがヨナに手早く何かを命じた。ヨナは神妙に頷き、厩舎の方へ駆けていった。

 ヒュ、と空を切るような鋭い音がして、アンリは再び訓練場に視線を戻した。

エドガーの剣が、「ゼロに似た男」の右耳の上でピタリと止まっている。

「ゼロはどこです」

 男は真っ青だ。声も出せないようで、パクパクと口を動かしている。

 エドガーがもう一度剣を大きく振り上げ、躊躇せず同じ場所に振り下ろした。

 アンリは思わず身をすくめ、目を閉じた。

「うわあああ、言う、言う」

 男の声は裏返って、甲高い悲鳴のように聞こえた。

 そっと薄目を開け、恐る恐る男の様子を見る。

 男の耳はまだ頭に付いたままだった。エドガーの剣は再び男の右耳の上でピタリと止まっている。だけど今度は少しだけ深く振り下ろされたようで、男の頬を一筋の血がゆっくりと伝い落ちた。

 男はすでに子供のように泣き出していた。ガタガタと震えながら、涙でぐしゃぐしゃの顔で情けなく訴える。

「あいつはモートン家にいる。……ブランシェットの、モートン家だ」

 ブランシェットはクレイドル郊外の村で、モートン家はその村の大地主だ。ブランシェットは、ゼロが部下たちと別れた村でもある。

 エドガーは小さく息をついた。

「モートンが甘い人間でよかった」

 エドガーはその場で直ちにランスロットの許可をとり、ゼロの小隊を引き連れ、ブランシェットに向かった。

🐕7

「……なるほど」

 ヨナに呼ばれて、赤の兵舎に駆けつけた魔法の塔の最高顧問ハールは、ゼロに扮していた男をしばらく観察した後で、納得したように呟いた。

 赤の兵舎の医務室。本来なら執務室に行くはずだったが、カイルが手当の必要を強く主張したので、皆は医務室に移動した。

幹部が見守る中、椅子に縛られた男は無言でハールを睨み付ける。

 ハールは怯むことなく、日頃の彼らしからぬ冷徹な眼で男を見下ろした。

「よくできている」

 ハールはそう言いながら左手で魔法石を取り出すと、右手を男にかざした。

男が青い光に包まれる。

「あ……!」

 光が消えた時、その場にいたほとんどの者が思わず声をあげていた。

 声こそあげなかったが、ランスロットも驚きに目を見開いた。

 男は、再びゼロになったのだ。

「ハール、どういうことだ」

「印象操作の魔法の応用だ。良く似た見かけと仕草の人物の、印象をあえて曖昧にして、見たものにそれがゼロだと錯覚させる」

 ハールは再び男にかけた魔法を解き、ランスロットに向き合った。

「とてもよくできている……もっとも、俺がきた時にはすでにその魔法はほとんど解けていた。絶対にゼロではないとわかるようなことでもあったのか?」

「俺は此奴が剣を抜く姿を見た途端、ゼロには見えなくなった」

 ランスロットの答えに納得したように頷いたハールは、わずかに表情を和らげた。

「ふ……なるほど。剣の天才を演じるにはこいつは力不足だったわけだ」

 鍛錬を積んだ者なら、剣の扱い、剣を構える姿を見ただけでその人物がどの程度剣を使えるか判断できるそうだ。剣に関して全くの素人だったアンリでさえ違和感を感じたのだから、ランスロットやヨナ、そしてエドガーには、彼が素人であることが一目瞭然だったのだろう。

エドガーは最も効果的な方法でゼロを見極めたのだ。

「……さて、まだ魔法が残っているな。まずは髪」

 ハールが再び男に手をかざすと、黒い髪の色が抜けていき、髪全体がメッシュ部分と同じ金色になった。

「そしてタトゥー」

 首にあった、ゼロと同じタトゥーが消える。

「そして肌の色」

 褐色の肌の色が斑に抜けていき、やがて全てランスロットと同じぐらい白く明るい肌色となった。

 皆が唖然として見守る中、ハールが全ての魔法を容易く解いていく。

最後には、ゼロに少しだけ顔立ちが似た、見知らぬ男が残った。

「ふむ、瞳の色だけは自前か」

 瞳だけは、ゼロと同じ青空の色だった。金の髪と白い肌はランスロットと同じなのに、彼はどこか薄汚れた印象だ。荒んだ表情のせいかもしれない。

 男は魔法が次々解かれていく間も、諦めたように静かだった。

「名前は」

 ハールが端的に尋ねると、男は拗ねたように視線を逸らした。

「答えよ」

 ランスロットが静かなのに威圧感のある声で再び尋ねた。

 男はランスロットを睨みつけたが、すぐに目をそらし、不貞腐れたようにボソリと答えた。

「クリストファー」

「クリストファー、何のためにこんなことをした」

「……」

「少々痛い目を見てもらっても構わんのだが」

 ランスロットの瞳が赤く染まり始め、カイルが慌てて止めた。

「おい、待て待て。魔法は駄目だ!」

 かつての魔法の塔との戦いでランスロットの体はずいぶん弱っているため、主治医のカイルはまだ彼に魔法を禁じていた。

「それなら俺が代わりにやろう」

 すかさずハールが新しい魔法石を取り出した。彼の右手の中でぱちぱちと青白い光が爆ぜ始める。

「別に魔法を使わずとも痛めつけることはできる」

 ランスロットが張り合うように剣を抜いた。

 アンリの足元ではリコスが歯をむき、低い唸り声をあげている。

 カイルでさえ彼らの攻撃を止めようとはせず静観していた。

 この場にいる誰もが怒っていた。

「わかった、話す。話すからそんな物騒なものはしまってくれ。あんたも。その凶暴な犬を向こうにやってくれ」

 男はあっけなく降参した。

「凶暴だなんて失礼ねえ、こんなに可愛いのに」

 アンリが抱き上げると、リコスは甘えるように、くう、と小さく鼻を鳴らした。

🐕8

クリストファーはモートン家に滞在している劇団の俳優であり、金に釣られてこの仕事を引き受けたのだと告白した。

目的は、アヴァロン・カンパニー事件の調査がどこまで進んでいるのか確かめること。モートンは赤の軍の調査がすでに自分にまで及んでいるのかを知りたかったのだ。

ランスロットは目を伏せた。

アヴァロン・カンパニーの詐欺事件に関わっていた有力者の一人は、モートン卿だった。軍の調査はまだモートン卿にたどり着いていなかったので、彼の墓穴のおかげで、調査は大きく進展したことになる。

しかし、ランスロットの知る限りモートン卿はあれほど緻密な犯罪を計画できるような人物ではなかった。さらに背後にはモートンを操った大物が控えているはずだ。

どうやらこの事件は、当初の予想よりも根が深いらしい。エドガーは無事この事実に辿り着けているだろうか。

ランスロットは物憂げな表情のまま窓の外へ目をやった。

ランスロットの追及が一段落したと見たハールが口を開いた。

「俺も2、3確認したいことがあるんだが」

 ランスロットが頷いてみせると、ハールは男に向き直った。

「この件に関わっている魔法学者について教えてほしい」

「魔法学者?」

「魔法で君の姿を変え、君に赤の軍内部の情報を教えた者だ」

 クリストファーは姿を変えられた後、さらに魔法で赤の兵舎の映像を見せられたという。赤の兵舎の様子を頭に叩き込み、さらに隣の部屋にいるゼロの様子を覗き見し、赤のエースの振る舞いやくせなどを身につけるように命じられた。俳優である彼が完璧に赤のエースを演じるために。

 答えないクリストファーに、ハールは重ねて尋ねた。

「……金髪の、背の高い若い男ではなかったか?」

「わからねえよ。いつもローブを目深にかぶっていたし……確かに会話したはずなのに、声さえ思い出せねぇ。くそ、何でだ」

 クリストファーは吐き捨てるように答えた。戸惑いの浮かぶ表情は、とても嘘をついているようには見えない。

 ハールとランスロットは顔を見合わせた。

 おそらくかつて上級魔法学者のローブにかけられていた、従来の印象操作の魔法だ。

「ああくそっ、すっかり騙されたんだ。あいつの言うことは出鱈目ばかりだった」

「出鱈目?」

「あいつは赤のエースは孤立しているから絶対にバレる心配はないって言った!だから俺も引き受けたんだ。それなのに赤のキングでさえ気にかけている。あいつは全く孤立なんてしていないじゃないか」

 クリストファーは声を荒げる。

 これは本人に聞かせてやりたいな、とカイルが小さな声でつぶやいた。

 クリストファーはアンリの方を見ると、太々しい笑みを浮かべた。

「あんたのことも聞いていたぜ。可愛い恋人がいるって聞いたから、ちょっとはいい目を見れると思ったのにな。その凶暴な駄犬さえいなければ天国を見せてやれたのに、残念だな、姉ちゃん」

 アンリは頬に血が昇るのを感じたが、震える声で言い返した。

「……あなたには無理よ」

 アンリの腕の中のリコスがまた低い唸り声をあげ、男がびくりと身をすくめた。

 ランスロットが煩わしげに手を振った。

「聞くに耐えん。地下牢に入れておけ。あとの取り調べはエドガー達が帰還してからだ」

 男は汚い悪態を吐きながら、兵士たちに連行されて行った。

「ハール、お前はダリムの仕業だと考えているのか」

「わからない。だけど、これは決して容易な魔法ではない。その上お前さえ気づかないぐらい、かけられた魔法は巧妙に隠蔽されていた。誰にでもできることではない。魔力だけではなく、術の研鑽が必要だ。俺の知る限り、そんなことができそうなのはダリムさんかアモンぐらいしか思いつかない」

 アモンは今投獄されている。だから。

「ダリムがアヴァロン・カンパニーに関わっていたと?」

 ハールは答えず、ただ眉を寄せ目を伏せた。