リコスの勲章3

🐕9

もうすぐ5歳になるエリサは、近くの丘でユノの好きな花を摘んで屋敷に戻るところだった。

ユノはエリサの一つ年上のお兄ちゃんだ。二日前に木から落ちて足を怪我してしまい、今はずっとベッドの中にいる。

だから今日はエリサ一人だった。

屋敷のすぐ裏の丘は庭の一部みたいなものだから、一人でも平気だ。

ユノは寂しがり屋なので、エリサがいつも一緒にいてあげないといけないけれど、今日は大丈夫。

今日は、ユノの傍には大きなお兄ちゃんがいてくれる。

大きなお兄ちゃんは、一昨日突然家にやってきた。どうもお父様の大切なお客様らしい。

最初は怖い人だと思ったけれど、エリサやユノに怒るようなことは一度もなかった。

大きなお兄ちゃんはあまり喋らない。兄妹の部屋の窓際の椅子に静かに座って、本を読んでいる。でもユノやエリサが話しかけると、本を閉じてちゃんと話を聞いてくれた。そしてエリサが話し終えるのを待って、低い、優しい声で短い返事を返してくれる。

屋敷の大人たちはみんな大人同士のおしゃべりや仕事が忙しいから、今までエリサの話を聞いてくれるのはユノだけだった。だけど大きなお兄ちゃんは、ちゃんとエリサの目を見て話を聞いてくれる。もしかしたらお兄ちゃんは体は大きいけれど、まだ大人じゃなくて、ユノやエリサに近いのかもしれない。

よく晴れた青空のような綺麗な青い目をしていて、黙っていると怖そうなのに、笑うと途端に優しい顔になる。

エリサもユノも、すっかりこの物静かなお兄ちゃんのことが大好きになっていた。

このお兄ちゃんが緑の瞳でないことは、ちょっとだけ、本当に残念。

だって、エリサの王子様は、緑色の瞳をしているはずだから。

去年のクリスマスプレゼントの絵本を読んでから、エリサの王子様は緑の瞳に決まっているのだ。

エリサは、いつのものように少し調子の外れた歌を口ずさみながら、屋敷をぐるりと囲む高い塀に開いた大きな穴をくぐろうとした。生茂る蔦が隠してくれている、ユノとエリサ、二人だけの秘密の通路。

ところが強い木枯らしが吹き付けてきて、いつもならユノがまとめて持っていてくれるはずのエリサの長い髪を蔦に絡みつけてしまった。

身を捩って外そうとしても、引っ張られて痛いだけの上に、さらに蔦が絡まってくる。

風が吹くたびにますます絡まって、蔦はぐいぐいと髪を引っ張る。エリサはついに身動きできなくなってしまい、困り果てて、くしゃりと顔をゆがませた。

「レディ、どうかそんな悲しい顔をしないでください。お困りなら、俺がお助けしましょう」

 見上げると、緑の瞳の青年が微笑んでいた。明るいブラウンのさらさらした髪が、日差しを受けて輝いている。まるで彼自身が輝いているように。

 エリサは突然現れた美しい青年を、髪のことも忘れてぽかんと見上げた。

「少しだけ、我慢してくださいね」

 青年は、長くしなやかな指を器用に操り、丁寧にエリサの髪を蔦から外してくれた。その後で、エリサの髪を優しく整えてくれる。

「ほら、これでもう大丈夫ですよ」

 彼が優しく微笑みかける。その笑顔を見て、エリサは確信した。

 間違いない、彼がエリサの王子様だ。

「どうもありがとう」

 さっきまでべそをかいていたことはすっかり忘れて、エリサはとっておきの笑顔を浮かべる。

「とても助かったわ。どうかうちでお茶でも飲んでいってくださいな」

 恩人をもてなしもせず帰すなんて、モートン家の娘がすることではない。

「おや、それはありがとうございます。喜んでご招待に預かりましょう」

 青年は、歌うような柔らかな声で答えた。

 エリサは踊り出したいような気持ちだった。

 ——ついに、私の王子様を見つけたわ!

🐕10

 ゼロは読んでいた本からふと顔を上げた。

 静かだと思ったら、ユノはいつの間にか眠っていた。

あどけない寝顔に目を細めてから、窓の外に広がる冬のブランシェットのもの寂しい風景に視線を移す。収穫を終えたひとけのない田園は、がらんと静まりかえっていて寒々しい。だけどここは本来豊かな土地だから、春になればきっと美しいことだろう。

(あいつらを連れて来たいな)

 野原を元気に駆け回るリコスとアンリを思い、ゼロはふと頬を緩めた。

 やっと手に入れた、ゼロの大切な家族。もう一週間以上、彼らの顔を見ていない。早く全てを片付けて帰りたいのだけれど。

(さて、どうするか……)

 ゼロは悩ましげに眉を寄せると、もう一度深いため息をついた。

 彼は一昨日からモートン家に滞在していた。

 より厳密に言うと、足止めを食らっていた。

 モートン家はクレイドル郊外の村、ブランシェットの大地主だ。

もともとゼロの隊の任務は、ブランシェットのずっと北方にある、別の村の暴動の鎮圧だった。思った以上に手こずったが、それでもなんとか村の平和を取り戻し、一昨日、やっと帰途についた。ところが食事のために立ち寄ったこの村で、ゼロは偶然、指名手配犯に酷似した男を見かけてしまったのだ。

赤の軍がここ数年追い続けている凶悪犯、通称パペット。

 その時、隊員たちはすでに皆疲労困憊していた。

ゼロは不確かな情報に彼らを付き合わせるのは申し訳なく、かといって指名手配犯と疑われる人物を見逃すわけにもいかない。結局隊員たちだけを先に帰してから単独でその男を尾行し、このモートン家に辿り着いたのだった。

 ゼロが追ってきた男は、数日前からモートン家に滞在している流しの劇団の団長だという情報を使用人から得た。

 人違いである可能性や援軍を呼ぶ間に見逃してしまうリスク、諸々を天秤にかけた上で、ゼロは結局、正面からモートン家を訪ねることにした。

 モートン卿はゼロを慇懃に歓迎すると、ちょうど屋敷に滞在している劇団が2日後に上演するので、是非それまでゼロも屋敷に留まり、観劇していくようにと勧めてきた。

赤の軍の兵士が巡回先の村の有力者を訪ねることも、屋敷に滞在することもそれほど珍しいことではない。この怪しい劇団について調べる上でも、都合の良い申し出だった。ゼロは赤の兵舎に手紙で援軍を依頼し、自分はここに滞在することにしたのだった。

ゼロはこの2日間で、すでに劇団員達を調べ、団長が指名手配犯パペットに違いないこと、劇団員達もパペットの仲間であることを確信している。

それなのに。

彼は再び窓の外を見てため息をついた。

昨日には来てくれるだろうと期待していた援軍がまだ来ないのだ。

兵舎からここまでは、単騎で駆けてせいぜい二時間ほどだというのに。

他にも何か事件があって、人手が割けないのだろうか。今日一日待っても来なければ、ゼロ一人でなんとかする方法を考えなくてはならない。

「さて、どうするか」

 ゼロはため息まじりに、今度は声に出して呟いた。

「どうしたの、お兄ちゃん?」

 目を覚ましたユノが眠そうな目を擦りながら尋ねた。

「いや、何でもない。そろそろちゃんと起きないと夜眠れなくなるぞ」

「うん……だって退屈なんだもん」

 ユノは憂鬱そうにぼやく。

 モートン家の長男であるユノは、数日前に足を怪我して以来、ずっとベッドで過ごしているらしい。ユノはまだ5歳の少年だ。本当は外で駆け回りたいだろうにと、ゼロも気の毒に思っていた。

 この家には幼い子供が二人いる。ユノと、彼の妹のエリサ。

 どういうわけかこの家の大人は使用人も含め、あまりこの子供たちに注意を払っていないようだった。ユノは怪我をしているというのに、ゼロの知る限り、この部屋を大人が訪れたのは医師の診察の時と食事の時ぐらいだ。

 ゼロ自身が特殊な子供時代を過ごして来たので、「普通の子供がどう扱われるのか」理解しているわけではない。それでもせいぜい5歳になるかならないかぐらいの子供が放ったらかしにされているのが気になり、結局モートン家滞在中は、昼間をほとんどユノの部屋で過ごすことになった。

「怪我が治ればまた走り回れる。きっとあと少しの辛抱だ」

 慰めるようにユノの頭を撫でてやる。

「うん……ねえ、何かお話してよ。本読むのも飽きちゃった」

「お話?」

 子供はどんな「お話」を喜ぶのだろう。

 悩むゼロにはお構いなしに、ユノは無邪気に尋ねてきた。

「お兄ちゃん、家族はいる?」

「ああ、リコスとアンリがいる」

「一緒に住んでるの?どんな人?」

「ええと……リコスはレトリバーの子犬で」

「犬がいるの?いいなあ」

 ユノの顔がぱっと明るくなった。

「僕もエリサも犬が大好きなんだ。だけどお母様が犬が嫌いだから、うちでは飼えないんだよ」

「そういえばお前たちの母親をまだ見ていないな」

「今はこの家にはいないよ。寒いのが嫌いだからって冬の間は暖かいところにいるんだ。うちにはほとんどいないんだから、犬がいてもいいと思うんだけど。ねえ、リコスはお利口?」

「……そうだな、利口なやつだが、時々困ることもある」

「どんな時に困るの?」

「ええと、例えばあいつは水遊びは好きなのに風呂が嫌いで……」

 リコスを風呂で洗うのがどれほど大変か話すと、ユノは楽しそうに笑い転げた。

「いいなあ、僕もリコスに会いたいな」

「そうだな。春になったらここに連れて来たいと思っている」

「僕にも会わせてくれる?」

「ああ、もちろん。リコスもアンリもお前の良い友達になるだろう」

「いいなあ、二匹も犬がいて」

「いや……」

 アンリは人間の女の子だ。

 ゼロがそう訂正しようとした時、廊下の方からエリサのはしゃぐ声が聞こえた。

「エリサが帰ってきた!」

 仲の良い妹の帰還に、ユノが嬉しそうな声を上げた。

 エリサはどうやら誰かと一生懸命話しているようだ。幼い少女が無邪気にはしゃぐ声は、聞いている方まで楽しい気分にする。一体誰とそんなに楽しそうに話しているのだろう?

 不思議に思っていたゼロは、エリサに手を引かれながら部屋に入ってきた男を見て、ぽかんと口を開けたまま固まってしまった。

🐕11

「またお前はそんな間抜けな顔して」

 エリサに手を引かれて部屋に入ってきたエドガーは、おかしくて仕方ないというように笑っている。

 ゼロはぽかんと開いてしまった口を辛うじて閉じたが、言葉が出てこない。

「あら、お知り合いなの?」

「ええ、しばらく顔を見ていなかった友人なんです」

 エドガーはエリサの大人ぶった問いかけに、微笑んで答えた。

「レディ、まずはそのお花にお水をあげてはどうでしょう。せっかく摘んでらしたお花が、少し元気がなくなっていますよ」

「あら、本当」

「俺は、久しぶりに会った友人とおしゃべりしていますので、どうぞごゆっくり」

「ありがとう。お茶の用意をして、すぐ戻るわね」

 エリサはコトコトと愛らしい足音をたて、部屋を出ていく。

 エドガーはゼロの顔を見て、苦笑した。

「そんな目で見ないでください。別にあのお嬢さんに悪さはしていないし、嘘も一つもついていません」

「よく言うな。しばらく顔を見ていなかった友人だって?」

「一週間ぶりですね、ゼロ」

 咎めるように横目で見るゼロの視線を物ともせず、エドガーはにっこりと笑った。

「あたりの調査をしているときに偶然あのお嬢さんにお会いしたんですよ。ちょっと特殊な道を通ってここまでご案内いただきました」

「来るのが遅い」

「えっ?」

「手紙には大至急と書いたはずだ」

「手紙……?」

 さらに言い募ろうとするゼロの鼻先に、エドガーはピタリと人差し指を立てた。

「どうも話が噛み合わない。ゼロ、俺への不満は後でいくらでも聞きますから、まずは情報のすり合わせをした方が良さそうです」

 ゼロははっとして声を落とすと、ここ数日間のことを説明し始めた。

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「……なるほど」

ゼロの報告を聞き終えたエドガーは、人差し指を口元に当て、目を伏せた。

ゼロには彼の頭脳が高速回転している音が聞こえるような気がした。

エドガーはその頭脳を忙しく働かせたまま、自分の考えをまとめるようにゆっくりと口を開く。

「偽者のゼロはアヴァロン・カンパニーの調書を探していたそうです。おそらく……あの事件に一枚噛んでいたモートンは、お前が突然訪ねてきたことで、自分の悪事がばれたと思ったのでしょう」

 ゼロは想像もしていなかったモートンとアヴァロン事件の繋がりが出てきて、一瞬言葉を失くした。

しかも。

「待て、俺の偽物っていうのは何のことだ」

 今度はエドガーがゼロに、兵舎で起こった騒動を説明した。

 さらに想像もつかないことが兵舎で起きていたと知って、ゼロは動揺を隠せない。

 エドガーは愉快そうに目を細める。

「おそらくなんらかの魔法かと思いますが……外見だけなら確かにそっくりでした。アンリとリコスが気付かなければ、我々も騙されたままだったかもしれません」

 冷や水を浴びせられたように背筋が冷えた。

「アンリに何か……」

「安心しなさい、アンリもリコスも無事です。リコスが果敢にもアンリを守りました」

 ゼロはほっと安堵の息をつき、エドガーはそんな彼の肩を励ますように軽く叩きながら続けた。

「剣を持たせてみれば一目瞭然でしたけどね。……覚えておくといい、お前はまた剣に助けられた」

 ゼロは無意識に背筋を伸ばした。

「さて、モートン卿の話を聞きに行きましょうか。ついでにパペットも確保してしまいましょう。よくやりましたね、ゼロ」

 師匠の労いの言葉は、少しだけゼロの疲労を軽減した。ゼロ自身は認めたくはなかったけれど。

「お父さんを捕まえるの?」

 ベッドの上でおとなしくしていたユノが、か細い声で聞いた。彼の頬は紙のように白い。

「いいえ。まずはお話を伺うだけですよ」

 エドガーは微笑みを浮かべたまま、ゆっくりとユノのベッドに近づいた。

 ユノは首を横に振った。 

「僕、知ってたんだ。お父様が何か悪いことをしてるって……。お兄ちゃんたちは、赤の軍の人たちでしょう?きっとお父様を捕まえにきたんだって思ってた」

 ユノの大きな瞳に涙が盛り上がった。

「僕、お父様にもう、悪いことして欲しくない……だけど、お父様が牢屋に入るのは……」

 ボロボロと大粒の涙がこぼれ落ちる。

ゼロは痛ましげに一瞬だけ目を伏せたが、覚悟を決めたように、ユノをまっすぐ見た。

「ユノ。クレイドルに住む人を、……彼らが、家族や、大切な人たちと一緒に笑って暮らせる毎日を守るのが、俺たちの仕事だ。そのために、悪いことをした人は捕まえなきゃならない」

「……うん」

「悪いことをした人は、その罪を償わなくてはならない」

「うん」

「罪を償ったお前の父親と、お前が本当に笑って暮らせるように、俺は俺の仕事をする」

 ユノは声を出さずに、何度もうなずいた。

 幼い子供が声を殺して泣く様子に、胸が痛んだ。

 それでも、ユノが自分の父親の罪を抱えずに生きていくためにも、ゼロは自分の任務を果たさなくてはならない。

 コトコトという小さな足音が聞こえてきて、ユノは慌てて涙を拭った。

 しょげかえった様子のエリサがドアから現れた。

「一生懸命お願いしたのに、誰もお話を聞いてくれないの」

 手には、すっかり萎れてしまった花を握り締めている。

「おいで、エリサ」

 ユノはさっきまで泣いていたことはおくびにも出さず、優しい笑顔を浮かべエリサを呼んだ。

 エリサはベッドに駆け寄り、ユノに甘えるように顔を擦り寄せた。

 ユノはエリサの肩を抱き、言い聞かせる。

「エリサ、お兄ちゃんたちはこれから大切なお仕事なんだって。だから、一緒にお茶を飲んでいる時間はないんだ」

 エリサは悲しそうに、口をへの字にして俯く。

エドガーはエリサの前に膝をつき、恭しく彼女の手を取った。

「レディ、せっかくお招きいただいたのに、俺も本当に残念です。お詫びに、近いうちに必ず、俺の方からあなたをお茶にご招待しましょう」

「……エリサ」

 悲しそうな顔のまま黙り込むエリサを促すように、ユノはエリサの名前を呼ぶ。

「……約束よ?」

「誓って、必ず」

 エドガーが言うと、エリサがやっと少し微笑んだ。

「……さて、レディのお許しも出たことですし、行きましょうか」

 エドガーは立ち上がると、ポケットから小ぶりのクラッカーのようなものを取り出した。

「何だ、それ?」

 エドガーは不思議そうなゼロににこりと笑って見せる。

「オリヴァーに依頼していた魔法道具です。これで表に待機させている援軍に合図を送ります」

 エドガーはそう言うと、寄り添う兄妹を振り返った。

「二人にも見せてあげましょう」

 ゼロがユノを抱き上げ、窓のそばまで運んだ。

 二人が窓の外を見れる場所まで来たのを確認して、エドガーは大きく窓を開けた。

「いいですか?空をよく見ていて下さい……1、2の、——3!」

 エドガーが合図と共にクラッカーの紐を引くと、無音のクラッカーから淡い青い光と共にキラキラした光が広がってゆき、屋敷の上空に大きな虹を映し出した。

「虹だ!」

 ユノが大きな目をさらに大きく見開いて、叫ぶ。頬に赤みが戻っていた。  

 エリサが無邪気な歓声をあげた。

「では、俺たちは行きます。どうか、俺たちがまた迎えに来るまで、この部屋から出ないように」

「うん、わかった」

 エドガーの言葉に、ユノはしっかりとうなずいた。

 さっきより瞳に力が戻っている。空にかかった大きな虹が、少しは彼を慰めたのかもしれない。